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一 作家の資質について 資質というか、素質というか、作家になるには持っていなければならないモノがあると思う。 それは、読者に「何を伝えたいか?」というテーマである。 幾ら文章技術が巧みであったとしても、作者の中身が空っぽでは小説として成立しない。 そしてまた、読者に伝えるモノは“善”でなければいけない。 “悪”を伝えようとしても、それは社会に弾かれる。 故に、根っからの悪人は作家になれない。これは小説家のみならず、音楽家や画家、映画監督など全ての創作の基本である。 1.何か今の自分の境遇に納得のいかない部分がある(自己の内面、或いは社会に対して)。 2.過去のトラウマを精算したい。 3.夢や憧れを小説の中で実現したい。 他にも有るかもしれないが、そういったことが創作の原点ではないだろうか? ここで、作者の心が悪に染まっていると、表立って悪を描くことは出来ないから、“いい人”を取り繕い、その文章には心がこもっていないから空虚なものとなり、読者の心に響かない。 “読者の心に響く”というのは、“共感を呼ぶ”という意味ではない。 共感を呼べなくても、世の中にはこういう考えの人もいるのだ、と気づくこともまた読書の楽しみのひとつである。 黒澤明監督が“創造とは記憶である”という言葉を遺している。 記憶のピースが組み合わさることに拠ってのみ創作が可能となるのであり、無から有は生まれない。 北条裕子の小説『美しい顔』は、他人の記憶に寄りかかって書こうとする姿勢に無理があったのではないだろうか? 北条裕子は被災した福島に行ったことがないという。ボランティアの経験もない。現場の記憶がないから、資料に頼らざるを得なかった。そこに無理があったように思う。 二 中村文則の説く作家の条件。プロとアマチュアの違いとは? ポッドキャストで中村文則の作家論を聴いた。 「自分を客観的に見れるかどうかで、プロかそうじゃないかの線引きが出来る」 「自分は凄い才能がある、これが判らない奴は馬鹿だ、という感じで、これだと言ってる人がプロにはなりにくい」 「自分で書いたもの(小説)を冷静に見れるかどうかがプロとの違いである」と言う。 具体的な方法としては、パソコンで書いた原稿をプリンターで印刷して、寝かせて読み直すと粗が見えてくるのでそれを直す、また印刷して寝かせて直す、その繰り返しであると言う。 ビートたけしも同じことを言っていて、自分が今なにをやっているのか、客観的に見つめるもう一人の自分、という視点を持たなければダメだと言う。ビートたけしも中村文則も客観性という共通点を指摘している。 あとは「恥ずかしがらずに自分をさらけ出す」 「自分をさらけ出していない文章なんて、あまり意味がないんじゃないか?」 「文章で書く時が一番自分を出せると思う」と言ってました。 他には「これは誰にも見せない」と決めて、ノートに自分の欲望や醜い部分を全て書いていく。それを読み返すと「うわぁ」と思うのだけれども、それが書くテーマになったりする。それを如何に客観的に人に読ませる文章に咀嚼していくか? 「小説の場合は照れがあってはダメ。自分をさらけ出すことが大切」 「前のを超える、凄い小説を書きたい」 「小説は読者と一対一の対話である」 といったようなことを話されていました。 三 作家とサラリーマン経験の瑕疵 小説家に限らず、映画監督でも芸人でも、会社に毎日通勤するサラリーマン生活の経験無しに(コンビニやケンタやマックなどのフリーターは含まない)表現者としてプロデビューする人がいるが、正直言って、あまりオススメできない。 私は会社勤めの経験があるが、息が出来ないほど苦しい職場だった。常に新鮮な酸素を求めていた。 会社勤めは上から下へのトップダウンで、いくらおかしな所があろうと、下からの意見を上が吸い上げることはない。目下めしたの者が意見するなどプライドが許さないのだろう。時には、明らかに間違った指示が上から届くことがある。そういう時は間違った仕事をする。結果が間違っていることが分かっても、責任をとらされるのは指示を出した上の立場の人間であって、部下は無駄と知りながら、時給分働くだけである。 そしてまた、横の社員が見ないようでいて、いちいち細かい所まで監視している。時には「トイレに行く回数が多い」などと上司にチクられる。まるでSF小説の『1984』のようなディストピアだ。 中間管理職は、上には媚びへつらい、部下にはえばりまくる。実際のところ、課長から「上司にお世辞を言いなさい」とアドバイスされて唖然としたことがある。(勿論、従わなかった) アメリカの会社のように仕事環境が個人ごとにパーテーションで仕切られて、同じ部署の他人の行動を監視出来ないようになっていれば、もうすこし息をつけるのかなと思う。 会社は兎に角息苦しい。自主性は一切求められていない。何も考えずに上から命令されたことをこなすだけの毎日。創意工夫する余地は欠片も無い。会社に於いては、自分で考えて判断することは悪なのだ。常に上司にお伺いを立てねばならず、尚且つ、創意工夫は悉くボツにされる。 自分で考えることを放棄して、ただ上から命令されることだけに慣れてしまった人間にとっては、会社は居心地が良いかもしれないが、退職して誰からも命令されることが無くなったら、忽ちボケてしまうことだろう。なぜならば、自分で物事を考えて判断する能力が欠けてしまっているからだ。 いちど会社員生活を経験すると、サラリーマンの思考をシミュレーション出来る。 読者の多くは会社員やOLだ。だから、サラリーマンの経験があれば共感を呼べる。 とはいえ、せいぜい2~3年もサラリーマン生活をすれば充分だろう。 10年もサラリーマン生活を続けたら創作意欲を失ってしまい、文学の世界に戻ってこれなくなる。 サラリーマンを続けながら、同人誌などの文芸活動を続けていれば話は別だが、サラリーマン一辺倒で10年以上働いて作家になったという人を寡黙にして知らない。
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