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 職員室だけが闇に浮かびあがっていた。例のワゴンとエロ教師の車=赤いブルーバード。それと白い高級そうな車が窓灯りに照らされている。岩倉やきちがいどもの車はなかった。  どの車にも人が乗っている気配はない――ここからはそう見える。おれは砂利で音を立てないように気をつけながら車のほうへと近づいていった。念のための確認だ。  ワゴンの陰になる位置にバイクも止められていた。畑のおっさんや新聞配達のやつらがよく乗っている、たしか……カブとかいったそれ。武田からそんな名前で教わった気がする。  そばへよってよく見ると、そいつは座るところがガムテープだらけだった――誰のだ? 戻った分の金を須坂信金のやつが取りに来ているんだろうか。だとすれば児島のいっていた『すっごくおっきい人』というのは松本の父親じゃなく、こいつに乗ってきたやつかもしれない。  ワゴンのほうに体を向け、運転席の側からなかをのぞきこむ――夕方見たMマークの紙袋が床に転がっているだけだった。反対側へまわり、白い車のなかも確認する。特に怪しいところはない。後ろに止めてあるブルーバードも異常なし。車やバイクに乗ってきたやつらはおそらく全員学校のなかだろう。  ワゴンと白い車の間から職員室のなかをのぞく。光ってよく見えたのは校長のハゲ頭。それと紺の背広=佐東の背中。その向こうは世津代だ。三人が立っている位置と首の動きからしてほかにも誰かいる感じだったが、ここからじゃ確認ができない。おれはナップサックを金網脇の植えこみへ隠し、ほとんど四つん這いの格好で職員室の《窓下|まどした》まで移動をした。  ざらついた壁に耳を押しつける――意味なし。なかの音なんか一ミリも聞こえちゃこなかった。低い体勢のまま建物の角まで行き、校庭側の窓から左目だけでなかをのぞきこむ――昼間のいつもの感じとも、おれたちが忍びこんだときともちがう職員室。どいつもこいつもしかめっ面をしている。  窓に近い位置から順に佐東、世津代、ハゲ、片思い男。世津代とハゲは肘かけつきの椅子へ腰かけて話しこんでいた。岩倉とすっごくおっきい人の姿は今のところなし。うわさの捕虜――《にせ》中学生は大人四人に囲まれるかたちで床へ正座させられている。  もう少しの辛抱だぜ、相棒――念力を送る。手前の机の上にはおれの札束と荷物。それからおれのじゃないトランシーバーが並べられていた。  忍者の足取りで昇降口へ向かう。鍵のかかっていない扉は職員用の出入口だけだった。すのこの前には白いナイキ。大人どもの靴に交じってじっと出番を待っている。靴の数はそいつを入れて五足。続けて下駄箱をチェックする。《白居|ハゲ》、佐東、渡辺と書かれた場所はもぬけの殻。岩倉のところにだけサンダルがぶちこまれていた。つまり、職員室にいるやつらが学校内にいる全員ということ。一番やばそうな『すっごくおっきい人』がいない二対四なら勝ちめは……なくもない。ひとりは女だから実際には二対三と考えていい。  ひとまず車のところまで戻って考えた――助けに来たことをどうやって松本に知らせるか。トランシーバーを使う考えが一瞬頭をよぎったが、どうせスイッチは切られている。仮につながる状態でも職員室のなかがあれじゃ、呼びだしをかけるわけにもいかない。 「まいったな……」  くたくたの脳みそを振り絞る。しくじれば今度こそふたりまとめてアウトだ。なにか手はないか。うまいやり方、冴えた手口はないのか。おれが松本ならあの場からどうやって逃げだそうとする? 松本がおれだったらどんなやり方を思いつく? 「考えるより、動いちまったほうが早えか」  武器はバット。それだけ決めて、おれは一級品の脳みそ救助作戦に取りかかった。  校舎の裏手=中庭を抜けて体育器具室へと向かう。学級菜園の脇を行き、夏によく聖香と話をした場所を通り過ぎる。ふたりで秘密を作った思いでの場所も今は闇のなか。そのうち別のやつらが作る秘密がそこへ塗り重なって、おれと聖香の秘密はなかったことになっていく。けっこうなことだった。  暗がりにぼんやり灯る赤い光が目についた=非常ベル。勝手にこっちを警戒しているように見えた――門番でもなんでもないくせに。先を急ぐ。 「なんだよ、ちくしょう」  体育器具室にはでかい錠がかけられていた。こんなところまで戸締まりしてどうしようというのか。なんだか心を読まれているようで気持ちが悪かった。中庭へバック――校舎の一番隅=理科室の廊下側の壁にもたれて作戦を練りなおす。 「……どうすっかな」  なんとしても武器が必要だった。それも大人をきっちりビビらせることができるやつだ。どう動くにしろ、そいつがなきゃなにもはじめられない。だが、使えそうなものはすべて体育器具室のなか――こしゃくな南京錠。せめて鉄でできた道具=キャッチャーマスクかハードルの足でもあればと校庭まで足を伸ばしたが、こういうときに限って転がっちゃいないもの。おれは背中を壁へこするようにしてその場へしゃがみ、側溝の底で落ち葉に埋もれている石ころをつかみあげた。 「これじゃちょっとな……」  拳大のそいつを手のひらへ転がす――石器時代の気分。相手はマンモスじゃない。こんなもので戦うぐらいならモップや竹ぼうきを振りまわしたほうがまだマシだ。  いっそ職員室へ乗りこんでから武器を調達するか――いや、だけどあそこに武器の代わりになるようなものなんかあったかどうか。目玉を上に向けて思い返す――椅子、鉢植え、でかい三角定規。思い浮かぶのはこれぐらい。攻撃力なんか知れたもんだ。職員室は平和を絵に描いたような場所だった。  いずれにしろバットや鉄の武器が使えないなら、打撃で攻めていく作戦は諦めたほうがいい。中途半端な攻撃はかえって相手を怒らせるだけだ。ここはもっと別の、たとえば人を切ったり刺したりできるものを使って攻めこんでみたらどうか。ビビらせる効果も実際の威力もそっちのほうが断然期待できる。 「そうなるとこいつか……」  おれと非常ベルの間にあるガラス窓を人差し指の先で叩いてみた。かなりの厚みがありそうだ。こいつの破片を使えば、加減次第じゃ人を殺すところまで威力を発揮できる。問題はその武器=ガラスのナイフを作りだす方法。音を立てずに窓を割るには…… 〈そんなのむり。おまえばか〉  考えごとの邪魔をする顔なし女――時と場所を選ばない暇の持ち主。しゃべらせておけばいつまでもおれをくそみそにいう。口を縫っておけ、口を。 〈そんなものない。しね〉  ただ、その《くそみそ》には逆転のヒントが隠れていたりもする。夕方のパターン=エロ写真でっちあげ話のアイデアなんかはまさにそれだ。 〈はやくしね。ただちにしね。しぬほどしね〉  息を深く吸いこみ、意識を心のなかに向ける。 ――おい、化けもの。 〈なんだ、きちがいもんきー。おまえなんかたすけてやんないぞ〉 ――そんなのわかってる。それよりもっと馬鹿にしてみろよ、おれのこと。 〈ばかづら、あほづら、とんまぬけむし、いもむし、うじむし。ろくでなしのへんたい〉 ――つまんねえな。痛くもかゆくもねえ。 〈なんだてめー〉 ――おれは今からガラス窓をぶち割って、その破片でなかにいるやつら全員を刺し殺してやろうと思ってる。お前、どう思う? 〈あひゃひゃひゃひゃ。すっげーばか。ころすまえにみんなとびだしてきておおさわぎ。つかまっておまえのじんせい、ぱー〉  みんな跳びだしてきて大騒ぎ――これだ。 「すっげー馬鹿はお前だ」  意識を外の世界へ戻し、ガラス窓に顔を近づける――暗くて赤い、理科室の廊下。 「……あれも使えるな」  おれは校舎の壁から十メートルほど離れ、さっき拾った石ころを左手に握りこんだ。 「派手な音で頼むぜ」  ワインドアップでモーションへ。狙いは非常ベルの赤い光。右足に溜めたすべての力を、しならせた左腕に乗せてぶっ放す――闇を切り裂いて飛んでいく石ころ。 「くそ」  どこかへ隠れたくなるような音は響き渡らなかった。狙ったところへも当たらなかった。が、窓ガラスは割れた。思いっきり投げすぎたせいか、割るというよりも穴を空けただけの格好。音も職員室まで聞こえたかどうか微妙なところだ。  おれは石ころをぶち当てたところへ走りより、空けた穴に手を突っこんだ。ガラスの角に注意しながら鍵のレバーをおろし、窓を引き開けて壁を乗り越える。耳を澄まさなくても人の騒ぐ声が聞こえた。 「なんだ、ちゃんと届いてるじゃねえか、音」  作戦その二をやるかどうか。ちょっと悩んだが、ついでだからやっちまうことにした。火災報知器の前に立って素早く深呼吸をする。 「こんなもん、はじめて押すな」  赤いランプの下のボタンをぶっ叩く――鼓膜がぶち破れそうになった。 「うるせえ、うるせえ、うるせえ」  馬鹿でかい金属音。そいつできちがいみたいに騒ぎ立てる赤い門番。自分が口にした言葉すら聞こえない。門番の脇に置いてあった消火器を引っつかむ。ピンを抜き、レバーを握ると同時にぶん投げた。爆発したんじゃないかと思える勢いで白い中身がぶち撒けられていく。  耳慣れたがなり声がどこからか聞こえていたが、なにをいってるのかまではわからなかった。窓の外枠を乗り越える。そのへんの石ころでガラスを割りなおす――今度は派手な音。といっても門番の叫びには負ける。腰を落とし、武器にちょうどいい感じのガラス=透き通ったナイフをつまむようにして持った。 〝ぶは! なんだこれは!〟  門番に負けず劣らずのがなり声。そいつは火を消す粉だ――答える代わりにダッシュ。低い体勢のまま壁伝いに走った。こっちの足音は非常ベルが見事にかき消している。  さっきの場所=校庭側の窓から職員室をのぞきこむ。学生服の背中が見えていた。立った状態で世津代に肩を抱かれている格好だ。ふたりとも首を伸ばして入口扉の向こうをのぞきこんでいる。  松本《母子|おやこ》の向こうには蛍光灯より眩しい後頭部が輝いていた。残るふたりの姿は確認できなかったが、佐東は爆発現場へ急行している。子分もたぶんセット――なにもかもが狙いどおり。エロい女にハゲのふたりなら、ガラスのナイフでなんとかできる。実際にはおれとハゲの一騎打ちだ。  善は特急。さっさとハゲをぶちのめし、松本を連れて窓から逃げだすのが正解。おれは職員用の出入口へと走った。  扉を開けて校舎のなかへ。すのこ板の手前で白いナイキを拾いあげ、土足のまま職員室に向かって全速力。  火の気はどうだ! 誤動作か!――はるか遠くから聞こえてくる佐東の声。なにか燃やしてくればよかったと思ったが、本当の火事になっても困る。いや、いっそ消防車でも来てくれたほうが、どさくさにまぎれて逃げやすくなったかもしれない。いつもの後の祭りに舌打ちをする。  突き当たりが見えてきた。職員室はそのすぐ右。扉が開いていることは灯りの漏れ具合でわかる。問題はハゲの位置。扉の近くに立っていた場合はそのまま体当たりで突き飛ばす。突き飛ばせなかった場合はこいつ=ガラスのナイフで切りつける。  ジャンプ。壁を蹴って直角ターン――鍵の束を見つけた火災報知器の向こうに、目鼻口のない電球もどきの頭。右肩をハゲの腰の高さにしてタックルをかました。 「逃げるぞ、松本!」  ハゲを突き飛ばすのと同時にいった。短い悲鳴があがる。どす黒いパンダ顔がおれに向き、後れて世津代のそれが向いた。ハゲは机に突っぷして咳きこんでいる。おれは職員室の扉を閉めて内鍵をかけた。 「沢村……なんで――」  驚きと焦りとぎこちない笑みをごちゃ混ぜにした顔で松本がいう。 「なんでもいいから早くしろ」  世津代を押しのけ、松本の前へ白いナイキを放った。 「お願い沢村くん、もうやめて」 「なにやってんだ! 早くそいつを履け!」  無駄な頼みとおれの声が重なる。松本は立っている場所から動こうとしなかった――なにを考えているのかわからない目。肩に伸びてきた誰かの手を払いのける――また、悲鳴。けたたましく鳴り響く非常ベルのなかじゃ、そんなものはなんの役にも立たない。 「ケガしたくなかったら騒ぐなよ、おばさん」  カッターナイフ=誰かの机のペン立てに刺さっていたそれとガラスのナイフを持ち替えた。ハゲのほうへ後ずさりしていく世津代に刃先を向ける。 「やめろ!」  カッターナイフと世津代の間に松本が割って入ってきた。 「ママに変な真似するな!」  松本の後ろへ目をやる――机に貼りついていた体をのそのそと起こすハゲ。忙しい瞬きをしながら、けちの目印をもとの場所へとなおしている。 「変な真似?」  いってる意味はわからないようでわかった。松本を見つめる――さくらデパートやゲームセンターにいたときとはまるでちがう光り方をしている目玉。おれのことなんかもう、仲間ともなんとも思っちゃいない、そんな目つき。カッターナイフの刃先を床へ向けた。 「冗談だよな」 「……悪いけど、本気」 「おれはな松本――」 「キミはなにをしたのか……なにをしてるのかわかってるのか!」  ハゲが松本の後ろからおれたちの話に割りこんできた。すぐさま左腕を正面へ伸ばす。 「今、松本と話してんだよ。黙っててくんねえかな」  非常ベルが鳴りやんだ。そのせいで松本にいおうと思っていたことの続きが出てこなかった。 「ふ、ふざけるのもいいかげんにしなさい!」  耳鳴りがひどい。おれは松本の体を右手で横へ押しやり、ハゲの顔の前にカッターナイフをかざした。 「誰も動くな!」  三度めの悲鳴が聞こえた。扉のほうへ行こうとしていた世津代の動きがぴたりと止まる。 「あんたはおれの邪魔ばかりする」  ハゲの顔に刃先を向けたまま睨みつける。 「な、なにをいってるんだ、キミは!」  でかい声が耳鳴りを余計にひどくした。 「忘れてんじゃねえよ。あんた前におれが新聞配達やらせてくれって頼んだら、そんなもんはだめだ。認めないっていっただろう」 「……いった。でも、だからといってこんな真似をしていい理由にはならないぞ」 「別にそれを理由になんかしてねえよ。ただ、話の邪魔をしないでくれっていってるだけだ」 「校長先生」  松本がいった。 「な、なんだね」 「ボク、沢村とちゃんと話します。ママもいいよね?」  この部屋にいる全員の目が世津代に向く――小刻みに頷く頭。ハゲの顔だけがすぐにこっちを向いた。 「……わ、わかった。話しなさい。ただし、そのカッターは――」  松本の両手に押されていくおれの体。刃先をハゲに向けたまま、ゆっくりと後ろへ下がった。 「沢村……」  鳩の目で見つめてくる松本。鳴りやまない耳鳴り。覚悟を決めなきゃいけない予感。そういう一切合切がおれをどんどんいやな気分にさせていく。 「お前、旅をやめるつもりか」 「……うん」 「なんでだ」  答えを返してこない松本――当たり前だった。おれを納得させる答えなんかあるはずがない。 「お前からいいだしてきたんだぞ。お前がおれを仲間に誘ってきたんだぞ。どうしてやめるなんていうんだ」 「もう……終わりにしようよ、こんなこと」  聞いたことの答えになっていなかった。 「おれがここへなにしに来たと思ってんだ」 「わかってるよ。気持ちはすごくありがたい。でも――」 「だったらそれに応えろよ」  松本に詰めよる――祈りをこめて。 「……それはできない」 ――だめだ、松本。おれが聞きたいのはそんな言葉じゃない。 「もういっぺんいってみろ」 「だからそれはできないんだよ。終わりなんだ、沢村」  祈りは通じない。いつだってそうだ。だけど今は……今だけはそれじゃ困るんだよ、相棒。 「家出を成功させたいっていったのは冗談か? いろんな約束はどこいっちまったんだ? おれたちはまだなにも叶えちゃいないぞ!」  松本以外に目をやる。ハゲだけがおれを取り押さえるタイミングを計っていた。 「沢村……」  うっとうしい耳鳴りにいらついた。松本の態度にむかついた。自分のことを棚にあげて息子を心配している世津代に吐きけがした。 「……学校でも、大騒ぎになってる」  いいわけにもならない、いいわけ。そんなことは計画のときからわかっていたことだ。 「だからなんだ!」 「今ならまだやりなおせるよ、ボクたち」  やりなおせるわけがない。頭のいいやつが口にするセリフとは思えなかった。いらつきとむかつきと吐きけが、どうしようもない怒りに変わっていく。 「……なにがやりなおせる、だ」  右手で学生服の襟をつかみあげた。 「おれたちはもう、後戻りなんかできねんだよ!」 「できるよ!」  なんにもわかっちゃいない松本。ここでやめてもこっぴどくやられるだけだ。 「できっこない! よく考えろ、馬鹿野郎!」 「考えて考えて考えまくった結果だよ!」  松本は騙されている。大人どもにいいくるめられている。いつものような冴えがない脳みそをおれは力任せに揺さぶった。 「頼むからしゃきっとしてくれ! 松本!」 「ボクは、もう、決めたん、だ」  頭をがくつかせながら松本がいう。なにを決めたというのか。いや、ここでなにをどう決めたところで、やらかしたあれこれが帳消しになることはない。大人どものいい分に一ミリでも従えばその瞬間、自由は湯気みたくおれたちの前から蒸発する。そして二度と姿を現しちゃくれない。 「おれだって決めてる」  だから旅はやめない。そいつをやめない限り自由もまた続く。松本が考え、おれがそれに従い、やばい相手とぶつかったときはおれが松本の盾になる。松本は盾の後ろでナイスなアイデアをひらめかせればいい。 「こんなの……はじめから無理だったんだ!」 「無理かどうかなんて最後までやってみなきゃわかんねえだろ!」 「今がその最後だよ! 大人には勝てない! もうとっくにゲームオーバーなんだ、ボクたちは!」 「ふざけるな! なにがゲームオーバーだ! 佐東だってなんだって目の前でぶっ倒してきたじゃねえか! それがなんで今が最後なんだよ! おれたちが力を合わせれば、こんなピンチ簡単にクリアできる。目を覚ませ、松本!」  このまま松本を担いで逃げようか考えた。だが、それをするにはふたりが邪魔すぎる。ちょっとした爆弾でも使わなきゃ、突破は無理だ。 「……ボクにはもう残りのヒゲおじさんがいない」  松本が札束や荷物の並べられている机を見ながらいった。 「また百円ぶちこめばいいだけの話だろ!」 「その百円ぽっちがないんだよ!」 「てめえ!」  拳を振りあげる。松本はそいつを《避|よ》けようともしなかった。 「沢村くん、落ち着いて……」  世津代が松本のすぐ後ろから口を挟む。 「あんたはあんたの好きにやれよ。松本はどうか知らねえけど、おれは邪魔さえされなきゃどうでもいい」 「ママに文句いうのはやめてくれよ!」 「文句じゃねえだろ! 大人は都合がよすぎんだよ! そんなこと、松本だっていやってほどわかってんだろうが!」 「……沢村くんのいいたいことはわかるの。でも亨はね――」 「わかってねえよ、あんた。松本は――あんたの息子はおれと旅するって決めたんだ。家族もなにも捨ててな。つまりあんたのことも捨てたんだよ」 「ちがう! それはちがうよ、沢村!」 「なにがちがうんだ! ちがわねえだろ、なにも!」 「お願い……お願いだから、亨を――」 「てめえは黙ってろ、エロばばあ!」 「ママを侮辱するな!」  世津代ごと松本の体を突き飛ばした。床に倒れて転がった母親の体を息子がしゃがみこんで心配する。その背中におれは蹴りを入れた――学生服の肩と背中に弾き飛ばされるねずみ色の椅子。暴力はやめろと抜かすハゲにカッターナイフを突きつけた。 「松本!」  叫んだ。 「沢村くん、れ……冷静に話――」 「兄貴と比べられんのがいやなんじゃなかったのかよ! あのまま家にいたらおかしくなっちまうんじゃなかったのかよ! それとも聖香が恋しくなったのか! だせえな! お前、ほんとにだせえよ!」  黒い背中に浮きあがった白い跡。そいつを震わせる松本。おれに言葉をさえぎられたハゲが後ずさりしながら、ふたりの脇へ屈んだ。 「ボクはもう、家に帰りたい……」  背中をだんご虫みたいに丸めた松本のつぶやき。 「沢村くん、悪いようにはしない。キミたちがしたことは警察もまだ知らないんだ。未来あるキミたちのためを思ってそうしてる」  聞き飽きたセリフ。それが世界の合言葉とでもいうように、どいつもこいつもおんなじ口を利いてきた。ださいやつらはいうこともいちいちださい。 「おい、聞いたか。おれたちの未来だってよ」  ハゲがおれの目を盗むようにして、静かに、ゆっくり、立ちあがろうとしていた――カッターナイフを握る手に力をこめる。 「それ以上動いたら刺す」  まっすぐにした左腕を頭の上まであげ、輝く額に刃先を向ける。ハゲはぴたりと動かなくなった。 「そうやって暴力に訴えているうちは……まともな話なんかできないぞ!」 「刺したくなるから口もなるべく動かすな」  火曜日に計画を聞かされて舞いあがったおれは、この家出にすべてを賭けようと思った。聖香のことも忘れることにした。999を笑われたことも、本当の理由に聖香が関係していたことも、今はもう怒っちゃいない。教師どもにおれを売ったことにしたってそうだ。 「沢村、もう《やめらず|やめよう》……」 「松本、お前も黙ってろ。校長、あんたおれを――おれたちを馬鹿にしすぎだ。おばさん、あんたも」  だけど、こんなままごとじみた――三回やられたら終わりのゲームみたいな家出につきあわされたことは気にいらない。許せない。腹の虫がおさまらない。 「……くしょう」  佐東を殺してやると息巻いていたお前はどこへいったんだ? 絶対に許さないんじゃなかったのか? それがなんだ、相棒。家出をやめるだと? ママを侮辱するなだと? ふざけるな! 笑わせるな! おれをおちょくるのもたいがいにしろ! 「ちくしょう!」  誰かの机の電動鉛筆削りを床へ叩きつけた――バラバラになった。 「こ、こら! なんてことを――」 「うるせえ!」  声と目とカッターナイフでハゲを黙らせる。 「おい、おばさん」 「は、はい……」 「あんた松本の母親だろ。ちゃんと結婚してんだろ。息子が通う学校の教師と――」 「やめろ! 沢村、やめてくれ!」  おれの本気をコケにした松本をどうにかしてやりたかった――足りない頭がパニックを起こしかける。 「……ごめんなさい」 「ママは悪くないよ!」  つじつまの合わない言葉。松本の頭のなかはおれの何倍もでたらめだ。 「なあ」  母親の腕に包まれている息子に向かっていった。 「お前、頭いいけどやっぱり馬鹿だよ」  母親思いの息子が机のふちに指をかけて立ちあがる。おれは奥歯を噛みしめた。心を体から切り離すあれを心のなかだけでためす。 「……馬鹿でいいよ」 「やめんのか……どうしても」  わかりきっていることを聞いた。心はまだおれの命令を聞かない。顔なし女は眠っている。 「……ちょっとだったけど、沢村と一緒にいろいろできて楽しかった」  楽しかった。  楽しかった。  楽しかった。  おれがこの計画に乗ったのは本物の自由を手に入れるため。楽しむためなんかじゃない。 「それに――」  松本が机の上を指差す。 「こんな大金手にして遊びまわれただけでもボクたち……」 遊びまわれた。 遊びまわれた。 遊びまわれた。 ――真剣勝負の旅に『遊びまわれた』だと? ふざけるなよ、おい。  心が暴れた。鉄のスコップに潰されたいつかのミミズのように。顔なし女がなにごとかと騒ぎ立てる。 「だからさ――」 「おれは逃げる」  カッターナイフの背を松本の頬に押しつける。右手の爪を自分の胸に食いこませる。 「いいか。邪魔だけはするなよ」  心がおれの命令に従った――従わせた。松本亨という人間はもう、おれのなかにはいない。顔なし女は気絶している。  学生服のガキがくちびるを噛んだ。その頬にめりこんでいるカッターナイフを見て、誰かが馬鹿のひとつ覚えみたいに声をあげる。おれは机の上の札束を右手でまとめていくつか引っつかみ、マジソンバッグへ放りこんだ。 「おい、キミ!」 「なにやってんだよ、沢村!」  同じタイミングで口を開くハゲとガキ。 「この金はおれがもらっていく」 「待てよ!」  おれの腕をつかもうとするガキの右腕にカッターナイフを突きつける。 「邪魔すんなって――」  鼻っ面へ頭突きを入れた。 「いってんだろ!」  扉に向かって後ろ歩きしていくガキ。チャリンコ置き場の酔っぱらい=塗り絵面と同じ運命になった裏切り者。 「ちくしょう! ボクは正直にしゃべる。沢村のこともなにもかも全部だ!」  こもった声。指の隙間から滴る血。目はおれと、おれの手の札束を睨んでいる。睨み返してやった。 「好きにし――」  いきなり動かなくなる体。問答無用にぶっ倒され、額と床とがキスをする。鮮やかな花火に混じって見える背広の袖――いつの間にかおれの後ろへまわりこんでいたハゲのしわざ。 「どけよ!」  頭の後ろへの文句。怒鳴ると同時にねずみ花火の動きで暴れた――暴れられない。 「潰れちまうだろうが!」 「潰れてしまいなさい」  たぬきのような体でおれに覆いかぶさってきているハゲの上へ、学生服のガキまで重なってきた。息ができない。これじゃ冗談抜きでぺしゃんこにされちまう。 「亨ちゃん! だめ! 離れて!」 「……ぶっ殺すぞ、てめえら!」  おれの左手をハゲが必死に押さえこもうとしていた――そうはさせるか。カッターナイフを自分の顔のほうへ引く。つられて近づいてきたまずそうな手を自慢の顎の餌食にしてやった。 「かあっ……や、やめんか! 馬鹿者!」  耳のすぐ脇で怒鳴りあげるハゲだぬき。げんこつが後頭部へ飛んでくるたびに顎の力を強くしてやった。肩へのしかかっていた重さがどこかへ消える。 「この野郎……」  体をねじった。服のどこかが破れた。上着のボタンが弾け飛んだ――あおむけになるおれの体。すかさず、ねずみ花火全開。自分に刺さるか相手に刺さるか、おかまいなしに左腕をぶんまわした。 「ガキだからってなめんなよ! おれはこいつとちがって、ものわかりが馬鹿みてえに悪いからな!」 「痛い!」 「大丈夫かね! あ……」  どこだかわからないが切りつけてやった。ふたりともそうしてやった。ハゲのほうはたぶん、二か所――勝手におれから離れていく邪魔者ども。世津代がおなじみの悲鳴をあげる。窓かなにかを叩く音もそこに混じって聞こえた。 「血が……血が止まらないよ、ママ。痛くて死にそうだよ……」  腕のどこかをつかんで泣き言をいう昔の仲間。しゃべれるなら死にはしない。おれはすぐさま立ちあがり、机の上へと跳び乗った――呼吸が止まりかけた。 「そこまでにしときなさい」  窓からなかへ入ってこようとしているメガネの女。武田みたいな格好をしている。開けたのは世津代か。おれは残りの荷物を二秒でマジソンバッグに詰め、J・P・Sの帽子を頭へ載せた。 「私を見くびるんじゃないわよ」  似たようなセリフをさっきも聞いていた――見くびらないで、RS。誰と誰のしゃべり方が似ているのか、これではっきりした。 「あんたに恨みはない。だからこっちへ来ないでくれ。刺したくない」  いやな気分を押し殺し、おととい騙した保健医にカッターナイフの刃先を向ける。 「刺してみなさいよ」  刃に怯むことなく近づいてくる相馬――やめろ、来るな。 「早く刺しなさい!」  涙が出そうになった。声に驚いたからじゃない。相馬が怖いわけでもない。つまり、なぜなのかわからない。入口扉の磨りガラスに人影が浮かびあがった。 「どうしたんですか! 開けてください! 校長先生! 松本さん!」  扉をドカスカやる佐東。世津代がすぐにそいつを開けた。おれにつかみかかってこようとする相馬。その手を立ちあがって蹴り払う。みぞおちで悲しい気持ちが爆発した。 「やっぱりお前か!」  マジソンバッグを右脇に抱え、となりの机へジャンプ。最初にここをのぞきこんだ窓に向かってさらにジャンプ、ジャンプ、ジャンプ。 「止まれ! 沢村! お前、俺を《騙かした|だました》だろ! トマト園の方もカンカンだぞ! こら! おい!」  戻るのに時間がかかっていたのはそのせいか。ハゲの言葉をそこへ足し算して考えると……おまわりの心配は今のところまだしなくてもいい計算。とはいえ、それももう時間の問題。  机を跳び移りながら振り返る。真ん中の狭い隙間から相馬が、左の走りやすいほうからハゲが、真っ白な顔をした親分子分が机と机の間に突っかかりながら、それぞれおれに向かってきている。 「待って、ボクも行くよ! 沢村!」 「やめて、亨ちゃん!」  学生服のガキとエロばばあの声=耳を通り過ぎていくたわ言。  誰かが机の上へあがってきた気配を左耳が感じ取った。窓ガラスはすぐそこ。鍵を開けている時間はない。マジソンバッグを抱きしめ、上半身の筋肉に力をこめる。シクラメンの鉢植えを蹴飛ばし、体を前へ倒した。 「よせ! 沢村!」 「らああああああっ!」  きちがい女の叫びが聞こえた――自分の喉から出ているそれだった。おれは右足で机の縁を踏みきり、窓ガラスの闇に向かって突っこんだ。 [*label_img*]
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