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 《八木沢川|やぎさわがわ》に沿って山のほうへ歩いた。美滝橋をくぐり、《須坂一高|すざかいちこう》と《常盤小|ときわしょう》の間を抜け、左に雑木林を見ながら進んでいく。《臥竜山|がりゅうざん》まではあと少しだ。 「ねえ、どこ向かってるの?」  腕時計のベルトにくっついている小さな半円球に目をやる――S、は南。なかなか正確な磁石だった。 「《百々川|どどがわ》のほうだ」 「行き先は?」  武田が借りたといっていたアパートへ近づいていっていることは内緒。ただ、ここは確認が必要だ。おれ自身の行き先についてはまだなにも決めていない。 「どこだと思う」 「わかんないよ」  間を置かずに返ってきた答え――児島は例の場所を知らない。おれは蛍光灯が切れかかっている電話ボックスの前で歩くのをやめた。それに合わせてショートパンツから伸びた足も止まる。 「どうしたの?」  不安と疑いの交じった目でおれを見つめてくる女スパイ――でたらめな心に潜りこんでこようとする、もうひとつのでたらめな心。あまり見ていたくない目だった。 「なんか気味悪い」  目を逸らすと同時に児島がいった。言葉の意味を確かめるのはやめておいた。 「わたしあんまり真っ暗好きじゃないの」  ちゃかつく蛍光灯と道脇の防犯灯のおかげで、いうほどは暗くない。児島が気にしているのは左の斜面に広がっている雑木林の濃い闇と、四角い石がせせこましく立ち並んでいる右側の薄闇だろう。そのへんの女子ならまだしも、闇にうごめくスパイとしては減点だ。 「お化けが怖いのか」 「怖くないよ」 「じゃあ暗いとか文句いうなよ」 「お化けが理由じゃないもん」  お化けじゃない理由が少し気になったが、そいつを聞いたところでこっちの目的とつながってくるわけでもない。黙っていた。 「遠くまで逃げるんでしょ?」  話題を変えてくる児島。お化けが怖いかどうかはともかく、好きじゃないことは確かみたいだ。 「そうしないと捕まるからな」 「なんかさっきからわくわくが止まらない。RSは?」  気分をころころ変える女の、仲間を気取った口ぶり。こっちにそのつもりがないだけに、ちょっと気の毒に思った。 「児島」 「なに?」  例の電話を済ませたらこの女はお払い箱。後のことは彼氏になんとかしてもらう予定。おれは続きの言葉を飲みこんだ。 「悪い。なんでもない」 「変なの。どうせ遊びじゃないとかいいたいんでしょ」  武田はたぶん……いや、絶対にいい顔をしない。それはわかる。だが、こうなった原因はミミズののたくったような字を書いたり、電話に出なかったりしたあいつにもある。児島だってしつこくつきまとってきたりしてなければ、おれもこんな真似はしていない。こいつはだから三人それぞれのせい=連帯責任だ。 「RSが真剣なのはもちろんわかってるよ。でもこれって鬼ごっこじゃない。スーパー鬼ごっこ。大勢の大人がわたしたちふたりを狙ってると思うと、もうぞくぞくして――」 「鬼どもが狙ってるのはおれだけだ」 「明日になればわたしも同じよ」  それはちがった。おれにはおれの、児島には児島の明日がそれぞれやってくる。たとえば半日後で考えてみてもおれは長野――少なくとも《須坂|ここ》じゃないどこか。児島は教室か体育館か校庭か、そうじゃなきゃ保健室にいるはず。やばい気分を楽しんでいられるのも今夜だけだ。夜風に揺れる松田聖子の髪型を見ながらそんなことを思っていると、その下の部分=スタジアムジャンバー全体が急にもぞもぞしはじめた。 「そうそう、これ」  右のポケットからもぞもぞと取りだされてきた『これ』を手につかむ――ずしりと重い、黒くて四角いなにか。手触りだけで頑丈なのがわかる。 「なんだよ」 「なんでしょう」  かまわれていた。文句をいうつもりで児島の目を睨みつける――灯りがちゃかつくたびにきらめいてくるアーモンド。そいつを見ているうちにいおうと思っていた文句を忘れた。 「ねえ、なんだと思う?」 「トランシーバーかなんかか」  得体の知れないかたまりの裏と表を交互に見ながらいった。クイズで答えをまちがえたときに鳴らされる音を児島が口で真似る。 「正解は武器でした」 「武器? これがか?」 「うん。ほんとはお化けの木のところで渡そうと思ったんだけど、RSったらミサイルみたいに飛んでっちゃうんだもん」  右の脇にスイッチのようなものがあった――押してみた。 「うわ!」  小さな稲妻が聞いたこともない音を立てて迸る。 「ちょっと、そんなことしたら壊れちゃうでしょ」  思わずぶん投げたそいつを児島がしれっとした顔で拾いあげた。 「なんなんだよ、それ」 「……えっと、なんだったっけかな。名前忘れちゃったけど、すごいでしょ」 「感電したらどうすんだ」 「だってそういう武器だもん。はい」  そういう武器――つまり、相手に電気ショックを与えて攻撃する道具。そいつをもう一度手渡された。 「はじめて見たぞ。なんでこんなやばいの持ってんだよ」 「わたしスパイよ」  ない胸を張り、誇らしげな顔をする児島。 「ほかにもあるんだから。ペン型ナイフとか目くらましクラッカーとか。見る?」  首を振りながら思った――職員室へ乗りこむときにこいつがあればどれだけよかったか。人の話は最後まで聞いておくもんだ。 「だけどこれ、ほんとに効くのか?」 「わかんない」  ものはためし。横縞のシャツに稲妻発生器を近づける。 「ちょっと、わたしで実験しないでよ!」  後ずさる児島に冗談だといってやる。左肩をわりと強めに叩かれたが、痛みは一ミリも感じなかった。  なんだか楽しかった。『遊びじゃない』なんていっておきながら、結局はじゃれあっているおれたち。もし家出をしていなくて、目の前でほっぺたをふくらましている女が武田の彼女じゃなければもっと楽しいにちがいない――勝手なことを想像しだすおめでたい脳みそ。おれはでたらめな気持ちにふたをし、とっとと用を済ませることにした。 「実は頼みがある」  アーモンドを見つめていった――見つめ返された。 「なに?」 「電話をかけてもらいたい」  児島がわずかに顔を曇らせる。 「それってスパイがやること?」 「もちろんだ。児島の腕前を見こんでいってる」  するすると口を突いて出てくるでまかせ。つまんなそうだった顔に晴れやかな笑み――ちっともスパイらしくないそれが広がっていく。おれはどんどんうそがうまくなっていた。 「どんな任務かしら」  相馬の口調にカメレオン――おだてにうまく乗っかってくれた女スパイ。ちょろいもんだと思う反面、やっぱり武田には悪い気がしていた。 ――ちょっとの間、彼女を借りる。もちろん用が済んだらすぐに返す。  意味もなにもない、おまじないのような気休めを心のなかで口にする。それをしただけで垂れ目顔がちらつかなくなった。人の心は不思議だ。 「そこから聖香んちへ電話してもらいたい」  灯りが消えるタイミングに合わせていった。 「いや」  素早い答え。その顔から笑みが消えていく様子を再びつきだした蛍光灯が映しだす。 「なんでだよ。それぐらいわけないだろう、友だちなんだから」 「そんなの全然スパイの仕事じゃないよ」  そんなことない――そんなことあるよ。押し問答を三度繰り返した。 「話を聞いてくれ、児島」 「聞いてるけど」  児島がふてくされはじめる。わけがわからない。さっきまでの明るさはどこへいったのか。 「正直にいう。おれが電話しても親に出られちまったら終わりだ。代わっちゃもらえない。運よく本人が出たとしても、喚き散らされてこっちもこっちで終わりだ」 「じゃあ、やめとけば」 「そういうわけにいかない」 「なんで?」 「ヘンタイだと思われてるんだよ、聖香に」 「そうなの?」  ふたとおりの意味に取れる言葉。児島の表情から読み取れたのは悪いほうのそれ。 「ちがう。豚のせいで勘ちがいされてるんだ」 「ほんとは?」 「だからちがうっていってるだろ」  いい返しながら右手に目を落とす――二〇三八。聖香はいつも何時頃に布団へ潜るんだろう。 「いいよ。RSが別にヘンタイでも、わたし」  児島はよくてもおれはよくない――そういう代わりに女スパイが喜びそうなセリフを口にする。 「仲間だろ、おれたち。だったら力を貸してくれ、ミスK」  驚き顔に二秒後れてにっこり顔が追いつく。スパイの才能はともかく、カメレオンとしてのそれは充分にある児島。そしておれには人を騙す才能がいやになるほどあった。 「どうしよっかな」 「敵を騙すのだってスパイの仕事だ。そうだろ?」 「聖ちゃん、RSの敵なの?」  敵じゃない。だけど、味方でもない。 「わからない。でも児島のことは味方だと思ってる。失敗はしたけど、捕虜を助けだすのにいろいろ手も貸してくれたし、こうやって武器だって用意してくれてる」  児島が目の上の埃を追いかけはじめる。おれが心にもないことをもう少しいえば、女スパイはこくりと頷いてくるにちがいなかった。 「こんなことを頼めるのはミスKしかいない」  埃追いを中止したふた粒のアーモンドを真っ正面から見つめる――好きだと告白するときのように。見つめ返してくる香ばしげなアーモンド。いい感触だ。 「でもいや。ねえ、RSは聖ちゃんのこといつも聖香って呼んでるの?」  見事にはずれるおれの読み。そしていちいち鋭い児島。保健室のときとはずいぶんと勝手がちがう。 「たまに口が滑ってそういっちまうときがある……で、話を巻き戻すけど、ミスKが間に入ってくれたら――」 「いいよ、巻き戻さなくて。あとその呼び方も変だからやめて」  自分がそう呼べっていってきたんだろう――喉もとで文句を押し殺し、いらつきそうになるのを堪える。 「わかった。そしたらじゃあ電話、頼めるか?」  児島が下を向いたまま、あるのかないのかわからない道の上の小石を蹴りはじめる――ひと蹴り、ふた蹴り、三、四、五蹴り。  電話のなにがそんなにいやなのか。だめならだめで諦めるよりしかたないが、頼めるならあまり晩くならないうちにやってもらいたい。三本線のスニーカーが見えない小石を十個かそこら蹴飛ばしたところで、もう一度同じことを聞いてみた。 「あーあ」 『うん』でもなければ『いや』でもない、あえていうなら『つまんない』みたいな感じの『あーあ』を聞いて、なんとなく児島の気持ちが読めてきた。ただ、おれのおめでたい勘はよくはずれる。 「なあ、児島。もしはずれてたらごめんだけど、ひょっとしてお前――」 「ストップ、ストップ、ストップ。恥ずかしいからちょっと待って」  おれの顔の前で《忙|せわ》しく振られる白い袖。悪い勘以外が当たるのは珍しいことだったが、よくよく考えてみればそいつは一ミリもめでたいことじゃなかった。金やものを泥棒しておいてこんなことを思うのもなんだが、友だちの彼女を横取りするのは男として一番やっちゃいけないこと。ヘンタイよりも《たち》が悪い。  忙しい動きをやめた白い手が今度はスタジアムジャンバーのポケットへと潜りこんでいく。目くらましクラッカーでも出してくるつもりか。 「口開けて」 「そんなに腹は減ってねえんだけどな」  出てきたものが武器じゃないことを確認してから、いった。 「いいから」  いわれたとおりにした。児島が噛んで半分にしたフーセンガムをおれの口のなかへ放りこんでくる――熱くなる顔。今までは聞こえていなかった風に揺れる木の葉の音が一気に耳へ飛びこんできた。 「なんで噛まないの」  口を閉じられないでいるおれに向かって児島がいう。 「《いああおうおおおっえあ|今噛もうと思ってた》」  いって、顎を動かした。青リンゴの味と自分の唾とほんの少しの児島の唾が口のなかで混ざりあう。武田にぶっ飛ばされても文句はいえないと思った。 「RS捜査官」  夜風が乱した松田聖子の髪型に手の櫛が入る。 「わたしたち、ほんとに仲間?」 「ああ。さっきもそういっただろ」  力強くいった――うそがバレないように。児島がすっと近づいてくる。 「じゃあさ……」  おれの腕に触れてきた白い指がそのまま背中へと流れる。自動的にくっつくおれたちの体。児島の顔が拳ひとつ入るかどうかの位置にあった。どこへ向けたらいいのかわからなくなった目玉をとりあえず足もとのほうへ向ける――失敗。何度見ても慣れそうにない横縞シャツの内側。首から下げられた細い鎖の先には例によって乳首がちらほらしている。恥ずかしいからちょっと待ってはこっちのセリフだ。 「ヘンタイ」  おれの意志を無視し続ける裏切り者の目玉には児島のやらしい場所がずっと映っていた。 「じゃあ、とっとと隠せよ」  見たくなきゃ目を逸らせばいいだけの話。自分がおかしなことをいっているのはわかっている。 「いいの」 「胸が小さいからか」 「ううん、RSだから」  目の前のアーモンドをまぶたが覆う。こぢんまりした顔に黒い小さなほくろ=左のアーモンドの下。新しい発見だった。 「ねえ……」  やわらかな髪の香りに鼻の奥をくすぐられた――頼んでもないのに特急でふくらむあそこ。そいつが児島の体のどこかに当たる――いい逃れのできないヘンタイ。 「……やめろ」  こぢんまり顔がさらに接近してくる。あそこが勝手にひくつく――さらなるヘンタイ。いったいこの女はなんなのか。聖香ほどかわいくないくせに。聖香ほどおれのことを知らないくせに。聖香ほどおれは児島を好きじゃないくせに。 「やだ、生きものみたい」  なんのことかわからなかった。わかったときには顔中の穴から火が吹けそうになっていた。鼻同士が衝突事故を起こす。この分でいくと、あと数センチでくちびるにも同じことが起きる。頭のなかじゃひと足先に、好きでもない女のくちびるへ自分のそれを押しつけていた。 「どうして逃げるの」  腰と背中に巻きついていた腕を解き、雑木林のほうへ体をねじる。ふくらんで硬くなったあそこを見られないようにするためだったが、そうする意味はもうほとんどなかった。 「逃げてない。だけど今みたいのはよくない」 「どうして」  わざわざ説明しなきゃならないことじゃなかった。 「仲間と、その……彼女はちがう」  説明というよりはおれの考え。適当な言葉が思い浮かばず、『彼女』といっちまったことをいいなおそうか考えていると、児島がまた迫ってきた。 「俺たちに明日はない」 ――おれたち? 「ねえ、ボニーとクライドって知ってる?」  外人ふたり分の名前だってのはわかる。ほかは知らない。そして明日はちゃんとあってもらわないと困る。 「恋人同士のふたりが強盗に強盗を重ねて逃げまわるの。わたし、しびれちゃった」 「映画かなんかだろ」 「うん。でも、昔のアメリカでほんとにあった話。最後はふたりして蜂の巣にされちゃうの」  つまりはそいつらの真似事をして体中を穴だらけにされたい児島。正真正銘の変わり者だ。 「ね? だから仲間で彼女のほうがよくない?」 「馬鹿いうな」  この頭にある記憶が今すぐどこかへふっ飛んでいっちまうならそれでも……いや、だめだ。そういうことじゃない。だいたいお前には―― 「《武田|かれし》がいるだろう」 「そのことは忘れて」 「無理だ。そんなことしたくもない」 「してよ」 「できない」 「もしできたら?」 「だとしてもだ」 「なにそれ」  この《脳みそ|ポンコツ》が、さらに超のつくポンコツになったとしても、それだけはできない。おれはあのガキとはちがう。あのガキにされたことを誰かにすることはしたくない。男同士のつきあいというのはそういうもんだ。 「《武田|あいつ》は親友なんだよ。裏切るような真似はできない」 「だって、わたしたち遠くへ逃げるんでしょ。そしたらもう会うことだってないじゃない」  すっかり旅に出るつもりでいる児島。もっとも、そういう気分にさせたのはこのおれだ。 「それに武田くん、わたしのことあんまり好きじゃないと思う」  そんなわけありっこない。 「いったい、どういう脳みそしてんだよ」 「それって――」  松田聖子の髪型を指差す児島。 「ここの中身をいってるの?」 「ほかにどの脳みそがある」 「ひどーい、なにちょっと」 ――ひどくない。なにもちょっともない。 「武田はまちがいなく児島のことが好きだ。保証する」 「保証つきなんだ。どうしてそんなことわかるの?」 「わかるさ。親友だからな。口を開けばいつだって児島の話だ。こっちが聞こうが聞くまいがおかまいなしにしゃべってくる」  例のあの目。夜でも埃が見える視力は大したもんだった。 「嬉しくてしょうがないんだよ、児島とつきあってることが。おれにはその気持ちがよくわかる」 「RSもそういう気持ちになったときがあるんだね」  ないこともない。ただ、その時間はあまりにも短すぎた。実際にはだから、よく覚えていない。 「とにかく、仲間のことと今話してることは別の話だ。そこはちゃんとしよう」 「ちゃんとかあ……」  引っかかるいいまわし。目つきもどこか生意気だ。 「いいたいことがあるならはっきりいえ」 「うん。RSもちゃんとしよう」 ――ちゃんと? おれが? 「どういう意味だよ」 「仲間で恋人。恋人じゃないけど仲間。別のようで一緒な気がするの、RSの考え」  返す言葉に詰まった。でっちあげ話はそれをしている相手に気づかれたらおしまい。おれは観念する準備をはじめた。 「仲間にするつもりなんてなかったでしょ」  頷いた。これ以上騙し続けるのは児島にも武田にも悪い。 「頼みを聞いてもらいたくてうそをついた。ごめんな」 「納得いかない」 「だから悪かった」 「責任取ってよ」 「どうやってさ」 「うそをほんとに変えて」  無理難題。謝って済まないのなら別の方法で納得してもらうしかない。 「それができないから謝ってる」  いって、ナップサックに左手を突っこんだ。 「なによ、これ」 「見ればわかるだろ。それぐらい悪く思ってるってことだ。だからもうその話は勘弁してくれ」  引っぱたかれる覚悟をする。 「……そっか。じゃあ、遠慮しないね。わたしお金も好きだから」  無駄になった覚悟。適当につかみだした十枚ぐらいの札束=でかい聖徳太子のそれが薄汚れた手から白い手へと移っていく。でまかせを口にした責任はどうやら果たせたみたいだ。 「お金《も》好き。ほかになにが好きなんだ?」 「もう、ばか」  胸が少し、痛んだ。なぜなのか考えた。浮かんできた答えはひとつ。好きでもない女にこうなることはない。恋人がいるくせにおかしなことをいう女――はじめはそう思っていたが、なんてことはない。おかしいのはお互い様だった。  頼みはもう聞いちゃもらえないだろう。それならそれで《とっとと》おさらばするまでだ。おれは武田のアパートの電話番号を記憶から引っぱりだし、電話ボックスへと歩いた。 「いいよ。かけてあげる。聖ちゃんち」 「え?」  思わず聞き返していた――ちゃんと聞こえているにも関わらず。 「九時前かあ……」  おれの右腕をつかんで児島がいう――まさかの心変わり。女の頭のなかというのはいったいどうなっているのか。意味がさっぱりわからなかったが、そいつを断る理由もない。 「晩いか?」 「たぶん、平気。わたしはそれでなにを話せばいいの?」  聖香になにを話し、なにを話さないかは順番も含めて決めてあった。あのガキの情報を小出しにしながら誤解を解くための話を織り交ぜていく。彼氏のことを知りたい聖香はいやでもこっちの話につきあうしかない――そういう寸法。汚いやり方だが、そうでもしなきゃおれの話なんか聞いちゃもらえない。 「テレビの話とか公文のこととか、そのへんを二、三分しゃべったら、電話を代わってくれ」 「RSや捕虜の話になっちゃったら?」 「そこはうまくはぐらかしてほしい」 「……そうね。スパイならそれぐらいできなくちゃ、よね」  なかなか飲みこみのいい女スパイ。男なら――いや、誰かの彼女じゃなければ一緒に旅をしてもいい。そう思った。 「恩に着るよ、ミスK」 「もうそれいや。怜二と真奈美でいこうよ」  せっかく耳に慣れてきた『RS』もここまで。人の彼女を名前で呼ぶわけにはいかないが、自分が名前で呼ばれる分にはかまわない。 「じゃあ、うまく頼む」  電話ボックスを指差しながらいった。横縞模様が六十六番に変わる――全体、前へ進め。 「怜二……」  さっそく名前で呼ばれるおれ。児島が電話ボックスの折れ扉へ手をかける。 「こういうのはもうやめてね」 「わかってる。最初で最後だ」  お前ともこれで最後――心でいった。児島に。そして自分にも。おれは白い背番号に手を添え、その体を死にかけの蛍光灯ががんばっている電話ボックスのなかへと押しこんだ。 「夜分におそれいります。児島です。聖ちゃんに代わっていただいてもいいですか」  電話を取ったのは母親か父親。おれがかけていたらここでアウトだった。 「ずいぶんと丁寧だな」  蛍光灯の端っこを見あげながら小声でいう――おれの息が目の前の顔へかからないようにするための気づかい。 「スパイの仕事は礼儀も大事。覚えといて」  いって、児島が体をねじる。受話器を持っているほうの肘がおれの胸に当たった。謝られたが、謝らなくていいといった。体が触れたりこすれたりするのは狭い電話ボックスのなかじゃしかたのないこと。おれは児島の耳に貼りついている受話器を軽くつまみ、音が外へ漏れてくる格好にした。そうした意味は児島にも通じたみたいだった。 〝どうしたの〟  聖香の声。なんだか調子がいつもとちがう。相手が児島だからだろうか。 「うん、ちょっと……」  アーモンドの目がおれに向く――続けてくれ。目と顎の動きで返した。 「聖ちゃん今なんかしてた?」 〝ドラマ見てたけど、話が頭に入ってこない〟 「あ、今日『玉ねぎむいたら』だっけ?」  おれにはわからない話だったが、聖香の口ぶりからして元気がないことは伝わってきた。原因はあのガキに決まっている。 〝うん、それはこれから。ちょうど今、仙八先生終わったとこ。真奈ちゃんガムかなんか噛んでる?〟 「あ、ごめんね。今ちょっと不良中なの」 〝武田くんの影響ね。わたしあんまりよくないと思うよ、そういうの〟 「武田くんの影響じゃないけど、でもどうして?」  ガムと不良についての話がしばらく続く。落ちこんでいるふうだった聖香の声がいつもの張りのあるそれに少しずつ戻ってきていた。 〝ところで用ってなに?〟 「うんとね……」  児島がどこかからなにかを取りだす――手のひらサイズのメモ帳。それにやたらと太いシャープペンシル。そのうちのメモ帳だけをおれに押しつけてきた。 「聖ちゃん、カックラキン見た?」 〝見たけど、それも中身よく覚えてない〟 「ナオコお婆ちゃんの縁側日記も?」 〝うん、ごめんね〟 「だん吉、今日も変な死に方した? カマキリ、はーってやった?」 (まだ話すの?)  少し《のたくり》気味の丸っこい字で書かれたおれへの質問。 〝ねえ、真奈ちゃん〟  中身のない話もそろそろ限界か。おれは受け取ったデブのシャープペンシルで『松本のことがいろいろわかった。知りたくないか?→聖香に聞いてみてくれ』とメモ帳へ書きこみ、ダイヤルの脇へそいつを押しつけた。 「あ、えっとえっとあのね……」 〝さっきからなんかおかしいよ。どうしたの?〟 「そんなことないよ。うんとね、今から大事な――」  硬貨の落ちる音がした。ブザーは鳴っていない。念のために百円玉を追加する。 〝プツっていったけど、もしかして外から?〟 「う、うん。家だとなんていうか、ちょっと話せないことだから」 〝ええ? どんな話?〟 「落ち着いて聞いてね。いろいろわかったの、捕……松本くんのこと」  しばらく間があって聖香の驚く声が聞こえた。字を書く代わりに指の動きで受話器をよこせとやる――横に振られる首。意味がわからない。 「十円玉落としちゃった。ちょっと待って」  児島はそういうと、受話器の下の部分を手で押さえて胸に抱えこんだ。 「どうした。早く貸せよ」 「やっぱりやめといたほうがいいと思うよ、聖ちゃんと話すの」 「なんでだよ」 「だって、なんかふんいきよくないもん。捕虜の話しても誤解なんか解けない気がする」 「そこはうまくやる。だからほら、早く」  灯りが消えて、ついた。その間に受話器が今までとは反対側の耳――おれからは遠いほうへと移動をしていた。 「わたしが誤解を解いてあげる」  小さな声で馬鹿なことをいいだす児島。腕を受話器のほうへ伸ばそうとするたびにその体が前後に揺れた。 「そんなの無理だ。だいたい誤解されてる中身だってよく知らないだろう」  児島の声の大きさに合わせてまくし立てる。 「さっき聞いたじゃない。ヘンタイでしょ。聖ちゃんの使った生理用品を盗ったとか盗らないとか――」 「おい、聖香に聞こえち――」 「それで目の細い子《叩|はた》いて家出する羽目になっちゃったんでしょ。任せて」 「ちがう! 終わりのほうはそんな話じゃ――」  もしもし、聖ちゃん――勝手に話をはじめる児島。無理やり受話器を取りあげようとしてみたが、白くて細い指にはとてつもない力がこめられていた。 (いいから代われ)  無視されるメモ。 (とにかく代われ。話はそれだけじゃないんだ)  またしても同じ。 (松本のことは全部教えちゃだめだ。こっちの話を聞いてくれなくなる)  突っ返されたメモ帳を下へ落とした。こんなことをしている間にも話はどんどんでたらめな方向へ進んでいっている。拾いあげたメモ帳に『いいかげんにしろ』と書こうとしたが、芯がパキパキ折れて思うように書けなかった。 「うん、沢村くん」  息が止まる。なんに対しての答えなのか考えた――『誰から聞いた話?』そうじゃなきゃ『そばに誰かいるの?』それ以外だとちょっと見当がつかない。  なんの話をしてる――かたちのいい耳の穴にささやく。スタジアムジャンバーの色の分かれめが、おれの顎に軽く当たった。 〝どうして……なんでそんなやつと一緒にいるの! 武田くん知ってるの!?〟  あまり聞きたくないタイプの声が受話器の上の穴から飛びだしてくる。 「聞いてくれ、聖香」  児島から受話器をもぎ取っていった。 「怜……あんたいったいどういうつもりよ!」  聖香にまであんた呼ばわりされたおれ――一気にどうでもいい気分になった。 「豚みたいな口を利いてくるなよ」 「説明して!」 「なにを」 「全部よ!」  ちがう。全部じゃない。聖香が説明してほしいのはあのガキのことだけだ。 「説明してやってもいいけど長くなるぞ。まずはなにが知りたい」  黙りこむ聖香。考えていることのだいたいは察しがつく。 「どっからでもいいならおれの話からでいいか」 「先にさっきの話から聞かせて」 「さっきってどれだよ」 「亨くんの話」  案の定。自分の冴えた読みに腹が立った。 「まだ途中までしか聞いて――」 「まあ、そういうことになるよな」  吐き捨てるようにいってやる。 「どういう意味?」 「おれの話なんてどうだっていいんだろう。聖香はいつもそうだ。自分で勝手に決めつけて、相手のことなんかおかまいなし。勝手に納得して、勝手におしまいだもんな」 「そんなの……そんなの怜二が話にならないことばかりするからじゃない!」 「ほらな。それだって決めつけだ」 (誤解は解けそう?)  のたくっていない、いつもの丸っこい字で書かれたメモ。さっきのお返しで無視してやった。 「馬鹿いわないで。悪いこと嫌いって話、わたしなんべんもしたはずよ! 忘れてるの!?」 「よく覚えてるさ。忘れたくてもそうできないほどな」 「だったら――」 「じゃあ、どうしてそんなに松本のことを聞きたがる? おれとあいつのどこにちがいがある? 顔か? 脳みそか? 金があるとか野球がうまいとかそういうことか? やってることは一緒だぞ。大金かっぱらって、チャリンコかっぱらって、なにもかもかっぱらって、邪魔者は端からぶっ飛ばしてる。そのうち強盗や人殺しもやっちまうかもな」 「やめてよ!」 (もう、無理じゃない?)  そんなことはわかっている。おれはメモ帳を手で払いのけた。 「松本は捕まった。今は学校でいろいろ聞かれてる」  息を吸いこむ音がして、それからなにも聞こえなくなった。目を閉じ、胸をなでおろしている聖香――勝手にイメージした電話線の向こう側。受話器が深い吐息を伝えてきた。 「安心したか」 「……うん。つじつま合ってないって思われるだろうけど」  すっきりした。誤解もなにも解くことはできなかったが、そいつをすっ飛ばしていいたいことはすべていった。 「じゃあな」 「ちょっと待って! 真奈ちゃん、どうする気?」 「どうするって……別にどうもしねえよ」 「なんかしたりしてない?」 「なんかってなんだ。プールの陰で聖香にしたようなことか」 「ごめん……そのことはもういわないで」  徹底的に嫌われているおれ。せっかく清々しい気分になれたのに、これでまた後味が悪くなった。 「ちょっといい、聖ちゃん」  ふいを突かれた――奪い返される受話器。 「もう終わりだ、児島」  フックに伸ばした手をスタジアムジャンバーの腕が弾く。 「わたしがもらってもいいよね」  いってることの意味はわかった――聖香にはおかどちがいな断り。話をやめろという代わりに受話器を取りあげようとしたが、白い指は机のなかへ何日も放っておかれたコッペパン並みに硬かった。 「おい、児島!」  キスしたの? ほかには? うん、別れる。結婚するつもり。変なことはまだ。でも抱きあったりはしたよ。あそこも見ちゃった。おっぱいはちょっと見られちゃったかも――とんでもない会話。そんなことを聖香にいうんじゃない。 「じゃあ、怜二はわたしのものでいいね。文句はいいっこなしだよ。さよなら」  遠慮なしの力で受話器を取りあげる。 「ふざけ――」 「どうしよう。いっちゃった。もうわたし学校行けない。絶対家出しなきゃ」  悪ふざけにもほどがある。この女は馬鹿なのか。いや、馬鹿とかいうレベルじゃなしに頭が狂っているのかもしれない。 〝真奈ちゃん、どうしちゃったの!? ねえ! なにがあったの!? 真奈ちゃんってば!〟 「おれだ、聖香」 「話が全然わかんないよ!」 「おれにだってわかんねえよ!」 「真奈ちゃんのいってること、ほんとなの!?」  本当のこととそうじゃないことがこんがらがった微妙なでたらめ。だがもう、そいつを一から説明するのは面倒くさい。 「半分はほんとだ」 「またあなたね」  出た。どんな球を投げても端からファールにしちまう手ごわい代打。 「何度もすいませんね」 「あなた自分のやってることわかってるの?」 「馬鹿ですから、あんまり」 「聖香はね、悪い子が嫌いなの」 「らしいですね」 「もうひとつ教えてあげる。馬鹿な子はもっと嫌いなの。私もだけどね」  聖香の好き嫌いに追加された条件――母親の勝手ないいぐさ。本当にそうだとしても、今となっちゃどうでもいい話だ。 「聖香に代わってくれよ、おばさん」 「いいかげんにしなさい」 「そうかよ。んじゃ、夜分に失礼《いたましました》。お《寝|やす》みな――」 「待ちなさい!」 「うるせえな」 「あなた、泥棒の次は誘拐!? 真奈ちゃんまで連れだして!」  それもどう思われようがかまわなかったし、答えてやる筋合いでもなかった。 「好きに思ってくれよ。それじゃおれ、忙しいから」 「ちょっと!」  おばさん?――脇からの質問。頷いてやった。 「心配いらないですよ」  またしても奪われていく受話器。児島の好きにさせた。代打がうまく説得してくれれば吊りあがった垂れ目を見なくても済む――頼んだぜ、左腕殺しの《代打|ピンチヒッター》さんよ。  電話のやり取りが二分を超えた。おれに《もたれかかって》きている児島。重くはないが、いろいろと問題は起きている。おれは受話器が貼りついていないほうの耳に抑えた声で『一分以内で切れ』と注文を出し、鉄になりかけているろくでもないあそことショートパンツの間にマジソンバッグを挟みこんだ。 「愛してるんです」  馬鹿げたことを平気で口走る児島。それに馬鹿なあそこと馬鹿な脳みそ。この電話ボックスには利口なものなんてひとつもなかった。おれは曇りに曇ったガラスを学生服の肘から先でいっぺんに拭った。 「そんなことないです、大丈夫です」  臥竜山の方向から白い光が迫ってきていた。けっこう飛ばしてきている感じだ。考えてみたらこの道で誰かとすれちがうのははじめてだった。濡れたガラスの向こうを通り過ぎていく白い光。自分の顔は雑木林のほうに向けていた。 「ちがいます! おばさんも聖ちゃんも全然わかってない!」  脇を過ぎていった乗りものがバイクだということは音でわかった。どこの誰かはわからない。が、暴走族のようなやつらじゃない。たぶん、臥竜山のほうに用があったか、これからどこかへ用を足しに行く、ただのおっさんかおばさんだ。おれたちのことを『親の目を盗んでいちゃついている高校生』ぐらいに思ってくれたらありがたい。 「もういいです! わたしたち、ちゃんと生きてみせますから!」  フックに叩きつけられる受話器。同じタイミングでガラスに赤い光がにじむ。児島がよりかかってくる前に体を外へ向け、拭いてもすぐに白くなるガラスを手のひらでゴシゴシやった。 「ふたりとも頭カッチカチね。愛に国境なんて関係ないのよ」  ずいぶんとスケールのでかい話。児島が外人だったのも驚いたが、今は国境よりもガラス一枚挟んだ向こうがやばい。バイクは完全に止まっていた。 「ねえ、聞いてる?」  またがっているのは――男。体の大きさがどう見ても女じゃない。そいつが今、バイクを降りた。位置はこの電話ボックスから十五メートルかそこら美滝より――よくない予感。 「児島の父ちゃんってバイク乗ってるか」 「ううん、車しか乗らない。なんで?」  男がこっちへ歩いてきた。距離、十メートル。バイクのエンジンはたぶん、かかったまま。ライトも後ろの赤いランプもつきっぱなしになっている。 「あいつを見ろ。覚えはあるか」  全身黒づくめ――のように見えるが、深緑や紺かもしれない。いずれにしろ闇によく溶けこんでいる色だ。服のかたちは制服や背広というよりは作業着に近い。つまり、おまわりや刑事じゃない。 「知らない。警察の人かな」 「ちがうと思う」 「じゃあ、電話使いたいのかも」  それもちがう。ここの電話を使うのに、わざわざあんな場所へバイクを止めてくる馬鹿はいない。 「逃げる?」 「無理だ。もう間に合わない」  大股で歩いてくる男までの距離は五メートル=かなりやばい状況。おれはマジソンバッグを電話帳の棚へ置き、ナップサックを肩と背中へきつめに固定した。児島の体もボックスの一番隅へと押しこむ。 「痛い、痛い、痛い!」 「我慢しろ」  男の体が防犯灯の真下へ来た――熊みたいにでかい体。その影が無断で電話ボックスに入りこんでくる。おれたちまでの距離、一メートル未満。確実にやばい。 「そんなに押されたら潰れちゃうよ、わたし」  《熊男|くまおとこ》の両腕が伸びてくる。そいつが電話ボックスへ触れる前に右の肘と膝で折れ扉の蝶つがいを押さえつけた。 「え!? なに!? どうしたの!?」  扉の取っ手へ熊男が手をかける。急激に痛くなる肘と膝――とんでもない馬鹿力。地の底から湧きあがってくるような唸り声にガラスが震え、扉の枠が軋みだす。 「……誰だよ、てめえ!」  がなった。熊男の目を睨みつけながらそうしたつもりだったが、ガラスの曇りが邪魔で目玉の位置がわからなかった。おれは一秒の半分で体勢を変え、左足以外の全部を使って折れ扉の中心を押さえた。 〝げじごおばげうおあああ!〟  人の喉から出ているとは思えない叫びがガラスをすり抜けてくる。それに負けず劣らずの悲鳴も頭のすぐ後ろで聞こえていた。けいれんを起こすおれの耳。おれの脳。おれの筋肉――にっちもさっちもよっちもいかない。 「やだ! もう! 怖いよ! ちょっと! ねえ!」  いってもしかたのないことを早口でまくし立てる児島。熊男が今度は扉へ足をかけてきた。 「……だめだ。力じゃ勝てない」  折れ曲がってくる扉を右足で力一杯に蹴り戻す――無駄な抵抗。ことわざでいうところの焼け石に水。どうでもいいことを思いだす脳みそをぶん殴ってやりたくなった。 「ねえ、謝ろう! この人に謝ろうよ!」 「なんでそんなことしなくちゃいけねんだよ!」  頭が沸騰する。筋肉が悲鳴をあげる。心が体から離れそうになる――馬鹿力め。 「この人ボディーガードだよ! 生きて帰れないよ!」  ボディーガード=すっごくおっきい人。 「お前、さっきは知らないって――」 「暗くて見えなかったの!」  扉を引っぱる力がいきなりゼロになった。諦めたのか。だとしても謝る気はない。ぶっとい腕がおれたちを抱えるような格好でガラスの向こう側に伸びる。熊男は電話ボックス全体をガタガタやりはじめた。 「丸ごと引っこ抜くつもりかよ!」  自分のところまで伸びてきた手に目を剥き、喉から血が吹きだしてきそうな勢いで叫ぶ児島。おれの手足に一本でも空きがあればまちがいなくぶん殴っているうるささだ。 「黙れ!」 「やだ! わたしまだ死にたくない! 助けてよ、ねえ!」 「落ち着け! 騒いだからってどうにかなるわけじゃない!」  正面ガラス=扉の向こうを睨みつける。熊男の顔は相変わらず曇りが見えなくしていたが、着ている服は濃い緑、薄い緑、茶色のまだら模様だということがわかった。 「いやああああああ!」  叫ぶ児島に叫び続ける熊男。おれも叫びたかった。目に見えていたものすべてが突然、闇色になる。 「もうやだ! わたしだけ謝る! どいて!」 「ごちゃごちゃいうな! おれが守ってやる!」  抜け駆けをたくらむ女を限りなくうそに近い言葉で黙らせる。もし守りきれなかったとしてもどうということはない。どのみちおれはうそつきだ。  なにも見えなくなったのは天井の灯りが切れたせいだった。振動で蛍光灯の線がやられたか。ガラスの箱が引っこ抜かれるのも時間の問題かもしれない。熊男がまた扉のほうへ手をかけてきた。 「く……この野郎、ぶっ殺すぞ!」  それができれば苦労はしない――いってみただけだった。 「怖いよ、怜二……」  背中には電話がめりこんできていた。左のアキレス腱は今にもぶち切れそうだった。肘と膝は相変わらずごりごりいっている。このままじゃ、もってあと五、六秒……いや、もう限界だ。 「受話器を貸せ!」 「え……なに?」 「受話器をよこせっていってんだ! 早くしろ!」  泣きべそをかきながら怒りの注文に応える児島。押しつけられてきたそいつを引っつかみ、ガラス扉へ叩きつける。  電話ボックスのなかの空気が一瞬、縮こまった。つぶった目を開けると目の前にはなにもなく、小豆粒ぐらいに砕けたガラスの雨が熊男に降り注いでいた。やつは尻もちを突いている。 「狙いはおれだ! お前はおれと反対方向へ逃げろ!」  児島にそう早口し、開けなくても通れるようになった扉の枠をくぐった。すぐ前で熊男が砕けたガラスを頭から払っている。攻撃をしかけるなら今がチャンスだったが、どんな手を使っても勝てないことは目よりも心が感じ取っていた。熊男が立ちあがる。身構えながらおれは体の位置を右へ右へとずらしていった。 「……おっさん、誰だよ」  後ろ手にカッターナイフを握りこむ。熊男はなにも答えない。代わりにそのぶっとい腕をゆっくりとこっちへ伸ばしてきた。 「なんとかいえよ!」  伸びてきた腕の分だけ後ずさりをする――防犯灯が作りだす光の輪に入りこむおれ。熊男の動きはなにがなんでもくそガキをぶちのめす、という感じじゃなかったが、そんなものは芝居に決まっていた。誰かもわからないやつを信用するほどこっちだって甘くない。 「どうしてなにもいわねんだよ」  無言の恐怖。でかい体が闇と光の境を静かに越えてくる。徐々に浮かびあがってくるその顔におれは思わず息を飲んだ。 「なんだ、お前……」  熊男の顔には傷跡がいくつもあった。傷になっていないところを探すほうが難しいぐらいの数だ。なかでも派手な三日月型のそいつは左目の脇から、顎を通り越して首の下まで伸びていた。傷の右と左で肌の色もちがっている。ハーロックもエメラルダスも顔負けの傷。いや、ここまでくるとフランケンシュタイン――もう、怪物だ。 「……い……うさ……らあ……む」  怪物の口が動く――呪文かなにかにしか聞こえない言葉。声と声の間は犬が舌を出してやる、あの息づかいだった。 「な、なんだよ!」 「せい……まえ……のち……んだ」  今度は別の呪文。太い右腕が突きだされてくる。人差し指でおれを指し、親指を立て、自分の首に左手を当てる怪物。意味がまるでわからない。  枝の折れる音が聞こえた。当然に無視をした。敵は目の前のこいつだ。たぬきかなにかに気を取られてふん捕まるようなドジだけは踏めない。  同じブロックサイン=球種や牽制のそれとはまるでちがう手の動きが呪文抜きで繰り返される。怪物はおれになにを伝えたいのか。捕まえようと思えばできなくもない距離にいて、あえてそれをしてこないのはなぜなのか。 「あんたおまわりじゃないんだろう」  三日月が前に傾く。言葉は通じているみたいだ。連続で質問をする。補導員でも教師でもボディーガードでも信金の人間でもない――首と手の動きだけで伝えられてきた返事。 「……く……ない」  口の前で二本の人差し指を交差させる怪物。おれはうまくしゃべれない――意味はたぶん、そういうこと。 「だけどあんた、おれの味方ってわけでもねえよな」  背中でカッターナイフの刃を伸ばしながらいった。胸を叩く例のサインは無視。呪文も無視。傷跡に埋もれた目だけを見る。おれの勘は《怪物|こいつ》をきちがいオールスターズの一員=《出脇慎作|デブ》の親せきだといっていた。 「……うし……から……んだ」  新しい呪文とともに妙な動きをはじめる怪物。顔を空に向け、両手で頬を二度叩いた次の瞬間、叫びが闇を切り裂いた。獣の雄叫びに息を飲む。こっちへ伸びてきた腕を後ろに跳ねてかわし、着地のタイミングでカッターナイフを突きだした。 「それでふい打ちのつもりかよ」  かかってこい――指でそういってくる怪物。 「あいにくだな。勝てないケンカはやらないことに決めてる」  捨てゼリフと青リンゴのガムを怪物に吐きつけ、道向かいの闇へ跳びこむ――かなりの段差。墓石の頭を踏んづけ、勢い余った体を目の前に迫ってきた石灯籠に抱きついて止める。すぐに土を踏む重い音が聞こえた。  なるべく暗いほうへ誘いこめ――今までの経験がそういってきた。撒けるようなら撒き、できなきゃ相手の後ろを取る――闇討ちはおれの《十八番|おはこ》。どうがんばっても勝てない相手に真っ向勝負を挑むのはケンカを知らない馬鹿のやること。おれはカッターナイフの刃をしまい、そいつを尻ポケットへねじこんで走った。 「やべ」  マジソンバッグのことを思いだした、というより持ってくるのを忘れた。あんなところにバッグがあれば誰だって中身をのぞく。結果、札束は消えてなくなる――泣きたくなるほどの大失敗。児島がそいつに気づいてくれていればいいが、さっきの今じゃそこまで気もまわらないだろう。怪物を撒いたら《帰塁|タッチアップ》してからトンズラだ。  重い足音を耳で捕まえながら走る。もの陰をうまく使ってジグザグ移動と直線ダッシュを交互にやり、足音その他はなるべく殺す。思いつくのは簡単だったが、実際にやってみると半分もできていないことがわかる。闇はともかく、静けさはかえって作戦の邪魔になった。 「転んで頭でもぶつけねえかな、《怪物|あいつ》」  音の問題については諦め、その分の神経を距離稼ぎにまわした。小さめの墓石を見つけては通り道の側へとなぎ倒し、目についた花や供えものはあさっての方向にぶん投げた。お粗末なワナだったが、なにもしないよりはマシだ。 〈ばちあたり。おまえ、じごくいき〉 ――死んだらどこへでも行ってやる。なんか手を考えろ、化けもの。 〈しね! いますぐしね! いちびょーでしね!〉  カッターナイフを胸に突き立てたくなる。肉をえぐり、役立たずをおれから引きずりだし、刺し殺してやりたくなる――いつか絶対そうしてやる。  意識を後ろの闇に向けた。淡々とリズムを刻んでくる重い足音。さっきよりも気配が近い――慣れている。怪物はこういう場所で人を追いこむことを得意にしている。墓場の闇へ誘いこんだのは作戦ミス。きちがいオールスターズもとんでもないのをよこしてきたもんだ。  怪物とおれのちがいを考えた。年、傷の数、口が利けるかどうか――は、ここじゃ関係ない。やりなおし。関係してくるなにか=体の大きさ。力の強さ。今の状況は権堂での鬼ごっこに似ている。あの場から逃げだしてこれたのは、信号に足止めを食らっていたやつらを壁としてうまく利用できたからだった。奥に広がっている笹竹のやぶをそれと思えば、同じ手が使えるかもしれない――作戦変更。右に直角ターン。笹やぶに向かってダッシュ。墓石の間を抜け、細長い木の札を蹴散らし、水たまりのような小川を跳び越える。 「行き止まりだけは勘弁だぜ」  幹や枝が少ないところを狙って突っこんだ。思っていたよりも前へ進めた。が、別の場所へ抜けられるかどうかはわからない。  笹の葉をかき分け、枝をへし折り、幹を蹴り倒す。ときどき鋭い痛みが手のひらや甲に走ったが、ここじゃそんなものにかまっちゃいられない。それよりも地面の上へ浮きあがってきている根っこや、横倒しになっている幹に足を取られてこけるほうがやばかった。悪くすると途中で折れている笹の幹で腹に穴を空けちまう。  後ろのどこかで笹のこすれあう音がした。同時に目の前から笹が消えた――鬼ごっこはおれの勝ち。  広い境内へ躍り出たおれは《解|ほど》けている靴ひもを二秒で結びなおし、敷石が延びている方向――本堂とは逆のほうに向かって走った。 「勘弁だっていっただろう!」  参道の先に見えている、どう見てもぶ厚い木の扉。山門はそいつでしっかりと閉じられていた。つまり、外へは出られない。おまけに敷地のまわりは壁だらけで、高さのほうも半端じゃない。長い棒でもあればただちに棒高跳びだが、あいにくとそれにお似合いの棒があたりには転がっていなかった――完全に袋のねずみ。壁の向こうのやたらと明るい防犯灯を睨みながら、毎度の運の悪さを呪う。熟れて落ちた《銀杏|ぎんなん》の実を腹立ちまぎれに蹴飛ばした。 「城かよ、ここは」  めりめりいう音に振り返る。かなり太い笹竹が境内の側へぶっ倒れてきた――怪物、登場。重なりあった葉っぱや枝、そいつらが作りだす影。地面の黒、茶色、腐りかけの銀杏の色。そういう一切合切が混ざりあってできた模様と怪物の服はそっくりだった。 「しつこい野郎だな……」  稼いだセーフティーリードはこれでなくなった。動きを邪魔するものもここにはなにもない。それだけならまだしも暗闇の助けまでないときてる――考えることすらいやになってくる状況。力で負けるおれに勝ちめなんてありっこなかった。絶体絶命の文字がくっきりと頭に浮かびあがってくる。  どこかに突破口はないのか。やつに足止めを食らわす方法はないのか。いずれにしろ、ここじゃ勝負にならない。少ない可能性に賭けるなら――本堂。そこから裏手にまわればなにか手が見つかるかもしれない。  土煙をあげて突進してくるまだら模様に心と体が怖じけづく。例のスイッチが入りそうになるのを必死に堪え、敷石を蹴った。 「ほら、金だ!」  背負っていたナップサックを山門のほうへぶん投げる――距離稼ぎの犠牲フライ。もったいないが命には代えられない。 「うそだろ、おい……」  ホームスチールを狙うランナーの勢いでおれに向かってくる怪物。ナップサックは完全に無視された。 「金よりおれかよ」  すかさずターボのダッシュ。目指すは本堂。やつの位置を気にしている余裕はない。尻ポケットからカッターナイフをつかみだし、刃を伸ばして握りこむ。  走りながら三十秒後を想像した――ズタボロにされているおれ。血みどろにされているおれ。何発もの蹴りやパンチを食らって気絶しているおれ。どれもこれもろくでもない未来。ただちに想像力をゼロにする。  風を切る音がどこからか聞こえた――真後ろに気配。とっさに頭を守ったが衝撃は背中にきた。肺が暴れ、呼吸を無視した空気の流れが鼻と口と喉を襲う。なにをぶつけられたのかはわからない。涙のせいでゆがむ景色。それでも足だけは前へ出していった。 「くそ!」  すぐ後ろに聞こえている荒い息づかいと地響きつきの足音に吐きたくなるほどの恐怖を思った。もつれる足に破けそうな肺。いうことを聞かなくなってきた体にムチを打つ。  あと少し。ほんの十メートルかそこらで本堂にたどり着ける。狙いはそこの縁の下。もぐらでもない限りまともに戦えたもんじゃないが、体のでかい怪物にとっちゃ確実に不利な場所だ。その分の有利がおれのところへ転がりこんでくれば勝負にならないこともない。間に合うか。いや、間に合え!――転んだ。 「よるな!」  土埃の舞うなかで、でたらめにカッターナイフを振りまわした。怪物が無駄のない動きで刃先をかわす。細められたその目はこっちへ攻めこんでくるタイミングも同時に計っていた。 [*label_img*]  呪文。そいつを口にしながら体重をわずかに左足へ移動させたのをおれは見逃さなかった。やつは右側からまわりこんで、後ろからおれの左腕を取ろうと考えている。そうはいくか。 〝なにごとかね〟  天の声――実際にはおっさんの声。騒ぎに気づいた和尚か誰かが本堂の脇から姿を現す――怪物に隙が出た。思うよりも早く、勝手に跳んで転がるおれの体。起きあがりついでに右手で石ころを引っつかんだ。 「食らえ!」  カッターナイフと持ち替えたまんじゅうぐらいの石ころをクイックモーションでぶん投げる。これだけ近ければノーコンもなにも関係ない――命中。どストライクのデッドボール。かなりの勢いでまだら模様の左肩にめりこんだ。 「ざまあ……」  キャッチャーミットへ一旦おさまったボールがこぼれていくみたいにして地面へ転がる石ころ。傷まみれの顔の表情はこれっぽちも変わっていない。 「なんて体してんだよ……」  打撃でぶっ倒すことは不可能。へたしたら刺しても切ってもだめかもしれない。 「……だだ」  無駄だ――そう聞こえた。怪物がおれを見てにやりと笑う。またもやちらつきはじめる絶体絶命の文字。心と体をつないでいるスイッチが勝手にオンとオフを繰り返した。 〈さあ、さあ、さあ、さあ!〉  三年前に流行った、同じ名前の歌を顔なし女ががなりだす――へたくそで、しかもめちゃくちゃな歌詞。本物の《山口|やまぐち》《百恵|ももえ》は『馬鹿』だの『死ね』だの『奴隷』だのいわない。歌は途中からプレイバック・パートツーになっていた。 「《あんたらはへぇ誰だえ|あんたたちはいったい誰だい》」  忘れ飛ばしていた和尚の声が心を体へ引き戻す。 「助けてくれ! さらわれそうなんだ!」  はんてんを引っかけた和尚に向かって叫ぶ――うろたえる怪物。逃げるなら、今だ。 「《おいはどこんちのせがれだね|キミはどこの家の子だね》」 「いいからこいつを押さえつけろ!」  怒鳴った。走った。笹やぶに突っこんだ――突っこめなかった。 「放せよ、人さらい!」  左の足首に馬鹿力――おれの足をちぎりかねない握力。 「……じや……ろ」  さっきも聞いた呪文。何度聞かされてもわからないものはわからない。おれはのめって倒れた体勢のまま、やつの腕を蹴りつけた。 「《へえ|今》、《警察のしょ呼んでくれらな|警察の人を呼んでやるからな》」  そんなことをされたらなにもかもが終わり。冗談じゃない。 「待ってくれ!」  無理やりに体をひねると両足の自由を奪われた。が、追加でつかまれたほうの足首にはあまり力がこめられていない。デッドボールはやっぱり効いている。おれは腹筋を使って上半身を跳ねあげ、すぐさまその左腕を狙った――いきなりひっくり返る景色。それと同時に右腕への衝撃。頼りにしていた、たったひとつの武器がどこかへすっ飛んでいく。 「くそ!」  逆さで宙吊りにされた体をしゃちほこのように反らせ、抱きついたまだら模様の左足に噛みついた――こっちの歯が折れそうになった。鉄かなにかでできた膝がおれの額を打つ――目に火花。背骨が限界まで反り曲がり、帽子が脱げ落ちた。  みじめな気分がおれを包みはじめる。地獄の暮らしが勝手に思いだされてくる。パトカーはもうこっちへ向かっているんだろうか。だが、サイレンはまだ聞こえていない。頭に集まってきた血のせいで馬鹿になった耳じゃ、すぐそこで音がしていてもわからないかもしれなかった。もう、どうにでもなれ。なにかが地面に転げ落ちた。  鼓膜をぶん殴ってくる獣の叫び。でかい体がおれの前から消え、逆さまに建っていた本堂がもとに戻る。地響きとともに舞いあがる土煙。地をかく丸太のような手足――わずか一秒で決めた大逆転。目には凄まじい光、耳にはおそろしい音がまだ消えずに残っていた。怪物の腰がわずかに浮く。自由を噛みしめている暇はない。 「動くな!」 「……がう……くお……じ」  肝心なことをいの一番に忘れちまう脳みそに嫌けが差してきていたが、今は目の前の化けものに集中。反省その他は後まわしだ。 「それ以上動いたら、もう一発食らわすぞ」  稲妻をちらつかせ、自分よりはるかに強い者を脅す――芋虫対、熊。傷に埋もれた目を瞬きなしで睨みながら、一度はやつにくれてやったナップサックを拾いに走る。 「……じま……れ!」  地響き――おれの忠告を無視し、ダッシュで跳びかかってきた怪物を左、右、右のフェイントでかわす。 「丸焦げになれ!」  脇から背中へ食らいつく――首筋に稲妻。怪物がのけぞる。一秒、二秒、三秒、四秒――壁にこだまする獣の叫び。まだらの背中に蹴りを入れて離れる。でかい体はつんのめるようにして敷石の上へ倒れた。 [*label_img*] 「人の話は一度で聞いとけよ」  鉄でできた体に電気はよく効いた。怪物はけいれんしている。 「《おとなしくしときない|おとなしくしておきなさい》」 「しばらく動けねえよ、こいつは」 「《だれえ|なにいってる》、《おめさんもさ|お前さんもだ》」 「あ? なんでおれが――」  壁の向こうに好きじゃない色をした光が《瞬|またた》いていた。サイレンは今もその前も聞こえていない。汚いやつらだ。 「ふざけんな!」  地面を蹴る――邪魔立てする気の和尚。稲妻を突きだすとすぐに道を空けた。 「こら、《どこ行くっつうだい|どこへ行くっていうんだ》、この坊主は」  坊主はてめえだろ――馬鹿な質問に心のなかでそう返し、おれは笹やぶの闇へ跳びこんだ。  緑のなかを走り抜けてきた真っ赤じゃないおれ。墓場から道路を見あげる。薄闇にひっそりとたたずむ風通しのよくなった電話ボックス。静かなもんだった。このあたりに家や店が一軒もなかったことも《わざわい》……いや、さいわいしている。  石垣をよじ登った。そうしながら真後ろへも首をひねる。四人か五人。それぐらいの声が混ざりあって笹やぶの向こうから聞こえている。じきに誰かがあそこを抜けてくるだろう。もしかしたらパトカーをまわしてくるほうが先かもしれない。その場合、逃げて安全なのは北――いや、南か。考えるも、どっちならセーフという保証はない。そこはたぶん確率の問題になってくる。  道路の《縁|ふち》に指をかけ、石の凹凸を蹴った。道へ転がり出ながらあたりに目を走らせる――異常なし。次いで南北を確認。南は臥竜山。逆はもと来た道。  まずは戻る場合で考えた。道なりに行けば丁字路で富士通の工場へぶち当たる。そこまでに交差している道は……覚えにない。対して逆方向にはすぐ見えるところにそれがあった。山門からパトカーをまわしてくるならおそらくそっちだろう。おれは電話ボックスへ駆けよった。 「くそ! どこのどいつだよ!」  電話帳を置く棚には電話帳だけが置いてあった。ガラスの粒を踏みにじる。腹の底からむかついたが今は一刻を争っている状況。得した誰かに文句を垂れてる場合じゃない。もと来た道をダッシュ――目につく憎たらしいバイク。小刻みに震えながら灯っている赤いランプに八つ当たりの蹴りを入れた。 「あれ? こいつたしか……」  赤ランプのもげたバイクは銀のワゴンのとなりに止めてあったガムテープだらけのカブだった。 〝怜二、怜二〟  身構えながら振り返る――誰もいない。 「こっちだよ」  雑木林=太いブナの陰から児島が顔をのぞかせている。 「なにやってんだ。逃げなきゃだめだろう」 「怜二を見捨てて?」 「そんなこと気にするな」 「愛してるから気にしちゃう」  そういうことはせめてまわりに敵がいないときにいってくれ。 「いいか、児島。ふざけないで聞けよ。あっちにはおまわりがいる。状況はさっきの何倍もやばい」 「いよいよ事件ね。ボディーガードは生きてるの?」  おれのことを誰かれかまわず殺すやつだと思ってるんだろうか。この女は。 「さっきの武器でダメージは与えた。でもそれほど《堪|こた》えちゃいない。とにかく今は逃げるのが先……」  児島が後ろ手に提げているなにか=見覚えのある黒いそれに目が吸いよせられる。 「……おい、それ」 「大事な逃走資金置いてっちゃうなんて、どうかして――」  雑木林へ跳びこんだ。 「ナイススパイだ!」  思わず児島を抱きしめる。抱きしめ返される前に体を離した。 「もっと褒めてよ!」 「児島ならきっと腕のいいスパイになれる。だからほら、こっちにくれ、バッグ」  右手を伸ばすと同時に児島が鼻をひくつかせる。 「なんかくさいよ? うんち踏んだ?」  鼻で空気を吸いあげた。たしかににおう。が、くそのそれじゃない。 「銀杏だ。そいつの上で派手に転んだ」  茶碗蒸し食べたくなってきちゃった――児島のセリフにおなじみの叫びが重なる。来やがったか。 「やだ、怜二! 出たよ! ねえ、ちょっとボディーガ――」 「わかってる。だけど勝てる相手じゃない。こいつで眠らせてくるから、バッグを置いてそのまま逃げろ」  墓場に向かってダッシュ。怪物の体は石垣からまだ頭しか出ていない――スライディング。そのまま頭を蹴りつけた――びくともしないのは予想どおり。すぐさま脳天に稲妻をお見舞いする――石垣をずり落ちていくでかい体。でたらめな《経|きょう》を心のなかで唱えてやった。 「行け!」 「だめだよ、ほら!」  児島の腕が伸びている先に首をひねる。この世で一番嫌いな車がこっちに向かってきていた。サイレンは相変わらず鳴らされていない。 「やだ! あっちにも!」  臥龍公園側と富士通側。野球でいうところの《挟殺|ランダウンプレイ》。おれの読みとは裏腹に両方から攻めてきたおまわりども。この手をかわすにはフェイントよりも真っ向勝負――直感と経験が弾きだしてきた答え。《少年野球|リトル》をやっていた頃はそのやり方で何度も進塁を決めていた。 「そいつから手を放すなよ」 「どうする気?」 「あれを使う」 「使うって……怜二、運転できるの?」  集会のときに乗せられたバイク=チャッピーと同じやり方で動かせるのなら、おれはその方法を持ち主から聞いて教わっている。 「たぶんな。行くぞ」 「わたしも?」 「捕まりたいならここにいろ。そうじゃないなら、ぐずぐずするな」  ふたりしてカブにまたがった。前は富士通の側を向いている。鏡に映っているパトカーのほうが前から向かってくるそれより、おれたちに近かった。ライトをチャカチャカやってきているのはどっちも同じ。 「ちょっとお尻痛くて銀杏くさいけど、超わくわくしてきた。もう、超死んでも、超いい感じ!」  死ぬなんて冗談じゃない。おれは今、超生きたかった。 「ちゃんと捕まっとけよ」 「了解!」  児島がしがみついてきた。そのおかげで《でかい》札束入れ=ナップサックとマジソンバッグのふたつがしっかりと固定された。右手を手前にひねる――唸るエンジン。前を照らしているライトの明るさが増し、メーターの上にある『N』と書かれた緑色のランプが力強く光った。 〝危ないからやめなさい〟  近所迷惑なでかい声。といっても、うるさがっているのは石の下で眠っているやつらだけ。左足のつま先でペダルを踏みこむ。 「動いた、動いた」 「動くように動かしてるんだ。当たり前だろう」  右手を目一杯にひねる――カブが吠える。おれも心で吠える。誰に? なにに?=おまわりどもに。パトカーに。 「すごい! すごい! すごい!」  ギアを次の段に入れる――二十キロ、二十五キロ、三十キロ。ボタンのない学生服が風にはためきはじめた。 〝バイクから降りなさい!〟 「なんか怒ってるみたいだけど、大丈夫?」 「あいつらは怒るのが仕事だ。それよりできるだけ股を閉じておけ」  風を受ける部分を少なくすれば、その分速く走れる。バイクもチャリンコもそこのところは同じ。おれはおれで、ばたついている学生服の裾を左手でベルトの下へ押しこんだ。 「よくわかんないけど、了解」 〝こ、こら! 止まらんか!〟  がなっているのは運転をしていないほうのおまわり。パトカーが前進をやめ、今度は猛スピードでバックをはじめる。車とバイクなら問題なくすれちがえる道幅があるのに、どうしてそんなことをするのか。やつらの考えがわからなかった。 「絶対にバッグ落とすなよ! 拾いには戻れないからな!」  了解の『か』のところで、耳たぶにやわらかいものが触れてきた。ハンドル操作を誤りそうになる。ぶっ転びでもしたら一巻の終わり。気を引き締めて左のつま先を踏みこむ――さらに次の段へ。ぐんぐんあがっていくスピード。四十キロ、四十五キロ、五十キロ――走れ。もっと速く走れ。 「後ろからも来てるよ」  こっちのスピードに合わせてついてくるもう一台を鏡で確認する。ライト以外の派手な灯りは消されていた。 「逃げられるの?」  わからない。ただ、なにもしなければ捕まるだけだ。 「どうだろうな」  頭に地図――最初の関門は富士通の丁字路。おれたちの前をバックで走っているパトカーはそこへ着くまでに追い抜く必要がある。  ギアのペダルをつま先で押しこんだ――なにも起きなかった。カブのギアは三段まで。ひとつ勉強になったところでスピードメーターに目をやる。針が目盛りの右端を指すまであと少し。 「ねえ、前のパトカーが急に止まったりしたら、ぶつかっちゃわない?」 「かもな」 「うそ!? 死んじゃうじゃない!」  死にはしない。これと同じこと=パトカーに突っこんでいって無事だったやつをおれは知っているし、実際に死ななかったそのときの様子もこの目で見ている。 「さっき『死んでもいい』っていってたぞ」 「やっぱり生きたくなった! 降ろして!」  舌の根も乾かないうちに反対のことをほざく児島。女は男以上にその場で適当な口を利くことがわかった。 「無理だな。諦めろ」 「いやよ!」 「だったら、跳び降りろ」 「できっこないでしょ、そんなこと!」  緩いカーブに差しかかった。チャリンコのときの要領で体を左へ倒す。児島も自然とそれに合わせた。前はどうか――バックでそうしているとは思えない見事な走りっぷり。ただ、スピードのほうは少し落ちてきている。おれは右手を限界までひねり、ハンドルグリップの左右にあるスイッチやボタンをガチャガチャやった。 「な、なにやってんの!?」  オレンジのランプが瞬き、クラクションが鳴り、ライトの角度が変わる。なにがどのスイッチなのかはしっかり覚えた。 「前のやつらが邪魔でしょうがない。目くらましだ」  後ろを向いて説明してやる。 「うん、わかった! わかったから前向いて、前!」  長野八八『さ』の六一九。ドアの脇に書かれた長野県警の文字。運転しているおまわりのほうが、がなっているおまわりよりスマートで色白。前ならいやというほど見ている。 「勝負してやる」 「ちょ、待っ、怜、ややや、近いよ! ねえ、ぶぶぶつぶつぶ――」 「なにいってっか、わかんねえよ」  上半身を前へ倒す――強制的に児島も同じ体勢。これでもうちょっとスピードが出るはず。ライトが照らす角度を上向きで固定し、親指でクラクションのスイッチを押し続けた。 〝こら、ガキ! なんのつもりだ! やめろ!〟  がなるおまわり。がなられるおれたち。スピードメーターの針は目盛りの右端を越えている。パトカーのスピードはこっちと同じか、いくらか遅い程度。このへんがバックで走る車の限界なんだろう。 「うるさい! 叫ぶな! 口を閉じろ!」  耳のすぐ後ろで発射されている超音波に文句をいった。 「我慢しても出ちゃうの!」 「じゃあ、服でも噛んでろ!」 「馬鹿!」  思わずのけぞりそうになる痛み――左肩の下。どいつもこいつもどうしてそこばかりを狙ってくるのか。 「人のじゃなくて、自分のを噛め! ていうか、肉まで噛むな! コケるだろ!」 「《おおかえ|了解》」  カブのライトがおまわりどもの顔をもろに照らす。がなり役はいかりや《長介|ちょうすけ》、運転手のほうは《志村|しむら》けんに似ていた。まるで土曜の夜八時の気分だ。 〝スピードを落とせ! 死にたいのか!〟  全員集合までは四、五メートル。パトカーの鼻っ面までは三メートルあるかないか――根性だめし。こないだ連れていかれた集会で武田の兄貴たちがやっていた『特攻チキン』とかいう、おまわりへの挑戦ゲーム。テレビゲームはへたくそだが、こういうのは負ける気がしない。長介に『だめだこりゃ』といわせてやる。 「もう、無理! 最低! 大っ嫌い!」  後ろ半分の言葉が耳のなかを駆けずりまわる――うずく心。闇を照らすライトの先に聖香の顔が浮かびあがって消えた。黒いだけの景色。パトカーもなにもかもが消えている。消えずに残っているのはタイヤの悲鳴。それと児島の声で文句をいってくる、おれの天使だった女の言葉。  ぶち鳴らされたサイレンの音で我に返る――鏡のなかで小さくなっていく二台のパトカー。おれはいかりやと志村と天使のまぼろしに、心のなかで尻を叩いてやった。 「どうだ。いい気分だろ」  スピードを落として丁字路を右へ。山肌を右、富士通の工場を左に見ながら一本道をひた走る。 「ちょっとちびったかも」  ちびるのも生きていればこそ。次にそうする分も準備しておけ――前を向いたままいい、二回裏の攻撃に備える。 「なによそれ」 「後ろを見てみろ」  眩しい鏡――おれたちをつけまわしていたほうのパトカーが灯りという灯りすべてを光らせて追いあげてきている。怒りに震えるおまわりどもの顔が簡単に想像できた。今度はぶつけてくるかもしれない。 〝止まれ! 止まらんか、貴様ら!〟  新しいがなり声は長介のそれよりもさらにがらついていた。 「後ろの声、銭形のとっつぁんみてえだな」 「超怒ってるよ」 「仲間をやられてるからな。しょうがない」  《銭形|ぜにがた》がまた《がなって》きた。顔なし女が心のなかでルパンのものまねをはじめる――腹が立つほど似ていなかった。 「このままだとまずくない?」 「このままもなにも、さっきからずっとまずい」  おれがルパンなら児島は峰不二子。カブはポンコツのフィアットで、ポケットの稲妻はワルサーP38。なんだか気分が乗ってきた。 「一回止まろうよ」 「止まってどうするんだ」 「謝るとか」  《不二子|ふじこ》のセリフとは思えない言葉。ちょっとつまらなくなった。 「馬鹿いうなよ」 「許してくれないかな」  当たり前だろう――そういう代わりに鏡に目をやる。へたくそなハンドルさばき。いや、わざとか。車を左右に揺らしておれたちをせっつき、ライトの角度をひんぱんに変えてくる復しゅうのパトカー。左のおまわりなんかは窓から身を乗りだして長い棒を振りまわしている。暴走族も顔負けの走り方だ。おれはやつらを前へ行かせないように道の真ん中を走り続けた。 〝止まらないと撃つぞ!〟 「ほら、あんなこといってるよ!」  あり得ない。くそガキひとりならともかく、女子小学生の背中に鉛の弾を撃ちこんでくるおまわりなんているわけがない。 「はったりだ。いちいちビビるな」 「ほんとに撃ってきたらどうするのよ! わたしに弾が当たっちゃうじゃない!」 ――そのときはそのときだ。 「蜂の巣にされたいんだろ」 「そんなこといってない! ちゃんと守ってよ! 馬鹿!」  文句や注文の多いところは不二子に似ていた。金が好きなところもよく似ている。どっちもスパイっぽいし美人だ。が、胸だけがどういうわけか似ていない。  半円に近いかたちの左カーブ=最後の関門が見えてきた。曲がりきった先には須坂一高と常盤小を分けている道がある。そこまでたどり着くことができれば、勝負はもらったようなもの。おまわりどもはおれたちを捕まえられない。 「次で決めるぞ」  チャリンコでやる操作を頭のなかでカブのそれに組み換える。気をつけなきゃならないのは後ろブレーキとギアだった。チャリンコじゃどっちの操作も手でやるが、カブはそいつを足でやらなきゃならない。 「なにを決めるの?」 「あいつらとの勝負だよ」  左の親指で後ろを指しながらいった。 「勝負って、いったいどうするのよ!?」 「そいつを今、考えてるところだ」  カーブを安全に曲がろうとすれば後ろに追いつかれる。最悪、ぶつけられるまである。車と相撲を取るわけにはいかない。スピードはだから落とせない。  関門を素早く曲がるにはカーブの出口が見えはじめるあたりからタイヤを滑らせていくしかなかった。後ろのタイヤはそのとき完全に回転が止まる。コケないための重心移動も必要だ。しかもそいつをふたり乗りの状態でこなさなきゃいけない――《三重殺|トリプルプレイ》並みに難しいテクニック。 「怜二! カーブだよ、カーブ!」 「わかってる!」  やってみるしかない。うまくやれなきゃそこで終わり。がなり声とサイレンは相変わらずうるさかった。 「大丈夫なの!?」  わからない。だが、自信はある。カブもチャリンコも見ためは似たようなもの。歯車をまわすのが足かエンジンかのちがいだけで、ほかは大して変わらない。そこらのガキどもにはできないチャリンコ技をおれはいくつも知っている。自在に繰りだすことができる。だからきっと、たぶん、おそらく大丈夫――いや、大丈夫にする。絶対に。 「おれに合わせて体を倒せ。ちがうことをやると派手にコケるぞ」 「超了解!」  カーブの出口までがなるべく直線になるように、カブを道の右端一杯のところへよせた。続けて右手の力を緩めていく――スピードと一緒に落ちていくエンジン音。指三本と右足のつま先に力をかける。ただし微妙な握り具合、踏み具合。後ろタイヤの回転はまだ止めるわけにいかない……いや、だけど、ちょっとまずいパターンだ。 〝馬鹿者! ちゃんとブレーキをかけんか! 右のレバーと右のペダルだ!〟  そんなことは知っている。問題はチャリンコの何倍もの量の鉄がおれに計算ちがいを起こさせたことだった。 「やだ、ちょっと怖いよ! 曲がれるの、ねえ!? あっち側、川だよ!?」  思ったほど落ちてくれないスピード。とっさに別の操作を加える。ギアを低いほうへ一段――下り坂でスピードを出ないようにするときのやり方=武田の教え。カブもおれたちも少しつんのめったが効きめはあった。すぐさま体の重心を左へ―― 「おい!」  倒れまいとしてなのか、児島は上半身を右=カーブの外側へ持っていっていた。人の話をこれっぽっちも聞いていない女。これじゃ曲がるどころの話じゃない。 「体を起こすな! こっちに合わせろっていっただろ!」  児島はすぐに従った。後れを取っていた分の操作を特急でこなす。カーブの出口が見えてきた――後ろブレーキ、百パーセント。超の字を三つぐらいつけたい超音波がおれの鼓膜を破りにかかる。 「うるせえよ!」  カブの尻が流れる。人の命と札束を背中で支えながら上半身とハンドル操作で全体のバランスを取る。カーブの出口まではあと四、五メートル――いけそうだ。 「よし!」  上半身を児島ごと起こし、右足のつま先を跳ねあげる。鏡で後ろを確認しながら右の手首をひねった――前進する力が弱い。左足を動かした。落ちたスピードを一段めのギアが力強く回復していく。 「わたしたち、生きてる……よね?」 「当たり前だ」  次の『トの字』を右へ曲がればおれたちの完全勝利。パトカーはそこの入口にぶっ立てられた『円』の字みたいな鉄柵がお引き取りを願う。諦めの悪いおまわりどもは反対側へまわりこもうとするだろうが、その頃にはもうおれたちはどこかへ消えている。 「ちびんなかったか、小便」 「もちろん、ちびったわよ。怜二は?」  ちびっちゃいない。が、あそこは縮みあがっている。 「《十二才|じゅうに》にもなって、小便漏らしてるようなやつは馬鹿だ」 「なによ! わたし、まだ十一才だもん!」  上からなにか降ってきた。目玉だけを上へ向ける――闇にもわかる黄色のアーチ。はらはらと舞い散る天然の紙吹雪=扇形のそれがおれたちに降り注ぐ。くさくないところをみるとオスの《銀杏|いちょう》か。一着でゴールを決めたことを祝われているみたいだった。  ふたりして宙に足をあげ、柵と柵の間へカブを滑りこませる。どこにも突っかからずに通過成功――一件落着。 「なんか寿命がいっぺんに減っちゃった気がする。ねえ、家出ってずっとこんな感じが続くの?」  この何日でどれだけ追いかけまわされただろう。逃げる旅が楽じゃないことは覚悟していたが、正直これほどまでとは思っていなかった。 「今のが一番スペシャルな鬼ごっこだった」  それでもしゃかりきになることでおれは生き延びた。それができなかったあのガキの旅は終わり、ついさっきそいつをやってのけた児島はおれの考えとは裏腹に旅をはじめちまった。  でたらめでもなんでもこの世はやったもん勝ち。諦めることさえしなきゃ、ものごとはいずれ思った方向へ転がっていく。そういう目に見えない、人生の決まりのようなものをおれはなんとなく理解できたような気がした。 「命がけだね」  当たり前のことを口にする児島。自由はただじゃない。命のほかに賭けるものがなにもない奴隷にとって『命がけ』は最大最強最後の武器で、盾で、手段。おれはそいつで自由と、自由を続けていくためのエネルギー=札束を守り、関係のない親友の彼女までもついでにそうした。 「怖いか」  児島が言葉に詰まっている様子を首の後ろで感じ取った。 「うん。でも怜二となら怖くない」  ぐっとくるセリフ。武田の彼女なんかやめちまえ――思わず口走りそうになる。 「この旅はいつだっていちかばちかだ。一度でもしくじればそこでおしまいだぞ」 「怜二はしくじらないよ。しくじってもそこからまたなんとかしそう」  ひとつしかない命に無茶な注文をつけてくる児島。死んでも死んでも次があるどこかのヒゲじじいと同じようにはいかない。 「ねえ、怜二。わたしね――」  耳もとでささやかれる呪文のような言葉の数々。そのうちのひとつでも聖香にいわれていればおれは今も奴隷を続けていた。聖香に嫌われたことはだから、感謝すべきことなのかもしれない。 「もう、やめてくれ。コケそうになる」 「じゃあ、コケちゃえば」 「おい――」 「いいたいの。いいでしょ、別に」  銭形のがなり声がした。虫たちの合唱と同じぐらいにしか聞こえなかった。過ぎた道を映しだしている鏡のなかで赤い光が点になっていく。愛の呪文とエンジンの音が耳に心地よかった。 [*label_img*]
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