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 このあたりにやたらと多いナンバーと同じ名前の駅――国鉄のそれが桜木町にはあった。東京までの駅の数や料金などいろいろと気になっていたが、時間を考えて駅へ立ちよることはしなかった。代わりに《日本橋|にほんばし》――中山道を東京方面へ向いて見たときの案内標識に決まって書かれているその場所が、東京駅のすぐ近くだということを忠一に教わって知った。距離のほうは公園の便所で想像したとおり。歩けなくはないが、できればチャリンコの助けが欲しいところだ。 「あれ? 《角|かど》の色がおかしくなっちまったぞ」  午後の予定のためにあたりを見まわしてみた。どの店の前にも二、三台のチャリンコは止めてある。とはいえ、こんなところのそれはかっぱらえない。今度は人に目を向けた――ほとんどが大人。数はチャリンコの何十倍。忠一だけじゃなしに、大宮の中学生どもはわりとサボることをさっきの駄菓子屋で知ったが、さすがに街中で黒いそいつらを見かけたりはしなかった。 「右の縦。まわす向きが逆だ。やりなおし」 「もとに戻せない。サワ、やってくれ」  渡されたキューブをぐちゃぐちゃにして返す。 「おい、なんだよ。バラバラになってるぞ」 「最初からやれ」 「兄貴はスパルタでやんすね」 「スパルタなんてもんじゃない。サワはオレをいじめて喜んでるんだ」  さんざんないわれようだった。親切はなかなか人に伝わらない。 「いやならやめる」  忠一が謝る。おれは首を振る。Qがにやにやする。目的の場所に着いた。 「お、別コロ入ってるっぽいな」  ガラス張りのなかをのぞきこんで忠一がいう。ベツコロがなんなのかわからなかったが、とりあえずおれも一緒の真似をした。客よりも店員のほうが多い。本棚が邪魔で店の全体を見ることはできないが、なかはけっこう広い感じだ。 「ここもなじみなのか?」 「みたいなもんだ」  メイヂ屋ほど大丈夫とはいえない――くしゃ顔から読み取った言葉の意味。 「自信なさそうだな。やめとくか」  デジタルを確認する――一〇一五。学校じゃ二時間目休みの頃だ。ガキが店内をうろついていい時間じゃない。 「ゲーセンやバッティングセンターじゃないんだし、大丈夫だろ」 「だからってそれ以外なら安心ってことにはならない」  本屋にはおれ自身ちょっとした用があったが、そいつは別に昼を過ぎてからでもかまわなかった。 「早く街へ連れてけっていったの、サワだぞ」 「わかってる」 「本屋だってサワのリクエストだ」 「しつこいな。わかってるっていってんだろう」  いらついた。あたりを見まわした――目につく黄色。そいつの前へ移動する。受話器を取って十桁の番号をプッシュした――またしても無視。聞き耳を立てているふたりにぶん殴る真似をする。長谷川を盾にしてくるQ。それとは一ミリも関係ないこと――ベツコロが読みたいとほざく忠一。 「さっきからベツコロベツコロってなんなんだよ、それ」 「おいおいうそだろ、サワ」  驚きのくしゃ顔。Qの顔も似たような顔つきになっている。知らなきゃ驚かれるほどそいつは有名なものなのか。 「別冊コロコロコミックでやんすよ、兄貴」  ただのコロコロコミックなら知っている。月に一度出るぶ厚いマンガ雑誌だ。読んでいた時期もあったが、Qの年の頃にはもう卒業していた。 「忠一お前、いくつだ」 「《十三才|じゅうさん》だよ。さっきもいったぞ。あ、年はいってなかったか。五月三十日生まれの双子座だ」  誕生日も星座も聞いていない。皮肉の通じないやつだ。 「中学生にもなってドラえもんかよ」 「それはちがうぞ、サワ。ドラえもんは《月|げつ》コロだ。まあ、そっちもそっちで読んでるけどな」 「兄貴はドラえもん《嫌|きれ》えでやんすか?」  別に嫌いじゃない。あのポケットから出てくる道具があればどれだけ幸せかと思ったこともある。 「できもしないことをできそうに描いてあるマンガは読む気がしねんだよ」 「百年後の未来にはできるようになってるかもしれないぜ」 「死んでる」 「アッシぁがんばってみまさ」 「じゃあ、オレもだ」 「よぼよぼじゃどうしようもない」 「夢がないなあ、サワは」  そんなもの腐るほどある――まあ、ここでそいつをいうわけにはいかないが。 「実際の暮らしで一杯一杯だ」  おれをとがめる視線が飛んできた=Qのそれ。今のひと言がまずかったのはおれも口にしてから気づいた。 「《999|スリーナイン》は夢があると思う」  まずさをごまかすためにいった。 「あれぁいいでやんすね。ロマンがありやす。アッシも《大|でえ》好きでさ」  いらぬつけ足し。忠一の小さい目がさらに小さくなる。 「さっきからいってることが変だぞ、兄弟のくせに」 「気のせいでやんすよ。ねえ、兄貴」  ああ――頷いた。 「いいや、変だ」  ひとりでつくうそならどうにでもなる。だが、ふたりでやるそれはなかなか難しかった。ちょっとしたことがきっかけですぐに《ぼろ》が出る。 「そうか。じゃあ変でいい。で、どうするこの後」 「おい、だから――」 「しつこいな。油汚れかよ、お前」 「サワ!」  噛みついたら放さない。そんな顔つき――くしゃ顔の新しいパターン。忠一がだんだん長谷川に見えてきた。 「なんだよ」 「お前ら――」  なにかいおうとして口を閉じる忠一――短く深呼吸。 「ああ、おれらがどうした」 「お前ら、なんかお互いのことなんにも知らないみたいな口ぶりだぞ」  当たり前だった。見も知らないやつを五時間かそこらで理解できれば苦労はない。世のなかには十二年かけてもわからないおかしな人間だっている。おれは頭のなかでいいわけを組み立てた。 「……っと、そいつはでやんすね忠さん――」 「兄弟になってまだ日が浅いからな」  余計なことにちがいないQの説明にかぶせていった。続ける。 「さっきもいったと思うけど、おれたちは連れ子同士なんだよ。兄弟になったのだってつい最近……今月の頭だ。再婚ほやほやってやつさ」 「あ、いや……そうか。ごめん、そこまで聞いてなか――」 「だからこいつの好物がオロナミンとカレーだってこと以外は知らねえし、こいつにしてもそこらへんは一緒だ。まだ説明が必要か」  一気にまくし立ててやった。小さい目を今度は目一杯に開いてくる忠一――くしゃ顔つき。なんだか怖い。 「わ、悪かったよ。そんなに怒んなって……」  気分を悪くしたように見せかけて疑いを丸めこむ。忠一はこの手のパターンに弱い。ガラスの向こうに目をやる。まばらにしかいなかった客の数はおしゃべりをしている間にいくらか増えていたが、そのなかにガキや学生の姿はなかった。 「行こう」 「ん? 行こうってどこへさ」 「どっかそのへんだ。時間を潰す」 「本屋に入らないのか? お客さんけっこういるぞ。《半土|はんどん》だし、サワなんか上から下まで私服だし、心配ないだろ」 「いや、心配ある」 「なんか中国人の日本語みたいだな」  けたけたやるふたり。睨むとQだけが口をつぐんだ。 「どうする? 行かないあるか?」 「ぶっ飛ばすぞ、てめえ」  拳を握りしめる。忠一が後ろへ退がる。空いたスペースにQが割りこんできた。 「いいアイデアを思いついたでやんすよ」 「よし、それでいこう。サワQ天才」  言葉を交わさなくてもわかりあえるふたり。おれにはその技を使うことができない。 「なんだ。いってみろ」 「早《退|び》けしてきたってのはどうでやんしょ」 「それだってサボりだろう」 「じゃあじゃあ、あれだ。風邪ひいて熱出して病院行って注射打ってきたことにしようぜ」  いいわけがどんどんめちゃくちゃになっていく。 「三人が三人とも風邪っぴきかよ」 「風邪はうつるぞ」 「マスクしたほうがよかねえです?」  ああでもないこうでもない。があがあやってるおれたちの脇を坊主頭の学生服が過ぎていく。でかい体――たぶん、高校生。三人組のそいつらはおれたちがどうしようか迷っている場所へ堂々と入っていった。 「なんか平気みたいだぞ……」 「高校生と中学生じゃちがうだろ」 「どうちがうでやんすか」  答えに詰まった。 「ちがわないさ」  いって、自動ドアのほうへ歩いていく忠一。ガラスを挟んだすぐ先に見える店員は棚の本を並べなおしている。おれたちに向いている目は今のところない。 「どうしやす、兄貴?」  うその咳をしながらQがいう。 「おれと忠一はともかく……」 「どうしてアッシだけハブろうとするでやんすか」  ハブ=仲間外れ。長野でも使われていた言葉。 「そんなんじゃない。Q、お前格好がちょっと目立つんだよ」  赤と青。招き猫を抱えていないだけマシだが、それでもおれたちのなかじゃ断トツで人目を引く。目くらましどころかこれじゃ目印もいいところだ。 「家出てくるのになんでそんな派手なの着てきたんだ」 「今頃そんなこといわねえでくだせえよ」  どこかで地味な色の服をかっぱらってきてこいつに着せる。それもできるだけ早いうちに――あまりやる気の起きないかっぱらい。 「あと、どう見ても年が――」 「そこぁ心配いりやせん。アッシも兄貴に合わせてちいとばかしでたらめをいいやした」 「でたらめ? 誰にだよ」 「忠さんにでさ。再来年にぁ一緒の学校へ行けやすねって」  小三でも通りそうな小四から小五へ――どうでもいいでたらめ。こいつにはまるでうそつきの才能がない。 〝早く来いよ〟  文星堂と書かれたマットの上で余裕の手招きをするプロのサボり魔。『今行く』みたいな合図を手で返した。 「いいか。やばくなったらおれたちだけで逃げるぞ。はぐれたらそうだな……メイヂ屋だ」 「合点で。けど捕めえられちまったときぁどうすりゃ――」 「どうもなにもない。忘れたのか」  自分のことは自分でやれ――この旅の絶対条件。ルールの守れないやつはとっとと帰って小学生の続きをやればいい。 「そうでやんしたね」  自動ドアに向かって歩きながらガラスの向こうを見る。サボり魔はすでにマンガコーナーの前へ陣取り、うわさの別コロを手に取って広げていた。  昨日発売になっていた少年キングを閉じてため息をつく――こっちは旅をはじめたばかりだっていうのに。 「999か」  忠一が別コロにかぶりついたまま聞いてくる。おれはそうだとだけ返し、雑誌をもとあった場所へ戻した。 「それだってできもしないことをできそうに描いてあるぞ」  あのガキにいわれたことを思いだした――あれ、マンガだよ。もしかしてサンタクロースもいると思ってる? 「そうだな」  できるできないは関係ない。つまり、好き嫌いの問題。自分でやるべきことをやらず、ドラえもんに泣きつくのび太がおれは気に食わなかったのかもしれない。 「でもメーテルはきれいだよな。謎だらけだけど」  その意見に文句をつけるつもりはない。メーテルが謎の美女なのは事実だ。それよりもおれは次週最終回の知らせ――鉄郎の旅が来週で終わっちまうことのほうに《いちゃもん》をつけたい気分だった。 「向こうを見てくる」 「なんだよ。マンガ以外に読む本なんてあるのか?」  本屋へ来たのは地図を手に入れるため。もちろんそんなもの読めやしない。だが、旅を続けていく以上、読めないままでいるわけにもいかなかった。小学生をやめたのに勉強しなくちゃならないのはちょっと納得がいかなかったが、自由をつかむためにはそれもしかたのないこと。歩いた道や行った場所に印をつけていくような使い方をしていけば、そのうち読めるようになる気もしている。 「ちょっとな。調べたいことがあるんだよ」  忠一が読みかけのページに指を挟んで閉じる。 「まさかサワ、勉強好きなのか!?」  勝手な勘を働かせて勝手に驚く忠一。目を丸くしている――ように見えたが、それも実際にはわかりにくかった。 「だったらよかったんだけどな」  教科書を開くと自動的に閉じるおれの目。このくせがなければ地図ぐらいは読めるようになっていたかもしれない。 「あいにくと勉強アレルギーだ」 「オレもさ。予鈴聞くとじんましんが出そうになる……てことはそんじゃ、なにを調べるんだ?」 「なんでもいいだろ、別に」 「わかったぞ」  わかっていないことが明らかな『わかったぞ宣言』。聞くのも面倒くさい。 「預言だろ、ノストラダムスの。あれマジでやばいもんな」  それもちがう――いって、地図が置いてありそうなコーナーを探しに向かう。おれが後ろを通ってもQは気づきもしなかった。  新品の本のにおいに囲まれて歩く。囲んでくるのがそれ以外にないかもチェックする。おまわりに補導員。それからおれとQには直接関係のない、このあたりの教師ども。方眼紙やスケッチブックの置いてある場所を過ぎる。プロ野球カード=巨人の選手ばかりのそれの脇も過ぎる。つけてきているやつはいない。宇宙の風に黄金色の髪をさらわれている女の表紙=999のセル画集のところでUターンをし、途中で見つけたお目当てのコーナー=日本列島の絵が並ぶところまで戻った。 「さっぱりだな……」  世界、全日本、東日本、関東、埼玉、東京、千葉、神奈川、大宮、浦和――何種類もの地図。広げてみたが、どれを見ても今いる場所とつながってこない。なんとなくつかめたのは東京は地図でいうと埼玉より下=南にあるということだけで、あとはまるでちんぷんかんぷんだった。場所の名前と記号だけじゃどうにも使いものにならない。  それでも迷ったときのためにどれか一冊ちょうだいしちまおうとも考えた。が、問題はこのでかさ。かっぱらえないこともないが、ちょっとした菓子折サイズのこいつをずっと持って歩く気にはなれない。 ――《こっち》はやめとくか。  文房具コーナーへ向かいながら上着に袖を通す――下準備。あたりをさっと見まわし、丈夫でしっかりした造りのカッターナイフを一本、腹とベルトの間へ挟みこんだ――わけもない盗み。店員はおろか、すぐ脇でねずみ遊園地の観光ガイドを広げている《女|こいつ》ですら、おれの動きに気づいちゃいない。  忠一たちはマンガコーナーから話題の新書コーナーへ移動をしていた。例の預言がなんちゃらいう本を食い入るようにして見ている。 「おもしろいか、それ」  ふたりの後ろから声をかけるとQは体を震わせ、忠一は手から本を落とした。 「《驚|おど》かすなよ、おい」 「やたらとびくついてると万引きしてると思われるぞ」 「変なこというなって……ていうか、サワなんでジャンバー着てんだ? 暑いだろ」  目の記憶がいい忠一。野球選手なんか目指すより、おまわりとか補導員とかプールの監視員とか、なんかそんな仕事のほうが向いてそうだ。 「ちょっと寒けがした。外で汗をかいたせいだな」 「そっか。まあいいや。あ、そうそう、ここ読んでみ、ここ。やばいから」 「いいよ、面倒くせえ」 「しょうがないな。じゃあオレが読んでやる。時は一九九九年――」  忠一が朗読をはじめた。客の何人かがおれたちに顔を向ける。店員もひとりこっちを見た。ちょっとたまらない。 「七の《月|がつ》、空から恐――」 「読む。ちゃんと読むからやめろ」 「よし。そしたらここからだ」  ぷっくらした指で差されたところを目でなぞる。 空から恐怖の大王が来るだろう。アンゴルモアの大王を《蘇|よみがえ》らせ、マルスの前後に首尾よく支配するために。 「徹底的に意味がわからない」 「だから一九九九年の七の《月|がつ》に――」 「そこは七の『《月|がつ》』じゃなくて『《月|つき》』だと思うぞ」 「やっぱ、サワ頭いいわ」  おれより馬鹿はそういない。いるとしたら忠一、お前ぐらいだ。 「で、どう思う。意味わかるとこだけで考えて」  一九九九年引く、昭和五十六年……一九八一年。イコール、十八年――地球滅亡までの時間。わかるのはそれだけで、アンゴルモアもマルスも大王もなんのことやら。滅亡だなんだの脅し文句はおれの胃のあたりまで積みあげられている別の本の表紙にも書いてあった。 「先のことすぎて、ピンとこない」 「先って、たったの十八年ぽっちだぞ」  十三年しか生きてないやつがなにをいってるのか。 「せめてあと六……五年生きねえと、十八年の長さがわからねえよ。今まで生きてきた時間だっておれには短かったとは思えないしな。ていうか、無駄に長かった」  三十六年生きれば十八年があっという間かどうかがわかりそうだが、なんちゃらダムスはおれたちがそこまで生きることを認めていない。 「アッシも十……一年は長かったでさ」 「ん~、オレもちょっとそんな気がしてきた」  なんだかむかついた。なにが滅亡だ、ばかばかしい。自分の寿命や人生を他人に決められるほど頭にくることはない。おれは誰がなんといおうと三十才を超えて生きてやる。 「やっぱり百年は生きねえとだめでやんすね」 「それもそれで気の遠い話だ」 「だけど《三十一才|さんじゅういち》じゃ、ちょっと死にたくないなあ、オレ」 「アッシなんか……」  本を片手に得意の結んで開いて。ひとつごまかした年へ十八を足すのに指折り計算は必要ないだろう。 「三十才にもなれねえ気がしやす……」 「そこは気じゃないだろ、サワQ。まあでも三十才を超えるか超えないかの差は大きいな。なあ、サワ」  意味不明な差の話を聞き流し、一番最後のページを開く。ミシェル・ノストラダムス=でたらめをいいふらしたやつの名前。もう何百年も前にあの世へいっている、医者で詩人で料理研究家で占い師だったフランス人。 「心配すんな、Q」 「へえ……」 「そう簡単に人類は滅びねえよ」 「で、でやんすよね!」  Qの顔に笑みが広がる。うそっぱちの《預言|たわごと》といい、首なしの化けものといい、いちいちこいつはビビりすぎだ。 「サワ、残念だけどこれは世界全体の運命だ。人類だけじゃどうにもできない」 「笑わせるな。でたらめに決まってるだろう、こんなもの」  寝言の書かれた本を放り投げるようにして置いた。 「おい、売りものなんだから丁寧に扱えよ。呪われるぞ」 「うそつきの呪いか。やれるもんならやってみろって話だ」 「なあ、サワ」 「なんだよ」 「これもそれもあれも――」  忠一が『預言』や『救世主』や『プロフェシー』と書かれた本それぞれに指先を向ける。 「全部ノストラダムスだ。普通、こんなにたくさんのうそやでたらめいえないだろ」  うそつきはうそにうそを重ねる。バレないように、信じこませるために、いつでもうそをついていなくちゃいけない。たくさんのでたらめを並べるのは、いってみればうそつきの常識だ。おれにはなんちゃらダムスの心のなかが手に取るようにわかる。 「先のことなんて誰も知らないし、わからない」  だいたい本当にそんなことができるなら人になんか教えっこない。うそつきのおれがそう思うんだから、なんちゃらダムスなんかもっとそうに決まっている。 「ノストラダムスはたぶん神だぞ」  忠一もサンタクロース、アイラブユー。めでたい脳みそはそのうちいつか馬鹿を見る。 「神なんていない。あんなものは化けものと一緒だ。その証拠に誰も見たことがない」 「アッシもそう《思|おめ》えてえでやんす。特に化けものは」 「寝返ったな、サワQ」 「やや、そうじゃねえです。アッシぁただ、百才まで生きなきゃいけねんで」  どっちもいる。どっちもいない。化けものだけはいてほしくない。三つの意見は最終的におれのそれで決着した――ジャンケンで。 「なんかオレは今とてつもなく悲しい。サワたちはどうして――」 「負け惜しみはよせ。みっともない」  自動ドアを出る――日の光にさらされるおれたち。足もとにほとんど影を作らない位置でふんぞり返っている太陽が強いビームでじりじりとうなじをあぶってくる。長野の寒さに慣れていたおれからすると、東京まで三十キロのこの街の気温は馬鹿げているといってよかった。 [*label_img*] 「父ちゃんとはよく話すのか」  通りを行く迷彩模様の車を目で追いながら聞いた。 「ああ。親子して巨人ファンだからな。けどなんだよ、いきなり」 「そっか。父ちゃん以外の自衛隊と会って話したことは?」 「あるけど、だからなんでそんなこと聞くんだよ」  念のための確認――口が利けるかどうか。顔中傷だらけのやつを見たことがあるか。そのへんを聞いてみたかったがやめにした。どんな言葉で質問してもそいつは妙な問いにしかならない。 「おれは父さんとあまり口を利いた覚えがない。もちろん仕事先の人たちともな。でまあ、どんなもんか聞いてみた」  脳みその半分も使わないでこしらえた忠一向けのうそ。首筋が汗ばんでいた。上着を脱いでさっきのように腰へ巻きつける。Qと目があったついでに本屋でちょうだいしてきたものを渡した――さりげなく。Qもさりげなくにやりとした後でそいつをどこかへしまった。 「父ちゃんとは野球以外でも、たとえば母ちゃんにいえない話とか……あ、悪い。サワサワQんちは複雑なんだよな」」 「気にしてない。それはそうと午前中って早く終われって思えば思うほど長いな」 「へえ。《長|なげ》えし、それに《暑|あち》いでさ。お《天道|てんと》さん、《秋だてえこと|秋だってことを》忘れちゃねえですかね」 「怒ってんだよ。毎日おんなじことやらされて」  忠一とおれ。おれとQ。Qと忠一。互いの肩や肘がひんぱんにぶつかる。建物が作る影にそれぞれがそれぞれの体を入れようとした結果――日陰の争奪戦。 「今日はでもちょっと暑めだな」 「ちいとどこじゃありゃんせんぜ!」 「ほんとだ。おれの感覚でいくと夏だぞ、これ」  見ると、遠くの景色が揺らめいていた。かげろうだ。 「夏か。まあカナブンが生き返るぐらいだからな。そうかもしんない」  かちんとくるも怒れない。連続で舌打ちをする。 「新潟は涼しいだろ」  一瞬、なんのことをいわれているのかわからなかった。 「……まあ、埼玉よりはな」 「冬は雪とかすごそうだもんな。なんか海辺の雪景色想像したら腹減ってきたわ、オレ。サワたちは平気か?」  雪の海と腹具合のつながりがよくわからなかったが、飯は食って食えないこともない。だけど―― 「さっき《もんじゃ》食ったばかりだろ、忠一は」 「あんなの食ったうちに入らない」 「どういう胃袋してんだよ」 「育ち盛りの食べ盛りってやつさ。スポーツマンは体が命」  食わなきゃ強い体は作れない。でかい体も作れない。巨人の四番を夢見る男の意見はなかなか正しい。 「サワたち、金はあるか?」  今度はおれたちの懐具合を気にしてくる未来の四番打者。飯をおごれとでもいってくるつもりか。 「無駄づかいできる金は一銭もない。けど、ご馳走してくれるならつきあってやってもいい」  必殺おごらせ返し――たった今、適当に思いついた技。 「そうしたいのは山々なんだけど、オレもあんまり持ってない。こいつに使っちまったからな」  こいつ=いんちきキューブ。普通のやつらにとっちゃ千九百五十円は痛い出費だ。 「いったいなに食おうってんだよ」 「ん~、いいにおいだ」  右手でどこかを指差しながら、左手で鼻のところへ空気を集める忠一。指の先を見る――オレンジ色の看板。 「なに屋だよ、あれ」 「おいおいまたかよ、サワ。新潟に吉野家ないのか」  新潟はどうか知らないが、長野じゃ見たことがなかった。仮にあったとしても、おれはその名前を話に聞いた覚えがない。 「牛丼屋でやんすよ」  Qの耳打ち。松井田にはあるみたいだ。 「高いのか、この店」 「五百円あれば足りる。持ってるか?」  思っていたよりも高くはない。が、別に安いわけでもない。くじゃく屋でそれだけあればソースハムカツライスの大盛りが二杯食える――でもまあ、ものはためし。 「それぐらいならある」 「よし、決まりだ」 「ちょっと待て。ちゃんとなじみなんだろうな」 「顔見知りの人はいる。今の時間にいるかわかんないけど」  信じていいのか悪いのか。おれはブラックジーンスの前ポケットをまさぐった。 「けど、さっきの本屋よりは自信あるぞ……ていうか、なにやってんだ?」 「占いだ」 「そんなの後でやれよ。早く行かないと牛丼が伸びちまう」 「牛の肉は伸びやせんぜ、忠さん」  つかみだした一枚の百円玉は数字の側を見せていた――ゴーの合図。弾きあげてもう一度――同じ。 「じゃあ、行ってみるか」  口笛を吹き、腕を大きく振り、オレンジ色の看板に向かってひとり行進していく忠一。それに続くおれ。靴音がひとり分足りなかった。 「なにやってる」  メガネ屋の前で立ち止まっているQに聞いた。 「アッシぁここで待ってやす。腹ぁ減ってねんで。《お兄|あに》ぃさんたちで行ってきとくんなし」 「そんなこというなよ、サワQ。もんじゃだってほとんど食ってなかっただろ」  Qがそうしている意味はすぐにわかった。なかなかいい心がけだ。おれは金を節約しようと努力している《にせ|にせ》小学五年のところまで戻り、小声で『今日は特別だ』といってやった。  忠一の顔見知りはいなかったが、おれたちをとがめてくるやつもいなかった。店のなかはいいにおいがしている。 「お前、あっち座れ」  椅子の位置が高い並びの席――カウンターと呼ばれるそれの一番左にQをどかして座った。 「サワはもしかしてサウスポーか」  忠一がおれの脇に座ってきていった――左利きの左好き。忠一もこの席を狙っていたのかもしれない。 「もしかしなくても《左利き|ぎっちょ》だ」  そうだったでやんすか、とでもいいたげなQの顔つき。声に出さなかったのは利口だ。 「マジでか。おいおい――」 「運命とかいってくんなよ。この世には右利きとそれ以外の二種類しかいねんだから」  うまいかもしれない牛丼。そうじゃないかもしれない牛丼。得体の知れないものを食うとき、おれはいつも利き手で箸を持つ。理由は特にない。 「スイッチが利くやつだっているだろ。オレはだめだけど」 「おれは七三で左だ。打つのは右のほうが飛ぶけどな」 「なんだサワ、野球もやってんのかよ。こりゃいよいよ――」 「もうやめたよ。それよりとっとと注文しようぜ」  そういったものの、おれは牛丼ってやつを食ったことがない。壁のメニューに目を走らせる――並、大盛、みそ汁、玉子、お新香。なんだかずいぶんと品数が少ない。 「すいません!」  忠一が声を張りあげる。 「大盛りに玉子とみそ汁! あと、つゆだくで!――サワたちは?」  最初の三つはメニューにあったが、つゆだくとかいうそれは書いてない。お新香の仲間かなにかか。 「アッシぁ並を一丁。ほかはいりやせん」 「おれもQと同じでいい」 「おいおいみそ汁はともかく玉子はつけろよ」 「いらねえよ」 「わかった。その分はオレが出す――すいませんその二! 最初のやつ並に変えてみそ汁取り消し! その代わり全部に玉子! あ、つゆだくで!」  変更になった注文を叫ぶ店員。叫ばれたそいつを間髪入れずにオウム返ししてくるもうひとりの店員。気になるのは暗号めいた四文字のメニュー『つゆだく』――湧き起こる不安。頭に浮かんできたのは金曜の晩に食わされたあれ。おれはまともな牛丼が出てくることを祈りながら、先に出てきた水を飲んだ。 「うまいのか、それ」  不安に耐えきれなくなって聞いた。 「水か?」 「ちがう。今注文した『つゆだく玉子牛丼』だよ」 「そりゃうまいさ。食ってみればわかるって。ほら、来た来た」 「早いな」 「吉野家だからな」  肉をまんべんなくよそられたドンブリが目の前に到着した。割り箸で肉と玉ねぎを突いて返し、茶色くなった飯を深くまでほじくる――ミミズに似たところは特にない。それどころかちゃんとうまそうだ。 「さあ、食お……なにやってんだ?」 「別に。ちょっとした検査だ」 「毒なんか入ってないぞ。変なやつだな」  おれ以外のふたりが同じタイミングで碗皿に玉子を割り、同じタイミングで割り箸を裂き、同じタイミングで黄味と白味を混ぜあわせる。後れを取りながら、おれもふたりのやり方を真似した。 「アッシも《長谷川|きょうでえ》も《玉牛|たまぎゅう》なんて久しぶりでさ」  牛丼の味を知っているふたりと一匹。知らないのはおれだけ。なんとなくだが腹立たしい。 「そいじゃ遠慮なく――」 「たんまだ、サワサワQ」  かき混ぜた玉子をドンブリの肉にかけようとして止められた。 「なんだよ」 「決め手はこれだ」  どこからか取りだしてきた紅しょうがと赤い粉=七味とうがらしを玉子の碗皿にぶちこむ忠一。なかのものが黄色からピンクがかったオレンジ色に変わる。おれにはどうにもいただけない色だ。 「この特製溶き玉子をこうやってだな、肉に染みこませるようにして……っとっとっと。ほら、どうだ。メチャリロうまそうだろ」  ただちに真似るQ。おれはちょっと勇気が出ない。 「これぞ宮沢流スペシャルビーフドンブリ。略して宮スビ《丼|どん》。もっと略すと《宮丼|みやどん》。味は保証つきだ。んじゃ、お先」 「いただきやす」  ドンブリをかきこむふたり。カウンターの上にはなぜか長谷川がいた。細めの肉をひと切れ丸飲みにしている。ご機嫌そうだ。おれは特製じゃない溶き玉子の入った碗皿を持ちあげ、ドンブリの上でそいつを傾げた。 「ほい、こんなもんでいいか」  忠一が勝手な真似をする。 「お前、なんてことすんだよ!」  碗皿へぶちこまれた大量の紅しょうが――最悪の見ため。追加でとうがらしも入れられた。 「かき混ぜは自分でやってな」  おれはとなりの野球馬鹿をぶん殴りたくなったが、あいにくと両手はふさがっている。なにもできない。できることといえば、右手にある碗皿の中身を左手に持った割り箸でかき混ぜることだけ。 「《ああくうえお|早く食えよ》。《おいあうがお|伸びちゃうだろ》」  Qの話じゃ牛丼は伸びない。溶き玉子もたぶん伸びない。だが、肉と飯は放っときゃ冷める。冷めたそれはうまくない――もう、なるようになれ。  勇気をひねりだして黄色と赤をかき混ぜる。玉子色をしていない溶き玉子――ミミズのゲロとそっくりな宮丼のもとができあがる。見るからにやばいそいつはこの体の筋肉――特に肘から先のそれをカチコチにした。  おれはなんてものを作っちまったのか――大王級の恐怖と後悔。どっちも今さらなのはわかっている。そして右手にこいつを持っている以上、ぶっかけないわけにいかないこともわかっている。 〈すっぱーい、すっぱーい。すっぱすぎるー。うごきまわるめしー。おまえのいぶくろだいばくはつー〉  舌打ちをしながら思う――見ためだけ。そうだ。酸っぱい溶き玉子なんてあるわけがない。肉が動きまわるなんてもっとない。目をつぶって丸飲みにしちまえばたとえあの味でもわかりやしない。実際、くそも土もおれはそうしてきている。万が一のときは心と体を切り離してやればいいだけだ。  ふたりはドンブリに深々と顔を突っこんでいた。半分かそこらは平らげている感じだ。ぐずぐずしている暇はない。そして後戻りもできない。勇気を全開にする。見ため最悪のそれをドンブリのなかへぶちまける――肉に染みこんでいくオレンジピンク。悲しい気持ちを無視して飯に割り箸を突き立てる。ドンブリのふちへ口を押しつける。かきこむ。肉と飯を口のなかに溜める。噛むことはしない。呼吸もなるべくしない。 「《いいくいっういああ|いい食いっぷりだな》」 「《ううへえ|うるせえ》」  飲みこんでやった。喉が痛かった。我慢した。大口を開ける。これでもかとかきこんでやる。舌の上を滑っていくいろんなものまみれの肉。なにかがこみあげてきた。箸を使う手が思わず止まる。 「ん? 《おういあお|どうしたよ》、《あわ|サワ》」 「《あんがこえ|なんだこれ》」  こみあげてきたのは幸せ。おれの口のなかは今、天国だった。 「《うういいあ|忠一は》――」  天国を噛んで胃袋へ移動させる。 「――いつもこうやって食ってんのか」 「《おうあ|そうさ》。《オエあ|オレが》――」  宮丼発明者の喉が盛りあがる。 「《宮丼|こいつ》を食わなくてどうする。そもそもこのやり方でオレが食うようになったのは――」  宮丼解説そっちのけでドンブリに顔を《埋|うず》める――うまさにビビる舌。口のなかのあちこちから唾がだらだらと湧き出てくる。今までおれが食ってきたものはいったいなんだったのか。  ガキみたいに嬉しくなった。忠一に感謝したくなった。できればきちがい笑いもしてみたかったが、それをやるときちがいがバレる。それぐらいのおいしさ――まさに運命的な味わい。気づくとドンブリには飯粒しか残っていなかった。 「みんなで同じのをもう一杯食わないか」 「いや、もう金がない」 「おれが出す」  三本指にした左手を店員に向かって突きだす――並三つ、玉子三つ。 「サワ、けっこう大食いなんだな」  出てきた注文品をミミズ色に染めあげる――新しい好物。かきこんで、噛んで、飲みこんだ。腹は苦しかったが、舌と顎はおかまいなしに仕事を続けた。 「アッシにぁ、ちいとばかし多いでやんすよ、兄貴」  泣き言をいうQよりも一分早く、わりとハイペースでやっつけにかかっている忠一よりも二十秒早く、おれはドンブリの中身を空にしてやった。  街には低学年生の姿がちらほらしていた――ビビりタイムもようやく終わり。これでやっと普通に街を歩くことができる。  おれたちは駅前のデパートで巨人の優勝セールを冷やかし、おれはそこの便所でなかなかやれなかったでかいほうの用を足し、今は文星堂=さっきの本屋のほうに向かってまた歩いていた。 「いろいろと助かったよ、忠一」 「礼とかやめろよ。友だちなんだから」  いってることにまちがいはない。実際おれも忠一を友だちだと思っている。ただし頭に『今日限り』をつけないと正しい意味にはならない。 「礼っていうかあれだ、あとはおれたちだけで大丈夫だからよ」 「寂しいこというなよ」  その気持ちはおれにも少しある。午前中だけの短いつきあいだったとはいえ、忠一はおれたちにとってけっこう――いや、かなりいいやつだった。本当のことを話せなかったことが余計そういう気分にさせている。 「ていうかサワにはまだ話がある」 「話? なんだよ」 「後でいう」 「今いえよ」  おれとQはそろそろ東京へ向かわなくちゃいけない。後なんて時間はもういくらも残っちゃいなかった。 「すいやせん、兄貴。ちいとばかしよござんすか?」 「小便か」  腹部分のポケット――でかくて深いそれをごそごそやりだすQ。ドラえもんみたいだった。 「《長谷川|きょうでえ》を頼んます」  引っ越しをした長谷川。それはともかく、おれはもうそいつの《守|も》りはしないと日進公園で決めている。 「用はなんだ」  差しだされてきた手のひらを押し返しながらいった。 「すぐ戻りやすんで」 「だから――」 「オレが預かっといてやるよ。ほら、貸してみ」  Qは忠一に長谷川を手渡すと、理由もいわずに本屋へ飛びこんでいった。 「なんだ、あいつ」 「おい、サワ」  振り向いての仁王立ち。低い声。くしゃ顔。鼻の穴も心なし広がっているように見える。長谷川は忠一が腰巻きにしている巨人トレーナーのどこかへしまいこまれた。 「なんだよ。怒ってんのか」 「怒ってる」  心当たりがなかった。デパートでのくそが長かったことをいってるのか。 「で、なにを怒ってる」  おれの目に向かってまっすぐ飛んできていた忠一の目線がわずかに上を向く。 「どうしたんだよ、それ。さっきまでそんなのかぶってなかったぞ」  怒りの原因は頭の上のこいつ――巨人の優勝セールに押され、スポーツ用品売り場の端っこで埃をかぶっていた《阪急|ブレーブス》のベースボールキャップ。 「ああ、これか。昨日帽子をなくしちまってな。顔の痣や傷を隠すのに必要だったから――」 「どうしたんだって聞いてんだよ、オレは!」 「ごちゃごちゃうるせえなあ。今はいろいろと節約中なんだよ。こんなものにいちいち金なんか使ってられない」 「使ってられないって……万引きじゃないか、それじゃ」  抑えた声で文句をいってくる忠一。人に聞かせる話じゃないのはわかっているみたいだ。 「そういうことになるな」 「サワ!」  サボりはするがかっぱらいはだめ。ずいぶんと勝手な理屈に思えた。ラベンダー色の似合う、年の近い女の《従兄妹|いとこ》がいないかどうか聞いてみたくなる。 「どうする。高木巡査長のとこへでも連れてくか。悪いやつを捕まえましたって」  背中を丸める忠一。運命的な出会いをしたはずの相手が泥棒じゃ無理もない。こういうかたちで友だちをなくすのははじめてだったが、タイミングとしては悪くなかった。 「……阪急、好きなのか」  しょげている忠一の問い。そんなこと、本当はどうでもいいのが見え見えだった。 「巨人でもないくせに強かったからな」  質問はひとつで終わった。気まずいふんいきのなかでQを待つ――早く戻ってこい。  陽気のせいなのか、飯を食った後だからなのか、少し眠かった。昨夜までの疲れを体がまだ回復しきれていないのかもしれない。おれは目覚まし代わりにガムを噛み、頭の上のものを尻ポケットへ折りたたんでねじこんだ。 「ガム、食うか」 「いい。ベルマークだけもらっとく」  ペンギンガムの外包み=つるつるしたそれを忠一に渡し、そこから取りだした三枚をブラックジーンズの前ポケットへしまった。忠一がそっぽを向く。おれもそうした。目の前を通り過ぎていくパトカーに眠けがいくらか飛ぶ。土曜じゃなかったら朝の高木劇場みたいになっていたかもしれない。 「オレの前でそういう真似はもうやめてくれよな」  そういう真似=万引き、泥棒、かっぱらい。別に念押しなんかされなくても忠一の希望はもれなく叶う。 「わかったよ」  いって、ガラスの壁をのぞきこむ。Qはプロ野球カードが並べてあるあたりをふらふらしていた。なにをしているのか。念力を送る。ガラスがそいつを跳ね返す。Qの姿は本棚に隠れて見えなくなった。  カチャカチャいう音に振り向くと、カラフルなまがいものがでたらめなパターンで動かされていた。 「変わった揃え方だな」  無視。なにかいってやるつもりで顔をあげる。まがいものの持ち主は手もとを見ていなかった。目線の先をたどる――通りのはす向かい。 「真ん中の女か」  しわのない、つるんとした顔に向かって聞いた。 「な、なんだよ、いきなり」  喫茶店の前あたりにセーラー服の三人組。右はブス。左はデブ。真ん中はどっちでもなかった。デブの顔の前には煙が漂っている。 「ずいぶん堂々と吸ってるな、あの豚女」 「二中の生徒さ」  忠一は不良グループの女たちだ、ともいった。 「変なのに惚れたもんだな、忠一も」 「変とかいうな」  これ以上ない複雑なくしゃ顔が披露される。しわくちゃ加減が手によくなじんだグローブみたいだった。 「どう見たってまともじゃないだろう。まあ、茶色い髪のは不良じゃなきゃかわいい感じもするけどな」 「やらしいこというなよ!」  正義感の強いサボり魔の意外な恋の相手。人ってやつはつくづくわからない。 「あんまりカチャカチャやってるとバラけるぞ、キューブ」 「そのときはサワがなおしてくれよ。できるんだろ」  いんちきな赤、いんちきな青、いんちきな黄色、オレンジ、緑、白。揃えがいのあるキューブはまるで誰かさんの心のなか。《六面完成|フィニッシュ》なんて夢のまた夢。もしかしたら永遠に揃わないかもしれない。 「できるけど、百円だ」 「がめついな。出張メイヂ屋かよ」 ――あんたたち、そろそろ百円使いな。  納豆嫌いのカラシ頭巾は両替さえも嫌がった。おれはそこまでけちじゃない。 「電話してくる」 「彼女か」  頷いた。 「こんちくしょうだな、サワは」 「よくいわれるよ」  くしゃ顔のなかに白い歯がのぞいた。  電話はほとんど呼びだし音なしでつながった。 「もしもし」  返事がない。五秒待ってもそれは同じだった。 「おれだ、武田。昼だぞ」  真奈美なら黙っているはずがない。そう踏んで武田といったが、近くに武田がいる状態で真奈美が電話を取ってるなら声は出せない。というか、受話器を耳へ持っていけない。頭がこんがらがってきた。 「……真奈美か」  無言が続いている間に、ふすまかなにかの動く音が聞こえた。受話器の向こうの状況が今ひとつ読めない。なにがどうなって電話だけつながっているのか。 「おい、寝ぼけてるのか」 「寝ぼけちゃいないよ、沢村怜二」  眠けが一気にぶっ飛んだ。 「問題児。お前、今どこにいる」  えらそうな口を利いてくる大人。たぶん――いや、百パーセントおまわり。真奈美と武田はこいつにどうかされたと考えてまちがいない。 「アメリカだよ。ふたりはどうした」 「国際電話でお前が心配することじゃない」  おっかない兄貴たちはいったいなにをしていたのか。まるで役に立っていない――くそ。 「あんた、おまわりだろう」 「だったらどうした。日本語のうまい泥棒外人」  ふたりを助けたかった。真奈美だけでもそうしたかった。だが、おまわり相手じゃそれも叶わない。見捨てるしかなかった。 「昔は日本人だったからな」 「そうか。なら日本のおまわりがお前を捕まえる。どこへ逃げても無駄だ。警察をなめるなよ、小僧」  フックを力任せに押しこむ。肩に誰かの手が乗ってきた。 「おい、サワ! ちょっと!」 「なんだ!」  心臓を吐き戻しそうになりながらいった。 「サワQが――」 「今、それどころじゃない!」 〝暴れるな! こら!〟  大人の男の声に振り向く。 「……なにがあった」  一、二、三、四……五。黒い天敵どもがQをパトカーへ押しこもうとしている。 「お前ら兄弟揃って万引き犯なのか」 ――どうする!? おれはなにをすればいい!? 「……あいつはまだちがう」 「まだってなんだよ」  すでに人だかりができはじめていた。細かい説明をしている暇はない。うまくいくかどうかわからないが、ここは一発勝負――いちかばちかの賭けに出るしかない。 「どいてくれ」  方法は体当たり。武器は使わない。無理もしない。攻撃はこの一回きり。数を打ってしくじればこっちまでお縄だ。それで思う結果にならなくてもおれはダッシュでそのまま逃げる。Qに運と根性があればその隙にどうかできるだろうし、できなければ――それまでだ。 「どうする気だ」 「話すんだよ、おまわりと」 「うそつけ! サワ、お前――」 「うるせんだよ」  忠一に左腕をつかまれた。振り解いた――またつかまれた。 「ぶっ飛ばされたくなかったら放せ」 「ぶっ飛ばされても放さない」  だったらお望みどおり―― 〝てめえのこたぁてめえで始末つけるでやんす!〟  おれたちに背中を向けて叫ぶQ。左のおまわりがその後頭部を張り倒していた。 〝おとなしくしろ! 誰にしゃべってるんだ!〟 〝お天道さんに決まってらい!〟  おまわりの持っているビニール袋に目がいった。身覚えのある宇宙の表紙――黄金色の髪の女。 「あの馬鹿……」  開けられたドアの前でQがしゃにむに抵抗する。暴れる。カッターナイフが登場する――悪あがき。おまわりがすぐさまそいつを取りあげる。別のおまわりがQをなだめる。さらに別のおまわりが赤い首根っこを引っつかむ――半回転する赤と青。一瞬だけQと目が合った。 〝お天道さんの親分! お達者で! 丸い空、忘れねえでやんす!〟  Qはもう、こっちを見ちゃいなかった。  万引き小僧を乗せたパトカーがUターンをして走り去っていく。チャリンコのおまわりは東京の方向に消えていった。 「連れ子兄弟でもなんでもないんだろ、ほんとは」  くしゃ顔が聞いてくる。 「お前には関係ない」 「関係ないもんか。友だちだろ。わけがあるのさ、いろいろと」  あるなんてもんじゃない。たった数分の間に状況はがらりと変わった。 「いろいろありすぎて頭が割れそうだ」 「だろうな。よし。じゃあとりあえず行くか」 「どこへだよ」 「いろいろありすぎ対策本部」  こいつのマンガ人生につきあえる気分じゃなかった。 「遊びの続きはよそでやってくれ。おれはやらなきゃならないことがある」 「だからそれを手伝うっていってんだよ」  真奈美は捕まった。武田も捕まった。Qもあのガキもみんなみんな捕まった。忠一に手伝えることなどなにもない。 「たぶん、大きなお世話だ」 「高木さんに聞けば『いろいろ』の少しは解決できるかもしれない」  忠一は普通のガキよりもおまわりと親しい。これ以上一緒にいるのは危険だった。 「おれを売る気なら覚悟しろ。ここでお前をぶちのめしてやる」  脅して、ビビらせて、隙を突いて逃げる。しつこいようなら電気の子守歌で眠ってもらう。邪魔するやつは容赦しない。そいつがたとえ友だちでも、だ。 「誰が売るなんていった。サワを手伝うっていってんだよ、オレは」  百歩譲って考える。仮に今の言葉どおりだとして、そしたら忠一はなにを手伝うつもりなのか。本当のおれがどういう立場にいるのかもわからないくせに、気分で適当なことをいわれてもこっちとしちゃ迷惑なだけだ。 「意味がわからねえよ」 「意味? そんなの決まってるだろ」  くしゃ顔がくしゃ顔じゃなくなる。 「サワの家出を成功させようっていってんのさ」  かたまる脳みそ。おれは呼吸も瞬きも忘れて、どこにでもあるただの顔を見つめた。
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