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 飲みこむ唾がない。それぐらい口のなかが渇いていた。脳みそもひどくぱさついている感じがする。まるで砂漠を歩いているような気分。そんなところ、行ったこともないくせに。  痛いパンチを食らった。それもダブルで。電話のおまわりはおそらく刑事だろう。刑事は制服のおまわりほど甘くはない。父さんを捕まえに来たやつらはどっちがやくざかわからない感じだったし、テレビでもGパン刑事が犯人をタコ殴りにしていた。おれも捕まれば当然ああなる。 「いつもお疲れ様です!」  黄色い旗を振っているおばさんにあいさつと敬礼をする忠一。さっきの今でずいぶんとのんきなもんだ。 「野球がんばってる?」 「あと八人ぐらいにケガしてもらえるとレギュラーになれます」 「やだ、なにそれ」  話しこんでいる忠一を置き去りにして歩く。道を渡り、小さな公園で水を飲む。頭を冷やす。考える――やばいとは思う。だが、今はまだそれほど追いこまれちゃいない。おれはだからお天道さんの下で、からからの喉をうるおせている。のんきな気配が頭の後ろに迫ってきていた。 「あんまりがぶがぶやると腹壊すぞ」  それでも安心はできない。さっきの騒ぎにしても、じきにQだけの問題じゃなくなるのは目に見えている。おまわりどもは松井田の小学生が大宮にいる理由を徹底的に調べあげるはずだ。Qが《松本|あのガキ》と同じタイプの人間なら、おれはこの街で一気に追い詰められることになる。 「おい、マジで飲みすぎだぞ、サワ」  冗談じゃない。東京はすぐそこだ。Qを信用していないわけじゃないが、状況は人の思いを簡単に変えちまう。そこはおれも勉強済みだ。三発めのパンチが飛んでくるかどうかは《六四|ろくよん》……いや、《七三|ななさん》か《八二|はちに》ぐらいで考えておいたほうがいいだろう。  頭から水をかぶった。首筋の寒けが心に伝染して気持ちをざらつかせる――冷たい砂にまみれた胸のうち。心の奥底まで混じりこんできたそいつは磁石の先に群がる砂鉄と同じで払いようがなかった。 「やっぱり行くわ、おれ」 「どこへさ」 「東京だよ。さっきも話しただろう」  忠一には年とかっぱらいに関係すること以外を白状していた。長野でのくそみたいな暮らし、最初の相棒の裏切り、わけありの彼女と親友のこと、Qとの出会い、それから旅の目的。  どれもすんなり理解された。そのことに多少驚きもしたが、人に迷惑をかけないならなにをしても自由、というのがこいつの考え。サボりがよくてかっぱらいがだめな理屈もそのへんと関係しているみたいだった。  もっとも即席兄弟のおれたちが転校生じゃない=家出小僧だということを、忠一は朝のぎくしゃくしたやり取りやこっちの身なりから見抜いていたらしいが、そこは正直怪しいところだった。そんなもの、後出しでなんとでもいえる。 「そっか……大丈夫なのか」 「なにがだよ」 「いろいろあるけど、たとえば金とかさ」  ナップサックの中身が迷惑のかたまりだと知ったら、この男はどんなくしゃ顔を披露してくるのか――意味もなにもない興味。右の手首に目をやる。 「ああ、大丈夫だ。じゃあな」  右腕をつかまれた。そのせいで読めなくなるデジタル。 「なん――」 「オレも小学生のとき、一回だけ家出の真似事をした」  意外な昔話――で、だからなんだ。 「こっちはお遊びでやってんじゃねんだよ」 「わかってる。オレの場合はそうだったって話さ」  真似事――つまりは失敗。忠一はいつだかに家出をしくじり、そのせい――いや、そのおかげで今この街に暮らせている。この街の中学校と駄菓子屋へ通えている。この街で《中学野球|シニア》と剣道と家出小僧のつきあいをやれている。次にこの男がなにをいってくるのか、なんとなく予想できた。 「長野へ帰る気はないのか」  目の前の男が馬鹿にしか見えなくなってきた。つかんできていた腕を振り解く。 「近づきたくもない」 「そういうと思った」 「思ったんなら、くだらない話してくんなよ。しらけるわ」 「悪かった。んじゃあれだ、この街に少しいろよ」  おれが目指しているのはガキがひとりぐらいまぎれこんでも気づかれない、無駄に人のうじゃうじゃしている街だ。そこでおれは密かに過ごし、こっそりと大人になる。今日の桜木町を見る限りじゃ、《大宮|ここ》でそいつができるとは思えない。 「それもそれでくだらないな」 「なんでさ。まじめに話してるぞ」 「だとしてもくだらない」 「サワにいろいろ協力できると思うぜ。この街でなら」  気分がさらにざらつく。なにかを人に頼むつもりは毛ほどもない。こっちが望んでもいないことを意味ありげにいってくる忠一はやっぱり馬鹿だ。 「寝泊まりする場所もなにも大宮にはない」 「東京へ行けばあるのかよ」 「このへんよりはなんとかなる」  とはいったものの、それはおれにもわからない。ただ、考えていることはある。 「なるもんか」  忠一が飲み水用じゃないほうの蛇口をひねって顔を洗いはじめた。その隙に時刻を確かめる――一二三四の五三。秒の表示が五六になるまでデジタルを眺めた。 「それに……問題はほかにもある」 「サワQのことか」 「ああ。忠一も知ってのとおり、あいつの口はほんとによくまわる」  Qはおれのだいたいを知っている。もちろんそいつを話しちまったおれにも責任はある。が、今そこを反省してもしかたがない。あいつがおれのことをおまわりにペラペラやるとしたら、それは朝一発めの騒ぎ=小柄なおっさんたちとの追いかけっこの片割れがQだとわかっちまったときだ。そこがもしセーフならQの口はそれほどまわらない――というより、まわす必要がない。  だが、運の悪いほうで考えた場合、大宮、松井田、東部工業団地の三か所がつながり、でかタイヤの出発点からそれほど離れていない屋島橋――そこまで一緒だった真奈美の口ともつながってきちまうおそれがある。ドライブインからかけた武田たちへの電話をそこに足し算すると、昨日から今日にかけて取ったおれの行動がおまわりどもに洗いざらいバレちまう計算だ。今やQは――目くらましにするはずだったガキは爆弾でしかない。 「あいつはサワ親分のことなんかしゃべらない。大丈夫さ」  なんの保証もない『大丈夫』――結局は《他人|ひと》ごとってやつだ。 「それがそうともいいきれない。こうなってくると」 「《松本|マツ》はマツ。サワQはサワQだ」  忠一は会ったこともない人間を《さも》知りあいみたいに呼んだ――まるで人類皆兄弟とでもいわんばかりに。 「ああ。で、おれはおれ。忠一は忠一だ」 「なんでそこに線引くんだよ」 「人はみんなちがうってことさ」 「そんなのわかってる」 「いいや。お前はなにもわかっちゃいない。そりゃ誰だって最初っから裏切ろうなんて思っちゃいないさ。けどな、忠一。人は変わるんだよ。場合によっちゃ気持ちや考えが丸っきり逆になっちまうことだってある」 「なんだよ、それ。もっとはっきりいえよ」  気分がさらにざらつく。 「Qは敵にまわると考えておいたほうがいい。そういってるんだ」 「ひどいいいぐさだ」 「ひどくない。いいか、忠一。これはお前にも火の粉が飛んでくるかもしれない話――」 「そんなもの飛んでこない。飛んできても打ち返す」 「馬鹿だろ、お前」 「人を疑ってばかりのやつよりはマシさ」  どこまでもわかっていない――いや、わかろうとしない忠一。くしゃ顔がしわくちゃ加減を増す。 「お前はめでたすぎる」 「サワは冷たすぎだぞ」  押し問答をする気はない。おれはブラックジーンズの前ポケットのなかでべたつきかけているものをやたらと苦労しながら、なおかついらつきながら剥いてやった。 「サワQは変わらないさ。変わるわけない。サワだって見てただろ、あいつの最後。ひと言も助けてくれとかいわなかったぞ。あれはお前をかばったんだ。男の覚悟をしたんだよ。それを信用できないみたいなこといって――」 「あれからもうだいぶ経ってる」  口のなかにぬるいペンギンガムをぶちこみながらいった。 「なんだよ、お前……」 「おれはおれだ。何度も同じこといわせるな」 「サワには心がないのか?」 「それぐらいあるさ。さっきは牛丼なんてうまいものを教えてくれてありがとな」 「おい、ふざけるなよ」 「ふざけちゃいない」 「サワQを牛丼扱いするな!」 「してない。ふざけてるのはお前のほうだ、忠一」  耳の裏をしずくが流れていった。おれは犬のように頭を振り、《阪急|ブレーブス》の帽子を逆向きにして頭へ載せた。 「血はつながってなくても……《兄弟|あにおとうと》で呼びあった仲だろ。疑うなんてかわいそうじゃないか。あいつ、悲しむぞ。お前がこんな話してるの聞いたら」  兄弟ごっこは敵の目を騙くらかすため。Qは仲間の皮をかぶった《操り人形|マリオネット》でカモフラージュ。QはQでおれの持っている金と暴力を頼りにしていたわけで、それはつまり持ちつ持たれつ――互いをうまく利用しようとしていただけだ。その関係がぶっ壊れちまった今、かわいそうもへちまもない。 「Qがこの話を耳にすることは一生ない」 「たとえばだよ!」 「たとえ話も必要ない。けどもうわかったからいい」  いうだけ無駄。誰に裏切られるでもなく過ごしてきたやつに、裏切りの生まれるしくみなんか理解できるはずがない。ちょっと考えてみればわかることだった。 「なにがいいんだよ」 「面倒くさいからそういったんだ。どいてくれ」  いって、ナップサックのポケットからマイナスドライバーを取りだした。 「そんなものどうするんだ」  忠一がおれの前に立ちはだかる。 「あそこの黒いチャリンコをかっぱらう」 「かっぱらう!?」 「ああ。逃げるんだよ。この街からとっとと」 「サワお前、ケンカ売ってんのか」 「お望みなら売ってやる。いくらで買う?」  小さな目と睨みあった。 「オレは人を殴ったことがない……殴れないんだ」 「だったら平和に暮らせ。これからは余計なことにも首を突っこむな。どけ」  忠一の右肩を押す――右側の景色がゆがんだ。 「てめえ……」 「あ、いや、サワ……」 「このうそつき野郎が!」  顔、腹、顎――マイナスドライバーを握りこんだ左手で二発、右手で一発入れてやった。 「どうした。もう終わりか、おい」  反撃をしてこない忠一にいう。 「悪いサワ。つい手が出ちまった。はじめてだ、こんなの……《痛|い》ててて」  心だけじゃなく、顔にまでパンチを食らったおれ。忠一の左ストレートはなかなかのものだった。今も右頬がじんじんしている。ふい打ちを食らったとはいえ、あれが人をはじめてぶん殴る男のパンチだったとはちょっと思えない。 「やられたからって、いいわけじみたうそついてんじゃねえよ」 「そうだな。いいわけだ。でもうそはついてない」  うその上塗り。さすがはなんちゃらダムスを神と信じこんでいるだけのことはある。おれは尻もちを突いた格好の忠一をしかたなく引っぱりあげてやった。 「やっぱサワ、ケンカ強かったな」  朝に歩いたのとはちがう川の脇を北に向かって進んでいるおれたち。人や車の行き来はそれほどない。千曲川にはほど遠いが川幅もいくらかあった。水もよく流れている。なによりどぶくさくない。鼻にやさしい川だ。 「人をぶん殴ったことないなんてうそだろ」 「うんにゃ、マジでない。取っ組みあいもいい争いもしたことない」  そんなやつのパンチをまともに食らったかと思うと余計に腹が立ってくる。 「ところで《武田|タケ》と真奈美は大丈夫なのか」  ふたりのことはおれが心配したところでどうにかなる問題でもなかった。 「呼び捨てにしてんじゃねえよ」 「どっちをさ?」 「どっちもだけど特に女のほうだ」  スポーツタイプのチャリンコが二台、おれと忠一を追い越していった。ちゃんと学校へ行って帰ってきたやつらだ。 「ふたりとも見捨てるのか? 親友と彼女なのに」 「そういういい方はやめろ」 「どういういい方でも同じさ。結局は助けないんだから」 「そうじゃない。助けられないんだ。埼玉にいるおれが長野のおまわり相手になにができる。諦めるしかないだろ」 「つくづく冷たい男だな」  無駄をしないのと冷たいのとはちがう。それによくよく考えてみれば、おまわりの出てくる幕でもなかった。武田たちは学校をサボっていただけで、ほかになにかまずいことをやらかしたわけじゃない。電話でおれとなにを話し、かっぱらわれた金とどこまで関わっているのか。そのへんを問い詰められはするだろうが、それっぽっちのことを理由に、事件とほとんど関係のない小学生を捕まえたままにしておくなんて、いくらおまわりでもできっこない。ふたりはだからじきに解放されるはずだ。 「だったらなんであのときおれを止めた」 「あのとき?」 「本屋の前だよ」 「わかんね」 「あ?」 「止めなきゃやばいと思ったんだよ、なんか」 「お前だって冷てえじゃねえか。おれはQを助けようとしたんだぞ」 「警察官が五人もいたのにか? いくらケンカが強くてもあれは無理だぞ」 「そういう無理をいちかばちかで通してきたんだよ、この何日かは」  忠一が鼻を鳴らす。 「デブさんはそんなに強いのか」  話がいきなりぶっ飛ばされた。 「関係ないだろ、今そんな話」 「ないこともないぞ。サワがケンカ強いの、デブさんのおかげかもしれないし」  しゃくだが、実際その影響はある。 「《慎作|デブ》に『さん』なんてつけるな」  くしゃ顔が炸裂する――わけがわからない。そういう《しわ》具合。おれはこいつの顔色を完ぺきに読めるようになっていた。 「呼び捨てにするなとか、《さん》づけするなとかどっちだよ。難しいぞ」 「そのへんはなんとなくで判断しろよ」 「じゃあ、デブ」  よし、という意味で頷いた。 「強いなんてもんじゃない」 「そんなにか!?」 「脳みそのぶっ壊れたプロレスラーだと思ってくれたらまちがいない」 「相当やばいデブだな。ほかのきちがいさんたち……じゃないか、も強いのか?」  あんなものは調子に乗っているだけ。ふたり同時にかかってこられても、近くにデブさえいなきゃ始末に三分もかからない。 「そっちは大したことない」  交差している道を渡る。向こう岸へかかっている橋の脇に川の名前が書いてあった――《鴨川|かもがわ》。川面にその鳥はいなかったが、空にとんびがいた。この川には魚がいる。松川や百々川とは大ちがいだ。 「ところで――」 「いろいろありすぎ対策本部」  先読みされた問い。 「さっきもいったぞ」  感覚としては日進町のほうへ戻っている感じがあった。右前の少し離れたところに見えている建物はおそらく朝に見た自衛隊の官舎だ。 「お前、自分ちに帰ってるだけだろう」  そうだとしたらうまくない。Qは忠一の家の場所を知っている。 「正解。でも心配するな。この時間は家に誰もいない。したがって我々はゆっくりと対策を練ることができる」 「そんなもの必要ない」  歩くのをやめて、いった。 「電車を使わずに東京まで行ければいいんだ、おれは」  移動手段に金。あとは獣の勘と鉄の心。それだけあればあとはなにもいらない。対策本部なんて時間の無駄だ。 「ここで話そう、忠一。まずどうすれば――」 「もしかしてまだ疑ってんのか? サワQのこと」  忠一がおれの後ろへまわりこんで背中を押してくる――押させない。足を棒にして突っぱってやった。 「だったらなんだ。またぶん殴ろうってのか。ふい打ちなんて二度も通用しねえぞ」 「三倍になって返ってくるのにそんなことするかよ。かっかするなって」 「かっかなんかしてない。いろいろ考えちまってるだけだ。忠一、おれは生まれつき運が悪いんだよ。だからいつも最悪を頭に置いて動くようにしてる……ていうか、もうくせだ。体にそいつが染みついてる。Qには悪いけど疑いをゼロにしてやるのは正直、きつい」  背中にかかっていた力がふと消える。よろけるおれ。右足半歩のバックで体をまっすぐに。 「信用できるのは自分だけってことか。オレもいつ敵と思われるかわかったもんじゃないな」  そのとおりだったが、答えることはしなかった。代わりに、ゆっくりしてるのはあまり好きじゃないといった。 「慌てる乞食はもらいが少ないんだぞ、サワ」  どこかで聞いたセリフ――たしか、ことわざ。よく吠える犬のほうはなんだったか。 「のんびりしていていい目にあった話も聞かない」  左側をなにかが急降下していく――とんび。次の瞬間にはもう小魚とともに宙へ舞いあがっていた。 「行き当たりばったりのやつは戦場で真っ先に死ぬ。あの魚みたいにな」 「あ?」 「て、父ちゃんがいってた。対策とか作戦はだから絶対に必要なんだってよ」  行き当たりばったり。出たとこ勝負。いちかばちか=おれの得意技、というよりそれ以外のやり方をこの頭は思いつくことができない。痛いところを突いてくる忠一。背中をまた押された。 「おもかじ一杯」  忠一船長がおれの体を操る――右向け右。さっき横ぎった橋の通りよりもでかい道を行かされた――目につく迷彩模様の車たち。止まっているそれの脇を過ぎるときに右手の第二関節で車体を軽く叩いてみた。普通の車の何倍も硬い。さすがは戦う車だ。おれもいつかこんな車を手に入れたい。そう思った。  自衛隊官舎の二階の角。忠一が牛乳受けの木箱から取りだした鍵――泥棒が泣いて喜びそうな鍵置き場のそれで鉄の扉を開ける。流れ出てきた空気=記憶にあるにおい。下駄箱、食いものの残り、風呂の残り湯、寝床、化粧品。そういうものが一緒くたになった香りを嗅ぎながら靴のないところを探して足を踏み入れた。なかなか懐かしい気分にしてくれる対策本部だ。 「なにしてんだ。あがれって」  動きやすくて脱ぎづらい靴のひもを緩める。久しぶりの感覚=靴下越しに感じる床の冷たさが足の裏にやたらと気持ちよかった。  忠一の後ろをついていくかたちで、ごちゃついたお勝手を抜ける――どの街の団地も造りは似たりよったり。蝿がまったく取れていない蝿取り紙――天井から伸びた、髪につくとウルトラ厄介なそいつが人の起こす風に揺れている。 「こっちだ、サワ」  奥にふすまが見えた。四枚のそれのうち、一番左の一枚だけが人ひとり通れる分だけ開いている。 「忠一、兄弟は?」  廊下で立ち止まって聞いた。 「弟だったら欲しいな」 「兄貴か姉ちゃんか妹がいるのか」 「いないいない。寂しい寂しいひとりっ子さ。サワは《ほんと》の兄弟いるのか?」  兄弟なんかいてもろくなことはない。あのガキもQも高木巡査長もみんなそういっていた。 「忠一と同じだよ」 「運命――」 「ちがう。おれは上も下も欲しいと思ったことがない」 「そっか。まあ立ち話もなんだし、入れよ」  通されたのは六畳かそこらの畳部屋。整理整頓が馬鹿みたいに行き届いている。窓は二か所。南側のそれからはベランダへ出られるようになっていた。 「忠一の部屋か、ここ」  意外に思って聞いた。 「母ちゃんたちの部屋来てもしょうがないだろ」  小豆色のベースボールバッグがぶん投げられるようにして置かれる――整理整頓にはほど遠いものの扱い。 「なに飲むサワ……あ、いいやいいや。どこでも好きなとこ座って待っててくれ」  部屋を出ていく忠一。帽子を尻ポケットへねじこみ、学習机の椅子へ腰をおろした。ナップサックはおろさない。そのまま首だけ動かして部屋のなかを見まわす。目につくのはここでも野球関係。木製バット、金属バット、ファーストミットに普通のグローブ。それから地区大会優勝のトロフィー。棚の上でえらそうにしているそいつはベランダからの日射しを跳ね返し、天井に光の玉を作っていた。壁には王助監督が選手だったときのポスターがでかでかと貼られ、人工芝タイプの野球盤がそのすぐ下へ立てかけてある。 〝Cでいいかー?〟 「ああ、Cでいい」  揺れる影のもとを目でたどっていった――窓の外。物干し竿へ串刺しにされた小豆色のユニフォーム。洗濯バサミのたくさんついたハンガーには同じ色のアンダーソックスと空色のスパイクシューズ――マジックテープ式のそれが吊るされていた。 〝スタミナ補給もするだろ?〟  意味のわからない質問を聞き流し、今度は本棚に目をやる。上の段には『巨人の星』『ドカベン』『野球狂の詩』。真ん中にきて『ナイン』『プレイボール』『キャプテン』と野球マンガばかりが続く。どれも最新巻までのセットだろう。勉強の本は見事にない。マンガかどうかわからないが、ほかにも『王貞治物語』や『《川上|かわかみ》・《長嶋|ながしま》・王のすべて』といった本が並んでいる。 「ほんとに野球馬鹿だな、こいつ」  背表紙をさらに目でなぞっていくと、野球と関係のない本もちらほらしてきた。『コロコロコミック』『ドラえもん』『あしたのジョー』『恐怖新聞』。そこからまたちょっと野球に戻ってルールブックや用語辞典。あとはバラバラ。剣道、ノストラダムス、哀愁の歌謡曲、髪型百科、大戦と原爆、国語の辞書。最後はどうにもいやな感じしかしてこない本がつっかえ棒になって終わっていた。忠一は見かけによらず、けっこう本の虫だ。 「おう、お待たせ。サワ、生玉子平気だよな? さっき食ってたし」  別に平気だし、さっきも食ってはいたが、忠一の持っているコップの中身はちょっと様子が変だった。 「それって、生玉子がそのまま入ってるのか?」 「いやそうな顔するなよ」  オロナミンC足す、牛乳足す、生玉子。見ためにはそんな感じ。味の想像がまるでつかない。 「おれはいらない」 「巨人の選手はみんなこいつを飲んでる。ブレーブスファンの口には合わないか?」  原や篠塚や《中畑|なかはた》がそんなものを飲むとは思えない。忠一は宣伝を《うのみ|ヽヽヽ》にしすぎている。 「とにかくいらない。それよりさっさと対策練ろうぜ。時間がもったいない」 「しょうがないな」  忠一は持っていたコップを学習机の上へ置き、それから本棚脇のダンボール箱に手を突っこんだ。 「そしたらこっち飲んどけよ。ほい」  おなじみになりつつあるぬるナミンC。玉子入りのそれを見た後じゃ天使の飲みものに思えた。忠一が畳の上へあぐらをかく。 「サワQは家に帰りたくなったんだと思う」  突拍子もなくはじまる推理。だが、そこはおれも近いことを思っていた。 「それをサワにいえなかったっぽい気がする」  《松本|あのガキ》も何度か無茶な真似をしたあげくに捕まり、しまいには『家に帰りたい』とほざいてきた。パターンとしてはよく似ている。 「八割ぐらいはそうかもな」 「ん? じゃあ、残りの半分はなんだよ」  だが、旅のはじめから本気を感じられなかったあのガキとちがって、Qはなにがなんでもおれについてこようとしていた。稲妻で脅されても一日の飯代が百円ぽっちだといわれてもだ。 「二割は半分じゃない。けど、気持ちとしてはそれぐらいの割合かもしれない」  もちろん自分の望みとおれのいい分=旅のルールをQは天秤にかけちゃいただろう。でもそれをして、いやな役まわりを差っ引いてもまだ自分に得があると踏んだからこそ、あいつは旅を――おれとの旅をやめなかった。そこを考えると忠一の推理は外角一杯のラインだ。 「割り算なしの話で頼む」  この男の理解できる割合をすっかり忘れていた。 「じゃあ、半分でいい」 「うん、わかりやすい。で、その半分てなんだ?」 「簡単にいうと逆のことを思った」 「家に帰りたく……《なかったから》捕まったってことか。ん? なんかおかしいぞ」 「普通はそういうひっくり返し方をしない」 「なんでさ。『帰りたい』の逆は『帰りたくない』だろ」  あいつ、本当は旅を続けたかったんじゃないか――残り二割、気持ちとしては五割の推理。そこにあのガキとのちがいをつけ足して説明してやった。 「なるほどな。だけどそしたら――」  忠一が二杯めの玉子ミルクナミン=おれ用に作ってきたそれを飲み干す。 「なんでわざわざ捕まるようなことしたんだ?」 「捕まるつもりじゃなかったと思う」  十才には難しい話もQは二、三のやり取りで理解した――が、それは実際を経験していない頭のなかだけの理解で、いってみれば絵に描いたナイフみたいなもの。刃がいくら鋭くても、そいつでなにかを切ったり刺したりはできない。つまり、役に立たない。ものごとはなんでもそうで、Qはそれにもたぶん気づいていた。あんな真似をしたのはおれにいわれたことを実際にやってみればわかると考えたからだ。 「飲みこみが早すぎんだよ、あいつは」 「牛丼食うのそんなに早くなかったぞ、サワQ」 「飲み食いの話じゃない」  いって、自分のこめかみを叩く。 「そうかあ? 数学……じゃなくて算数か。そっちもあんまり得意じゃないみたいだったぞ」  ただ、誰の心も変わるときは変わる。そしてそれは思いもよらないところで起こる。なにだからまちがいない、どうだからあり得ない、ということはない。 「計算用の脳みそはたしかに残念だった」  マイナス四万二千円=Qの気持ちを汲めなかったことに対する罰金。この街でしょっぱなに起こした騒ぎの見逃し賃もこみ。安くはないが納得はいっている。 「まあでも、馬鹿じゃあんな《舌|べろ》噛んじゃうようなしゃべり方、できっこないもんな」  そこは舌の筋肉の問題。忠一のいってることは脳みそに失礼だと思った。 「で、それとどう関係してくるんだよ」 「それ?」 「Qがいなくなったことだ。対策と関係あるんだろ」 「あんまりない」 「おい」 「冗談さ」 「忠一、ひとつ教えといてやる。おれは冗談が嫌いだ」 「人生に笑いと運命は必要だぞ」 「どっちもいらない。今は特に」 「……来るぞ」 「あ? なにが来るんだ」 「しっ」 「ここに誰か来るのか!?」  口の前に人差し指を立てている忠一に聞く。 「……来た」  玄関、窓、となりの部屋。すべてに注意を向けるも、おれにはなんの気配も感じ取れなかった。 「来た来た来た来た来たーっ!」  ふいに立ちあがる忠一。得体の知れない恐怖に腰が浮く。 「いいかげんにしろ! なにが来たんだ!」 「元気がみなぎってきた」 「てめえ……」  目の前の馬鹿をぶん殴ってやろうと腕を振りあげたそのとき、おれたちの間に黒いものが転げ落ちた。 「あ」  ふたつの口から同時に出た五十音のはじまり。 「……どうするこいつ?」 「知るかよ。預かったのは忠一だろ。責任持ってなんとかしろ」  ぬるナミンの瓶を空け、ため息混じりのげっぷをする。 「サワ、あいつんちの住所知ってるか?」 「群馬県の松井田。ドライブインの近くで、庭に枝振りのいい黒松を生やかした大場って家だ」 「番地は?」 「そんなものおれが知ってるわけないだろう」 「マジか……まいったな」  たたまれた布団のほうへゆっくりと這っていく問題の種。長旅の疲れでもいやすつもりか。 「飼ってやれよ。亀ぐらい面倒みれんだろ。餌はミミズでもゆで玉子でもなんでもいいらしい」 「母ちゃんが生きもの嫌いなんだよ。だからたぶん、無理」 「それじゃ友だちにやれ。ひとりぐらい亀好きなやついるだろ」 「馬鹿いうなよ。《長谷川|こいつ》はサワQの形見だぞ」  長谷川が誰かの形見なのはまちがいないが、Qのそれとなるとまた意味がちがう。 「死んでないだろ、Qは」 「気分だよ、気分」  下半分だけのくしゃ顔。真奈美の眉もよく動いたが、こいつの顔も負けていない。昔、テレビで顔をくしゃくしゃにして笑われていたおっさんがいたことを今さらになって思いだした。 「じゃあどっかそのへんにでも捨てとけよ。鴨川とかでいいんじゃねえか」 「サワは北極熊の足の裏ぐらい冷たいな」 ――触ったこともないくせに。 「そんなんじゃ、マジで地獄落ちるぞ」 「死んだ後のことなんてどうでもいい」 「地獄はつらいところだ」 ――また知ったかぶり。 「行ってみたらみたで案外暮らしやすいところかもしれない」 「そんな話、聞いたことない」 「人の話が全部正しいとは限らないだろう」 「じゃあ誰がほんとのこと知ってるっていうんだよ」  死んだやつなら誰でも知っている。生きてるやつらが馬鹿すぎるだけだ。 「さあな。おれは自分の目で見たものしか信じないことにしてる」  納得のいっていないくしゃ顔をした男が、黒い《甲羅|こうら》を秒速一センチぐらいのスピードでこっちへ近づけてくる。 「いっとくけど、おれは無理だぞ」 「そういうなよ、サワQ《兄|あに》」  こんなときだけ兄貴扱い。暮らす場所もないやつにだいたいからして亀の面倒なんかみれるわけがない。 「《沢村|サワ》はおれだけだ。Qにはちゃんと大場って苗字がある。自分が困ったときだけ都合よく呼び分けてくるのはやめろ」  文句を無視して野球盤のセットをはじめる忠一。 「おい、聞いてんのかよ。遊んでる場合じゃ――」 「こいつ、元気ないけど寂しいんかな」  長谷川の居場所が空中から小さな後楽園球場に移された。守備位置はセンター。足の遅いやつが就くポジションじゃない。肩だってよくはないだろう。宮沢監督の目はけっこう節穴だ。 「干からびかけてんだろ。ドンブリかなにかに水入れてぶちこんどけばなおる。ワカメと一緒だ」  どたばたとお勝手へ走る忠一。戻ってくるときは静かにそうっとだった。 「これでいいか」 「多すぎる」  ラーメンドンブリになみなみと注がれた水。長谷川を放りこんだらあふれてきそうな量だ。おれはベランダのサッシを開け、中身の三分の二をコンクリートの上へあけた。 「サワのほうがよく知ってるな」 「そうやって、さりげなく押しつけてくるな」  飼い主のことなどまるで頭にない様子の長谷川。いんちき人工芝の上を散歩しているそいつを指でつまみあげ、ドンブリのプールへと放りこんでやる――ワカメの動き。甲羅とせとものがこすれあって涼しげな音を鳴らした。 「それはそうと荷物ぐらいおろせよ。家のなかなんだから」 「気にするな」 「気になる。落ち着かない。話が前に進まない」  話はナップサックと関係なく、さっきから全然進んでいない。 「こいつはおれの体の一部だと思ってくれ」 「そんなに大事なものか? なにが入ってんだよ」  おれの背中に伸びようとしている腕を払う。 「そこそこ大事なもんだ。彼女の思いでとかな。ぶっ飛ばされたくなかったらそれ以上ナップサックについて聞いてくるな」  本当のことをいう以外じゃ説明の難しい金。人に迷惑をかけることが好きじゃない男にそんなものを見せるわけにはいかなかった。 「サワはいうことがいちいちおっかない」  そういうと忠一は裏が白いチラシ広告を三枚、学習机の上へ広げ、それぞれの右側へうまくもへたくそでもない字で対策その一、その二、その三と補助キャップに寿命を延ばされた鉛筆で書きこんでいった。 「どうやって確かめるんだよ、そんなの」  対策その一の二行め=『状況確認(サワが今どれだけやばいのか)』に対しての問い。対策その二と三はまだなにも書かれていない。その一について忠一はしらばっくれて高木から聞きだすといった。 「やめたほうがいい」 「なんでさ。一番確かな情報だし、聞いて教えてもらわなきゃなんにも知ることができないぞ」  いってる意味もわかるし、実際そうなのかもしれないが、根掘り葉掘りやるのはいくらなんでもまずい気がした。へたな聞き方をすれば、たとえ忠一でも疑われる。 「ほかに方法ないのか」 「ない。そして任せろ。これでもオレは警察に詳しいんだ。巨人に入団できなかったら警官になろうと思ってるからな」  予備の将来――この男の第二の夢と、どうにもいやな感じしかしなかった本=『警察官になるためには』がつながった。 「どうやって聞きだすんだ」  忠一が対策メモ三枚を手に持ち、なにもいわずに部屋を出ていった。 「どこ行くんだよ」 〝サワもこっちに来てくれ〟  呼ばれたほうへ移動をする。なにやら慌ただしい動き。 「お勝手でなにをおっぱじめようってんだ」  クリーム色のプッシュホン――冷蔵庫の脇あたりから引っぱってこられたボタン式の電話を四人がけのテーブルの上へ置き、その前に対策メモを一から順番に並べていっている忠一。 「聞きこみの準備なんかする前に、どうやって聞きだすのかおれに――」 「こいつさ」  玄関脇に立てかけてあった竹刀を忠一が手に取る。 「剣道にかこつけていろいろ聞いちゃう作戦だ」  おれの前へ水平にして掲げられた竹刀。手につかみ、なんとなくのイメージで構えてみた。 「おお、なかなか様になってるぞ」 「いいからなんだ。続きをいえよ」 「世話焼きなんだよ、高木さん」  そんな感じはする。ああいう暑苦しいタイプは自分の好きなもの、信じているものをやたらと他人に押しつけてくるくせがある。迷惑とか遠慮とかそのへんは一切考えない。そして忠一にも《そのけ》がちょっとあった。 「で?」 「サワ、剣道やってみる気はないか」 「一ミリもない」  いって、忠一に竹刀を返す。 「でも今日は五ミリぐらいあることにしよう」  読めてきそうでこない作戦。こいつはどうしてこんなにも説明がへたくそなのか。 「いいか、サワ。それを高木さんにいうんだ。すると世話焼きの血が騒いでこう返ってくる。『サワを道場へ連れてこい』ってな」 「行かないぞ、そんなとこ」 「まあ聞けって。今日はオレだって行けない。だから明日って話になるさ。後は任せてくれ」 「待てよ。説明が足りない」 「今朝も同じ手でうまいことやった。サワだって横で聞いてたろ」  今朝=メイヂ屋に着くまで。同じ手=電話。うまいこと=そいつを使ったでたらめ。 「ズル休みと世話焼きの血がどうつながってくんだよ」  質問の答えを待っている間にピンときた。忠一の考えはおそらくこうだ。高木がおれに対してもし世話を焼いてこようとしなかったら、それはもう疑ってかかっている――いや、捕まえようとしている証拠。忠一は質問攻めにあうか、ただちにおれを連れて交番へ来いといわれるか、そうじゃなきゃ高木自身がここへ乗りこんでくる騒ぎになる。  そうならずにまんまと世話を焼いてきたときはつまり、この街じゃまだおれはセーフ、ということ。たしかにそこだけでもわかれば後の対策は立てやすくなる――が、果たして狙いどおりに作戦が運ぶかどうか。 「友だちを悪いようにはしないって」  悪いやつに肩入れしようとしているおまわり候補生の左手がおれの右肩に乗る。 「小細工の通用する相手とも思えないけどな、おれは」 「通用しそうかどうかは話してるうちにわかるさ。そこそこ長いつきあいだからな、高木さんとは」  向こうだってそれと同じことを思う。忠一はそのあたりもちゃんと計算に入れているんだろうか。 「二と三はなんだ?」 「ん?」 「対策だよ。対策その二、その三」 「ああ、そっちは後」 「おい――」 「まずは情報さ。それがわからないことには二も三もない」  対策だの作戦だの情報だの、かっこいい言葉を並べちゃいるが、結局のところは相手の出方次第。毎度のおれのパターンとなにがちがうのか、という気もしている。 「やばいのはマジでごめんだぞ」  くしゃ顔がゼロになる――大まじめなときの顔つき。みぞおちがちくりとした。 「そうならないために正直なところを教えてくれ、サワ」 「うそはなにもいってない」 「じゃあ、もう一度確認な」 ――こいつ、実はおれを高木に売るつもりなんじゃないのか。 「サワは自由になりたくて家出をしたんだよな?」  教えるともなんともいわないうちにはじまる質問。内容におかしなところは特にない――頷いた。 「他人に迷惑もかけてないよな」 「そこはどうだろうな。途中で何度かかっぱらいなんかもしてるし」  事実を口にする。ただし、いくらかごまかしてやるつもりはあった。 「万引きか」  眉の動きでそうだといってやる。札束にしろ服にしろチャリンコにしろ阪急の帽子にしろ、ひと言でいっちまえばかっぱらいだ。いつどこでなにをどれぐらいそうしたのかまで答えてやる必要はない。 「そこはまあ、今だけ目をつぶっとく。ほかには?」 「おまわりみたいな口ぶりだ」 「友だちとして聞いてる」 「だとしても聞かれるほうはいやなもんだ。忠一にそんなこといってもわかんねえだろうけど」 「わかるさ。オレも昔はよく万引きさせられたし」 ――させられた? 忠一が? 「どういうことだよそれ」 「オレの話はいい」 「びっくりさせといてそれはないだろ。ちゃんと説明しろ」  さっきは家出の真似事で今度はかっぱらいの――手下。まじめなやつだとばかり思っていたが、今の白状で少し損した気分になった。 「後でいうさ。今はサワのことに集中」 「都合の悪いことはなんでも後だな」 「戦場じゃ大事なことからやっていくのが常識さ」 「ここは戦場じゃない」 「うんにゃ、戦場だ。サワは自由をつかむために戦ってる」  そういわれると返す言葉がない。 「で、ほかになにした?」 「大したことはしてない」 「じゃあ、その大したことじゃないやつ」 「何人かぶっ飛ばしてる。あとはそうだな……バイクを運転したぐらいだ」 「ほんとにそれだけか?」  体中の神経が背中に集まりだす。忠一は気づいているのか。ひょっとしてQのやつが……いや、だけどそんな時間なんてあったか。 「たとえばなんだよ」  顔色を読まれる前に聞いた。忠一が腕組みをする。腕の隙間からのぞくぷっくらした指がゆっくりと二の腕を叩く――忘れていた誰かのくせ。ものいうタイミングを計っているのか、それともおれのいった『たとえば』を探しているのか。 「人殺しとかやってないよな」  突拍子もない勘ぐり。並外れた想像力にほっとする。 「考えたことはある。けどやっちゃいない。自分だって誰かをぶっ殺したくなったことぐらいあるだろう」  忠一の顔つきが一瞬――ほんの一瞬、暗くなった。 「……うん、ある。あるけど考えてるうちにおっかなくなって、思うのをすぐに中止した」 「そんなもんだろ。おれだってそうだ」  実際にはちがう。ちがうが、ここじゃこういうしかない。 「未遂も……ないか?」 「ミスイ?」  言葉の意味を忠一に説明され、それならあると思ったが、もちろんいいなおすことはしない。代わりに鼻息で笑ってやった。 「さっきから聞いてりゃ殺人だのなんだの、だいたいこっちはまだ小学生のガキだぞ。そんなことできるわけ……」 ――しくじった。 「今なんていった?」  ちがうところに神経がいきすぎて、おろそかになっていたおれの脳みそ。けいれんしそうになる顔の筋肉を気合で無理やり引き締めにかかる。 「あ? だからあれだよ……そう簡単に人なんか――」 「ちがう。サワお前今、小学生って――」 「ああそれか。半年かそこら前まで小学生だったおれに人殺しなんてできるわけないだろっていいたかった。変ないい方しちまっな、悪い」 「怪しいな」 「……なにがだよ」  小さい目がさらに小さくなる。もう対策どころじゃなかった。ここから特急でトンズラする段取りを頭のなかへ組み立てる。履きづらい靴は……とりあえず外へ持って出るしかない。 「忠一、悪い――」 「ただの家出で――」  言葉が重なった。一旦、順番を譲る。 「警察がそんなにムキになるか?」  疑いの方向がまたずれた。忠一はたぶんおまわりにはなれない。 「なるんじゃねえのか、今どきのおまわりは」 「きちがいさんたちのこと、憎かったんだろ」  質問の意味がわからなかった――が、疑う方向はまたしても、確実に、しっかりとずれてきている。 「憎いなんてもんじゃねえけど、だからなんだ。おれがそいつらを三人ともぶち殺して、おまわりに追っかけられてるっていいたいのか」 「いいたくない。いいたくないけど、じゃあなんで刑事まで出てきてサワのこと探してんだよ」 「知るかよ、そんなの」 「サワ!」 「うるせえな! なんなんだよ、さっきから。おまわりの手先みてえによ。だいたい刑事がどうしたってんだ。電話のそいつが探してたのは真奈美だぞ。おれのことなんかついでのついでだ。ふたりから話を聞いて沢村ってガキも捕まえなきゃって話になったんだろ、どうせ」  本当はどうか知らないが、思いつくままに弁解してやった。 「あ、そっか」  適当ないい逃れにあっけなく納得する忠一。こっちが意味をつかめない。『そっか』の説明をしろといった。 「真奈美だよ、サワ。お前、誘拐犯だと思われてたんだって」  また呼び捨て。今度いったら股ぐらを蹴りあげてやる。 「サワの疑いはもう晴れてる。これで問題は家出をしてるってとこだけになったな」  残念ながらそいつははずれ――黙っていた。 「そうなると……少年課……ん、待てよ。家出は防犯? あれ? 地域課だったかな」  おまわりに詳しい忠一。詳しくないおれ。いってることの半分も理解できない。 「おまわりはおまわりだろう」 「サワ、ちがうんだ。警察ってとこは扱う事件によって課が変わるんだよ。たとえば――」  熱心な説明を聞けば聞くほどちんぷんかんぷんになっていく。もういい、という意味でおれは左手を宙にあげた。 「おまわりにもいろいろいるってのはわかったよ。で、高木巡査長は何課になるんだ?」 「交番勤務の警官は地域課さ。殺人とか汚職とかやくざとかは詳しくないけど、行方不明とか泥棒にはめっぽう詳しい」  行方不明、泥棒。どっちもおれに当てはまる――じわっとするみぞおち。忠一の手が電話に伸びる。 「ん? どうした、サワ」  思わずつかんでいた忠一の腕。 「もう一度練りなおそう、作戦」 「もう充分練ったさ。これ以上なにを決めるんだ」  高木と忠一の親しさは剣道を通じてのそれだ。行方不明や泥棒にめっぽう詳しいおまわりが剣道とまったく関わりのないこと=悪いやつが知りたがるような情報をポンポン答えてくるとはどうしても思えない。 「やばいだけのような気がするんだよ」  忠一が鼻を鳴らす。 「横で聞いててもしそう思ったら、ここを押せばいいさ」  ぷっくらした指が受話器をつまみあげ、反対の手のそれが白いフックを指す。 「ほんとにそうするぞ」 「望むところさ」  おれは頷き、とりあえずこの男のお手並みを拝見することにした。  § 「任務完了! ああ、疲れた」  これより作戦を実行する――忠一の宣言で開始された聞きこみ。最初の電話に出たのはハシヅメとかいう『長』のつかない巡査で、そのときは一旦電話を切った。忠一は続けてちがう番号=メイヂ屋のそれを押し、電話を取った相手とどうでもいい話=『本当なら昼までいられた権利』について五分間いい争い、それから受話器を戻した。高木から折り返しの電話があったのはその一分か二分後だ。 「だけどお前、けっこううそつきだな」  のっけからでたらめ――『サワが本気で剣道やりたいっていってるんだけど』ではじまったふたりのやり取り。あくまで剣道の話題を中心に置き、たまに質問を投げるスタイルで話は進んでいった。 「人に迷惑をかけないうそはついてもいいのだ」  世話焼きにつけこむ作戦を、まるで正しいことみたいにいう忠一。おれの考えはちがう。うそはうそだ。正義のうそなんてない。十二年間、おれはこれでもかとそいつを重ねてきて、それなりの目にあってきた。うそをつくしかない状況はたくさんあったが、ついたうそを正しいと思ったことは一度もない。 「迷惑をかけたかどうかはともかく、裏切ったことにはなるだろう」 「相手に気づかれたらそうだな」 「いやな気持ちにならないのか」 「もちろんなるさ。だからオレはいやになった分だけ、その相手を思いやるようにしてる」  頷けないが気持ちはわかる。 「罪ほろぼしってやつか」 「それもあるけど……どっちかっていうと自分へのいいわけっぽい」  こっちは頷けないばかりか、わかってやることもできなかった。 「いろいろ変わってるよ、忠一は。で、次はどうする」 「話のほうはだいたい聞いてわかっただろ?」 「受話器を半分ずつにしてからはな」  電話の前半、高木の声は笑っているそれしか聞こえなかったが、そいつが大した話じゃないのは横で忠一の受け答えを見聞きしてわかっている。 「半分にする前は高木さんの昔話さ。電話でもなんでも話がはじまると最初はいつもあれだ」 「おれも朝、ろくでもない兄貴のそいつを聞かされた」 「お兄さんのほうがえらいんだけどな、警部だから」  警部といえば銭形。まあ、巡査長よりはえらそうだ。 「ろくでもないのは弟のほうか」 「あの人はあの人でいい人だよ。こうしてオレたちにいろいろと教えてくれるんだから。ちっともろくでもなくないさ」  そこはそうかもしれないが、ただ、おまわりとしてはどうかと思う。 「おれたちっていうか、教えてくれたのは忠一だからだ」  案外馬鹿じゃなかった忠一。おまわり相手の手際としてはなかなかのものだった。 「同じさ。よし。情報を順番に整理していこう。あ、これ対策その二な」  前半と打って変わって、話の後半はかなりきわどい内容だった。名前こそ出なかったがQのことにちがいないそれにはじまり、朝の公園でおれを捕まえ損ねた後にすぐチャリンコ泥棒を取り押さえた話、交番へ連れていったそいつが高木の腰のものを抜き取ろうとした話と続き、しまいは行方不明者と泥棒についての話になった。そこから電話を切るまでの七、八分は高木の声をただ横から聞いているだけなのに心臓が竹の子族みたいに踊りまくった。そういうみっともない状態になっているおれの脇で、忠一はこの先で役に立ちそうな情報を冷静に、正確に、淡々と見事に広告の裏へと書き留めている。 「ほい、読んでみ」  情報マル一/メイヂ屋はいつもどおり。  《〃|ちょんちょん》マル二/今、高木さんは暇。つまりこのあたりで事件や事故は起きていない。タイヤを運ぶ会社からの連絡もたぶんなし。事件は午前中のチャリ泥だけ。  〃マル三/ふんいきからの推理=サワQ、口を貝。それかほら貝。オレたちのことも、この街へどうやって来たのかも全部内緒かでたらめ。情報マル一もそれを証明している。  〃マル四/サワQはもう警察にいない。大宮にもたぶんいない。 「パトカーで松井田へ帰されたんかな、あいつ」  おまわりをよく知る男に聞いてみた。 「帰されたっていうか、誰か迎えに来たんだと思うぞ。親とか先生とか」 「親か……」 「心配なのか?」 「まあ、多少はな」  Qと親の関係がどうだったのか、おれはなにも聞いちゃいないし、知ろうとも思わなかった――おまわりのほうは大丈夫でも、そっちはどうだかわからない心配。Qの親が面倒くさいタイプだった場合は情報がおまわりのほうへ逆戻りしてくることも考えられる。 「今頃こっぴどく叱られてるぞ、サワQのやつ」 「それぐらいで済んでればいいんだけどな」 「プラス、げんこつか。怖い父ちゃんならドロップキックやコブラツイストまであるぞ」 「どんな攻撃をされるか心配してるわけじゃない」 「なんだ。まあ、いいや。ほら、五、六、七もちゃんと読めよ」  忠一が顎をしゃくる。  〃マル五/《捜索願|そうさくねがい》は日本全国で毎日腐るほど出されている。その数、一日およそ二百から三百。数が多すぎて漏らさずチェックするのは難しい。怪しいやつを捕まえてから《所轄|しょかつ》へ問い合わせることがほとんど。ただし、殺人事件や誘拐に絡んだそれはすぐにわかる。  おれになんちゃら願が出されているかどうかはわからない。ただ、仮に出されていたとしても日本中で一日にそれだけの数だ。よほど目立つ真似でもしない限り、おれだけが狙い撃ちされることはない。 〈うっらっらー、うっらっらー、ばかたいほー〉 〔怜二は馬鹿じゃないよ!〕  頭のなかに真奈美の声が響く。 「……へたしたら、やばかったな」 「ん? やばいってなにがさ」 「真奈美を連れて逃げてたら誘拐犯だったんだろ、おれ」 「まあな。そうなったらサワが困ると思って、彼女さんは一緒に行くのを諦めたんだぞ、きっと」  手紙にそんなことは書いてなかったが、いわれてみればそういう意味も含まっての『ばいなら』だったのかもしれない。 「なあ、サワ……」 「なんだ」 「ちょっと聞いてもいいか」 「だからなんだよ」 「そ、その……彼女さんとはあれだ……なんていうか、うまくいえないんだけど……」  急にしどろもどろになる忠一。どうしたのか。 「や、やらら、やらやら――」 「一発ぶん殴ってやろうか」 「やらしいあれっていうか!」  やらしいあれ。忠一の場合、どこからどこまでのことをいってるのか、ちょっと判断に悩むところがある。 「セックスまで全部したよ」  忠一がくしゃ顔のままかたまった。 「真奈美はだから、妊娠してるかもしれない」 「ニ、ニンシン!? ニンシンて、あの、これがこうなるあれか!?」  自分の側へ向けた両手で腹の前の宙に半円を描く忠一。 「親になる覚悟も一度はちゃんとしたんだけどな」 「どどどどこでそんなやらしいことしたんだ!?」 「どこだっていいだろう」 「裸を見たのか!?」 「キス以外は裸にならなきゃできない。なにいってんだ」 「無理やりか!?」 「ふざけるな。おれはヘンタイじゃない。真奈美のほうからしようっていってきたんだ。服だって自分から脱いできたし、おれのパンツをおろしてきたのだって真奈美だ」 「ううううそだろ!? い、いつの話だ、それ!?」 「《昨夜|ゆうべ》だ。うそもついてない」 「どうして真奈美はそんなにやらしんだ!?」 「金玉蹴っ飛ばすぞ、この野郎」  股を蹴りあげる前に床へしゃがみこまれた。意味がわからない。他人のエロい話なんかどうだっていいだろうに。おれは忠一をそのままにしてメモ書きの続きを読んだ。  〃マル六の『さ』/泥棒の特徴。夜にほっかぶりをして、風呂敷を背負って歩いている泥棒はいない。今の時代はなにも持たないか、バッグやリュックサックなど普通の人と変わらないものを使う。  〃マル六の『く』/ただし、顔は帽子やサングラスなどで隠していることが多い。窓を破ったり、鍵をこじ開けたりする道具を持っていたり、ほかにも家のなかで誰かに見つかったときのことを考えて武器などを隠し持っている場合もある。  〃マル六の『ら』/さらに最近の犯行は計画的。たとえば泥棒に入ろうと思っている家の近くで朝昼晩と張りこみ、確実に人がいない時間を調べるなど、やり口が非常に手のこんだものへと変化してきている。  〃マル六の『だ』/また、盗んだ後はバレるのを遅らせるために散らかしたものをもとへ戻しておくやつもいる。逃げる手段はいろいろで、歩き、自転車、オートバイ、自動車など。乗りあいバスや電車の動いている時間だとそれらも使われる。駅やバスターミナルはそういった意味で警戒ポイント。常に目を光らせている――以上。 「なんだってんだよ、いったい……」  舌を巻かざるを得ないおまわりどもの読み。どこかでずっと見られていたんじゃないかという気すらしてくる。口のなかがからからだった。 「……大人なんだな、サワは」  馬鹿をいってもらっちゃ困る。ガキだからこそ苦労しているというのに。 「同い年だろうが」 「心の年だよ、心の。あとまあ、体もか……」 「体は忠一のほうがおれよりちょっとでかい」  忠一がのそのそと立ちあがる。おれは水道を貸してくれといい、蛇口の下へ口を持っていった。 「サワお前、ほんとに十三才か?」 「しつけえな。正真正銘の《十三才|じゅうさん》だよ。昭和四十……三年五月一日生まれ、だ」  水を口に含んだ。あまりうまくない。飲むのはふた口だけと決めた。 「五月か……そこはちゃんと運命なのにな。なに年?」  ふた口めを噴く――もうちょっとでデッドボールのストライク。酉年の前ってなんだ? 「そんなの、お前と同じに決まってんだろ」 「そっかあ……そうだよなあ」  深いため息とともに吐きだされてきた『そうだよな』。まだいもしない彼女のことでこれほど落ちこめる男も珍しい。と、それはともかく干支は今後のために調べておいたほうがよさそうだ。 「なにがちがうんだろうなあ……オレにはなにが足りないんだろう。ガッツかな。それとも坊主頭だからかな。なんか彼女も結婚も一生できそうにないし、女子の裸もエロ本以外じゃ一生見ることなさそうだ。やらしいことなんか夢のまた夢だな」 「要するに誰でもいいから自分の彼女になってくれ、結婚してくれ、裸を見せてくれ、エロいことさせてくれ。そういうことか?」 「ち、ちがうわ!」  《くしゃ》と《くしゃ》じゃない顔が短い間隔でひたすら繰り返される。今まで見てきた表情のなかじゃ一番妙ちくりんなパターンだ。 「どうだかな」 「ちがうぞ! 力一杯ちがうぞ、サワ!」  テーブルを打楽器にする忠一。何拍子かはわからない。 「誰でもいいわけじゃないからな! ちゃんとした彼女の……その、裸しか見たくないっていうか……」 「真奈美の裸の写真見るか?」 「いいのか!」  坊主頭を引っぱたいてやった。 「お前の髪っていうか生えかけの毛、馬鹿みたいに硬いな。刺さったわ、手に」  頭をさすりながらぶつぶつやりだす忠一。おれは見るものを坊主頭から広告の裏=テーブルのそれに変えた。  〃マル七/まとめ。サワQの心配はしなくて大丈夫。捕まらなければ行方不明者とはわからない。捕まらないためには万引きやチャリンコ泥棒をあんまりしないこと(オレの頼み)。後でチャリンコが安く買えるところを教える(誰かのお《古|ふる》)。道でもなんでもなにか聞きたければ駄菓子屋(とにかく駄菓子屋)。そこは少年のオアシス。まちがっても交番へなんか行っちゃいけない。 「そんなとこ、頼まれたって行くかよ」 「え?」  金属のこすれる音がした。忠一の顔が玄関扉に向く。 「あれ? なんでこんな早いんだろ」 「誰だ」 「母ちゃんさ。デブだからびっくりすんなよ」  忠一がポケットへ広告=対策メモをねじこむのと同時に鉄の扉が開く。現れたのは爆弾でふっ飛ばされたドリフみたいな頭とでかい体。シャツもズボンも目の覚めるような青。わずかにのぞく外の景色のなかにQと午後の予定を立てた公衆便所の屋根が見えていたが、それもじきに青が隠した。扉が《がしん》と閉まる。 「お帰り、母ちゃん」  でかくて派手な忠一の母親。朝におたまとセットでちょろっと見かけちゃいたが、近くと遠くじゃまるで迫力がちがった。びっくりするなと最初にいわれていなかったら、たぶん今の三倍はびっくりしている。 「……お邪魔してます」  《爆発頭|ばくはつあたま》に向かって軽く頭を下げると、予想もしていなかった音がお勝手に響き渡った。 「な、なにすんだよ、いきなり」 「なにじゃないんだね、あんた!」 「友だちの前だろ!」  いきなりはじまる親子ゲンカ。忠一が左の頬を押さえながら前ぶれなしの暴力に抗議する。今度は反対側の頬が張られた。 「サワ悪い。ちょっとオレの部屋へ行っててくれ」  たまらなくいやなふんいきのなかで忠一の指示に従う。できることなら逃げだしたい気分だった。  野球博物館もどきの部屋へ戻っても、お勝手の戦いは続いていた。忠一はなにを怒られているのか。原因を普通に考えたらサボりだが、帰ってくるなりおれを無視して息子の横っ面を引っぱたくぐらいだ。ひょっとしたらその程度のことじゃないのかもしれない。 〝だから謝ってるだろ!〟 〝謝って済むなら警察も自衛隊もいらないんだね!〟  爆発頭のいうとおり。それをいわれたら謝るだけ損だ。 「なに見てんだよ」  ドンブリの縁の外まで首を伸ばしている長谷川にいった。 〝聞いてくれよ、母ちゃん!〟 〝聞かないね。ほら、どきな〟 〝サボったのはオレが悪いさ。けど――〟 ――やっぱりか。 「だから知らねえぞっていったのに……なあ、おい」  瞬きで頷き返してくる長谷川。おれと意見が合うのは思えばこれがはじめてかもしれない。 〝いいからどきな〟  いざこざは早いとこ終わりにしてほしかった。終わりにして、安いチャリンコを売っている店へさっさと案内してもらいたかった。 〝だからそいうのはやめてくれって、母ちゃん! 月曜からちゃんとするから〟 ――そういうの? やめてくれ? 〝そんなこた当たり前だよ、あんた!〟  月曜からちゃんとするのはわかるが、そういうのってなんだ? 〝痛てててて! ちょい、痛てえって、母ちゃん!〟  お勝手をのぞこうとしてやめた。忠一も自分のみっともない姿=母親に耳だか頬だか尻だかをつねりあげられているところをおれに見られるのはいやだろう。 〝早く貸しな!〟  迫力のある声に長谷川が首を引っこめる。  どうにも気になったおれは、痛みにゆがむくしゃ顔を見ちまう覚悟でふすまの陰から戦場の様子をうかがった――星飛雄馬の姉ちゃんのように。 「母ちゃんはね、昔みたいな目にあってほしくないんだよ、あんたに」  青い背中の向こうに忠一の顔――テーブルを挟んでの戦い。なにを『早く貸しな』なのか。この位置からそれを確かめるのはちょっと難しかった。 「だからあいつはそういう友だちじゃないよ! 見ればわかるだろ!」  聞き捨てならないセリフに耳が慌てる――爆発頭の怒りの原因にどういうわけか関係しているおれ。直感がやばいパターンだと告げてくる。 「見てわかるからいってんじゃないさ!」  爆発頭が左=玄関の側へ動いた。パンパンのほっぺたが見えたところで自分の頭を引っこめる――しんとなるお勝手。柱の向こうのとがったふんいきに心が震える。どうするか。 〝だめだって、母ちゃん!〟 〝あんた、朝もあの子と公園にいたさね! ろくでもない!〟 〝サワは今日この街に引っ越してきたばっかなんだよ!〟 ――名前を……いや、苗字の半分をいうんじゃない。 〝あ、お忙しいところ申し訳ありません。日進の宮沢ですが……〟  爆発頭はどこかへ電話をしている。いったいどこへ……いや、それよりなにより今は逃げるのが先決。 〝あ、はいそうです。お願いします〟 〝母ちゃん!〟 〝ほら、あの子下の名前なんていうの!〟  学校かおまわり――それ以外にあり得ないやり取り。特に後のほうだとおれはべらぼうにまずいことになる。 〝なんだったっけな……〟  玄関へ向かおうとして思い留まる。単純に突破するだけならそれほど難しくはない。でかいとはいえ相手は女だ。殴りかかる勢いで向かっていけば必ずビビる。稲妻なんかをちらつかせた日にはそれこそ腰を抜かすかもしれない。 〝忘れた!〟 〝ふざけるんじゃないよ、忠一!〟  問題は、それに怯むことなく爆発頭が立ち向かってきたときだ。こっちが負けることはどうあってもないが、その場合おれは息子の前で母親をぶん殴ったりしびれさせたりしなきゃいけない。やるには相当の勇気がいる。忠一だって《ただ》ぼうっとそいつを眺めちゃいないだろう。玄関突破はここじゃ考えないほうがいい。 〝電話を切れば思いだす! たぶん! おい、母ちゃん!〟  窓に目を向ける――風に揺れる洗濯もの。音を立てないようにサッシを開けた。流れこんできた風がふすまにぶつかって、立てなくてもいい音を立てる――台なしになる忍者の作戦。 〝ちょっとお伺いしたいことが……ええ、ええ、そうなんです。もう、うちの馬鹿息子が――〟  一気にサッシを引き開ける。長谷川と目が合った。丼に手を突っこみ、ベランダへと躍り出る。 「なにやってんだ、サワ!」  なにも答えない代わりに瞬きと変わらないウインクをくれてやった。鉄柵をまたいで乗り越える。残ったほうの足を抜こうとして、足もとが涼しいことに気づいた。跳んだり逃げたり走ったりを靴なしでやるのはちょっとしんどい。顔をあげる――こっちへ早足してくる忠一。 「おれは心配いらない。このまま行かせてくれ」 「ちょ、たんま、おい――」 「いろいろありがとな」  物干しへ吊るしてあったスパイクを引っつかみ、体を宙へ――タッチの差。鉄柵の振動する音が頭の後ろで聞こえた。腰へ巻きつけてあったジャンバーがめくれあがる。忠一の言葉の後ろ半分は耳をこすっていく風のせいで聞き取れなかった。 「ああ……じんときたな、くそ」  高さなど知れている――そう踏んだうえでのジャンプだったが、足首と膝への衝撃は思っていた以上にあった。 〈あたしがしぬだろ、ばか〉  生きているからこその文句。足のしびれは一旦忘れて、まわりの様子をチェックする――大人はいない。いるのは、のんきにひと言『人が降ってきた』とだけいって、あとはぽかんと口を開けている低学年生がふたりきり。作った笑いをそいつらに向けながら空色のスパイクへ足をぶちこむ。いくらか緩かったがきついよりはマシ。マジックテープのバンドを引っぱりあげて貼りつける。何秒か前までいた場所に目をやった。あると思っていた姿がない――ダッシュ。  朝に歩いた路地をひた走る。補助輪つきのチャリを跳びまたぎ、チョークで書かれたへのへのもへじを踏んづける。右、左、右――くねった道順。どんなに複雑な道でも一度通ったところは絶対に忘れない。これもおれの得意技。地図なんか読めなくても問題はない。逃げるのに必要なのは記憶力とスピードだ。 〈《うん》と《かん》と《どこんじょー》〉 「そこまで揃えば完ぺきだな」  《櫛引|なんちゃら》二丁目の信号を左へ。まっすぐ行けば中山道。次の角を右へ曲がれば朝のどぶ=霧敷川沿いに出る。 〝サワ!〟  どこかを近道してきたにちがいない男の声が後ろから飛んできた――予想どおりの案の定。振り返ることはしない。止まることはもっとしない。いわれることはわかっている。おれは走りにターボをかけた。 「待てって、おい! なんで逃げるんだ!」  つまらない質問は無視。目標を中山道に決め、軽く一キロはありそうな直線を全速力で突っ走る――横っ腹に痛みの予感。 「ちがうぞ、サワ! お前、なんか勘ちがいしてる!」  勘ちがいなどしていない。忠一はおれを売った。おれをはめた。ただ、そのことに本人が気づいていないだけだ。 「別にお前のことは恨んじゃいない!」 「恨まれるようなことなんか――」  制服のガキども。カラフルな服を着たチビガキども――中山道へ近づいていくにしたがって増える人の数。車のクラクションを口真似してやりたくなった。 「なんにもしてないぞ!」  我がもの顔で歩道を占領している馬鹿どもの隙間を行く。人の壁を肩でこじ開ける。邪魔だ! どけ! 思うように進めないことにいらいらしたが、条件は後ろも同じ――いや、むしろ忠一よりいくらか細いおれに有利。ぶっちぎってやる。 「くそ……」  せっかくの有利を帳消しにしてくれる背中の札束。横っ腹もちくちくしはじめている。 「どけっていってんだろう!」  ぐるぐるまわっている小学生を怒鳴りつけた。三つ編みをしている中学生にもそうした。脇へ柔道着を抱えて歩いているやつらには怒鳴らず、間をすり抜けるようにして前へ出た。 「サワ! 止まれ!」  もうおれにかまうな――心でがなりながら後ろを見た。思っていたよりも近い。このままじゃ追いつかれるかもしれなかった。 「痛い!」  よそ見のせいで誰かを突っ転ばした。前を向いたまま悪いといった。目についた看板=通学路と書かれたそれを見て、決めたばかりの目標を変える。叫び続けられるおれの苗字の上半分。ガードレールを跳び越え、車道と歩道の間を行く。悲鳴をあげる横っ腹。車の流れ――両方向のそれを気にしながら道を渡るタイミングを探る。 「誰か《縞々|しましま》のそいつを止めてくれ!」  真後ろからの叫び=おそらく三メートルと離れていない位置からのそれ。振り返っている暇はない。顔なし女が足の神経を猛スピードで操作する。 「しつこいぞ!」 「当たり前さ!」  なかなか途切れない車の流れ。後ろからはクラクション。何十メートルか先にはなぜか黒い集団が車道へしゃしゃり出てきている。やつらまさか忠一のリクエストに応えるつもりじゃ……いや、待ち構えているあの感じはどう見てもそうだ。 「いいかげんにしろ!」 「それはこっちのセリフだぞ!」  タフな一塁手の息づかいを背中のすぐ後ろで感じ取りながら、前に見えているものを目寸法する――黒い集団までは三十メートル。反対車線を走って来る、ここから数えて三台めの郵便車も同じぐらいの距離にある。車道側へ体を出した。クラクションは聞こえない。 「危ないぞ!」  多少の無理は承知の上。じゃないと、こっちのスタミナがもたない。左車線の真ん中まで出る。郵便車の運転手が顔を引きつらせた。三メートルから四メートル=深緑をした四台めと郵便車の隙間。黒い集団までは十五メートル。引きつり顔を乗せた郵便車がおれの脇を過ぎた。 「ばいならだ!」  右足を軸にして、走っている向きをほぼ直角の方向へ切り替える――迫りくる深緑。 「馬鹿!」  つんのめる自衛隊の車を横目にガードレールの向こう側へ飛びこむ――クラクション、急ブレーキ、死にたいのか、キャー。最後のそれは頭の上から。見あげた先の顔を睨みつけてやると、すぐに電線と雲と青空が見えた。 「大丈夫か、サワ!」  ぶつかっていないのに大丈夫もへちまもない。 「見りゃわかんだろ」  いって立ちあがり、すかさずダッシュを再開。誰もが自然と道を空けた。 「がんばれよ!」  そんなもの、いわれなくたってわかっている。 「死ぬなよ! 捕まんなよ! 運命に負けんなよ!」  どれもこれも当たり前。足を止めずに振り向いた。道を渡ってきた忠一をごつい車から降りてきた男=迷彩模様のそいつが取り押さえる。おかまいなしに拳を突きあげる忠一。空に伸びる巨人カラー――はるか後ろの、今はもう遠い景色。 「また会おうぜ! 絶対会おうぜ!」  サウスポーの一塁手がひっくり返った声で約束を押しつけてくる。くしゃ顔のパターンはここからじゃもう、読み取ることができなかった。
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