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「オレもこのまま家出しちまおうかな。どう思う? サワ」 「激しく反対だ」 「どうしてさ」 「理由がないだろ、忠一には」 「そんなこともないぞ。ちょっと前に母ちゃんと揉めたし」  そういう理由で家出をやらかすやつにろくなのはいない。 「それじゃ、あのガキと一緒だ」 「あのガキ? 誰だよ? サワQか?」 「松本だよ」  口にするのもいやな名前。心にまた、砂鉄がひっつきはじめる。 「マツか……うん、たしかにそうだな。じゃあやめとこう」  あっけなく中止になる忠一の家出。まあ、なんだかんだ不満はあるんだろうが、こいつには今の暮らしが似合っている。 「どうする、これ」  聞きながらあたりを見まわした。 「そうだな……んじゃ、あそこの《ぼうぼう》になってるとこへ隠しておこう」  あそこの《ぼうぼう》=鎖でがんじがらめにされた門の脇。枯れ草の森、というよりはごみ溜めのようになっているその前まで移動し、おれは事故現場から断りなしに乗ってきたチャリンコ=加納軍団の誰かのそれを、ふやけた雑誌や色剥げした空き缶の散らばるなかへ蹴りこんだ。 「おい、後で返すんだから壊すなよ」  忠一はそういうと宝ものでも扱うみたいな手つきで意味としてはおれと同じことをした。 「よし、行こう。こっちだ」 「待てよ」 「ん? どうした」 「ほんとに大丈夫なのか」 「あれあれあれ。もしかしてひょっとして、実はおっかない感じか?」 「馬鹿いうな」  化けものなんか気にしちゃいない。おれの心配は生きてる誰かが来やしないかどうかだ。 「ほんとかあ?」  見るからにぼろぼろの、化けもの屋敷と呼ぶにふさわしい建物=午前中、肝だめしをし損ねた首なしの館。こんなところに暮らしている馬鹿はいないと思うが、それでも家は家だ。自然にできたほら穴や畑のほったて小屋とは勝手がちがう。 「人は住んじゃいない……んだろうけど、持ち主とかそういうのはやっぱりどこかにいるんだろう?」 「いないさ。みんな死んじゃって幽霊になってる。まあ、無理やりいうならその幽霊たちが持ち主」 「たち?」  十年かそこら前の夏。ここに暮らしていた家族五人は全員、何者かに殺された。犯人は今も捕まっていない=忠一の説明。 「どうだ? ちょっとはおっかなくなってきたか?」 「その犯人がこのなかにいるならな。けど、いるのは殺されたほうだろ」 「だ、だから――」 「いいからとっとと案内してくれ。さっきのやつらが近くにいないとも限らない」  くしゃ顔足す、ぽかん顔。新しい組みあわせのパターンをまたひとつ見つけた。 「サワはつまんないな」  真奈美にも昨夜同じことをいわれていた。 「悪かったな、つまんなくて」 「ああ。そこは強めに反省してもらいたい。出発」  忠一の後ろについて屋敷の裏へまわる。服に引っついてくるセンダン草の種がうっとうしい。 「ちなみにもう少し詳しくいうと、殺された全員が斧で首を落とされてる」 「そうか」 「そうかって……サワ、ほんとにおっかなくないのか?」  さっきからなんなのか。ビビっているのは忠一、お前のほうだろう。 「死んだ人間なんて空気と同じかそれ以下だ」 〈なんだと!〉 ――お前、死んだことあんのかよ。 〈ない。あたしはふじみ〉  おれが今一番怖いのはおまわり。二番めに加納軍団。ほかは屁でもくそでもゲロでもない。 「わかった、わかった。もういうな、サワ。呪われる」  崩れ落ちた塀――レンガ色のブロックをまたぎ、さらに歩いていくと昔は扉がついていたにちがいない四角い穴が見えてきた。 「あそこから入るのか」 「そうさ」  拍子抜け=泥棒としての感想。建物への侵入にあっさりと成功したおれたちは白くて汚い廊下をまっすぐと奥へ進んだ。  なかは昼間のせいもあってか意外と暗くなかった。覚悟していた埃っぽさもそれほど感じられない。湿っぽくもなければ、なんとなくイメージしていたクモの巣やコウモリの姿も見当たらなかった――身を隠すには持ってこいの場所。しばらくはそう思っていたが、壁や天井の落書きにはじまって、土足の跡、割れたか割られたかしたガラス窓、とっ散らかった床や棚なんかを見ているうちに、それも難しいなと思いなおした。 「なあ、サワ」 「あ?」 「そんなに幽霊平気なら、ここへ住んじゃうってのはどうさ?」 「ちょうど今そいつを考えてたとこだ」  広いところへ出た。広すぎていったい何畳あるのかわからない部屋だ。腕時計のバンドを見る――東。いや、南か。日射しの向きからしてどっちかだとは思うが、磁石がおかしな動きをしているせいで正しい方角がつかめない。 「うんうん。で、どうする?」  向きのわからない窓に対して左側にでかい暖炉。反対の右奥に洋風のお勝手。部屋の真ん中にはとぐろを巻いた階段があり、上の階に向かってくるくるくるっと伸びている。 「けど、人間の書いた落書きとかそこの足跡とか見てやめた」 「そっか……じゃあ、あれだ。落書きとか足跡のあまりないとこへ行こう」 「別の化けもの屋敷か?」 「うんにゃ、この建物のなかさ」  とぐろ巻きの階段を使って上の階を目指す。まわりながらあがっていくのはなんだか不思議な感じがした。軽く目もまわる。段を上るごとに足もとから軋んだ音が聞こえたが、階段自体はしっかりしていた。手すりをつかんで揺すってみてもそのへんに変わりはない。 「爆発あた……忠一の母ちゃん、おれのことで怒ってたんだろ」 「うんにゃ、サボったからさ。まあ、いつものことだけどな」  思いやりめいたうそ。爆発頭の怒りの原因はおれが――息子を悪い道へ引っぱりこもうとしているにちがいないガキが、家にまであがりこんできていたからだ。 「昔みたいな目にあってほしくない」 「え?」  忠一が足を止めて振り返ってくる。 「そういわれて『あいつはそういう友だちじゃない』っていってたぞ、お前」 「サワ、耳いいなあ……」 「その『昔みたいな目』にあわせてきた『そういう友だち』って、失敗した家出とか無理やりやらされた万引きに関係してんだろ」  質問しながら忠一を追い越した。階段は相変わらずこの場にぴったりな音を立てて鳴らし、建物の薄気味悪さをより一層味わい深いものにしている。 「まあな。けどそんなの大宮へ越してくる前の話さ」  聞いておいてなんだが、それは今どうでもいいことだった。質問を変える。 「忠一の母ちゃん、どこへ電話してたんだ?」 「学校さ。サワがほんとに転校生かどうか確認するためにな。で、悲しいことにそのうそはまんまとバレた」  忠一がおれを抜き返す。軋みがいくらか派手になった。 「高木巡査長の耳にも入ってんだろうな、おれのいろいろは」  この街にい続ければいずれ見つかって捕まる。かといって今の今、やたらと外を歩きまわるわけにもいかない。そういう意味じゃナイスなタイミングで化けもの屋敷へ連れてこられたわけだが、これもこれで袋のねずみとそう変わるもんでもなかった。 「ごめん。そこもサワが安心できるようなことをいってやれない」 「気なんか使う必要ない。へたにごまかされるよりよっぽどいい」  階段を上りきったところでぷっくらした指がどこかを差す――ちゃんと扉のある部屋。入口の左側にはサビの浮きまくった外国の鎧、右側の壁からは《角|つの》の一本足りない黒ヤギが頭を突きだしてきていた。いかにも不気味な飾りつけだ。 「忠一はどうしておれに肩入れする」  階段の敷物と同じ色の廊下を進む。 「運命を感じた、としかいいようがない」  得意のセリフ。忠一がやることの大抵はこの言葉にコントロールされていた。なんちゃらダムスの弟子が再び足を止める。 「サワ。ここから先はオレもはじめてだ。覚悟はいいか?」 「覚悟もへったくれもない。正面のあの部屋へ行けばいいのか」 「いいんだな? ほんとに後悔しないな?」 「そのつもりで二階へ来たんだろ。ごちゃごちゃいってんなよ」  くしゃ顔ふうの泣きべそ――いや、逆か。そんな顔をしている男におれは馬鹿といわれた。  殺された五人のうち、四人の死体=首から下のそいつはこの部屋で発見されたらしい。 「ぞくぞくするぞ、さすがに」  壁には窓がひとつもなかった。その代わりなのか、四角い小さな青空が高い天井の先に見えている。 「いいな、ここ」  ビルの上からでものぞかれない限り、夜に灯りをつけてもわからない部屋の造り。誰も来ないものなら、まじめにここで寝泊まりしたいと思った。 「いいってなんだよ。死体があった部屋だぞ」 「今はない」 「おかしい。サワお前、ほんとにおかしい」 「生まれつきだ。気にするな」  派手に空けられた穴――誰かが思いきり蹴ったか、バットで何度もぶん殴ったかした壁のそれが目に留まる。馬鹿は結局どこにでもやってくるってことか。残念な気分を鼻息にして吐きだし、穴の前へとしゃがみこむ――異常に厚い壁。穴からはとなりの部屋がのぞけたが、その景色は穴の先四十センチぐらいからはじまっていた。  頭を奥まで突っこんでみる――となりはかなり広く、こっちにはない窓があった。いくつかは割られていて、いくつかは小豆色のカーテンがさえぎっている。部分的に赤が強くなっているところは窓側からの日射しを受けてそうなっているんだろう。 「おい、ちょっとこれ」 「なんかいいもんでもあったか」  穴から頭を抜きながらいい、それから忠一の見ている先へ目をやる――ところどころ反り返った木目の床。よく見ると黒い染みが点々模様を作っていた。 「血の跡じゃないか?」 「そうかもな」 「かもなって……」  この部屋には死体があった。血の跡ぐらい不思議でもなんでもない。大げさな声がまた聞こえた。 「ここ見てみろ、ここ!」  今度は入口扉の近く。同じく床につけられた染みと、なにかで深くまでえぐられた傷の跡。そいつがいくつも重なってあった。 「斧だ! 斧が突き刺さった跡だぞ、これ!」  そういわれるとそうにしか見えない。 「てことは、ここで首ちょんぱされたってわけか。ナンマイダブだな」 「霊を馬鹿にしちゃだめだ、サワ」  馬鹿もなにも、そんなものはこの世にもあの世にもどの世にもいない。おれは足もとの染みと傷に唾を吐きつけた。 「だからそういうことしちゃまずいって!」 「関係ない」 「たたられるぞ。呪い殺されるぞ」 「お前、Qかよ」 「ちがう! サワの身を心配していってんだ!」 「殺したのはおれじゃないからな。それでもなんかしてくるなら返り討ちにしてやるよ」 「霊にそんな理屈通じるわけないだろ!」 「そんなにものわかり悪いのか、霊って。化けものじゃなくて馬鹿ものだな」 〈なんだと!〉 「サワ!」 ――どいつもこいつもうっせえな、まったく。 「なんだよ」 「祈れ!」  鬼のくしゃ顔。こっちのほうが化けものよりよっぽど怖い。 「誰に」 「屋敷のなかをさまよう魂全部にだ! 早く!」 「冗談だろ」  忠一が膝を折る。床に額をこすりつける――おれのほうを向いて。つまりは土下座。 「なにやってんだ」 「沢村くん、お願いです。このとおりです。霊に祈って謝って、ただちに床を拭いてください」 ――ビビりすぎて気がおかしくなったか。 「変な真似はよせ」 「では、お願いを聞いてください」  丁寧で強引な食い下がり。なんだか調子が狂う。 「わかった、わかった――化けものさん、どうもすいませんでした」  なんみょうほうれん、なむあみだぶつ。アーメン、そうめん、みそラーメン。思いついた念仏を頭に浮かべ、唾の跡をスパイクシューズの裏でこする。床はごりごりと音を立てるだけだった。 「ところで忠一」  どこからか入りこんできた風が首筋をなでる。忠一もおれと同じそれを感じ取ったのか、やたらと首のまわりを気にしはじめた。 「おれは安全に早くこの街を出――」  でかい物音=勢いよく閉められた扉の衝撃音が部屋の空気を揺るがす。 「うぉあぇらでゅれれれたねら!」  がなり散らされるあの世の言葉――やめろ、《静恵|きちがい》かお前は。 「すぱけなば!」  天井から延びてきている光の柱のなかを埃が舞う。磁石にへばりつく釘かなにかみたいにして、入口扉へとしがみつくイタコの忠一。棒きれ一本で不良どもをぶちのめした男にはとても見えない。 「落ち着け」 「やらら! ろあれじぇんこでれらっぞ!」 「おい」 「ろこじゃってむなもし!」 「頼む。ほんと、なにいってっかわかんねえから」  檻へ無理やり閉じこめられた猿みたいな動きで取っ手を引っぱる《ろこじゃってむなもし》。それじゃどうやったって開くわけがない。 「無駄に慌ててんじゃねえよ。貸してみろ」 「えぅうぇ?」  おれは扉を押した。 「わんじゃら!」 「抱きつくな! そしてちゃんと日本語を使え!」  背中で潰れる札束。おんぶお化けはなかなかおれから離れなかった。  小豆色のカーテンを取っぱらい、窓も開けた。部屋のなかが一気に明るくなる。舞いあがった埃は風が外へ運びだしてくれた。 「化けもの屋敷じゃないよな。こうやって見てると」 「日が落ちたらそんなこともいってられないぞ」  ちゃんとしゃべれるようになった忠一と窓枠の下へしゃがみこみ、おれはなぜか頭の部分だけになっている鎧の上へ腰をかけた。 「ばち当たりなことするなよ」 「そんなもの、なにもしてなくたって年中当てられてる。同じだ」 「じゃあ、運が悪くなる」  それは困る。ただでさえよくない運をこれ以上悪くされてもたまらない。鎧の頭をただちに椅子の役目から解放してやった。霊だの神だのを信じるわけじゃないが、用心に越したことはない。 「対策のメモ、持ってきたか?」  くしゃ顔の意味を読む――当たり前だろう。となりとはちがう床=もとはふかふかだったにちがいない、今じゃカチカチのじゅうたんの上に、おれのいったものと補助キャップつきの鉛筆が並べられた。 「でもこれ、状況変わっちまったからあんまり意味ないよな」  そんなこともない。ここに書いてある内容を知っているかいないかで、旅のしかたもずいぶんと変わってくる。 「これはこれで意味がある」  より慎重に。より確実に。焦らず、騒がず、よく考えて。それらはすべて安全につながる――言葉を口のなかだけで繰り返し、自分の心にいい聞かせた。慌てる乞食は犬よりも弱い。 「サワにそういわれると、なんか普通の五倍ぐらい嬉しいぞ」  《お古》の安いチャリンコを売っている店の場所を忠一に聞いて教わり、お返しにキューブの公式=六面を揃えるまでのやり方を、対策その三とだけ書かれた広告の裏へ図に描いて渡してやった。 「よし、これでいつでもモテモテだ」 「そこは保証できないからな」  頭の片隅で思う。今日のいつ、この街を出ていくか。ガキの立場で考えるなら明るいうちのほうがいいが、さっきの今でそいつをやるのはあまり賢い考えとはいえない。 「ストップ。そこは時計と反対まわりだ」  となると移動は日が落ちてから=ガキには向かない時間帯でするしかないが、ひとりでやるならそこらへんはさほど苦じゃないし、実際慣れてもいる。ただ、その場合は忠一たっての頼み=安いチャリンコを手に入れてどうこう、という手順は踏めない。魔法の鍵が人知れず活躍することになる。 「……難しすぎる。サワもよくこんなの覚えてられるな」  強い風が二種類のカーテン=ひどく黄ばんだ薄いそれと赤い厚手のそれをめくりあげる。薄いほうだけがレールを滑り、もともとあった位置へと戻ってきた。 「慣れの問題だ」  おそらく忠一はおれがこの街を出ていくまで一緒にいるつもりだろう。そして別れた後は家へ戻り、爆発頭にどやされ、教師や父親からも同じ責めを受けるにちがいない。最悪のパターンだとそこへ高木が追加されて……いや、そっちは教師父親よりも決定的か。 「悪かったな」 「ん? なにがさ」 「変ないろいろに巻きこんじまって」 「いろいろ?」  忠一の身に降りかかってくる災難は親と教師とおまわりの説教だけじゃなかった。 「今日起きたトラブルは全部おれのせいだ」  頭に浮かぶ裏切り者の顔=塩原とかいうガキのビビり《面|づら》。 「いっただろ、運――」 「《命|めい》か。飽きたな、それも」 「何度でもいうさ」 「まるで言葉の拷問だ。ところで――」  うお!=運命野郎のびっくり声。不安定なところへ立ててあった鎧の頭=鉄かぶとが床にごろんと転がっただけだった。 「忠一お前――」 「いうな」 「あ?」 「サワはオレが後でなんかしゃべると思ってんだろ。高木さんとかに」 「そっちの心配はしてない」 「そっち?」  完全一面=横一段の色を四面とも揃えたキューブが、おれと忠一の間に置かれた。 「この街からおれが消えるとお前ひとりがもれなく狙われる」 「誰にさ?」 「加納軍団にだよ」  おれは二度と会わないからいい。だけど忠一はそうもいかない。この街で暮らしていれば、いずれどこかで顔を合わせる――というより、お返しをされる。 「なんだ」  学生ズボンのポケットから取りだされてきたチェルシー。忠一はバタースカッチのそいつを箱からひと粒抜き取り、残りを丸ごとおれに手渡してきた。 「なんだってことないだろう」 「大丈夫さ。昔とちがうからな、今のオレは」  昔のオレ=たぶん、なにかかっぱらってこいと誰かに命令されていた頃の《忠一|オレ》。 「聞くか? 素手でも棒でも人を殴れなかった頃の話」  銀紙を剥ぐ――花柄の箱から取りだした最後のひと粒。いやにべたつく黄土色のかたまりを口のなかへ放りこむと、忠一はそれを合図とみたのか、勝手に昔話をはじめた。 「《神奈川|かながわ》の《横須賀|よこすか》ってとこ、知ってるか?」  歌の歌詞なんかじゃよく聞く名前。 「あんた、あの《娘|こ》のなんなのさ、のあれか」  花柄の箱を握り潰しながらいった。 「そうそう。ヨコスカ、ヨーコ、ヨヨヨのあれさ。オレはその街で生まれたんだ。そんで二年前まで暮らしてた」  小学校へあがると同時に近所の野球教室へ通いはじめた忠一は、引っこみ思案だったせいでチームメイトによくからかわれたらしい。 「小三の夏頃ぐらいからさ。だんだんといじめっぽくなってきたのは」 「よくあるパターンだ」  つらかったかどうか――ありきたりの質問をする。 「まあな。でもそのときはまだ我慢できてたし、後で起こることに比べたら序の口だった。今考えると」 「我慢なんてする必要ないだろ。だいたいそういうやつらは束にならなきゃなにもできない。ひとりになったところを狙って後ろから――」 「だからいってるだろ、引っこみ思案だったって。そんなの考えもしなかったわ」  四年のときには殴られ蹴られの毎日で野球どころじゃなかった忠一。おれみたいな顔をその頃は毎日していたらしい。 「信じられないな。今じゃこんなにしつこいのに」 「おい」 「で、引っこみ思案じゃなくなってから馬鹿どもをぶっ叩いた。そういう流れか?」  横に振られる首。 「なんでだよ。さっきみたいに――」  そういえばここまでに剣道がどうとかいう話は出てきていない。忠一はいつからそいつをはじめたのか――聞いてみた。 「それはもうちょっと先になってからさ」  口ぶりからして剣道をはじめた時期は五年か六年。大宮へ越してきたタイミングと微妙に重なる。 「どんどん《どつぼ》にはまっていきそうな感じだな、聞いてると」  仲間とはいえない仲間どもは、なにもいい返してこない、やり返してこない引っこみ思案をいいように使いはじめる。もちろん本人もそうされないように逃げて隠れての努力はした。だが、同じ町内で繰り広げられる隠れんぼや鬼ごっこは無駄な抵抗どころか、いじめを激しくさせる原因にしかならない、ということを忠一はそのときに思い知る。殺人を思い留まったのもそのときらしい。 「グループのボスなんかオレんちの向かいに家があったしな」 「いつだって一緒にいるしかなかったってことか……」 「サワは昔から強そうだな。泣いたり落ちこんだりとか絶対なさそうだ」  弱くはない、と自分じゃ思っているが、それは暴力の痛みとかそのへんに限っての話。心のほうは今だって簡単にめげる。 「泣いたことぐらい、おれにだってある」 「そっか。なんか意外だけど、わりかし似てるのかもな。オレたち」 ――そこはどうか。 「でも正直、自分にされた覚えがないことを丸ごとわかってやるのは難しい……っていうか無理だ。まあ、話の中身は聞いて理解しちゃいるけど」 「そりゃそうさ。おんなじ脳みそ使ってるわけじゃないしな」 ――ごもっとも。 「監督とかコーチとか、あと学校の担任なんかに相談すればよかったじゃねえか」  らしくない意見をしゃあしゃあといってのけるおれ――むずがゆい気分。 「それすると母ちゃんたちにバレちまうだろ。そっちがなんかやだった。だからしかたなく毎朝決まった時間に家を出て地獄へ通ったさ」  五年になりたての春、忠一は何度か首吊りをためし、楽には死ねないことに気づく。生きるのにも、生きるのをやめるのにも絶望した男は考えることをやめ、それからはいじめてくるやつらのいいなりになって暮らした。 「ロボットになってからは痛い思いだけじゃなしに、日替わりでいろんなことをさせられたぞ」 「金を持ってこい、とかか」 「それはなかった。オレんちが金持ちじゃないことはみんな知ってたから」  ピンポンダッシュにはじまり、いたずら電話、女子への嫌がらせ、野良猫を傘で突き殺す真似、止まっている車に十円玉で絵を描く、カツアゲの手伝い、自分じゃ欲しくもない本やおもちゃの万引き。その合間合間に人間サンドバッグや《尻|けつ》バット――忠一ロボットがやらされてきた、またはやられてきたあれこれ。 「なかでも盗みが一番いやだった」  尻ポケットの帽子を奥へとねじこむ――一ミリもねじこめなかった。 「オレ、自分で要領悪いのわかってたし器用でもなかったから、やると大抵見つかって捕まるんだよ。刑事訴訟法第二百十三条、現行犯逮捕ってやつだな」  墨色の気分に占領されていく心。自分が昔にやってきたこと=追いこむ側にいたのを思いだしたせいだった。やり口はちがうが、弱いやつを力で従わせてきたのは同じ。目の前のくしゃ顔を見ているのが、なんともつらくなってきた。 「爆発頭がいってたのはそのへんの話、か」 「あはは、いいなそれ」  口が滑った――ひとつのことに気を取られてるといつもこれだ。 「悪い」 「いいさ。今度からオレも使うから」  昔話は続く。ある日忠一は親と担任の両方から問い詰められた。どうして悪さばかり繰り返すのかと。だが、なにかしゃべって仕返しされるのが怖かった忠一はどっちにもそのわけを話さなかった。あげく不器用で要領の悪い家出をして捕まり、連れ戻され、次の日からは学校へも行かなくなった。 「サワ、児童相談所って知ってるか?」  はじめて聞く言葉だった。漢字でどう書くのかを教わる。広告の裏=対策その二用のそれに書かれた文字を見て意味はなんとなくつかめたが、どういうところなのかまでは想像がつかなかった。 「少年院とか鑑別所みたいなところか?」 「たぶんちがう。ていうか、オレはそっちを知らない」 ――同じく。  忠一は見も知らないやつと二週間、そこで一緒に生活をする。外へは一歩も出られなかったが特に厳しくされることもなく、卓球やレクリエーションをして過ごしたらしい。 「半月ずっとそんな調子だったのか」 「んっとな……作文を書いた。知能テストもやった。あとは……夜寝る前に三十分ぐらいそこの先生と話をした。ほかは覚えてない」 「飯は?」 「そっちはよく覚えてる。けっこう、うまかった」 「なんか楽しそうだな、そこ」 「ああ、実際楽しかったぜ。自由ってほど自由じゃなかったけど、なんていうか……心が楽になった気がした」 「わかるよ」  いやなものからの解放。おれの最近でいえば、家出をはじめた晩に思った気持ちがそれに近いかもしれない。 「同じ部屋になったやつがおもしろい男でさ。《占部|うらべ》っていって、今でもたまに電話かかってきたりするんだけど、そいつオレと同じで人のことを殴れなかったんだ」 「今は殴れるみたいないい方だな」 「そこはどうか知らない。けどそのときは誰かを殴るどころか蚊を殺すのもいやだっていってた。オレよりひどい。ちなみに占部も《左利き|サウスポー》さ。その頃は運命とか気にしてなかったからあれだけど、でも人生を修理するきっかけになるんじゃないかって感じはあった」 「剣道とつながってきそうだな、そのへん」 「正解。サワは頭もいいけど勘もいいな」  殴れないならなにか別のもので叩けばいい=児童相談所で出会った似た者同士の結論。そうしてふたりは家へ戻るなり剣道をはじめた。 「オレもそいつも今一級なんだぜ。来年はいよいよ昇段試験さ」 「一級がすげえのはおれにもわかるよ」  あのガキはそろばんが一級だった。忠一は剣道でそれだ。金持ちにも級があるなら武田は文句なしの一級だろう。 「これで《中学野球|シニア》もレギュラー……じゃなくても、せめてベンチ入りできればいうことないんだけどな」  誰もが人に自慢できるものを持っていた。級じゃなくても誇れるなにか――たとえば真奈美はスパイが得意だ。聖香は美滝一の美人だ。北沢はでかい体と怪力を持っているし、新井は馬鹿みたいに絵がうまい。豚にしたって生徒のなかじゃ一番えらい会長だ。 「ぜいたくだ」  だけどおれにはなにもなかった。この国で一番奴隷が似合う小学生とか、かっぱらいが得意だとか、そんなものはこれっぽっちも自慢できるものじゃない。 「で、結局どうしたんだ」  ふてくされたい気分で聞いた。 「どうしたってなにをさ」 「きっちり礼をしてやったのかって話だよ。いじこじしてきたやつらに」 「必要なくなった」  忠一の通っていた道場が地区予選の団体戦で優勝を決めると、いじこじ軍団は次の日に全員でロボット扱いをしていた男に頭を下げてきた――今まで悪かった、と。 「オレ、先鋒で負けたんだけどな、その試合」 「まさかお前――」 「ああ、まさか許したさ。きれいさっぱりな」  人がいいのか馬鹿なのか、おれには判断がつかなかった。そして納得もいっていない。 「かたちばっかのごめんなさいをされたぐらいで許すやつがどこにいる」 「ここにいるさ」  甘い、甘い、甘い。甘すぎる。おれなら待ってましたとばかりにそいつらの心をへし折りにかかっている。 「サワはそういうけど、ちゃんと心をこめて謝ってきたぞ、そいつら」  納得はともかく、判断はついた。忠一は人がいいんじゃない。馬鹿でもない。怒りの神経が別のちがう神経と置き換わっちまう病気かなにかだ。 「なんのための剣道だよ。《森田|もりた》《健作|けんさく》にでもなりたかったのか? 仕返しはどこへいった?」 「サワ」 「なんだよ」 「剣道は恨みを晴らすための武道じゃないぞ」 「だとしても最初はそのつもりではじめたんだろうが」 「まあな。でも自分が強くなってくると、どうでもよくなってくるんだよ、そういうのって」  さらに納得がいかない。強くなれずに途中で諦めたならまだしも、欲しかった力――しかも一級品のそれを手に入れておいて、どうでもいいはないだろう。 「わからないな」 「竹刀を握ればわかるさ」  黄ばんだカーテンが風にふくらむ。 「だけどオレにもちょっとだけ汚い考えはあったぞ」  転校してきた《大宮|こっち》でも剣道を続けたのは、前みたくならないようにするため――忠一の白状。そこは納得がいく。 「で、どうだったよ? こっちじゃ」 「拍子抜けするほど平和な毎日。心配してたことと剣道は今じゃまるで関係なくなってる」  暴力を振るわなくても相手が勝手にビビってくれるのなら、こんな楽な暮らしはない。 「試合以外で実際に役に立ったのはだから、今日がはじめてだ」 「役に立ったおかげで今度は狙われる立場になっちまった」 ――おれのせいで。 「いいさ」  たぶん凜々しいつもりのくしゃ顔。昔のオレとはちがう。だからひとり狙われることになっても心配ない――表情から読み取れる意味としてはそんなところ。 「やりあうのか」 「逃げる理由はないからな」  心構えは見あげたもの。だが、剣道は空手や柔道とちがうところがひとつある。忠一はそこをどうカバーするつもりなのか。 「いつだって棒きれ持って歩けるわけじゃないだろう」 「まあな。素手だときっとこてんぱんにやられる」 「どうすんだ」 「そのときは高木さんにでも助けてもらうさ」  カバーする気ゼロ。ただし、代わりのアイデアとしては悪くない。おれ好みのやり方じゃないが、ふたりの関係を考えたら当たり前の流れ。どんな不良もおまわりには勝てない。 「昔話はこれでしまいさ」  忠一が自分の顔みたいになっている箱=さっきおれが握り潰した花柄のケースを床から拾い、もとの箱形に戻してベルマークの部分だけをちぎり取った。 「サワはいつまでやってたんだ?」  スナップを効かせた左手で空気のボールを投げてくる忠一。 「《阪急|ブレーブス》がV4《逃|のが》した年までだ」  実際にはやめたわけじゃなく、続けることができなくなっただけだが、そこらへんの事情を話すのは面倒くさい――省略。 「もったいないなあ。家出が一段落したらまたはじめろよ」  脳天気なセリフに吹いていると、巨人を嫌いかどうか聞かれた。好きじゃないと答えた。 「ヤクルトよりもか」 「……まあ、どっちも好きじゃねえけど、マシなほうを選べっていうならヤクルトだ」 「V4を阻止してきた相手だぞ、阪急の」  それはわかっている。ただやっぱり、ヤクルトは巨人とちがう。立場としては阪急に近いものをおれは感じている。 「巨人だな。おれが思うほんとの敵は。忠一には悪いけど、あいつら象みたいだ」 「ゾウって……鼻の長いあれか?」 「ああ。でかくて強くてみんなにいい顔してる、あれだ」  ついでにいうなら人気もあって金もある。ホームだってあの後楽園だ。ほかの十一球団とは格がちがう。 「たしかにそんなイメージあるな、巨人は。阪急はなんだ?」 「蟻」 「ブレーブスってそういう意味なのか」 「ちがう。勇者だ。おれは勇ましい蟻だと勝手に思ってる」 「おお、それはそれでなんかかっこいいな。でもなんで蟻?」 「弱かったから」 「V3決めたチームが弱いわけないだろ」 「V1決めるまでは弱かった。人気も全然なかったし、パ・リーグで優勝したことはあっても、日本シリーズじゃいつだってぼろくそにされてた」  外に向かってはためきだしたカーテンをぶっちぎって床へ放る。人目につくとうまくない――小さな目を小さな黒丸にしている忠一にはそう説明した。 「ぼろくそにしてくる相手は決まって象の巨人だった。あのでかい足に踏み潰されたら蟻なんかひとたまりもない」 「巨人じゃなくたって、野球選手の足はみんなでかいぞ」 「サイズの話じゃない。攻撃力をいってるんだ」 「打線とか投手力のことか」  頷く。 「長嶋や王。最近じゃホワイトとか中畑か。絶対打つ。江川なんてあり得ない球投げてきやがるしな」 「うん。たしかにどの選手もとんでもない。江川も今年は怪物だった」  《怪物|ばけもの》扱いされるほどの豪速球を持つ男は本当なら阪急の選手だった――と、昔に誰かから聞いたことがある。詳しいところは教わっていないか、そうじゃなきゃ覚えていない。その関係でおれが知っているのは、ドラフトで何度も揉めたそいつを最終的に巨人が汚い手でものにした話と、そのときの自軍のエース――背番号十八をつけたピッチャーを問題解決の道具にしたってことだけだ。腕はまちがいなく一級品なのに、江川はそうしたいざこざのせいでどの球団のファンにもいい顔をされていない。 「そしたらあれか。サワが蟻の阪急を好きなのは、でかくて強い象を二年続けて倒したからか」  まったくそのとおりだった。 「ああ。自分たち蟻を踏み潰そうとしてきた象を返り討ちにしちまった。V2のときだな。しびれたよ。もうかなり昔だけど」 「よく覚えてるぞ。あの日オレは六回裏で嬉し泣きして、七回表で悔し泣きした。八回表で福本のソロを見せられたときは鼻血が出たもんさ」  懐かしさと悔しさをごちゃ混ぜにしたくしゃ顔で《へそ》前の結び目を《解|ほど》きにかかる忠一。この部屋は少し暑い。おれも同じことをした。 「今年はじゃあ、気が晴れたろ」 「半分だな。相手がちがってるし……ほい、これ」  差しだされてきたのは腰巻き。正確には、ついさっきまで腰巻きにされていたジャンバートレーナー。 「これをどうしろってんだよ」 「やるよ」 「巨人のジャンバーなんていらない」  いいながら、自分の履きものも忠一のスパイクだということを思いだした。 「どうせならこっちをプレゼントしてくれ。おれとしてはそのほうがありがたい」  足を前に突きだしていった。 「いいけど、それ練習用だぞ」 「野球をするわけじゃないからな」 「だったら、こっちにしろよ」  忠一がスニーカー――黒い、ミズノを脱ぐ。 「ほい」  手渡された脱ぎたてのミズノ。生温かさが指に伝わってきた。 「でもこれ、高いだろ。いっちゃなんだけど、こっちのスパイクのほうが安そうだ」 「道を削って歩いてもしかたないと思うぞ」 「そりゃそうだけど……んじゃ、あれだ。金を払う。いくらだった、これ」  忠一が首を振る。きっとそうしてくるだろうとは思っていたが、ちゃんと金を払って買われた靴をタダでもらうわけにはいかない。 「だめだ。それじゃおれの気が済まない。せめて――」 「節約中なんだろ、金」 「いや、だけど――」 「タダでやるんじゃない。交換さ」 「交換? なにとさ」 「バッシュ」  意味をつかむのに少し時間がかかった。 「あれはサイズがいくらか小さい」  バッシュ――自衛隊官舎へ置き去りにしてきたコンバース。サイズは二十二・五。こいつの足はそれよりもひとまわりでかい。 「大丈夫。伸ばして履くから」  どうしたらそんなことができるのか謎だったが、取りに戻れない以上、そのへんは忠一の好きにしてもらってかまわなかった。 「だったら、こいつもやる」  背負っていたナップサックをおろす。中身を忠一に見せないように気をつけながら左手を突っこみ、電撃トレードの追加選手を手探りした。 「金なら受け取らないぞ」 「そんなのよりもっといいものだ。きっと気にいる」  札束をほじくって取りだした金じゃないものを巨人小僧の手のひらへ載せてやる。 「おいおい、これって……」 「誰のかはわかるよな」 「もちろんさ! 本塁打八百六十八本、現役通算打率三割〇分一厘! 世界の――」  割り算を大の苦手としている男の口から飛びだしてきた正確な数字に思わず吹きそうになった。 「あ、でもいらね」  弾けんばかりのくしゃ顔をわずか数秒でぶっちょう面に変えてきた忠一。どうしたのか。 「これだってどうせ……《万引き|あれ》だろ」  当たり。ただしそれをしたのはあのガキでおれじゃない。 「家出する前の日に友だちからもらったんだ。かっぱらってきたもんじゃない」  小さな穴から発射されてきた疑いのまなざし。目を逸らさずに受け止めてやった。二秒、三秒、四秒。ぷっくらした五本の指が赤い縫いめにかかる。 「サワ、巨人好きじゃないんもんな」  嫌いな球団の選手がサインしたボールなんて、いくらなんでもかっぱらっちゃこないよな――言葉の意味はたぶん、そういうこと。 「直筆かな、これ」 「日付も入ってるし、字の端っこが縫いめにかかってるところもあるからそうじゃねえか。わかんねえけど」 「だよな、だよな」  世界一のホームラン記録を持つ男のサインボール。眺めているだけでも力が湧いてきそうだ。 「あと、サワのジャンバーもこっちにくれよ」 「なにいってんだ」  銀の刺しゅうが入ったこいつは特別気にいっているジャンバーだ。シャツほどじゃないが、真奈美のにおいだって染みこんでいる。坊主頭の野球馬鹿に着こなせるシロモノじゃない。 「なにって、邪魔だろう」  意味がわからない。着てないから邪魔だというなら、よこされたジャンバートレーナーのほうが何倍も邪魔くさい。 「ほい、早く」 「ふざけるな。だったらこれも靴もいら――」 「シャツのほうは……上を着ちゃえば見えないか」  意味がやっとわかった。 「ちょっと時間をくれ」  いって、自分のジャンバーに顔を《埋|うず》める。真奈美のにおい。真奈美のぬくもり。真奈美の思い――嗅ぎまくった。吸いこみまくった。どれもこれもなにもかも、残さず肺へとしまいこんでやった。 「……大丈夫か、おい」  吸いかすから顔を離すとハの字の眉が見えた――くしゃ顔のそれ。誰かとちがってさっぱりかわいくない。 「大丈夫だ」  互いの上着を交換し、おれはそいつを腰巻きにした――変装のための準備。イカしたジャンバーを手にした男はこんな陽気にも関わらず、両袖にしっかりと腕を通していた。 「お節介のかたまりだな、忠一は」 「友だちの自由に協力したいだけさ」 「そんなことしてなんの得がある」 「友情は損とか得じゃ……ん? なんだこれ。ああ、お前か」  お前=長谷川。いつの間に、と考えて官舎を脱出したときのことを思いだした。おれはなにをやっているのか。 「こいつは返しとくぞ。ほい」  手のひらで逆さまになった長谷川。腹の甲羅にまで背中と同じ模様があった。 「悪いんだけど……できたら《長谷川|こいつ》も――」 「無理。いったろ? 爆発母ちゃん、生きものはだめだって」 「友情でなんとかならないのか」 「ならない。けどサワがここで暮らすならそいつの餌とか面倒――」  忠一の口の前へ手のひらを持っていく。長谷川は一旦ナップサックへ放りこんだ。 「どうした?」  抑えられた声での質問。 「この建物に誰か入ってきたぞ」 「マジか!?」  おれは左手に稲妻をつかみ、扉のほうへと近づいた。 「どうする?」 「今、考えてる」  背中越しに答え、耳で扉の外の様子をうかがう――あいまいな気配。だが、例の音=とぐろを巻いた階段の軋みはきっちりと足音のリズムで聞こえている。 「……まさか、幽――」 「ちがう。ちゃんと足のあるやつらだ」  息を凝らし、神経をさらに耳へ集める――わずかに聞こえる人の声。男か女かまではわからないが、ひとり言には聞こえない。加納軍団か。 「ふたり以上……だな。肝だめしだと思うか?」 「それしかないだろ」  軋みがやみ、床を踏む靴の音がはっきりと聞こえだす。話し声の輪郭もだいぶはっきりしてきていた。耳を心の目に変え、扉の向こうを透かし見る――大人じゃない男と女がそれぞれひとり。《加納軍団|やつら》じゃなさそうだ。  言葉の数は男のほうが多めだった。二足分の靴音のうち、歩幅が広いほうは硬めの底――革靴かなにか。狭いほうは反対に軽やかだ。どっちも化けものに怯えていないことは床の踏み方と歩いてくるスピードでわかる。分析結果を丸ごと忠一に伝えてやった。 「なんでそんなとこまでわかるんだよ」 「何日も家出してると耳がよくなる。なにか適当な武器を探しとけ」 「わ、わかった」  気配は死体置き場のほうへと流れていった。扉の前から移動をする。派手に空けられた穴=となりとこの部屋をつなぐそれの脇へしゃがみ、左耳を壁に押しつけた――穴を挟んで向かい合うおれたち。扉が開いて閉まるのを振動つきの音で聞いた。  最初におれが穴をのぞいた。見えたのは紺の長いスカート。つまり女のほうは中学生か高校生。首を伸ばし、頭を忠一のいる側へ持っていくと残りのひとりも見えた――黒い上下。こっちもこっちでどこかの学生だ。顔はふたりとも確認できなかった。 「サワ」  呼ばれて首を引っこめる――すぐさま突きだされてきた紙。 「そうだ」  小声で返した。児童相談所の文字のとなりへ書かれた質問=『まちがいなく人間か?』に対しての返事。忠一が胸をなでおろす。 〝誰もいないじゃない〟 〝そのうち来るよ〟  タバコのにおいとともに穴を抜けてきたおしゃべり=人間の追加を意味するやり取り。 「……まずいな」  ここはさっさと出ちまうに限る。せっかくの休憩場所を捨てるのは惜しい気もするがしかたがない。おれは忠一の書いた質問の脇へ『こっそりばいなら』と書き、穴をのぞきこんでいる男の肩を叩いた。 「おい、なにやってんだ」  坊主頭の後ろで文句をささやく――続く無視。中指の第二関節で後頭部の硬い毛=生えかけのそれを思いきり摩擦してやった。 「いつまでのぞ……」  文句の途中で言葉を飲みこむ。くちびるをわななかせ、目尻をけいれんさせまくっているくしゃ顔。おれは床へ転がしておいた鉛筆をもう一度握りしめた。 (どうした?) (ショック)  広告の裏を使ったやり取り。続ける。 (なにがショック?) (香織)  誰だかの名前を書かれてもおれにはわからないが、状況から考えて長いスカートを履いた女がそいつなんだろう。 (女はどういう知りあいだ? 男のほうは?) (女→サワも昼に街で見てる。男→知らない。二中の生徒にあんなカッパみたいなのはいない)  けいれん顔の理由はわかった。わからないのは恋する忠一のお相手がなぜここへ、しかもカッパなんか連れてやって来たのか、だ。まさか忠一が呼んでこうなっているわけでもないだろう。広告の裏=対策メモから連絡帳になったそれへ鉛筆を走らせる。 (あいつらなんでここにいる?) (そんなのオレが知りたい)  偶然にしちゃ《ふ》に落ちない。肝だめしには時間が早すぎる。それをして涼しくなりたいと思う季節もとっくに過ぎている。ここはそんなものと関係なく賑わう人気の化けもの屋敷なんだろうか。だけどそれならそれで、もっと怖がってなきゃおかしい。  相当な慰めを必要としているくしゃ顔に文字でいう。気持ちはわかる。でも逃げよう。人が来る――鉛筆をもぎ取られた。 (きっとデートだ) ――なるほど。 (そんな感じだな) (あいつ、竹刀で叩き殺してやりたい) 『なんで?』と続けた文字を塗り潰し、『そんなに好きなのか?→《香織|かおり》』と書きなおした――名前の上へ力強く描かれたいびつなハート。 (けど、彼氏がいたんじゃしょうがない) (わかってる) (なら、諦めろ。とにかく早くここを出) 「やだ」  字を書いている途中での断り。行を変えて質問する。 (カッパ男をぶっ飛ばすつもりか?) (それも無理) (さっき叩き殺したいっていってたぞ?) (気分的には殺人鬼。でも実際は心を殺された思い)  意味がわからない。 (だったら、どうすりゃ気が済むんだ) 「時間が止まればいいのにな」  蚊のため息並みの声でささやかれてきた、答えになっていない答え。いいから来い、という意味でちょっと前までおれのものだったジャンバーの肩を引っつかむ――岩になる忠一。 「時間は止まらない。止まってるのは忠一の脳みそだけだ。さっさと立て」  駄々っ子のように――いや、駄々っ子そのもので首を振られた。あんな不良女のどこがいいのか。だいたいからして悪いことを嫌っているくせに、そういうにおいのぷんぷんしている女を好きになれる神経がわからない。 「オレはどうすればいいんだ……」  そのまま返してやりたいセリフ。 「後でちゃんと相談に乗ってやる」  蚊の寝言でいい返し、頭を抱えてうずくまる忠一の両袖を引っぱりあげる。やさしく、静かに、だけど力強く速やかに。岩坊主はがんとして動かない――くそ。あまりの女々しさに、しわしわしたその横っ面を張り倒してやりたくなってきたが、そうする前に鉛筆でもう一度説得をためす。 (男は諦めが肝心だ。おれだって好きな女と離れてこうしてる) (ノーコメント) (じゃあ、ここでデートのしまいまでのぞいてるつもりか?) (うん) 「おい、ふざけるのも――」 〝なに勘ちがいしてんのよ!〟  女=香織の怒った声――だるまさんが転んだ状態になるおれたち。次の瞬間、忠一が光の速さで穴に顔を突っこんだ。 〝人のことあんまり軽く見ないでくれる!?〟 〝軽くなんか見てねえよ。ちゃんと愛してるさ〟 〝馬鹿じゃないの、あんた〟 〝馬鹿はこんな真似しないぜ〟 〝な、なに……や、やめてよ、汚い!〟  ふたりのうちのどちらかが床に唾を吐いた――おそらくは香織。なにが起きたのかは考えるまでもない。忠一の目にはコブラ並みの毒だったろう。 〝汚いはねえだろうよ、香織〟  カッパ男は香織にエロいことをしたくて、この化けもの屋敷へ連れこんだ=おれの読み。そうなると最初の心配=人間追加については無視できる。忠一の悲しみがアップする代わりに、危険が小さくなった格好だ。 〝よらないで! 大声出すよ!〟 〝もう出してるじゃねえか〟  と、ここで考える――忠一の近い将来=悪くない未来。おれは白いところが少なくなってきた連絡帳の裏へ例のふた文字を殴りつけるようにして書き、岩坊主の首根っこを引っつかんだ。 「これを見ろ」  蚊のおしゃべり。しわの奥の目玉が上下する。 「……《連命|れんめい》?」  字を確認――上の字に『ワ』をつけ忘れていた。書き足す。 「それがどうしたんだよ……」  予想もしていなかった反応。くしゃ顔のしわは一ミリも動かない。 「どうしたじゃないだろう」  惚れた女が目と鼻の先で危ない目にあっている。そいつを白馬の王子よろしく勇敢に救いだす。岩坊主の人生にバラが咲き乱れる――誰もが考えそうな筋書き。この男はそんなことすら思いつけないんだろうか。 「香織、今キスされてた。それも立て続けに二度も……」 「無理やりだ。そういうのをキスとはいわない」 〝触んないで!〟  再び穴へ首を突っこもうとする忠一を引きずり戻す。 〝騒ぐなって。お化けが来たらどうすんだ〟 〝そっちのほうがあんたより全然マシよ! 帰る! どいて!〟  派手さを増すどたばた。放せ! ヘンタイ! 触るなっていってんだろ、馬鹿!――不良だけあって香織もなかなか言葉づかいが汚い。 「なんとも思わないのか」 「そりゃ、思うことはたくさんあるけど……」 「けど、なんだ」 「……なんでもない」  煮えきらない態度。おれのときは助けてきたのに、なぜ香織にはそうしないのか。理屈がまるでわからない。 「お前が惚れてる女のピンチを救ってやろうっていってんだぞ? おれは」  言葉尻がでかくなる。目がチカチカする。怒鳴りつけられないせいで怒りが馬鹿みたいに湧いてくる。 「いいよ」 「よくない。いいか、忠一――」 「だからいいって、もう」 「うるさい、聞け。あいつらが彼氏彼女じゃないのは、いくらなんでもわかるよな?」  喉の奥で怒りを潰しながらいう――力なく頷く忠一。 「おまけに女のほうはカッパのことをめちゃくちゃ嫌がってる。ものにするチャンスだろうが」 「サワがそう考えるのもわかるけど……」 「けどなんだ、はっきりいえ」 「《猪俣|いのまた》に嫌われてるんだよ、オレ……」 「イノマタ?」  カッパの名前かどうか確認――はずれ。正解は猪俣香織。となりのどたばたは小競りあい程度にまで落ち着いてきている。 「まぎらわしいな。どっちかにまとめろ。ていうか嫌われてるってなんだ。フラれたのか?」  フラれちゃいないけどフラれたようなもの。目が合えば睨まれ、すれちがえば馬鹿といわれ、野球や剣道をがんばれば野次が飛んでくる。こういうのは全部、心の底から嫌われている証拠。つまり運命的に無理な恋。届かない思い。この前なんかは――まだまだ続きそうな泣き言。 「くだらない」  運命なんてものはない、とはいわない。だが、人生のすべてをそいつが決めていると思ったら大まちがいだ。人には思いがある。心がある。考えて動ける意志がある。つまらない運命ならつまるように変えちまえばいい――運命に逆らったおれの考え。 「そういう……やらしいこと、いうなよ」 ――くだらないのがやらしいなら、お前の女々しい弁解はヘンタイだ。 「はじめる前に終わってる馬鹿のほうが、おれからしたら何百倍もやらしい」 「もとからはじまりようがない……」  いいぐさにかちんときた。『くしゃ』だか『ぐちゃ』だかわからない顔にもかちんときた。 「試合放棄か。スポーツマンらしくて涙が出る」 「スコンク負けがわかりきってる試合なんて、やってもしょうがない」 「阪急はそういう試合でもがんばった」 「オレは巨人ファンさ」  かちんが《がちん》になる。こいつに四番打者を目指す資格なんかない。 「打席に立ちもしないやつが最強チームのファンとか笑わせるな!」 〝今なんか聞こえなかったか?〟  思わず出ちまった蚊三十匹分ぐらいの声。まずい。 〝知らないわよ!〟 〝まいっか。どうせお化けだろうし。ほら、おとなしくしろって〟  化けものよりも女に夢中――脳天気なカッパ男。どたばたがまた少し勢いを盛り返す。 〝ちょっと……痛い!〟  穴をのぞきこもうとする忠一の尻を蹴った。 「痛いな。なんだよ」 「やるぞ」 「やるって、なに――」 「決まってんだろ、そんなの」  カッパ男をぶっちめる。なんなら金も巻きあげる――と、これはおれの密かなたくらみ。 「やだ」 「は?」 「顔見られんの恥ずかしい」  あきれた。驚いた。開いた口から魂が抜けかかった。 「もういい。おれが行ってぶっ飛ばしてくる」 「お、おいサワ」 「ビビり野郎は穴からおれの活躍でも見てろ」  足首をつかまれた。 「サワが行けばオレがここにいるのもバレる」  拳のデッドボールを食らわしてやりたかった。そいつで目を覚ましてやりたかった。どうにかして『それなら助けに動いたほうがマシだ』と思わせてやりたかった。 〝ちょ、ちょっと、どこに指入れてんのよ!〟  穴に頭を突っこむ忠一。腰のベルトをつかんで引っこ抜き、場所を代わる。 〝俺の気持ち知ってんだろ、香織〟  ふたりの姿は穴のかなり奥まで頭を突っこまないと確認できない位置にあった。 〝知るわけないでしょ! どいて!〟  壁穴のふちが両肩をこする――ようやく見えた黒と紺……と肌色。 〝どかねえよ。香織には今日、俺の愛をたっぷり知ってもらわなきゃならないからな〟  床へ押し倒された香織。めくれあがったスカート。真奈美のと同じ色のパンツがもろに見えていた。その上へ馬乗りに近い格好でまたがっているカッパ男。どのへんがカッパなのかわからないが、水かきのない左手は紺の上着と白いブラウスをいっぺんに剥ぎ取ろうとしていた。 「お、おい。今どうなってんだ」 「どうなってるとかいってる場合じゃないぞ」  小さな洞くつから頭を引っこ抜いていった。忠一の喉が波を打つ。 「あの女、三分後には裸だ」 「マジ――」  すっとんきょうな声の出はじめを手のひらで押さえこむ。忠一はおれに手マスクされたまま穴に顔を突っこもうとして――やめた。 「どうした。のぞかないのか」  右腕に目をやる――一三五七。耳には床を叩く音――香織の両手両足を使って鳴らされているにちがいないそれが聞こえている。 「……かない」 「あ?」 「のぞくのが……見るのがおっかない」  助けてやらないばかりか、見殺しにすらしてやらないスカタン野郎――心に砂鉄が集まりだす。 「そうか。じゃ、じっとしとこうぜ」 「え?」 「猪俣香織の地獄を、やらしいラジオでも聞いてるつもりで《にたついとこうぜ》っていってんだよ」  じゃりじゃりした気分でいった。 「おい、オレは別にそういうつもりじゃ――」 「だったら、悲しもう」  忠一がなにかいいかけて黙る――がっくりという音が聞こえてきそうなほどに落ちた肩。イカしたジャンバーがやたらとみすぼらしく見えた。 〝力抜かないと服が雑巾みたいになっちゃうぜ〟  押し黙ったまま、秒速でくしゃ顔のパターンを変えていく岩坊主。香織もどたばたやるだけで文句を返さないあたり、そろそろ降参を決めたか。 「好きでもない男に好きにされちまう。好いてくれてる男にみっともないところを盗み聞きされて、おまけに助けてももらえない。あっちは悲しいなんてもんじゃないだろうな」  最初にいったほうはおれにも経験がある。手の甲をタバコで焼かれるよりもつらい気持ちだった。忠一の心のなかも似た感じであってほしいと思う。 「だけどそれもこれもあの女の運命だ。逆らうわけにはいかない。そうだろ?」  一三五八――一分経過。手足のばたつきは少しずつおとなしくなってきている。 「で、でも……でも、絶対悪いようにはならない。必ずなんとかなる」 「この状況でか? やらしい前にめでたいな、お前」  忠一を追い詰める。追い詰めて、いいわけと運命をすり替えていることに気づかせてやる。 「ほら、のぞけよ。好きな女の裸なんてめったに見られるもんじゃないぞ」 「い、いいよ」 「まあ、そういうなって」  忠一の肩に手を伸ばす。触れる前にはねのけられた。 「オ、オレが見たいのはそういう変な……裸じゃ、ない」 「じゃあ、あの女の裸は一生拝めないな」  二分が過ぎる。勝手に決めた制限時間=香織が丸裸にされるまで残り一分。ばたつきはかろうじて。穴から漏れ聞こえてくる話し声のほとんどはカッパ男の能書きだ。 「忠一は今、四角で囲われた白線のなかにいる」  力強いしわを顔全体に張り巡らせる岩坊主。 「……もしかして話、変わったか?」  ずっこけそうになりながら残り時間を確認――ラスト、四十秒。ばたつきはゼロ。小声のやり取りと床のすれる音がときどき聞こえてくるだけで、あとは静かなもの。となりのふたりが本当に裸で抱きあいはじめたら、忠一には稲妻で眠ってもらうしかない。 「変わってない。引き続き忠一の運命についてだ」 「そうなると意味がわからない」 「サヨナラを決められるかどうかの話だ」 「やっぱり変わってる。野球の話は今いいわ」 「たとえ話だ。それぐらいわかれよ。とにかく忠一が今立ってる場所はバッターボックスだ。九回裏二死、三対〇のフルベース、フルカウント」 「なんなんだよ、そのギリギリ一杯のたとえ」 〝わかったから……〟  蚊より弱々しい文句、というよりは降参に近いセリフ。 〝自分で……うん、やるから……お願い……しまって〟  途切れ途切れのささやき――つながりのわからない言葉たち。忠一の耳にはたぶん届いていない。追い詰められた香織の気持ちを想像する――想像できない。追い詰めたカッパ男のそれはもっと想像できなかった。いずれにしろ、地獄の釜のふたはもうすぐ開く。 「ピッチャー、セットポジションに入ったぞ、忠一」  デジタルを読む――一三五九五七。おれは右の手首を左手でつかみ、三秒後に鳴る予定の電子音を手のひらで殺しにかかった。 〝そ……そっちはやめて! 処女なんだから、あたし!〟  壁の穴に潜っていった坊主頭がすぐに戻って出てきた。 「かかか、香織、パンツ履いてない!」 〝おい、誰かいるのか!〟  穴のほうへ近づいてくる足音。その数、四本分。カッパ男は香織を捕まえたまま移動している。壁に背中をつけて息を殺した。くしゃ顔をしていない忠一も似たような体勢――地蔵になるおれたち。壁の穴から突然、棒のようなものが飛びだしてきた。 〝放してよ!〟  おれたちの間をガタガタと動きまわる水道管。もし手が出てきたら、そのときはしびれガッパにしてやる。 〝香織も聞こえただろ、変な声〟 〝いいから放してってば、ヘンタイ!〟  突き出ていたものが引っこむ――と、同時に聞こえてきた『ぴしゃん』と『痛い』。 〝あばずれのくせしやがって。香織お前、あんまり調子ん乗ってんなよ!〟  怒鳴り声が遠くなる。すかさずもぐらになるおれ。茶色い髪と白い背中が見えた。 〝調子に乗ってんのはあんたよ!〟  カッパに引きずられながら香織が口を返す――部屋の右奥へと移動していくふたり。 〝いいかげん、おとなしくしといたほうが身のためだぜ〟 〝ヘンタイがえらそうにいわ――痛い!〟 〝四の五のいってる暇があったら服を脱げ、香織。じゃねえとこいつが黙ってねえぞ〟  こいつ=水道管。もしくは別の新しい武器。ものを確認しようにもここからじゃカッパ男の左肩しか見えない。 〝ダッサい脅し。やれるものならやってみれば〟 〝ツッパるねえ、香織さんは。もしかして俺のほかに好きな男でもいるのか?〟 〝俺のほか? 冗談でしょ〟 〝だよな〟 〝そういう意味じゃないわよ、このカッパ猿! あたしにだって好きな男ぐらい――〟  ぴしゃん二発に尻もち一発――殴るか蹴るかされた香織。どたばたの余韻が消えると、すぐにカチカチいう音=《忙|せわ》しげにベルトを外す音が聞こえてきた――尻に軽い衝撃。 「行くぞ、サワ」  鉄かぶとを着けた怒りのサムライ――動きだした岩。どこで見つけてきたのか、左手には松葉杖が握られている。即席な感じがかえって不気味だった。 「あうあうあー!」  雄叫びとともにこっちの部屋の扉を蹴り開ける忠一。香織の悲鳴に交じってカッパ男の喚き声も聞こえている。 〈あうあうあー〉  化けものの鳴き方は覚えた。あとは見ため。おれは黄ばんだカーテンを引っかぶり、腰巻きにしているジャンバートレーナーのなかへそいつの裾を押しこんだ。 「な、なんだてめえら!」 「あうあうあー、あうあうあー」  顔がおそろしくカッパに似た男のとがり声。そして――超音波に近いサムライの叫び。だめだ。おかしい。正体をごまかすためにわざとそうしているのはわかるが、誰がどう聞いてもそいつは志村けんのアーミーマーだ。本物の化けものでも腹を抱える。 「あう」 「な、なにが『あう』だ、ふざけやがって!」  でたらめに振りまわされる水道管。忠一はそれを難なくかわし、たった一発の小手で松葉杖の何倍も硬い鉄の武器を床へと転がした。 「あう! あう! あうあう! あう!」  面、胴、小手小手、突き――人間の言葉になおせばこんなところ。香織は床にぺたんとなっている。半分裸だ。女に黄ばんだカーテンを投げてやるとおれはやることがなくなった。 「あんたたち、なに!?」 「助けてもらって『なに』はねえだろ、馬鹿女」 「ば、馬鹿女……」 「いいから黙って見てろ」  松葉杖が蹴りを叩き折る。斧傷のあたりでのたうつカッパ男。より正しくいうならカッパが七で猿が三。忠一は坊主頭だから、《染川|ぶた》がいれば化けもの屋敷で西遊記を楽しめていたところだ。 「て、てめえ!」  カッパモンキーの手でなにかが光った――ナイフ。半歩後ずさる忠一。おれは左手に稲妻を握りこんだ。 「ほら、どうしたよ。落ち武者のくせに《刃物|やっぱ》は怖えってか」 「おい、カッパモンキー」 「誰のこといってんだ、こら!」 「そうやって返事してんじゃねえか」  文句を返してくるだけでこっちを見ようとしないカッパモンキー。おれよりも忠一を警戒している。床を足で叩いて鳴らし、左手の親指に力を入れた。おそろしくも頼もしい音が死体置き場の空気を震わす。カッパモンキーの注意が半分だけおれに向いた。 「今だ、忠一!」 「うそ……」 「あう! あう! あう! あう! あうあうあぁぁ!」  松葉杖の乱れ打ち。カッパモンキーが床に膝を突いて丸まる。おれはそれを見て、棒っぽいものを持った忠一とは絶対にやりあいたくないと思った。 「終わりだ」 「あう?」 「よく見ろ。白目剥いてる」  カーテンが走りだす。この女、助けてもらっておいて逃げるつもりか。 「待て、お……」  鉄かぶとに重なる茶色髪――立ち尽くす白いあうあうあー。多少黄ばんじゃいるが、正面からだと人間サイズのてるてる坊主に見えないこともない。最初のときよりも断然化けものっぽくなったその姿は、むしろイカしている。 「あ……う、あ……」 「宮沢」 「あう、あ!?」 「ありがと」  香織が鉄かぶと=化けものの面を外す。 「《騎士|ナイト》だね。馬はいないけど」  ヒヒン――心のなかで鳴いてやった。 「あ……あう」 「お面なしで『あう』は変」 「あう。あ、いや……その」 「こんな瞬間、待ってたよ、あたし」  心臓が爆発しそうになっているにちがいないあうあうあーのくちびるを香織のそれがふさぐ。 「あう! わう! んなうう!」  膝から崩れ落ちるようにその場へ倒れこむあうあうあー。まるで糸の切れた操り人形みたいだった。その動きに合わせて香織も一緒に倒れこむ――お熱いふたり。床へ転げ落ちたサインボールがおれの足もと近くまでやってきて止まった。  カッパモンキーの具合を確認する。白目は閉じているが、気絶から覚める気配はない=異常なし。続けて懐具合も確認――《一|ひー》、《二|ふー》、《三|みー》、《四|よー》、五十二円。ペンギンガムすら買えないシケガッパ。  後ろを見た。くしゃ顔へ引き続きくちびるを押しつけている香織。こっちもこっちで異常なし。忠一のほうはいくらか呼吸困難気味だったが、その程度は異常でもなんでもなかった。それによく見ると、くちびるだけはちゃんとキス用のかたちになっている。 ――まったく、よくやる。  どこにも異常がないことを確かめたおれは床へ転がったナイフと水道管を拾いあげ、得意の足運び=忍者のステップで死体置き場を後にした。邪魔者は消えるに限る。 〈あいつらだっこか!〉  横にカッパがいてそれはない。 ――いつかどっかでするだろ。 〈あのかおでか!〉 「いいすぎだ」  なにかを強く思う心の前じゃ運命なんてカッパのくそも同じ。忠一は今日だけじゃなく、今までの人生でも《運命|そいつ》をいくつもまたいできている。 〈うんめいはくそ。じんせいはかっぱ〉 ――五十点。  とぐろ巻きの階段を抜き足、差し足、忍び足する。だだっ広い部屋では同じことを大股開きでした。 〈あうあうあぁぁ!〉  化けものの猿真似をする化けもの。おれも今から忠一の猿真似をする――思い描いた未来、納得のいく人生を手に入れるために。 ――あうあうあうあうあうあうあぁぁ!  宙の、なにもないところを睨みつけて叫んだ――心で。叫びはおれのなかを駆けずりまわり、やがて呪文めいた言葉に変わっていった――大王、マルス、アンゴルモア。 〔運命に逆らう大馬鹿者。お前の未来は闇でしかない〕  恐怖でも大王でもない大うそつきがおれにいう。やらしいくしゃ顔で聞けと迫る。  おれは返す――しゃしゃり出るなホラ吹きじじい。この世のあれこれに首を突っこみたきゃ、誰かの腹からもっぺん今に生まれてこい。 〔お前は――〕 ――失せろ。  人類滅亡をほざいてくたばり、たわ言を真に受けた人間の馬鹿っぷりをあの世から眺めて喜んでいるろくでもない魂に説教される筋合いはない。  汚い廊下を抜ける。四角い穴をくぐる。センダン草の茂みを抜ける。横倒しになった車輪の隙間へ水道管をぶっ刺し、顔の右側を焼いてくる季節外れの日射しを手でさえぎる。 「空の大王が馬鹿みてえに燃えてんじゃねえよ」  東京まではあと少し。おれはぶかつき気味のミズノで力一杯に道路を蹴った。 [*label_img*]           昭和童蒙逐電譚 月の背中 A面 了
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