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[*label_img*]  エレインがディヴァーン領領主となって三ヶ月が経った。  相変わらずアラステアはディヴァーン領に残って補佐をしてくれているし、クィンシーは定期的に来て物騒なものを置いていったり収穫物を買い取ってくれたりしている。  その油断が、エレインを窮地に追い詰めたのかもしれなかった。  ある日のこと、若い女性のメイドが一通の手紙をエレインのもとへ持ってきた。  差出人は書いていない。それどころか、黒一色の封筒に黒いFの文字が入った封蝋まで押されている。  イニシャルにFの文字がつく知り合い……そんな人、いただろうか。  中を開けてみると、これまたやはり黒一色の紙が一枚入っていただけだった。  だが、右手で紙を掲げた瞬間、エレインは悟る。  これは魔法のインクが使われた秘匿手紙だ、と。  エレインは黒い紙を机の上に置き、右手を乗せて呪文を唱える。 「《文字よ、姿を表せ|リテラトゥス・サルス・パテファシオ》!」  すると、光る文字が中空に浮かび上がり、手紙の文を形成する。  手紙の始まりから、エレインは嫌な予感がしていた。 『親愛なる我が花嫁へ』  吐き気がする。差出人が誰だか分かった。これ以上読みたくない。  だが、万一のことが書かれていれば読まないわけにもいかないので、我慢して一応目を通しておくことにした。 『お前と出会って二年の月日が経ったが、今は美しいレディに成長したと聞いている。そこで今回、俺はある決断をした。ユーファリア連合王国とバラジェ魔王国との間に新しい商業ルートを開拓したいという人間の若造がいたので、詳しくはその者に尋ねておくように。それから遅くなったが領主就任おめでとう。これで俺と釣り合うだけの身分が得られたな。さすが我が花嫁だ、誇りに思うぞ』  タンスの角に頭をぶつけて悶絶しろ、エレインは差出人に向けてそう思った。  差出人の名前はフルスト・オーバーズ。バラジェ魔王国の魔王だ。  以前、マギアスコラにいたころ、魔道師学校へ視察に訪れていたフルストは、なぜかエレインを見出し、その場で婚約を申し込んできたのだ。思い出したくもない、恥ずかしい。しばらく学校内でその話題が持ちきりとなり、非常に屈辱的な目に遭ったことをエレインは思い出し、あー、と叫ぶ。  そもそも、なぜ魔王が人間を見初めるのか、という話だ。おそらく、右手の甲の星の痣が目に止まり、エレインが魔道師として優れていると校長が説明をしたせいだろう。人間と魔族が結婚することはありえなくはないが、魔族のほうが圧倒的に寿命が長いため、多くの場合子を成さず死別する。  そんな悲劇、誰が好んで身を投じるものか。というか、自分勝手なフルストという一個人がまず好かない。多少態度が変わっていれば食事くらいはするが、ますます妄想度合いが酷くなっている。このままでは勝手に言い触らされて既成事実を重ねられてしまう。  両国の親善のため次代の《大魔道師|マグナス・マギ》と魔王の結婚——そこまで根回しされては、逃げられなくなる。そうなる前に、何とか手を打たねばならないが、さてどうしたものかとエレインは思案する。  すでに婚約者がいます——ダメだ、相手がいない。アラステアに演技してもらおうにも、勇者がそう軽々と婚約などしてはいけない。  領地経営が軌道に乗るまでは手が離せません——多分、めちゃくちゃ支援されると思う。余計なお世話だ。  あの手この手をエレインは考えてみたが、どれも上手く行きそうにない。  と、そこへクィンシーがやってきた。アラステアも一緒に来ている。  エレインは手紙をしまい、二人とともに食事を摂りながら相談することにした。  食堂、四人がけのテーブルに三人はそれぞれ座る。白いテーブルクロスの上にはパン、ローストビーフ、ミートパイ、野菜のスープなどが並ぶ。領主の食事にしては質素なものだが、エレインは気にしない。ジャンクフードが好きだった前世の記憶があるから尚更だ。 「というわけで、婚約を迫られて困っているんです」 「魔王に婚約を迫られるとは、貴重な体験をなさっていますね」  アラステアは呆れたように言う。勇者として、何か思うところはないのだろうか。 「思うところ、ですか。別段ありませんね、平和ならそれでいいですし」  至極真っ当な答えが返ってきた。エレインの平和はどうなってもいいのだろうか。  ところが、クィンシーは申し訳なさそうに、手を挙げた。 「あのー……その人間の若造は、私のことです」 「でしょうね! そう思っていました!」 「すみませんでしたぁ! 魔王の肩を持つわけではありませんが、彼も彼なりにあなたのことを」 「迷惑です!」 「ですよねー」  クィンシーは謝る。いや、クィンシーが謝る必要はないのだが、エレインの怒りの矛先はクィンシーに向かった。  まあ待て、落ち着けエレイン。クィンシーから聞かなければならないことがあるはずだ。怒りを抑えろ。 「……それで、フルストは何と?」 「はい、来月お忍びでディヴァーン領を訪れるので、準備をしておくように、とのことです」 「はあ!?」  お忍び? 魔王が? 私の領地に?  エレインは眩暈を覚えた。ただでさえ他国の、それも魔族のいない田舎に、魔王が降臨する。何と言う宣戦布告だろうか。こちらも勇者を配置してぶっ殺してやろうか。  おっと、落ち着けエレイン。さすがに国王陛下の許しがないと殺すわけにはいかない。それに、そろそろアラステアを王都へ戻さなくてはならない時期だ。勇者も暇な仕事ではないので、騎士団関係の行事には参加しなければならず、王都からの催促の手紙が何度も来ている。それでもアラステアはエレインのためディヴァーン領に残ってくれているのだ——今まで故郷にも帰らせてもらえなかった腹いせもあると思う。 「来月か……騎士団の入団式と閲兵式があるので、さすがに僕は今月中に一度王都へ戻らなくてはなりませんね」 「それがいいと思います。今まで散々こき使ってしまって、申し訳ありませんでした」 「いえ、僕に向いている仕事でしたから、とても楽しかったですよ。陛下の許可をもらってまた来ますから」  何と言う有り難い言葉だ。あの魔王に爪の垢を煎じて飲ませる必要がある。  一方、クィンシーはおずおずと話題を切り出した。 「いやぁ、私はてっきり、エルさんが魔王と何か戦いでもしたのかと思っていましたよ」 「魔法勝負なら、手傷を負わせる自信はあります」 「いえ、すみませんでした、やらないでください。危険ですから」 「本音ですよ。ただ、フルストはアイテールスバルを持っているので、先にこちらが《魔力切れ|エンプティ》を起こして倒れると言うだけです」  アイテールスバル。魔王を選ぶ選定器であると同時に、魔王である証となる宝具だ。膨大な魔力が蓄積されており、持つものに無限の魔力を与えると言う。  星の痣を持つエレインでさえ、大魔法を十回も使えば翌日魔法痛で辛いと言うのに、魔王はいくらでも大魔法、その上の極大魔法まで放つことができる。まさにチートアイテムだ。  それにしても——フルストがした決断、とは一体なんだろうか。  スープにパンを浸し、エレインは悩みながら食べた。 ☆  アラステアが王都に戻って二週間が経つ。月を跨ぎ、とうとう魔王がディヴァーン領を訪れる日がやってきた。  何分、連合王国国王から直々にエレインへ勅状が付け届けられた。国賓である魔王を最大限もてなすように、とのお達しだ。言われなくとも、余裕がある分にはもてなしてやる。そして安穏とさせて帰ってもらう。 「来たか……!」  エレインは窓の外に並ぶ黒い馬車の列を見て、まるで敵襲を察知した兵隊のような口振りでそう呟く。  馬車の列の中には、クィンシーの馬車もあった。黒い馬車の列に一つだけ白い馬車があれば分かり易すぎる。  エレインは階下に降り、玄関の扉を開けるよう使用人に指示を出した。  そこには、黒いヤギの角に黒髪、詰襟のシャツにフロックを着て、黒い手袋を嵌めている男の姿があった。一応、美男子と言えなくはない。顔中に広がる紋様は複雑で、遠目には赤い肌のように見える。  間違いない。二年前から何一つ変わらない姿だ。  魔族の男は、エレインを見るなり、自信満々に声を上げた。 「エル! 久しぶりだな!」 「ほほほ、あなたにそう呼ばれる筋合いはありません、フルスト魔王陛下」 「はっはっは、相変わらずつれないな! 将来の花婿に向かってあまりきつい物言いは」 「失礼ながら、私には婚約者はおりません。何かの勘違いでしょう」  両者の間に見えない火花が散る。後ろのほうからそろりとクィンシーが顔を出す。 「あのー……陛下、中に入りましょう。皆さん、雨に濡れています」 「おっと、そうだったな。すまない」 「あら、雨が来ましたか。急いで中へどうぞ」  エレインは一階の客間へ魔王御一行を通す。その後クィンシーを執務室に呼びつけて、こう言った。 「それで、魔王の目的は何か分かりましたか?」 「ただの視察目的……だと思いますが、あなたに会うための建前でしょう。行きもずっとあなたのことばかり話されていましたから」 「たかだかそんなことで、この行列を作るなんて……」  エレインは窓の外を見て嘆息した。用を失った黒い馬車列は、玄関前に設置された巨大な魔法陣の中に吸い込まれるように消えていく。 「国王陛下からは十分にもてなすよう指示を受けています。しかし衣食住の提供はともかく、顔を合わせるたびに婚約を迫られては堪りません。なので、できるかぎり私はここにいます」 「ですが、もてなすというのは」  クィンシーが何かを言いかけたときだった。  ドタドタと大きな足音が聞こえてくる。  エレインとクィンシーは無意識に息を潜める。そう、敵が来る。 「ここか!」  そんな叫声が聞こえるとともに、バン、と執務室の扉が開かれ、フルストが姿を現した。 「ここを察知したのですか!? くっ、魔法で執務室は秘匿していたのに!」 「そうなんですか!?」  クィンシーは驚く。エレインは苦虫を噛み潰したような表情でフルストを睨む。 「はっはっは! その程度の魔法、アイテールスバルの前には無力よ! さて、エル」 「気安く呼ばないでいただけますか、陛下」 「ならばお前も俺のことをフルストと呼ぶがいい!」 「けっこうです、陛下。ここは執務室です、面白いものは何もありませんよ」 「何を言う。俺はお前と喋るだけでも楽しいぞ」 「私は楽しくありません、陛下。仕事の邪魔です」 「ならば手伝ってやろう!」 「けっこうです。これから王都へ出す書状を書かなければならないので」 「ふむ、ならば俺の署名も加えてやろうか?」 「けっこうです……はい?」 「どうせ陳情書の類だろう? 魔王との繋がりがあると知れば、王都の連中もお前に融通を利かせるのではないか?」  確かに、それはそのとおりだ。エレインは、ディヴァーン領は今年は租税を免除したため、国家に収める収入の宛がない旨を陳情し、各所に支援を要請する書状を送るつもりだったのだ。ただ、エレインの名前だけでは大した影響力はないし、免税にしても勝手にやったことなので言い訳にはならない。望み薄だったが、やるしかないため、仕方なく出す書状だったのだ。  そこに隣国の王の署名が加わればどうなるか。ましてや、魔王の署名だ。エレインが魔王と個人的に繋がりがあると分かれば、王都の役人は戦々恐々だろう。今までエレインの陳情を蔑ろにした罰だ、ざまあみろ、と思わなくもない。 「……それはそうですが」 「そうと決まれば、紙を持て、クィンシー」 「は、はい!」  フルストはクィンシーを顎で使う。エレインはしょうがなく羊皮紙の束をクィンシーに渡し、フルストのもとへ持って行かせた。 「どうなさるのですか?」  クィンシーがフルストに問う。  フルストは不敵に笑い、まあ見ていろ、と答えた。 「《我が名はフルスト・オーバーズ、バラジェ魔王国魔王なり|ミヒ・ノーメン・フルスト・オーバーズ・エスト・バラジェ・ディアボリウム・レグヌム・デ・レクス・エスト》!」  羊皮紙の束が宙を舞う。一枚一枚が広がり、そして中空に壁があるように張り付いていく。そして、一枚ずつ魔王の署名が自動的に書き込まれていった。  緻密で大胆な魔法。署名をただ書くためだけに魔法を使うという魔族特有の感覚。それらが合わさり、羊皮紙にはしっかりとフルストの署名が書き込まれた。おそらく、羊皮紙が砕けてもなお千年先まで残るであろう文字だ。  エレインもできなくはない。ただ羽ペンで書いたほうが楽だからそうしているだけだ。魔族はすぐ魔法で何でもしたがるから困る、とエレインは心の中で愚痴る。 「ありがとうございます、陛下。それでは」 「うむ、言い忘れていたが、王都で《大魔道師|マグナス・マギ》殿に会ったぞ。孫娘をよろしく頼む、と言われてな」  あの耄碌老人、余計なことを! 「ここにいる間はお前の仕事を手伝ってやろう! 何、将来の花嫁と苦労を分かち合うと思えば軽いものよ!」 「ですから、私に婚約者はおりません。陛下こそさっさと身を固められてはいかがですか?」 「それは逆プロポーズというやつか?」 「違います!」  フルストと話していると、調子が狂う。エレインはあからさまにため息を吐いた。 ☆  翌日。  エレインがベッドから起き上がり、顔を洗って化粧水をつけていると、寝室の扉がノックされた。 「おはようございます、エレイン様」  雇っている若い女性のメイドの声だ。エレインは返事をする。 「どうぞ」  ガチャリ、と扉のノブが回される。メイドは深々と頭を下げ、寝室に入ってきた。手には香水の瓶がある。 「それは?」  エレインが尋ねると、メイドは申し訳なさそうに答えた。 「魔王陛下から、エレイン様への贈り物の香水です。先ほど、託されましたので……」 「ああ……分かったわ、そこに置いて。ありがとう」 「はい」  メイドは香水をテーブルに置くと、部屋から出て行った。  エレインは深呼吸し、香水に向かって魔法を唱える。 「《光よ、不審な輩を見つけ出せ|ルクス・ススピシオニシス・インヴェニ》!」  エレインの手から香水に細かな光が振りかけられる。少し待ってみたが、何の反応もない。  薬の類は使われていなさそうだ。エレインは安心し、棚へ香水をしまった。  エレインは着替えて食堂に向かうと、すでにフルストとクィンシーが席についていた。 「おはようございます」  クィンシーが目敏くエレインを見つけ、挨拶をする。 「ええ、おはよう」 「おはよう、エル!」 「今日の朝食は何かしら」  エレインはフルストの挨拶をスルーした。朝っぱらから大声でうるさい。  今日の朝食のメニューは、ミートパイとジャケットポテト、プディングにベーコンだ。エレインは楚々と食事をするが、クィンシーとフルストは会話をしながら食事をしている。 「ですので、交易ルートの新開拓は急務です。陸路だけでなく、海路も用意しておいたほうがよろしいかと」 「ふむ、船を作るのは造作もないことだが、密貿易に使われる恐れがある。今でも取り締まりはしているが」 「そのための海路の解禁です。密貿易を管理のもとに置くため、税金逃れを防ぐため、許可を出すのです。しかし、他国では私掠船を出して国家が海賊行為を容認すると行った野蛮な手法も存在します」 「それは由々しき事態だな。だが、魔法で迎撃すれば問題ないことだ」 「おっしゃるとおりかと。私掠船、海賊船を減らすためには、襲ってくることのデメリットを認識させる必要があるのです」  朝から二人は小難しい話をしている。食事時くらい優雅に過ごせばいいものを、とエレインは心の中で思う。  やがて朝食を終えると、エレインは執務室に向かう。なぜかクィンシーとフルストがくっついてきた。  エレインは執務机に着くと、クィンシーとフルストをソファに座らせ、自分は羽ペンを取って書類に向かう。  各郷士たちからの陳情書、招待状、中には嘆願書もあった。それらすべてに目を通し、返事を書く。陳情書には今度現地へ向かう旨を、招待状には丁重な断りの旨を、嘆願書には援助を約する旨を記入し、封筒に入れ、封蝋を押す。  フルストは笑顔でエレインの作業を眺めていた。クィンシーは時折フルストに話しかける。だが、フルストはいつの間にか言葉を遮り、エレインを見つめていた。  一方、見つめられるほうのエレインは、黙々と作業に没頭していた。手紙から伝わってくる思いに胸が張り裂けそうになることもあれば、この時期に何を行っているのだと呆れることもある。心の中で葛藤を生みながらも、一つ一つ目を通していく。  フルストは立ち上がり、エレインの執務机の前に来ると、一通の手紙を取る。  エレインは邪魔をするな、と睨みつけるが、フルストは気にしない。 「何々……これは嘆願書か」 「返してください、陛下」 「こんなもの、《良  く  あ  れ|ラエトゥス・イステュド・アウディオ》と返せばいいだろうに」  フルストは魔法の言葉を口にする。嘆願が叶うように、という呪文だ。  しかしエレインは否定した。 「魔法は使いません。この領の人間は魔法を見たことがない人間が大半です、そのような者たちに魔法に頼らせるわけにはいきません」  その答えに、フルストは頭を振った。 「まったく、不便なものだな、人間は。お前が身を粉にして働く必要はあるまいに」 「いいえ、陛下。力ある者が力なき者に手を差し伸べるのは義務です」 「見返りがなくとも?」 「はい、陛下。それがこの国のやり方です」  フルストはふむ、と端正な顔に手をやる。 「義務だ何だと言うことは殊勝なことだ。だが、お前は次代の《大魔道師|マグナス・マギ》。このようなところで燻る器ではあるまい、何なら俺が国王に口利きをしてやろうか?」 「けっこうです。私は自分の身の丈を知っています。それ以上のことをしたくなれば、魔法を使います」 「ははっ、そうかそうか。賢い女だ、ますます惚れたぞ」 「惚れなくてけっこうです、陛下」  それがエレインの本心だった。だが、フルストに伝わることはなかった。  フルストはソファに戻る。そしてクィンシーにこう言った。 「例の新規商業ルート開拓の件だが、こちらの王都の商会とユーファリアの王都の商会を繋ぐ魔法陣を設置すればどうだ?」 「よろしいのですか?」 「無論、国王の許可を取ってからだ。それと、大規模な魔法陣は敷けないということを忘れるな。あくまで人を数人程度運べるだけの大きさだ」 「それだけでも随分と商売が楽になります。良いご提案をいただきましたこと、深く感謝いたします」 「気にするな。お前にはエレインへの贈り物を届けてもらわねばならぬからな」 「はい、それはもちろん」  そう言ったクィンシーは、エレインが睨みつけていることに気づいた。  クィンシーの笑顔が引きつる。フルストは呵呵と笑う。  何のことはない、少しばかり騒がしい朝の風景だった。 ☆  昼。  冬目前の晴天の中、黒い馬二頭が引く一台の馬車が土路の街道をゆっくり進んでいく。  今日のエレインの予定は、近くのヨースター村の視察だ。村長である郷士から、魔法で改良された土壌で育った穀物の様子をぜひ見て欲しいという書状が届いたため、息抜きがてら昼食の入ったバスケット片手に視察へ行こうとしているわけだが——どういうわけか、クィンシーとフルストも同行を申し出てきた。 「お前の魔法の腕前を見るいい機会だ、連れて行け」 「お二人だと大変なことになりかねませんので、私も行きます」  フルストはともかく、クィンシーはかなり気を遣ってくれていることが分かったので、エレインは同行を許可した。フルストと二人きりなど死んでも御免だったため、クィンシーには後で何か褒賞を与えなくてはならない。  ここディヴァーン領では、冬でも雪は降らず、そこそこ暖かいらしい。そのため、土壌さえまともであれば春小麦と冬小麦の二毛作が可能なのだ。貧しくとも寒さや飢えでの死亡者が出なかったのは、環境の良さが一因でもあった。  ちょうど今の時期は冬小麦の種を播いたころだ。もう早くも芽が出ているのかもしれない。根セロリや芽キャベツなどもそろそろ旬の時期だ。エレインは緑の褪せてきた丘陵に想いを馳せながら、目の前の二人の会話を耳にしていた。 「というわけでして、東の国との正式な交易ルートの構築を目指しております」 「なるほど。擬似魔法の書物は確かにお前たち人間にとっては欠かせないものだろうな」 「はい。東の国はバラジェ魔王国を通り、山脈を迂回して一度海路からバタヴィア王国を経由し、ようやく着く場所です。しかし、限られた量しか輸出できない決まりがあるため、我が商会が全力で輸出枠を確保しております」 「ほう、面白いものがあれば俺のところにも持ってこい。そうだな、エレインに贈る品物があれば」 「先日は擬似魔法の書物を大量にお買い上げくださいました。八百冊ほど」  聞こえている。そして商人がそんなに口が軽くてどうする。  フルストは驚いていた。 「八百冊? 何に使うのだ、エレイン」 「一般市民に配っています、陛下。ディヴァーン領は元々魔法のなじみが薄い土地柄、まずは擬似魔法から慣らしていかねばなりません。もちろん、擬似魔法の書物の使用方法も逐一教えて回っています」 「魔道師であるお前が?」 「はい。何分、私は元来よそ者でありますゆえ、この地方に根ざす郷士たちの顔を立てる意味でも、魔道師である私が先頭に立って教えてゆかねばならないのです」  魔道師が擬似魔法の使い方を教える、というのは筋が通る。これが普通の人間なら、何様のつもりだ、と反発を招きかねないところだ。だから魔道師であるエレインと、勇者の名声のあるアラステアにしかできない手法だった。  そう言えば、アラステアはそろそろ戻ってきてくれるだろうか。騎士団の入団式と閲兵式が終わったらすぐに戻ると言ってくれていたが、どうせなら魔王を一発殴ってくれればスッキリするのだが。  そんなエレインの思いを知ってか知らずか、フルストはうーむと唸っていた。 「お前の屋敷には五人しか使用人がいなかったが、そこまで困窮していたとは……」  そこかい。確かに五人しかいないが、フルストが連れてきた魔族の宮廷使用人三十名のほうがおかしいだけだ。  確かに信頼できる部下は必要だ。これからもっと忙しくなるだろうし、いつまでもアラステアに頼ってばかりもいられない。 「うむ、一度国に帰ってから、良い人材を送ってやる。楽しみにしておけ」 「それはそれは丁重にお断りいたします」 「遠慮するな! 未来の花嫁にばかり苦労をかけるわけにはいくまい!」 「それはそうと、そろそろ昼食にしましょう」  フルストの言葉を遮り、エレインは大好きなローストビーフサンドイッチをバスケットから取り出す。  四人分の小包になっているサンドイッチを二人と馬車の御者にも分け、エレインはさっそく頬張る。美味しい。半ナマ薄切りのローストビーフに、甘辛いマスタードと紫タマネギのシャキシャキ感も最高だ。  この瞬間ばかりはフルストが目の前にいても気にならない。何だかじっと見られている気もするが、気のせいだろう。  片や、クィンシーはストロベリーブロンドの長髪を一つに結び、やはり美味しそうに食べていた。 「いやあ、ディヴァーン領に来ると《黒曜館|こくようかん》の食事が楽しみの一つですね。よくあれほど料理上手な使用人を雇えたことです、これもエルさんの人を見る目が確かだからですかね」 「何、そうなのか?」 「ええ、ディヴァーン領にエルさんが入ってきたばかりのころ、使用人を募集したところ応募が殺到しまして。一晩で五人を選別して、適切な配置につけた手腕は高く評価されるべきですよ」 「それほど褒められることでもありません。偶然です」 「よし、ならば」 「食べ終わったならさっそく出発いたしましょう」  エレインはすでに食べ終わっていた御者に合図を送る。  馬車はまた動き出した。 ☆  昼食を食べて一時間あまり経ったころ、ようやくヨースター村に到着した。  牧歌的な、平均的な田舎の農村といった具合で、なるほど、畑には今が旬の野菜やリンゴ、花梨が成っている。森に行けば胡桃やどんぐりもたくさんあるだろう。少なくともヨースター村は食料には困っていないようで、エレインはホッとした。  やがて村で一番大きな家——小さいながらも白壁木造の館と言うべきだろうか、に到着する。玄関には館の家令と思しき燕尾服の壮年の男性が立っていた。  三人は馬車から降り、男性から歓迎の挨拶を受ける。 「ようこそお越しくださいました、ディクスン様。遠路お疲れでしょう、中へどうぞ」 「ありがとう。村長は中に?」 「はい。主人はディクスン様を首を長くして待っております」  一瞬だが、家令の目がフルストの頭、角に行ったのをエレインは見逃さなかった。それもそうだ、こんな田舎に魔族が来ること自体、ただ事ではないし、ましてや魔王だ。バレないことを祈ろう。  エレインがそんなことを考えているうちに、樫の扉の前に辿り着いた。家令がノックする。 「旦那様、ディクスン様がおいでになりました。入ります」   中から短い返事が返ってきたと思ったら、勢いよく扉が跳ね開く。 「おお! ディクスン様! お久しぶりでございます!」 「え、ええ、二ヶ月ぶりですね、村長」  中年の村長はエレインの手を握ろうとする……が、突然手を引っ込めた。何があったのだろうか。エレインは不思議に思い、後ろを振り返るが、フルストとクィンシーは平然と立っている。  まあ、大した問題じゃない。村長の招きで、部屋の中へ入る。  長ソファにフルスト、エレイン、クィンシーの順番で座ったのち、正面に村長が座る。 「このたびはご足労をおかけし、誠に感謝の極みにございます。ディクスン様の魔法のおかげで、今年の収穫物は去年の倍以上となりました。それから、グラッドストン商会から買った作物の種。病気にも強く育てやすいと村中で大変な評判です」 「それはよかった。あなたがたが豊かな生活を送れるようになったのなら、私も安心して執務に励むことができます」 「先日行われた収穫祭も大変な盛り上がりでした。クルナの街から送られてきたエールで私も酔っ払ってしまいましてな」  村長はなかなか本題を切り出さない。エレインはそう見抜いていた。  何か困ったことがあるから、わざわざエレインを呼び出したのだろう。そして、その頃合いを見計らっている。  痺れを切らしたのは、フルストだった。 「そのような下らぬ話はどうでもよい。本題を簡潔に話せ」  村長は目を剥いて驚く。エレインのお付き、それも魔族に上から目線で命令されたのだ。  エレインは慌ててフォローする。 「ええと、何かお困りごとがあるのですか?」 「はっ、ははっ! その、大変申し上げにくいのですが」  そういう前置きはいらないから。フルストがまた暴言を吐くから。エレインは内心ドキドキしながら村長の話を聞く。 「二ヶ月前の魔法を使っていただいたころから、村の外れを開拓しはじめまして、先日やっとの事で大規模な畑を作ることができました。そこで、ディクスン様に教えていただいた擬似魔法を使い、同じように作物を育ててみたのですが……やはり、ディクスン様ほど上手くはゆかず、原因を探っている最中なのです」 「原因? 畑に向かぬ土地を畑にしたのだ、上手くいくわけなかろうよ」  まただ。フルストは続ける。 「だが、エルは優しいからな。お前たちのために魔法を使ってくれるだろう。それを期待して呼び出した、違うか?」 「なっ……さ、先ほどから、聞き捨てなりませんな。私どもは」 「魔法を使えばいいのですね? なら、さっそくまいりましょう」  エレインはすっくと立ち上がる。村長を促し、案内をさせる。  フルストは明らかに苛立っていた。苛立つぐらいなら来なければいいのに、とエレインは心の中で愚痴る。  フルストは小声でエレインに耳打ちしてきた。 「エル、今日は俺に任せろ。お前は見ているだけでいい」 「そんな、陛下にそのようなことをさせるわけには」 「大丈夫だ。手加減はする」  打って変わってそんな調子で、フルストは鼻歌まで歌いはじめた。  エレインはクィンシーを見る。クィンシーは頭を横に振った。どうやら、止められそうにない。  村外れまでは歩いて十分ほどだった。村長の屋敷が村外れにあるのだから、そこから近くに、という寸法だ。  遥か昔、元は雑木林で、開墾してしばらく経っていたのだが、ごく最近まで管理が行き届かず放置されていた土地らしい。村長の口からその情報を聞くと、確かに肥料も何も与えず上手くいく土地ではないことは分かりきっている。擬似魔法はどうしても威力が弱い、元の生命力が弱った土地にいくら水や肥料を与えても、止まらずただ流れるだけだ。  そのあたりの魔法の応用は、やはり本職の魔道師がやるしかない。  その問題の土地に到着すると、一応は体裁の整った畑が広がっていた。だが植物はなく、土も乾ききっている。 「では、始めるとするか」  フルストは懐から宝玉を取り出す。  アイテールスバル、魔王の選定器であり、魔王の証であるその紫の宝玉を、フルストは握りしめた。  これに戸惑ったのはエレインでもクィンシーでもなく、村長ただ一人である。 「ディクスン様が魔法を使われるのでは……?」 「大丈夫です、彼も魔法を使えますから」 「そ、そうですか」  すう、とフルストは息を吸い込む。そして叫ぶ。 「《魔王が|レクス・》《アイテールスバル|アイテールスバル・》《に命じる|インペリトー》! 《土よ、大いに実れ|ソリ・グランディス・フルクトゥス》!」  一瞬の出来事だった。土地が隆起し、遥か高みまで吹き上がったかと思うと、ボコボコと各地で同じことが起きたのだ。表面の土とは違う黒い沃土が畑の表面にぶちまけられる。 「《魔王が|レクス・》《アイテールスバル|アイテールスバル・》《に命じる|インペリトー》! 《水よ、大いに集え|アクア・グランディス・コリゴ》!」  今度は空が暗くなり、大雨が畑へ局地的に降りつける。雨はやがて大きな水たまりを作り、ゆっくりと土壌へ吸収されていく。  さすがは魔王、といったところだ。アイテールスバルの力を借りているとはいえ、緻密に位置を限定し、ごく局所的に制御の難しい大魔法を発動させている。エレインが同じことをしろと言われても、なかなかに難しい。 「この程度でいいだろう。文句はあるまい?」  悪戯小僧のような笑みを浮かべる魔王フルストに、今にも卒倒しかねない村長、感心するエレインとクィンシー。  クィンシーは畑の土を掴み、土壌を調べる。 「ふむふむ、これならいくらでも実りそうですね。分かりました、明日にでも商会へ手紙を出しておきましょう。村長殿も作物の種は必要でしょう? 今なら割り引きますので、ぜひ我が商会へご注文を!」 「あ、ああ……よろしく、頼みます」  そう言って、村長はその場に腰を抜かして倒れ込んだ。 ☆  結局、村長宅の家令と使用人たちが何事かとやってきて、腰の抜けた村長を自宅へと運んでいった。  エレイン、クィンシー、フルストの三人は少し離れて、その後をついていく。  しかし、さすがは魔王。大魔法を軽々と打ち込み、平気な顔をして隣を歩いている。 「私の魔法を見ると言って、結局見ていないじゃないですか」  ボソッとエレインは呟く。ちょっと自慢したかった気持ちもなくはなかった。  それを聞きつけたフルストの態度が凄まじくムカつくということを、エレインは呟く前に気づいておくべきだったのかもしれない。 「それほど見て欲しかったのか? ん?」  首を傾げてエレインの顔を覗くフルストの表情は、ニマニマしていて大変気持ち悪かった。  エレインの中の何かが、ブチっ、と切れる音が聞こえた気がする。  いわゆる堪忍袋の緒が切れた、とはこのことだろう。こめかみに青筋が立ち、それを見たクィンシーが「ひっ」と短い悲鳴を上げる。  エレインは目が据わっていた。足を止め、こう宣言する。 「いいでしょう。ここで私の魔法、見せて差し上げます」  対して、宣言を受けたフルストは、魔王らしく高笑いとともに余裕を見せた。 「ふははは! いいだろう、全力で打ち込んでこい!」  それが余計に火に油を注いだとは、露とも知らず。  エレインはかき混ぜられた畑へと足を踏み入れる。フルストも同じく、周辺に被害が出ないよう畑の中心へと向かう。  両者が向かい合い、エレインが右手を天高く掲げ、魔法の詠唱を始める。 「《勝利者エレインが命ず|ウィクトーリクス・エレイン・インペリトー》。《芝居はもう終わりだ|アクタ・エスト・ファーブラ》、《より速く|キティウス》、《より高く|アルティウス》、《より強く|フォルティウス》、《星天により|アド・アストラ》《汝が勇気を試す|・ウィルトゥティス・オッカシオ・エスト》!」  黒い大地に、徐々に光り輝く魔法陣が広がっていく。エレインが一小節を唱えるたび、魔法陣はその大きさを増し、右手の甲はこれでもかと言わんばかりに煌めきを放つ。  空には暗雲が立ち込め、フルストの頭上に妖しく集まる。明らかに異常な天候と巨大すぎる魔法陣に、離れた場所にいるクィンシーは取り乱す。 「ぎゃあああ!? 何、何ですかあの魔法陣!?」 「むう、これは……!」  フルストは、自身の足元に広がる魔法陣の複雑怪奇な紋様を一目見て、エレインが撃とうとしている魔法が何であるかを見抜いた。そして、その危険性にも気づく。 「超極大魔法か! さすがは我が花嫁!」  超極大魔法。古語の詠唱を複数重ね、ありったけの魔力を込めて放つその魔法は、魔族ならば高位魔族のみが、人間の中では最上級の魔法の才能を持つエレインだからこそ撃てる代物だ。  エレインは右手をフルストへ向けて振り下ろす。  「《雷電の翼よ|フルミニス・アーリース》、《絶え間なく|プローティヌス》《鳴り響け|・インソヌエーレ》!」  刹那、雲間から雷電の鳥が複数現れ、フルストめがけて雷速で飛んで、いや、落ちていく。  人の目には追えない速さで飛ぶ雷の鳥は、地面を深く抉り、計り知れないほどの熱量を放出し、フルストの体を焦がしていく。落ち窪んだ穴の中で、丸焦げになったフルストの体は、原型をようやく留めていた。 「あ、ああ……魔王を、倒した?」  遠くで見ていたクィンシーは、目の前で起きた出来事を理解できずにいた。  たった一瞬、眩い光が走ったと思ったら、フルストが黒焦げになっていたのだ。とても生きている状態とは思えない。  しかし、フルストの胸で輝く紫の光が、フルストの体を包み、再生していく。  エレインは舌打ちをした。 「アイテールスバルですか……さすがは魔王、超極大魔法の一撃程度では倒せませんか」  そう、フルストは生きている。アイテールスバルが超高速でフルストのダメージを回復させ、着ていた衣服まで元どおりに戻す。  完璧に元の姿へと戻ったフルストは、頭を振った。 「……ふう、死ぬかと思ったぞ、エル」  満足げにフルストは話す。魔王の貫禄を見せつけ、エレインに微笑む。 「やはりお前は我が花嫁にふさわしい! これだけの魔法の才能、人間の中に埋もれさせるのは惜しい! どうだ、エル! 俺とともにバラジェへ来ないか!?」  最初から最後まで、それだけが目的か。  エレインは呆れる。殺すつもりで撃った超極大魔法を受けても、フルストはあっさりと回復した。エレインももう一度超極大魔法を撃つ余力は残っていない、どうしても殺し切れない。  それが分かっているからこそのフルストの余裕だ。とにかく歯がゆい。 「言ったはずです、陛下。私に婚約者はいません、今は」 「おお!」  その言葉をポジティブに解釈したのか、フルストはエレインのもとへ駆け寄ってきて抱きしめようとした。  エレインは避ける。当然だ。フルストはそのまま畑の土へとダイブした。 「ふっ……今は、だな。次こそお前を手に入れてみせるぞ」 「できるものならどうぞ。もっとも、陛下がそのアイテールスバルを持つかぎり、私は負けを認めませんから」 「むう、俺に魔王の座を降りろと言うのか」  土を払い、立ち上がりながらフルストは不満そうに言う。アイテールスバルを手放す、つまりは魔王を辞めるということだ。そんなこと、本来は生真面目なフルストにできるはずがない。エレインは少し意地悪だったかな、と思いつつも、やっと『今回は』諦めてもらえたことに安堵を覚えた。  遠くで二人の様子を眺めていたクィンシーは、呟く。 「……魔道師同士の喧嘩って、すごい」 ☆ 「ではな、エル。お前の魔法、しかと堪能させてもらったぞ」 「また喰らいたければどうぞお越しくださいませ」 「はっはっは! 二百年以上生きても超極大魔法を喰らう機会はそうないのでな、次を楽しみにしているぞ」  変態だ。エレインはジト目でフルストを見る。  だが、フルストの宮廷使用人三十名のおかげで、《黒曜館|こくようかん》は見違えるように綺麗になった。魔法を使って掃除、洗濯、屋根と外壁の修理までしてくれたのだから、頭が上がらない。フルストは署名とヨースター村の一件以外何もしていないのでどうでもいい。  黒い馬車が玄関前に止まる。扉がひとりでに開き、フルストは中に入ろうとして——振り返って、エレインの左頬にキスをした。  突然のことで、エレインも抵抗する暇もなく、フルストはさっさと馬車の中に入り、出立する。エレインは左頬を押さえ、呆然と帰国の途につく馬車を見送った。  クィンシーはその様子を見て、エレインに声を掛ける。 「大丈夫ですか? 魂が抜けかけてませんか?」 「……はっ!?」  エレインは、キスが唇じゃなくてよかった、としか思わなかった。フルストは純粋にエレインを愛している。それは分かる、分かるが、応えられるかどうかはまた別の話だ。  今は目の前の領地経営に取り掛からなければならない大事な時期だ。今後フルストに応えるかどうかはさておき、今は断るしかない。他の男性が言い寄ってきても同じだろう。  エレインは、超極大魔法に耐えた——かろうじて息があったフルストを、若干尊敬していた。アイテールスバルというチートアイテムを持っているとはいえ、超極大魔法で普通の人体が原型を留めることはまずあり得ないからだ。おそらく、超極大魔法を受ける直前、防御魔法を展開していたのだろう。 「ああ、そう言えば」  クィンシーが呟く。 「地下室に魔法陣を設置しておく、と言っておられたのですが、何の魔法陣ですかね?」  地下室? まさか!  エレインは駆け出す。地下のワイナリーの奥にある小部屋に、確かに魔法陣が描かれていた。それも、頑丈に、簡単には解除できないような仕組みで作られた魔法陣だ。 「これは……バラジェ魔王国の王都、バラジェニカと繋がっているわね……」 「はあ、やっと追いついた。バラジェと繋がっているのですか?」 「やられた……向こうからもいくらでも来られるようになっています」 「いつでも会えるように、ですかね」 「本っ当、最後まで迷惑な魔王!」
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