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「――で、これが『星』、これが『月』よ」  黒く長い髪を持つ少女は、細い木の枝で地面にさらさらと紋様を描くと、傍らの少年に微笑んだ。 「え、え、ちょ……待ってリュリ。おれ、もうちょっとゆっくりじゃないと……」  少女とそう年が変わらないであろう少年は、うう、と頭を押さえながら目の前の紋様を凝視する。 「あ、ごめんなさい、わたし……」  焦ってしまったのかもしれないわ、そう言ってしまいそうになって、少女は口をつぐんだ。  ――あと、二日。  二日後には、少女……リュリはもうこの世にいなくなる。  それは、リュリが五歳になった時……次期太陽の巫女として、中央神殿に上がった時から定められたことだった。 *  四方を高い山々に囲まれた神殿都市、アンスル。  太古より自然信仰が盛んなこの都市では、人民の誰もが憧れる役職があった。  一つは、豊穣の象徴の『太陽の巫女』。  もう一つは、魂鎮(たましず)めの『月の刃(やいば)』。  太陽の巫女は定められた月に生まれた幼子の中から神託により選ばれ、十四の歳を迎えたその日に太陽の花嫁として、東の山の麓(ふもと)の聖なる泉に身を捧げる使命を帯びる。  月の刃は、巫女を捧げる祭祀(さいし)の最後の役目……巫女をこの世から引き離し、天へと捧げるために聖なる精霊の宿る青銅の剣(つるぎ)で巫女の心臓に「断魂(だんこん)の杭」を打ち、巫女の身体を泉へ投じ、自らも巫女の従者として追従する使命を帯びた。  巫女が幼少の頃より選ばれるのに対し、月の刃は巫女が天へ召される豊穣祭のその時刻まで伏せられる慣わしだった。  ――あの日は確か、十日前だったかしら。  リュリはそよぐ風を受けながら目を閉じる。 『は……じめ、まして。巫女……さま、お、わ、私はウルと申し……ます……』  たどたどしい語り、掻き消えそうな小さな声、俯いた瞳。  見れば、身体中に生々しい傷痕がある。  鞭で打たれたのだろうか、両脇を女兵士に抱えられ半ば拘束されたその姿から、戦の捕虜であることは明白だった。  アンスル国は、周辺部族との小競り合いが多い。その度々に捕らえた部族民を酷使していると聞く。 『あなた、ウルと言うのね。酷い怪我……わたしはリュリよ。今すぐ手当てを――』 『巫女様、気安く御名を名乗るものではありません。そう危惧せずとも、手当ては後程私共で行います。今はお聞きください』  女兵士はリュリがウルへと伸ばした手をやんわりと払い、表情を変えずに淡々と語った。  ウルが、少年の外見をしながらも男児として認められぬ半陰陽の身体であることが判ったこと。そのため都市の司祭が、神の寵児……天の御使(みつか)いとも言える神性を見出だし、捕虜の檻から引き抜いたこと。 『巫女様、司祭様より豊穣祭までの十二日間、この者を神殿仕えにとのお達しです』 『神託、ですか?』 『左様、この者は神殿に神気を呼び込む力を持つと……。今年はさらなる豊穣を招くでしょう』 『豊穣祭が終わったら、ウルは再び奴婢(ぬひ)に?』 『いえ、十二日間の仕えを無事果たせたなら、恩赦としてアンスルの人民権を賜ると伺いました』  訝しげな眼差しを向けたリュリに一礼し、女兵士たちは一度場を後にすると、程無くして身なりを整えられたウルを連れて戻ってきて。  腕や脚に巻かれた包帯に目をぱちくりさせているウルを横目に、足早に去って行った。 『あ……おれ、わ、私、こんなだけど……ここのこと、よくわかんないけど、その……宜しく、お願いします……巫女様』  肩までの真っ直ぐな黒髪を首もとできっちり結わえ、薄い青の神官衣に袖を通したその姿とは真逆にしどろもどろなウルに、リュリはふふっと微笑む。 『巫女様なんて呼ばないで? わたし、やっと同い年くらいのひとに逢えたのよ。ねえ、ウルって呼んでもいい? わたしもリュリって呼んでほしいな』  それから知ったことだけれど、ウルは生まれた集落では「禁忌の子」として忌み嫌われていたらしい。  半陰陽(はんいんよう)……男女どちらでもない体を持つ者はこのアンスルでは御使いとして崇められる存在だが、ウルの故郷では真逆の存在だったようだ。  ウルは奇(く)しくもリュリと同じ五歳の時に集落の幽閉搭に閉じ込められて生きてきた。  そして先の戦で奇襲のための囮として駆り出され、アンスルの守備兵に捕まった。  ウルの部族はウルもろともアンスルの部隊を滅ぼそうと計画していたが、失敗に終わったらしい。  だから、なのだろうか。  本来敵兵のはずのウルにはしかし、リュリへの殺意は全くと言っていいほど無かった。  逆に『アンスルに来て、生まれてはじめて手当てされた』と瞳を細めて……おそらくは、微笑んでいたのだと思う。 * 『ねえ、ウル、あなたの望みはあるかしら? わたしは豊穣祭にはいなくなるわ。だから、それまでに何かウルの願いを叶えたいのだけれど……』  神殿の階段を黙々と掃除しているウルの耳元で、リュリはそっと囁くと。 『それ、巫女さ……リュリの、望み?』  反対に聞き返され、リュリは小さく頷いた。 『そうね……わたし、未来が欲しいの。そのために、ウルの力を借りたいの』 『みら、い……?  ……リュリは、おれに笑ってくれた。巫女様だから……は、違う。リュリの願いなら、おれは、叶える』  ウルはぽつりぽつりと言葉を吐き出しながら、階段一段ごとに刻まれた紋様を指差して。 『リュリ、おれ、これが知りたい。これ、文字ってものだって、司祭様、言ってた』  それから、恥じらうように俯くと、ゆっくりと、リュリの顔を見上げた。 『文字……』  リュリは不意をつかれたように呟くと、少しの間瞬きをして、穏やかな声で言葉を紡いだ。 『――ありがとう、ウル。ウルは不思議なひとね。まるで全てを知っているみたい……。……うん、わかったわ、では、ウル、今日からわたしはウルに文字を教えます』  ――それからは、瞬く間に時間(とき)が流れた。  リュリは豊穣祭の舞いの練習、ウルは神殿や祭壇の壁磨き。  それぞれの役目をこなしながら、合間を見ては、二人だけの「文字の講座」が開かれた。  文字の生まれ、成り立ち……一本棒の意味、点の意味から始まって、ようやく本題の紋様……文字に辿り着いたのは、豊穣祭の二日前……今朝のことだった。  リュリは「太陽」、「月」、「星」の紋様を描いてから、ウルに木の棒を握らせる。  描いてみて?  視線で促すけれど、ウルの手は動かない。 「リュリ、お願い、もう、一回……」  その言葉は、何度も何度も繰り返された。 * 「む、難しい……。リュリ、あれ全部覚えてるの?」  辺りはもう暗くなっていた。  月明かりが優しく見守る中、神官の宮と巫女の宮に別れる二つの道の前で立ち止まったウルがリュリに訊ねると、リュリはにっこりと笑って見せた。 「覚えているわ、大好きだから」  そして、思い立ったように、ウルに訊ねる。 「ねえウル、わたしはとても大切な三つの文字をあなたに伝えられた。あとはあなたの好きな文字を伝えられたらと思うの。何がいい?」  さわさわと、風が木の葉を揺らす音が聴こえる。  リュリが心地良さそうに身を委ねていると、ウルの口から、ウルに似つかわしくない、明瞭な響きで言葉が紡がれた。 「『花』と『リュリ』がいい」 「花と、わたし……?」  見開いた瞳に映ったのは、ウルの……射抜くような、真剣な眼差しだった。  花……その紋様は、天へと向かって掲げられた人間の両手と、宙を舞う花弁がモチーフとなっていることから、『天への愛』とされる。  アンスルでは、男女が結婚する時に祝福の文字として大地に描かれる、神聖なものだった。  リュリ……  リュリ、という文字は無い。  人の名を文字とはしない、それはアンスルでの暗黙の了解だった。 「――わかったわ。明日は、花を。最後に、魂を捧げましょう。……ごめんね、リュリという文字は無いの……だから、わたしが描いた『魂』をウル、あなたに」 * 「――これが、『魂』よ」  山々が紅く燃える時刻、白地に紅と紺の縁取りの花嫁衣装を身に纏ったリュリは、いつものように穏やかに微笑んだ。  今晩、月が天中に浮かんだ時刻……リュリが十四を迎えるその時に、神殿街の中央広場の大きな薪を囲んで豊穣祈願祭が始まる。  ウルはごくりと唾を飲んで、一心に文字を見つめた。 「丸……、だよね、リュリ?」  リュリがゆっくりと描いたその文字は、ひとつのぶれもない、円形だった。  そこにある意味を、リュリが伝えたい思いを読みとろうといくら必死になっても、目の前の丸が邪魔をする。 「ふふ、ウルったら、そんなに真剣になることはないわ。だってわたしが描いたのは、ウルの言う通りの丸だもの」  リュリはくすくすと笑うと、一呼吸置いてから、ウルに向き合った。  白いヴェールが、ふわりと揺れる。 「簡単なものは難しいもの。難しいものは簡単なもの。円は線、されど線でなく。円は縁(えにし)、始まりにして終わり、終わりにして始まり、廻る、いのちの証(あかし)……」 「リュリ……」 「今日までありがとう、ウル」  わたしはあなたの未来で生きられるかしら?  小さな囁きに、ウルは神官衣の両裾を握って俯いた。 「……リュリ……、おれ、おれは……」 「知っているわ。あなたが、月の刃なのでしょう?」  ウルの瞳からどっと溢れた水滴をそっと指先で拭いながら、リュリは微笑む。  それでも、あなたはわたしに幸せをくれたのよ、と――。 「ねえ、ウル? 約束をしない?」 「やく……そく……?」  未だ涙の止まらないウルは、ごしごしと拳で涙を拭ってリュリの真っ直ぐな瞳を見つめた。 「そう、約束。“いつかまた此処で”。……ふふ、無謀かしら?」 「えっ、む、無謀じゃない……っ。だって、リュリの描いた丸はそういうものだろう? おれ、信じるよっ、リュリとまた会えるって、信じる。約束する。“いつかまた此処で”……必ず」  ウルは地面にぎこちなく『花』を描き、そして『魂』でそれを囲むと、リュリに向かって微笑んだ。  おれからリュリへ、そう言って頬を紅く染めて。  リュリは、とても嬉しそうに微笑む。  やがて宵闇が迫るまでの僅かな時間、果てしない永遠を、彼らはただ、静かに過ごした。 * 「それは違う」  ――時は廻った。  しん、と静まりかえった教室で、腰までの長い黒髪を一つ結びにした少女は鋭い眼差しで口にする。  漆黒の瞳に射抜かれた教授は、またか、というように軽く首を振った。 「……また貴女ですか、早瀬(はやせ)君。講義妨害もほどほどにして下さい。これは確たる史実であって、君の発言は妄想に過ぎない。判りますか?」 「解らない。アンスルでは確かに人身御供の慣習はありました。けれど、それはこの文献に書いてあるような虐殺ではありません。歴代の巫女たちは尊重されていましたし、自らの使命に誇りさえ抱いていた。身を拘束されることもなく、自らの足で泉まで歩いたんです、彼女たちも、わた――」  言いかけて、早瀬と呼ばれた少女ははっと口を押さえる。  そんな早瀬を一瞥(いちべつ)して嘲笑いながら、教授は言った。 「『私』も?  ……馬鹿馬鹿しい。それこそが欺瞞ぎまんだ。貴女はその時代から生きていたとでも言うのですか? そんな奇想天外な事実があるなら証明してごらんなさい。貴女とて判っているのでしょう? 根拠なき言及は無力だと」 「……っ。『アラミ エン エルセス クルス……(友よ 我に光を……)』。……確かに私一人、何を言ったところで妄言に過ぎないでしょう。だから、私はこの場で一つだけ種を蒔いておきます。アンスル遺跡群の秘密はまだ明かされていない。……神殿跡の一つ、ルシア神殿の地下神殿に今なお眠っている剣(つるぎ)を見つけて下さい。月光色の石がはめ込まれた剣です」  真顔でまだ若い男性教授を見据えた少女は、これから半年大学を休学する旨の承認済み書類と簡単なメモを教授に渡すと、言葉を繋いぐ。 「私は明日出国します。名目上は語学留学ですが、今までさんざん私の言動に悩まされた先生なら、真意はお察しでしょう?」  教授は書類と流暢な現地語で書かれた行き先のメモを見比べると、ゆっくりと首を横に振って、深くため息をついた。 「――正気の沙汰ではないな。君の頭脳は買っていたのだが」 「『史実だけが全てではない、歴史は日々変わりうる』、そう仰ったのは先生です。私はそんな先生だからこそ、お伝えしました。今一度歴史に問い、答えを得て下さい」  少女は落胆する教授に凛と微笑むと、微かにどよめく史学ゼミ室を後にする。  その足取りは軽く、しかし決意に満ちていた。  時は西暦二千七十三年。  四季が彩をみせる島国、日本はいつしかその内の二季を失い、豪雪の冬と酷暑の夏とが交互に訪れる厳しい気候となっていた。  日照りによる干ばつも徐々に忍び寄り、先進の環境設備に限界を覚えた学者たちはこぞって、歴史を遡るようになった。  無から有を生む技術……不毛な地に灌漑(かんがい)設備を敷くなどして繁栄した古の民たち、その叡知にあやかろうとしたのだ。  教育制度も大幅に改革された。  年少の者でも可能性のある者には相応の学び場が提供され、未来を憂う資産家たちもまた、彼らに多額の出資をした。  今年十六になる早瀬鈴歌(すずか)も、幼い頃に資産家夫婦の養子になった一人だった。『ものの覚えが早すぎて気味が悪い』という理由から幼くして両親の手を離れ、『ものの覚えが恐ろしく早い逸材だ』という理由から養子に欲しいと歓待された鈴歌。  彼女は六歳の時に山城(やましろ)から引き取り先の早瀬へと姓を改めた。  鈴歌は極めて優秀だった。  読んだ本の内容は一つも漏らさず知識として身に付け、聴いた言語もすぐに我が物にした。  人間性においては難ありな部分があったが、才知を重んじる早瀬一家は別段意識せず、我が子として鈴歌に接していた。  やがて十二になる頃には鈴歌は多種多様な言語を理解し、専門機関が行った調査試験で考古学や史学においても秀でた成果を打ち出した。  大学院生と同等の論述力、各種学力が明示されていたため、鈴歌は同年に大学院直結の大学に飛び級入学、その二年後には全科目の履修条件を満たして事実上大学の学部を卒業、学士号を取って大学院に移った。  ――今やあえて誰も気に留めないが、鈴歌には不思議な癖があった。  毎夜、どこの国の言葉でもない不思議な言語を謡うように紡ぎながら、凛とした表情で厳かな舞いを数度繰り返す。  早瀬が山城に尋ねたところ、不思議な言語は昔から口にしていたという。  ……鈴歌は早瀬の義父母に度々語っていた。 『私は、約束を守るために生まれました。いいえ、鈴歌としても約束を守りたい、あの穢れなき約束を。……だから私は学ぶのです、己の力で羽ばたくために。……義父さん、義母さん、いつか時が来たら、私は往かねばなりません』  神妙な顔で語る鈴歌に、義父母は当初柔らかく笑っていなしていたが……  やがて、十五の鈴歌から『約束を守りに行きたい』と、とある国の高山地帯の地名と道順がびっしり書かれたノートを手渡されると、そうもいかなくなってしまう。  義父母は鈴歌の決意が揺るがないことを知ると、必ず大学院に戻ることと、休学は半年だけ、という期限を設けた上で名目上の『語学留学』を容認した。  ――大型旅客機から小型旅客機へ、仮眠を取りながら乗り換えを繰り返した後で山岳列車に揺られ、ようやく降り立ったのは標高三千メートル超の山間にある小さな街。  周囲の乗客が空気の薄さで体調を崩す中、すんなりと環境に馴染んだ鈴歌は、街に二つしかない宿のうちの一つに手早くチェックインし、貴重品以外が入ったトランクを簡素なベッドに置いた。  できるだけ身軽にと厳選した貴重品の入った、幅薄だけれど収納性のあるウエストバッグを腰に巻き付け直し、ふわりとした衣類で隠すと、部屋に鍵をかけ、高鳴る胸を押さえつけながら日が高く昇った外へと踏み出す――。 *  かつて歴史が刻まれる前、この地にはアンスルという神殿都市が広がっていた。  古の文明の欠片を探り歩くように、鈴歌は街からはだいぶ距離のある遺跡群を目指す。  民家の途絶えた場所に立つ指標に従って、厳しい傾斜を、ひときわ緑の濃い山を正面に見据えたまま登ってゆく。  傾斜は坂ではなく薄茶けた石段になっており、右脇には急な段差の段々畑が石段の遥か上方まで果てしなく繋がっていた。  一段踏みしめるごとに、細い両足には、疲労と懐かしさが染み込んでくる。  時折石壁に手をつきながら休息を取り、ようやく広い都市跡にたどり着いた時には小一時間が経っていた。 (……あれから、どれほど経っただろう)  背中で髪を束ねていたリボンをほどくと、ざあっと吹きつける風に漆黒を遊ばせてみる。 (愛おしいわ……)  灰色のアスファルトには程遠い、むき出しの大地。  丈の短い草葉が隙間なく繁る焦げ茶色の地面から伝わるのは、紛れもない温もり。 「――フェンランジュ……(愛しき故郷……)」  そっと溜め息を漏らすと、少し先に居た数人のうちの一人、長身の男性が不意に振り向いた。 「イア フェンランジュ……?(貴女の、愛郷……?)」  驚きを孕(はら)んだ声音の主は、この地には似合わない太陽のような黄金の長髪を肩の辺りで緩く結わえた、碧眼の青年だった。  濃紺の長衣は白と紅(あか)で縁取られており、腰には長い布を巻き付けてある。  ちらりと見える柄(え)は、小ぶりのナイフのものと想定された。 「……ミア フェンランジュ(ええ、愛郷だわ)。……ここでは皆、アンスル古代語を話せるのですか?」  ――鈴歌の呟いた言葉は、歴史学者でさえ知らない……秘伝などでない限り知りうる者のないアンスル古代語だった。  しかし目の前の、鈴歌より頭一つぶんくらい背が高い青年はそれを難なく口にしたのだ。  すぐさま古代語口調を現代の現地語に変えて質問すると、青年は改めて片膝を地面につき、鈴歌と視線を合わせる。  流暢な現地語、現代のそれでゆっくりと応えた。 「出来ません。それに、この現地語もこの地に生まれ育ったものが話す程度、やがて自然淘汰されると言われています。……ミア フェンランジュナルム ユン “ウル”(……私の故郷での名は“ウル”)。エトゥン ユル イスト(約束は守られました)、イア フェンランジュナルム ユン “リュリ”……レイリエ?(貴女の故郷での御名は“リュリ”……違いますか?)」  ――碧(あお)の瞳と漆黒の瞳は数秒ほど対峙し、両者ともゆっくりと瞳を閉じた後。  穏やかな沈黙を破ったのは、鮮やかな鈴歌の声だった。 「エトゥン ユル イスト……」  歌うような口調、再び開かれた黒の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。 「……ミア フェンランジュナルム ユン リュリ エルネス(私の昔の名前はリュリよ、確かに)。シア レンジェ ウル……(会いたかった、ウル……)。……髪も瞳の色も、背丈だって違うのに、どうしてこんなに懐かしいのかしら?」 「私も貴女にお会いしたかった……ずっと、ずっとです。……懐かしいのは、私が“ウル”を記憶しているから、そして貴女が“リュリ”を記憶しているから……あの日の約束も、過ごした時間も、全てを」  ゆっくりと開かれた碧の瞳は、鈴歌の涙を認めて、ほんの少しだけ照れたように伏せられた。 「……私の現代の名前はウル・ライナ。奇しくもあの時代と同じ名を賜りました。私の母はれっきとしたこの地の民でしたが、母が十六の歳に街が異国の強盗団に襲われた時、逃げ遅れて……彼らに強姦されたのです。命は助かったものの、母の腹には赤子が宿ってしまいました。……それが私です。母の髪も瞳も黒でしたが、私は母の敵に近い容姿で生まれ……母は私に名を授けた後、自害したと聞きます。……その後は族長の庇護のもとで育ちました。こんななりですが、生まれも育ちもここなんですよ」 「ウル……」  鈴歌の涙の色が変わる。  喜びのそれから、悲しみへと。  そして、何かに思い至ったように、はっと顔を上げた。 「……ウル、貴方の声は、とても穏やかだわ。貴方はいつも、自分の生を恨まないのね」 「さて、どうでしょう。今日貴女に会えなければ、何故会えない人の記憶をと……輪廻の理不尽を恨んでいたかもしれませんね。――そういえば、貴女の現代の御名前をお訊きしていませんでした」  にこりと微笑む青年……ウルの表情に曇りはなく、鈴歌は潤んだままの眼を慌てて擦って微笑んだ。 「名乗り忘れていたわ、ごめんなさい。私の現代の名前は鈴歌、北半球にある島国、日本っていう国で生まれ育ったの。皆はリンって呼びます。スズカより、リンのほうがしっくりくるから……リンかリュリのどちらかで呼んで貰えたら、嬉しい」 *  物珍しそうに二人を見ている……先刻ウルと共に先を歩いていた数人に、ウルは早口で何かを伝えると、去っていった彼らを見送った後鈴歌に向き直った。 「これから少しの間だけ、リュリと呼ばせて下さい。その後は、リンと……。……一緒に神殿跡を見ませんか?」  鈴歌は頷くと、歩き出したウルに続く。  さわさわと揺れる草葉を踏みしめながら、ウルの確かな足取りに誘われて神殿跡を通過した後、神殿裏の奥まった所にある、小さな広場に辿り着いた。 「――ここ、は……」  ――鮮明に蘇る、光景。 『いつかまた此所で、必ず……っ』  薄青の神官衣に身を包んだウルの姿と、ウルの精一杯の言葉。 「――ウル……。ウル、ごめんなさい……っ、私……わたし、貴方を今の今まで縛りつけていた……」  少しの間茫然として、それから大粒の涙を溢した鈴歌の両手をウルは優しく握ると、小さく首を振った。 「――違う、リュリ。“おれ”は幸せだった。リュリに会えて、暖かさを知った、涙を知った……。……大切な誰かと約束を交わすことの貴さを、教えてくれた。そして、また逢えた」  声音は穏やかな低音だが、まるで当時のウルのような語り口に、鈴歌の中の何かが解けて、弾ける。 「ウル、わたしは民のために真摯であろうとしたわ。太陽の巫女であることに誇りを持っていた……捧げられることだって怖くなんてなかった。だけど、だけどねウル……わたしは、何も残らないことが少しだけ悲しかったの。だから、ウルを巻き込――」 「リュリ。自分を責めちゃだめだ。“おれ”が知りたいのは一つだけ。リュリは“おれ”に会えて、どんな気持ちがする?」 「――え……どんなって、嬉しくて、幸せで、ずっと離れていた家族と再会できたみたいな……ううん、それよりもっとあたたかな気持ちだわ。愛おしい……そうね、愛おしいのだわ、きっと」  ゆっくりと言葉を探した鈴歌の答えを聞くと、ウルはふわりと微笑んだ。 「――同じ。“おれ”も、幸せ。……貴女の葛藤に“ウル”は気付いていました。それも何もかも、全て含めて、“ウル”は“リュリ”を慕っていたのですよ、リン」  途中からおどけたように変えられた声音に、はっと我に返った鈴歌もまた、鈴歌として返答する。 「――ありがとう、ウル・ライナ。……エトゥン ユル イスト(約束は守られました)、シオナ エンドゥス リピルメス(楔よ、終焉に解けよ)」  ――“楔(くさび)よ、終焉(しゅうえん)に解けよ”。  朗々と響いた鈴歌の声は、かつて約束を紡いだリュリの声音と瓜二つでありながら、それと異なるものだった。  ……過去に自らが刻んだ約束という名の楔を、鈴歌は己の声をもって大気に霧散させた。  それは、決別と始まり――。 「リン、行きましょう。じき日が暮れる」 「ええ、ウル。私、レダという宿に部屋をとってあるの……っと、初対面なのに語調を崩してごめんなさい、まだ混同しているのね」 「ああ、私の敬語なら気にしないで下さい、癖なんです。ここでの私の仕事は観光客のガイドですから。どうかリンは気楽に。……そうか、レダに居られるのですね、あそこの料理は美味しいですよ」 「ありがとう。……ウルも街に? この街全体がアンスルの末裔(まつえい)と聞くけれど」 「いえ。そして、はい。百人足らずのこの街の九割がアンスルの末裔、一割は観光業者や派遣医師団ですね。ちなみに私が厄介になっている家はレダの近く……広場があったでしょう? あの向かいの集会所みたいな建物がそうです」 「え、そんな近くに」 「……リン、今夜、時間はありますか? 族長にも、今宵中に貴女を会わせたい。レダでゆっくりご飯を食べてからで構いませんので、家にいらして頂けませんか? 私が迎えに伺います」 「ええ、もちろんよ。不思議とあまり疲れていないの。遅くでは悪いわ、なんなら今から……」 「少しは休んだほうがいい。身体のためです。……本当なら一晩休まれてからお誘いすべきなのですが、勝手をお許しください」  ――話をしながら傾斜……石段を下る帰り道は、行きよりも早く街に辿り着いたように思える。  ウルは鈴歌の足元に注意を払いながら、優しく先導してくれた。  街に灯りが点り始める頃には二人は無事広場に到着し、ウルは鈴歌を宿まで送ると、簡素なフロントのカウンター越しに何かを伝えて鈴歌に軽く手を振って出ていった。 *  レダのフロントで何故か少しだけ待たされた後、鈴歌は部屋の鍵を開けると、ベッドに放った鞄の脇に置かれた折り畳まれた衣服を見て瞬きをした。  ――白地に、紺と紅の縁取りの長衣。  衣服の上に添えられた『お客様宛ての贈り物です』と書かれた走り書きのメモに誘われるままに袖を通すと、まるで鈴歌のためにあつらえられたかのように、丈もぴったりだった。  見た目の割に軽く、動きやすい布地。  寒冷期に内にも外にも着込めるように多少のゆとりをもって作られているが、もたついた印象はない。 「……こんな素敵な贈り物をくれたのは、誰かしら?」  くすりと微笑んで部屋を出ると、白衣を纏ったままフロントに顔を出す。  流麗な現地語で礼を伝えると、レダのオーナーと名乗る女主人に食堂まで案内された。  木組みのテーブルと椅子が無造作に幾つか並ぶ食堂は自然の温もりが活かされていて、ほっと一息つけるような空間だった。  オーナーはミレアと名乗り、自らキッチンから大皿に載った二人分の料理を運んで来て、鈴歌の目の前の椅子に腰掛ける。 「キトシュに……マルカ……」  パン生地を丸く広げた上に木の実と、鳥の肉を細かく刻んだものとを載せてから、手で千切った香草を加えて竈かまどで両面焼きをした……昔から変わらない主食のキトシュ。山羊のミルクに秘伝の薬草をすりつぶしたものを混ぜて煮詰めた苦甘いマルカ。  マルカの入った木のカップを額近くに掲げて万物に感謝を捧げ、一口飲んでからキトシュを口に含むのが古くからの慣例だった。  ミレアに先を譲られた鈴歌がごく自然に慣例に倣い……身体が記憶するままに食事を始めると、ミレアもまた一連の所作を終え、キトシュを一口食べてから感慨深げに口を開く。 「あんた、本当にここの人みたいだねえ……。よく来てくれたねえ、スズカ、この街に。……この街は、ずうっと、あんたを待ってたんだ」 「私を?」  ため息のようにゆっくりと吐き出される言葉を聞いてから鈴歌が訊ねると、ミレアは目尻に皺を集めて柔らかく微笑んだ。 「そうさ……。族長様……アルメラス様に聞いてごらん。それにしても、はるばるよく来てくれたねえ……同胞(はらから)よ」 *  それからミレアと他愛ない話をした後、部屋に戻ってぼんやりと窓の外を眺めていると、コンコンと扉が軽くノックされた。 「どなたですか?」  扉を開けずに訊ねると、今日何度も聞いた温かな声が帰って来た。 「ウルです、お迎えに上がりました。フロントで待っています」 「今行きます」  鈴歌は鞄からある程度長さのあるショールを取り出し急いで羽織ると、白衣のまま部屋を飛び出し、慌てて鍵をかける。  部屋からそう遠くないフロントにウルを認め、軽く会釈した。 「着てくださったのですね、リン」 「やっぱり貴方が? なんだか不思議な感覚だったわ」  差し出されたウルの手を取ると、広場を挟んで真向かいの族長アルメラスの家へ向かう。  夜は危険だからと、ウルは周囲に気を配りながら鈴歌を庇うように歩いてくれた。  そして。  灰色の石が積み重ねられた大きめの建物――アルメラスの家に足を踏み入れる。  そこはあたかも“リュリ”の幼い頃過ごした民家のようだった。  エントランスには靴置き場があり、履き物をぬいで上がったその先には紅と紺を基調とした織物が敷布や壁掛けとして使われた部屋があり、その雰囲気がかつての民家の居間を彷彿とさせた。  そこからさらに奥へ入るとがらりと雰囲気が変わる。  厳か、と言うのだろうか、おそらくはここが族長アルメラスの執務室なのだろう。  白を基調に紅と紺が織り込まれた敷布の上には部屋の奥のひときわ大きな座布団を中心として円座のように座椅子が置かれていた。  ウルは大きな座布団の後ろの壁に掛けられていた厚手の壁掛けを少しだけ横にずらすと、壁掛けの奥へ続く空間に向かって声をかける。 「族長、スズカ様をお連れしました」  ――不意に、シャラン、と音がして、それが数回ほど続いた後、杖をついた小柄な老人が姿を現した。  鈴の音のような音は、杖にくくられた鳴子だった。  鈴歌は敷布に膝をつき、頭を垂れる。  長い黒髪が、ふわりと敷布に広がった。 「――おお、よい、よい。異国の客人よ。顔を上げておくれ」  少ししわがれた穏やかな声にゆっくりと顔を上げると、ウルと同じ衣装に身を包み、頭の周りに無造作に織物を巻き付けた小柄な老人はにっこりと微笑んだ。 「私はアルメラス・ユルヌス。アンスル族の長じゃよ」  ウルに支えられながら柔らかい座布団にあぐらを組んだアルメラスは、鈴歌にも柔らかな布が巻かれた座椅子を勧める。  鈴歌はウルが族長の脇の座椅子に腰掛けた後に、そっと腰掛けた。 「改めまして……。私はスズカ・ハヤセ。各地の語学を学ぶためにこの地を訪れまし……」  アルメラスに微笑み返した鈴歌は、アルメラスの呼吸に濁りがある気がして、はっとその喉元を見据える。  アルメラスは鈴歌の視線に気付いたのか、笑みを深くした。 「なに、大丈夫さ。いつものことだよ。私は持ってあと数年……。じゃが、貴殿に会えた……それだけで私は幸せだ」  アルメラスは深く息を吸うと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。 「スズカ、私はね、ここにいるウルから何度も何度も、“昔話”を聞かされとった。その昔話は、私ら代々の族長に秘伝で伝わる口承より明確じゃった。口承にはこうある。『八代(はちだい)の巫女、祝福の月を供に永き繁栄と豊潤を拓(ひら)く』……つまりはこうじゃ、アンスルの八代目の太陽の巫女は、天からの祝福を授かった月の刃と共に数世紀にもわたる繁栄を導いた、と。祝福の月という意味は判らず仕舞いじゃったが、ウルが教えてくれたよ。当時のアンスルでは男性性も女性性も持たぬ半陰陽の子を祝福の子と崇めたと。八代の月の刃は半陰陽の子だったとね。そして、八代の巫女と月の刃の絆も……当時の巫女たちの誇りと覚悟も」 「アルメラス様……」 「……のう、スズカ? 私ら一族は、古代より贄(にえ)を捧げて平穏を祈願した蛮族(ばんぞく)だとされとる。ことあるごとに無差別に、無理矢理数多の子供らをほふってきた虐殺の蛮族だと。……だが、ウルはこう言うのだよ。贄は毎年豊穣祈願祭の時に巫女と刃の二人だけ、『代』と記されるのは飢饉(ききん)の翌年の大祈願祭(だいきがんさい)を任された巫女と刃のみ。そして歴代の巫女や刃たちは誇りを持って自らの命を捧げた、と……」 「――はい、本当です」 「……貴殿は、我らの祖先を蛮族から貴き民に変えてくれるかの……?」  痛ましい、表情だった。  歴史と言う名のレッテルをはられ、野蛮な民とし時に迫害され、時に嘲笑われながら細々と血を紡いだ一族……。  その長として長い年を生きたアルメラスは、じっと鈴歌を見つめていた。 「――私が何故、遠く離れた異国に生まれたのか……解った気がします。“外”の人間にしかできない役目を私が、そして“内”の人間にしかできない役目をウルが担ったのでしょう」  鈴歌の静かな語りに、ウルは小さく頷く。 「歩きながら聞きました。リンは学者の卵、そして祖国に“本当の歴史”の種を蒔いて来たと。ならば私はリンが知り得ぬ部分の記憶を辿って“道”を開き、種を開花させます。それをリンが先進手段を使って各国に発信する――」 「……ええ。私は歴史学の博士……教授に、月の刃の在処を伝えてきました。けれど、それだけで。どうすればそこに入れるのかは知らず……、でも、かつて月の刃だったウルは知っています。そして歴代の巫女を偲んだ代々の月の刃たちが、秘密裏に巫女に見立てた紋様を刻んだ小さな石細工が存在し、その在処をも、ウルは知っていると、私に話してくれました」 「私は“リンが旅先で雇った観光地のガイド”で、“リンと遺跡を歩いている時に建物の歪みを見つけて偶然隠し部屋を発見”し、これまた偶然“部屋の壁に埋め込まれた小さな石の一つ”を発見します。この隠し部屋は月の刃の隠し部屋とはまた別ですが、あえてここだけを発見します」 「……それを私が写真に撮って『物証は見つからなかったけれどこんなものを見つけた、検証してほしい』と画像データとともに教授にメールします。彼は国内外にも顔がきく上に狡猾ですから、未知の発見を自らの手柄にする手間は惜しまないでしょう。彼もまた“偶然”を装い“初めて”発見するのです。そして予め近くに呼び寄せておいた調査団を総員動員して部屋を解析し、世界中に発信します。……改めて発掘調査に乗り出した各国の調査団たちは他に“見落とし”がないか確かめる筈です。そこで“調査団のガイド”をしていたウルが“偶然小石に躓き”、目の前にあった石組の神殿の外壁の一箇所を強く押してしまう。すると石は内部にずれ込み“ある程度の時間をかけてから落下音がする”。これにより未発掘の地下空洞が発見され、安置されていた月の刃が陽の目を浴びます」  アルメラスは、交わされる二人の会話にくっくっと笑った。 「末恐ろしいのう、おんしらは。あえて外部の発見にする事で信憑性を持たせるか」  鈴歌とウルは互いに顔を見合せて頷き合う。  ウルの黄金の髪が夜明けを誘うように、きらりと光った。 「――族長、調査団が月の刃を発掘したその日、貴方は発見に沸き立つ調査団をここに招き、“今後地域をさらに活性化させてくれるであろう調査団たちに労いの意を込めて古くから伝わる伝統料理を振る舞う”名目でもてなしながら、一つの“昔話”をして下さい。私が幼い頃より貴方に何度も語ってうるさがられた――“リュリとウルのお話”を」  ウルは茶目っ気たっぷりにアルメラスにウインクすると、アルメラスは抑えがちだった笑いを明らかにする。  両手を叩いて咳き込みながら朗らかに笑った。 「ははははっ、最後に私が“秘伝”を語ることで全てを払拭するわけか。なるほど愉快じゃな、恐れ入った」  アルメラスは、まずウルに向き直ると、改めて感謝の意を伝える。 「……ウル・ライナ、我らの貴き同胞よ、汝に天の祝福を。……ジーナ・ライナ……お主の母親は、自害する数日前に言うておったよ、赤子に罪はないとな。あれは聡明な子でな、異国の容貌を持つ赤子の行く先を思って私に預けた。長たる者の家に住まう者を害そうとする輩はそうはおるまい。ジーナはお主がアンスルの民として真っ当に生きられるようにと願いながら、独りで逝った。私はそんなジーナを止められなんだ……。すまぬ、ウル。全てが片付いたらお主は――」 「……行きませんよ、何処にも。私の故郷は昔も今もアンスルで、貴方はその族長。……そして、私の大切な父上です。異国の容貌の私にたくさんの情を注ぎ、育て上げて下さった、無二のお人です」 「ウル……」  ウルの揺るぎない眼差しにアルメラスは一度目を伏せ、瞼をゆっくり開くとウルへと微笑み返した。  それは鈴歌が今日初めて見る、アルメラスの父親の顔だった。  アルメラスは、次に鈴歌に向き直る。  齢を重ねて綺麗な白色になった眉が、優しく下がった。 「スズカ・ハヤセ、記憶に宿る巫女殿の呼び声に真摯に応えて下さった貴殿に心よりの感謝を。……ここまで来るのに苦労したろう」 「いえ、ここで得たものに比べたら、苦労など塵芥(ちりあくた)のようなもの。私は一生分の幸せを頂きました。これから上手く段取りが進んで、晴れてアンスルの古代史が払拭された暁には、私はリュリではなく一人のスズカとして――」  ちら、とウルを横目で見た鈴歌は、きょとんとしたウルの手を握ると、アルメラスににっこりと微笑んだ。 「ウル・ライナの伴侶になりに参ります」  涼しげな顔に似合わないその言葉にウルは瞳を見開き、アルメラスは面白そうに笑みを浮かべる。 「リ、リン……、いくらなんでもそれはいきなり過ぎます」 「――いやかしら?」 「いやではないです、しかし物には段取りというも」 「なら、決まりね。覚悟のほどを宜しく、ウル」 「……リュリもリンも、強引さは変わらないなあ」  肩を竦めて首を振ったウルの表情は、言葉とは裏腹にどこか嬉しそうだった。 *  ――それから一年。  鈴歌とウルの企ては無事成功し、アンスルの古代史は一新された。  中でも功を奏したのは族長アルメラスの流暢な昔語りで、史実に基づく伝承として、一新された史実とともに瞬く間に世界を駆け巡った。  互いを想い合う巫女と月の刃の伝承は、痛ましくも淡い想いを孕んだ透明な哀の物語として各地へ羽ばたき、やがて誰とも知れぬ遠い異国の作家により流麗に綴られた一冊の本となる。  本は別の者の手で戯曲と化し、再び各国の舞台へと届けられ演じられるに至った――。 *  ――今日も、どこかの国のどこかの舞台で歌劇が演じられているのだろう。  ウルは蒼く澄んだ空を眩しそうに見上げながら、瞳を細めて微笑んでいた。  ふいに、近くの樹から白い鳥が一斉に天高く羽ばたく――。 「ふにゃ……ふぎゃあぁ」  背にしていた広い建物の中から微かに聞こえたその声に、ウルはそわそわしながらもそっと入り口に目をやり。  助産師の若い女性が手招きしたのをきっかけに、早足から小走りへと歩みを変えて、奥の一室へと――。  そして、生まれたばかりの赤子を抱いた鈴歌を目に映した瞬間、大粒の涙を流した。 「――よっ……よかったっ!ありがとうございます、リン……!」  鈴歌は赤子……女児の頬に優しく触れて、ため息をこぼすようにそっと囁く。 「花のような子……、あなたの名前はフィオレよ。……風に吹かれても地面にしっかり立てるフィオレ(花)。古(いにしえ)の祝福のしるし……、縁(えにし)の言葉」  ありがとう、ウル。  鈴歌は柔らかい声音で言葉を紡ぐと、ふわふわの布にくるまれた赤子をウルの両手に託して、そっと目蓋を閉じた。  すやすやと寝息をたてる鈴歌の髪に少しだけ触れて、赤子を抱いたウルは部屋を後にする。 「可愛いなぁ、私達のフィオレ……。君は、ずっとずっと前から、私達の願いだったのですよ?」  生まれてきてくれて、ありがとう。  ウルはそれまで見せたことのないとても穏やかな眼差しで、腕の中の我が子を見つめていた。 *  遠く、遠い空の彼方で、薄青の神官衣をはためかせた少年と、白地に紅と紺の縁取りの花嫁衣装を着た少女が、手を取り合ってふわりと笑った。  ――穏やかに時は過ぎ去り、やがて凪のような時が訪れる――。 「――まさか、誰も思いもしないのでしょうね。私が……遠い昔のウルが、リュリを月の刃で貫けなかっただなんて」 「ウル……?」 「……泉を背にして貴女はさあ早く、と微笑んで。私が刃を握ったまま震えて動けずにいたら、貴女はその柄を強く握って刃ごと私を引き寄せた。……そして、あたかも私が貴女の心の臓を真っ直ぐ貫き、そのまま供になり沈んだかのように見せかけた――」 「ウルは、泣いていたわね。やっぱり、とても怖かったの?」 「……っ。怖かったに決まっているでしょう! ――貴女を、殺めるなんて……!!」 「……ウル……」 「貴女はあのとき、二人ぶんの小さな誉れを守ってくれました。……己が欲のまま月の刃を放り出す愚行に走り、アンスルの祭祀を穢すことも有り得たかもしれません、貴女を……死なせたくなかったから。……でも貴女は、そんな私を存じていた……全てを知りながら、全て抱えて……そして、守ってくれました。――今も昔も…貴女は救ってくれてばかりだ。……私は……リュリにも鈴歌にも、何も返せていないのに……」  ――緩やかに、ただ緩やかに。  花びら舞う季節の中、淡々と語るウルはどこか寂しげだった。  鈴歌は、そんなウルをそっと見据え、ウルの頭にひらりと舞い降りたひとひらの花びらをそっと手に取りふっと軽く息をかける。 「……ウル。ウルが想ってくれているのと同じように、私もウルに救われたのだわ。――ひとりでは怖かった。だけど、ウルが私の代わりに泣いてくれた。震えてくれた。だから私は、怖くなかった……。ウルが私を、私のままで居させてくれたから」  ふいに、強い風が二人に向かって吹きつけ、ざあっと木々を揺らして通り過ぎていった。  ひらひらと降っていた小さな黄色い花びらたちは、陽の光を浴びてきらきらと舞い上がる。 「――父さまー!  母さまー!」  遠くからしゃらしゃらと鳴子を響かせながら、淡い金色の髪をなびかせて息を切らし、小さな少女が駆けて。  次の瞬間、並んでいた二人を、両腕を目一杯広げて抱きしめた。 「あら」 「おや、何かありましたか?」  鈴歌とウルが優しく微笑むと、少女は澄んだ青の瞳を輝かせて嬉しそうに笑う。 「あのね、踊りの練習、一つも間違えなかったの! これなら今度のお祭りはばっちりだねって、お師匠さまがね、ほめてくれたのよ!」 「アミエラさんが? まあ、それは良かったわね! 毎晩庭に抜け出して練習したかいがあったかしら?」 「母さまっ!? どうして知ってたの?」 「ふふ、フィオレのことはなーんでもお見通しよ」  フィオレと呼ばれた少女は、くすぐったそうに微笑むと、よりいっそう力をこめて鈴歌とウルを抱きしめた。 「いたた、フィオレ、いたいですよ」  ちょうど痛みのツボに小さな指先が食い込んだのか、ウルはやんわりとフィオレの指を握ってからそっと離し、楽しそうに目を細める。  白地に紅と紺の縁どりの、裾のふわりとした祈り巫女様の衣装に身を包んだ小さなフィオレの頭を、優しく撫でた。 「もう、混じり物の後継ぎなんて言わせないわ! わたし、もっともっと上手く踊れるようになって、口伝もぜんぶ覚えて、いつか立派なアンスルの長になる!  そしたら父さまも母さまも、からかわれたりしないでしょう?」 「――フィオレ。君は、紛れもないアンスルの民ですよ。君の金色の髪は太陽が大地を照らす色、天の祝福の色。青い眼はアンスルの空の色。そして君の笑顔は、何にも代えられぬ、私達の大切な大切な宝物です。……私達はね、確かにからかわれたりすることもある。でも大丈夫、私達はこのアンスルを愛しているし、何よりフィオレがこんなにも私達を支えてくれています。毎日が、とても幸せですよ」 *  ――鈴歌とウルが結ばれ、ウルがアンスルの族長となって早八年。  アンスルはかつての活気を取り戻しつつあった。  苗植えの季節に細々と続いていた豊穣祈願祭は華やかさを増し、近年は舞いの継承者を師とする舞い巫女たちが、舞台を厳かに彩るようになった。  無論そこに血が流れることはなく、巫女たちは己が魂の代わりに真摯な想いを捧げ舞う。  かつて眠った幾多の巫女たちの魂が安らかであるよう祈りながら、このアンスルの安寧を謳い、太陽の神へと豊穣への願いをこめて――。 *  ――今宵も、庭で小さな少女は一心に踊る。  月明かりになびく金の長い髪は優しくきらめき、遠慮がちに鳴るシャラン、という音はどこまでも透明だった。  後ろ姿は古の巫女のように凛として、振り向く姿はあどけない、今に生きる花の名の少女のもの。  遠きフェンランジュは、手のひらに舞い降りた――。 * シア レンジェ ミア フェンランジュ (わたしは故郷に逢いたかった) エルネス サーラ イスト フェンディ (たしかに悲しい場所ではあったけれど) ミ レンジェ エトゥン ユル イスト (わたしは約束を守りたかった) メリエ ミ ルピア エン ウル (そして、わたしはあなたと再び邂逅した) イーオ イルクト シオナ リピルメス エンドゥス (あなたは教えてくれた、誓約の楔は解き放てるのだと) イルクト ラエール エンドゥス (あなたは不変の愛を教えてくれた) イルクト ウォメス (あたたかさをくれた) イルクト セレッタ (涙をくれた) ――シア レンジェ ミア フェンランジュ (――わたしは故郷に逢いたかった) フェンランジュ サーラ イスト フェンディ (そこは悲しい場所ではあったけれど) チュルム セレッタルームト ユーディナ エン ミ レンジェ イーオ (やがて涙は笑顔を描き始めた、それはあなたに逢えたから) イーオ イルクト セレッタ リピルメス ユーディナ (あなたは教えてくれた。涙は晴れて微笑みに変わることを) イルクト ラエール エンドゥス (あなたは永遠をくれた) イルクト ウォメス (あたたかさをくれた) イルクト フィオレ (祝福の花をくれた) ……リェンヌ ラエール フラウ リュリ (……リュリよりあなたへ、愛を抱きながら) エレミアム リート オルス アンスル―― (感謝の詩を、この地へ捧げましょう――) *  ――祭りの舞台裏でそっと紡がれる歌は、誰の耳にも触れずに、ただアンスルの大地へと滲んでいった。  長い長い歴史は、未来に向かって刻まれ続ける――。           *おわり*
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