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 深い深い緑の森の中に、小さな小さな一軒家があった。  森には綺麗な小川が流れていて、川のほとりやそこかしこに華奢な淡い色の花が群れをなしている。  ――ただ、そこに聞こえる「命の音」は、限りなく少なかった。 「カナデ」  瞳を見開くように鮮やかな青のワンピースをはためかせて軽い足音で駆け寄った女性は、ふわりと笑う。 「今日は何を弾くの?」  澄んだその声に、女性と同じくらいの背丈の青年はそっと顔を上げた。  艶やかな黒のグランドピアノが一台、板張りの広い部屋にぽつんと置かれている。  ピアノ同様の黒と、深みのあるボルドー色で織りなされた椅子に腰かけた青年の両手は、広い鍵盤の中央付近にそえられていた。 「わからない、何だろうね」 「でも、カナデの手は弾く曲が解っているみたい」 「ふふ、そうだね。変わり映えしないけれど」  ポーン……  透明な一音が響いたのをきっかけに、数多の音が紡がれてゆく。  優しい雫がこぼれるように始まるその曲は、「青い鳥の歌」。  ――むかしむかし、あるところにそれはそれは綺麗な青の羽を持つ一族がいました。  人に似た体に、自由に大空へ羽ばたける空色の翼。 彼らは人間と長い間共に過ごし、人間が機械技術を身につけ始めたころ、世界から忽然(こつぜん)と姿を消してしまいました。 「とりかごにあおいろ、とらえたひとは」  カナデと呼ばれた青年のゆるやかな旋律に合わせて、女性は歌う。  青い鳥の歌は、誰もが知っている伝承歌だった。 「あおをもやして、はねをてに」 「てつのかたまり、てんにとどいて」 「はいいろのそらでひとり、ないたかみさまは」  ――なみだであおの、こころをけした。  一つ目の区切りまで歌い終えた女性は、カナデを見て目を細める。  カナデも鍵盤からふっと指を離して、穏やかに微笑んだ。 「ソラの声は、この曲にぴったりだね」 「カナデの音が、いざなってくれてるから」 「そうかな?」 「うん、ソラはカナデの音、好き。カナデの音は、きれい」  ソラと呼ばれた女性は、大人のような、子供ような眼差しで笑みを深くする。  カナデはその表情を見て、表情を暗くした。 「僕の、音は……ソラが望むものでは……」  つう、と、見開かれた両目から大粒の涙がこぼれ落ちる。 「あ……あれ、どうしたんだろう? 僕、今何か……」  突然こぼれた涙をどうすることもできずに、ただ拭い続けるカナデは、歪(いびつ)な笑みをソラに見せて。  ソラはそっと傍に寄り添うと、カナデを優しく抱きしめた。 「――大丈夫だよ、カナデ。ソラに響くカナデの音は、とてもきれい」 「ソラ……僕は……」 「……大丈夫だよ。ソラがそばにいるから、カナデは、絶対に戻れるから」  ソラの淡い橙色の髪が、カナデの栗色の髪に触れる。  一粒、カナデの肩に滲んだ涙に、カナデは気付かなかった。  ――自分は何故、ここにいるのか。  いつからここにいるのか。  そもそもここはどこなのか。  自分は誰なのか。  カナデは、その名以外の全てが曖昧だった。  自分たち以外の生き物の姿のないこの森で、自分は何をしているのか、何のために存在するのか、全く判らなかった。  ただ、いつから共に居たのか定かではないソラの存在が、唯一の救いであり、生きがいになっていた。  カナデの弾いたピアノの音色を綺麗だと言い、澄んだ歌声で応えてくれるソラがそこにいる…… それだけで、心に空いた空洞が満たされるようだった。 (――ソラが居てくれるなら、僕は、僕が誰かなんて判らなくても……)  カナデはぼんやりと、穏やかな日々に身を任せていた。 「……ねえ、カナデ。おなか、すかない?」 不意にソラが言って、カナデはピアノを弾く手を止めた。 「……おなか、すく、って……なんだっけ……?」 「何かが食べたくなるってことだよ。こんがり焼いたパンに木苺のジャム、それからサラダを少し」 「……たべた……い?」 「そう。あと……あったかいミルクティー」  遠くを眺めていたソラは、どこか哀しげに微笑む。 腰まである長い髪をひとふさ、指先でつまんで少し見つめてから、ぱらぱらと元に戻した。 「……? よく……わからない……けど、今は一人になれたんだし、好きな曲を弾きたいな」  口にしてから、カナデははっと息を飲む。 (今、僕は何て言った……?)  眉間に皺を寄せたまま、椅子から床に座り込んだカナデは、ずきずきと痛み始めた頭を必死に押さえた。  痛みは、だんだん強くなって――。 「……こころをなくした、あおたちは」  ぽつりぽつりと小さな歌が、暗くなった視界に響いていた。 「すがたもわすれ、そらのはて――」 (ああ、ソラの声……だ……)  カナデは眼を閉じたまま、柔らかな歌声に意識を委ねる。 「ほしにとけて、ゆめになり……」  ……あおとひとは、わかたれた  ものいわぬ、あおのかけらに  ひとは、おのれのつみをしる  わがみ、ささげてとむらいに  ひとはさいごのはねをてに  くらいうみにしずんでいった  やがてまっさらなだいちから  あおいつばさのいちわのとりが  はばむものないおおぞらへと  ゆうがにはばたく――  それはひとのみたゆめか  あおのかなえたゆめか  しるすべもなく…… 「――いまや、つかめぬゆめのゆめ」  そよぐ風のような、涙のような歌は、甘く柔らかく締めくくられた。  哀しげに微笑むソラの横で、カナデは小さく寝息を立てていた。 * 「――カナデ、君の音はどこまでも楽譜に忠実だ。一音たりとも表現は誤っていない。だが、君の音は欠けている」  ――これ以上、僕にどうしろっていうんだ…… 「カナデ。また先生にご満足頂けなかったみたいね。……何を俯いているの? そんな暇、無いでしょう? 早く弾きなさい」 「そうだカナデ、アリカの言う通りだ。落ちこぼれのお前が役に立てるのはこれだけだろう? 手を止めるな、弾き続けるんだ」  ――僕は……何で、弾いているんだろう…… 「弾け」 「弾け!」 「弾き続けろ!」 「誰が休んでいいと言った!!」  ――だ……  いやだ  やめてくれ……  僕は、もう―― * 「――デ、カナデ……起きた?」  気づけば僕は毛布をかけられ、ソラの膝の上で眠っていた。  どのくらい経ったのだろう、ソラのいつもの柔らかな微笑みが、何故だかとても愛おしい。 「……夢を、見ていた気がするんだ。僕は……学才も、力もなくて……優秀な家族たちの笑い者で……、一台の古びたピアノだけが友だった」  そっと、辿るように語ると、ソラは穏やかに微笑んで、次を促した。 「――書庫から音楽の資料を漁って、楽譜の読み方を覚えて……鍵盤と見比べて……みんなが寝静まった真夜中におそるおそる弾いた一音、その響きに、僕は魅了された。……独学で覚えたピアノで、心のままに自由に幾つかの曲を生み出した頃……家族は僕のもとに、先生を連れてきた。……せめて国のために、紡ぎ手となれるようにと……役立たずの僕には、その道が最後の灯火だから、と」 「……夢の中の、カナデの居た国は、どんな国?」 「ん……と、機械技術のかなり発達した国で……、隣の国としょっちゅう争ってるんだ。だから国はより優秀な技術者を育てて兵器の開発に……それから、屈強な兵士を育成するための軍学校も……あって」 「カナデの、お家は?」 「……家は、軍や技術部とのつながりが強い、エリート一家……僕は、三人兄弟の真ん中で……、優秀な兄と弟と、いつも比べられてた。落ちこぼれのお前でも、紡ぎ手……国の歴史を作曲して演奏するピアニスト……力なき者が唯一役立つ職務にはつけるようにって……」 「……うん」 「僕はだんだん才を認められて、紡ぎ手になった…多くの人が称賛してくれた。だけど僕の音楽は欠けているみたいで……このままだともっと上には行けないからと、先生や家族は僕を……寝食以外はピアノにがんじがらめにして……来る日も来る日も、弾くのは国にとって都合のいい歴史音楽ばかり。好きな曲さえ弾けない……それはまるで……」 「……まるで?」 「……鳥籠だった」 「カナデ……」  ゆっくりと起き上がると、ふらふらした足取りで、カナデはピアノの椅子に腰掛ける。  すっと鍵盤に手を置くと、深呼吸してから、いつもの曲を奏で始めた。 「――いやな、夢だった。大好きなこの曲さえ、弾けない日々なんて」  指は、鍵盤の白と黒を繋いでゆく。  涙のように響く音色は、カナデ自身のようだと、ソラは瞳を閉じて……  そして、透き通る声で言葉を発した。 「ごめんね、カナデ。カナデの夢は、夢じゃないの。ソラがカナデを、ここに連れてきちゃったから……だから、ソラがちゃんとカナデを連れて帰るね」 「……ソラ?」 「カナデ。もう、起きる時間だよ。……カナデの音は、きれいなんだから……だから、カナデがカナデの翼を思い出せばいい。カナデの鳥籠には、鍵はかかっていないはずだから――」  ――……  ……  …  あたたかな声の余韻が、消えていく。  朦朧とした意識で手繰り寄せたのは、手繰り寄せたくなかった現実だった。 「――カナデ、起きたのか」  唸るような低い声に、カナデは指先が冷たくなるのを感じた。 「……父……さん……?」  白い天井、白いベッド、一定のリズムを刻む機械と、それに繋がれた自分……。 「お前が一度目を開いたと、連絡があった。それからまた眠っていたようだな。……ようやく起きたか、全く、お前は私達に迷惑をかけるばかりだ」 「……僕は……」 「お前は、五階の窓から裏庭に落ちたんだ。……裏庭から鳥の群れが離れずに鳴き続けてうるさくてかなわんと庭師から苦情が来てな、仕方なしに見に行ったら茂みにお前が倒れていた」  顔をしかめ、ため息をついた父親は、眉間に深い皺を刻んだまま言葉を継ぐ。 「……いいか、くれぐれも馬鹿な真似はするな。お前の行動は私達の顔でもある。妙な行動をして私達の顔に泥を塗るな」 「――ちが……。違うんです、僕は……落ちたくて落ちたのではなくて……その、小鳥が……」  頭の部分が橙色で、背や羽根が鮮やかな青の小鳥。  その小鳥は、いつからか窓から見える近くの屋根に羽休めに訪れるようになって。  軽やかに飛ぶその姿が、とても眩しかった。  あの日もピアノを弾いていたら、いつもと違う鳴き声がして……窓の下の少しだけ低めのその屋根を見たら、小鳥が大きなカラスに襲われていて。 「……怪我を、していたから、その……助け、たくて…」  ぽつりぽつりと呟くと、嫌悪感の混じった声が返ってきた。 「理由などどうでもいい。お前はもう私達に迷惑をかけるな。それだけだ」 「父さん……あの……」 「私は忙しい。お前は一刻も早く身体を治して、無事だったその両手で紡ぎ手の仕事と練習を再開しろ」  パタン、とドアが閉まって、父親は足早に去っていった。  カナデは小さくため息をつくと、父親と入れ替わりで入ってきた医師たちに応答した。 「目が覚めて何よりです」  医師の一言が、皮肉のように、心にくすぶっていた。 *  ぼんやりと。  ただ、ぼんやりと、霞む。  僕は、何のために生きているんだろう。  何のために、生かされてしまったのだろう。  ……争いや病、たくさんの人が、失いたくない命を亡くしているのに、僕みたいな人間が生かされている……  役立たずの僕が紡げるのは、欠けた旋律だけ――。 「ソラ……」  夢で見た鮮やかな人物の名をぽつりと呟けば、誰もいないはずの個室に、甘い声が反響した。  ふわり、と、橙色の長い髪が揺れる。  鮮やかな青のワンピースに身を包んだ女性が、そっと立っていた。 「――カナデ、おかえり」  あたたかな温度のその声に、瞳を見開く。 「……ソ……ラ?」 「待ってた、カナデのこと。ソラを助けてくれて……ありがとう、カナデ……」  包むように、そっと抱きしめられて――  瞬間、カナデは身体の違和感に首をかしげた。 「あ……れ……? 足が……」  動かそうとするとずきっと痛んだ……固定具が添えられ包帯が巻かれた左脚の痛みが、無い。  身体全体の、鈍い痛みも消えていた。 「――うん、もう動けるよ。ソラが、修復したから」 「……え?」 「ごめんなさい、痛かったよね……カナデ、ごめんなさい」 「……君は……これは、やっぱり夢……?」 「ううん、現実。カナデじゃなくてソラのほうが、ちょっと幻。ソラの現実は――」  微笑んだまま、ソラはゆっくり目を閉じて、息を吸って……吐いた。  刹那、ソラの背に鮮やかな青の両翼が、優雅に広がる―― 「……ソラは、審判の鳥だから」  穏やかに、ソラは言った。 「審判の……鳥? ソラ……君は一体……」 「青い鳥の歌……カナデが好きで弾いてくれたあの曲は、本当の歴史がもとになっているの。ソラは青い鳥の一羽だよ。……人間たちの行く末を、見定めるために地上に降りた、審判の一羽」  ソラはカナデに手のひらを差し出すと、にっこり笑う。  歌うような声音で、言葉を繋いだ。 「ソラは小鳥の姿になって、たくさんの場所を渡り歩いた。ソラが見定めるべき人間は、カナデ……あなたで、最後。……カナデ・アストラガルス・シニクス。わたしの手を取ってください。ソルフィラシエ・マグノリアの審判を、あなたに……」  半ば唖然としながらも、ゆっくりとカナデがソラに手を伸ばし、手と手が触れた瞬間――  部屋中が、鮮やかな青に染まる。  きらきらと輝く青の羽根が螺旋状に舞い踊り、カナデの視界を覆って……  次の瞬間には、目の前にいたはずのソラの姿が掻き消えていた。  ――ちら、と目の端に光を感じて手元に目をやれば、そこには明滅を繰り返す小さな青い石がひとつ、ころんと転がっている。  指先で掴める大きさの澄んだそれには、よく見ると何かが混入していた。  鮮やかな、青い羽根の欠片。  光の明滅は、そこで生じていた。 「――ソラ?」  呟けば、光が強まる。 「……僕はまだ、夢を見ているんだろうか」  カナデはぼうっとした頭のまま、固定されたままの左脚をおそるおそる床につけ、少しずつ重心をかけてみた。 「……やっぱり、痛くない」  一、二歩歩いて、それから再びベッドに戻って、カナデは額に手を当てたまま、ほんわり光る石を懐にしまいこむ。 「……色々、どうしよう」  ぽそりと、呟いた。 ***  驚異的な治りの早さだと口々に言う医師たちを背に、カナデは一人、病院を後にした。  あれから三日、懐の光る石はまだ、確かに存在している。  これがなければ、自分は長い夢を見ていたのだと片付けてしまっただろう。  重い足取りで屋敷に向かい、自室に鞄を置くと、カナデは真っ先にピアノの部屋に向かった。  弾きたいのは、今までに弾いたことのない曲。  頭では形になっていない、ただ指先はそれを知っているかのように鍵盤を流れてゆく。  部屋の風景は、見えていない。  かわりに心が、視界に広がる。  真っ暗な闇に差すのは、柔らかく鮮やかな青い光……  光が象った翼は、身体に絡み付いた縛鎖を光の粒に変えてしまう。  身体は部屋にあるはずなのに、心はどこまでも飛んでゆけそうだ――。  時に優しく触れるように、時に勢いよく幾つもの鍵盤を跳ねて。  部屋に父親が入ってきたことにさえ、気付かなかった。 「――本当に手に支障は無かったようだな」  不意に響いた低い声に、カナデは部屋の景色に引き戻される。 「しかし何だ、その曲は。耳障りなものを弾くな、私の部屋まで聞こえていたぞ……全く。うるさくてかなわん」 「父さん……」  びくりとして椅子から立ち上がったカナデが父親を振り向いた、その瞬間だった。  凍てつくような父親の眼差しは、目を開くのも苦痛なほどに弱々しいものに変わる。  両ひざをがくんと床に落とし、肩で息をし始めた父親を支えながら、カナデは眉をひそめた。 「……父さん? 大丈夫ですか? どこか……」 「さわ……るな! お前の手が当たっている場所が、一番痛む。何だ、この痛みは……」  呻く父親に従ってそっと手を離したカナデは、そのまま様子を伺う。  自分が触れた時よりは、苦しくなさそうだ。  息が整ってきた父親は、再びカナデを睨み付けて吐き捨てるように言った。 「お前は、どれだけ私達に迷惑をかけれ……ば……」  途中から、言葉に力がなくなり、またも父親はうずくまる。 「――お、前、私に、何を、した……! これは、何だ……!」 「ぼ、僕は何もっ! 父さん、父さん……!!」 「触る……な!」  身体中が痛むのか、のたうち回る父親は、カナデの助けを拒み続ける。  確かに、カナデが触れただけで激痛が走るようだった。  カナデは急いで部屋から飛び出すと、医務室へ走る。  医師を呼んで部屋に戻った時には、父親は何事も無かったかのように立っていた。  医師に診察を受けながら、忌々しそうにカナデに向かって「お前がいるとろくなことがない」と吐き出した父親は、またも急に苦しみ出して床をはい回る。 「――これは……一体……」  医師が額に汗をかきながら対応する中、カナデは、あることに思い至った。  いつも何か言われるたびに悲鳴を上げていた心が、今日はそれが全く無かったこと……  先ほどから、懐にしまった石から発せられる、氷のような冷たさを感じること……  ――まさか……  カナデは小さく首を振ると、深呼吸して、石をしまった布袋がある左胸のあたりに手を当てる。 “大丈夫、僕なら大丈夫……”  目を閉じて語りかけてみる。 “もし僕の心が今のことを招いたなら、お願いだ、今すぐ止めてほしい” “父さんの痛みを、僕に返して――”  強く、願って。  目を開けると、いくらか落ち着いた様子の父親と、それに安堵した様子の医師の姿があった。  ――それからの毎日は、そんなことの連続だった。  どうやらこの羽の石は、僕の心を守ってくれているみたいで。  僕が罵詈雑言を浴びるたびに、何故か相手が僕の苦しみを受けてしまう。  それも、尋常じゃない苦しみだ。  しだいに父さんも、母さんも、先生や兄弟たちまでも、僕から遠ざかるようになっていった。  僕は、誰にも咎められることなく、ピアノを弾ける環境を手に入れた……みんなを、苦しめて……。  ……これは、僕が望んでいたものなのだろうか?  自問自答した末に、僕は今までピアニストとして得た財すべてと、一枚の書き置きを残して、そっと屋敷を出た。  偵察機の飛ぶ音も聞こえない、静かな晩だった――。 「どこへ、行こうか……」  長いこと切っていなかった伸び放題のくすんだ金色の髪を背中で一つに束ねると、風が吹いた方角へ歩き出す。  特に行く当てもなかったし、どこかに長居するつもりもなかった。  誰かと深く繋がることさえしなければ、相手を害さずに済むのは、屋敷の人たちで証明済みだった。  この心が動揺さえしなければ、石を介して傷つけることはないはずだ。  隣町まで歩いてから朝を待って遠方への列車に乗ると、終点の小さな駅で降りて、ぼんやりと空を見上げた。 *  屋敷からは、かなり離れた。  この町は列車が通っている中では、一番国境に近い町……  この先の先の町は、争いに巻き込まれたと言っていた。  ここも時間の問題だと、そう語る人もいる。  確かに駅は人もまばらで、みな足早にどこかの建物の中に入っていった。  この辺りは隣国の偵察機も多い。  いつ空襲があるかも定かではないからだ。  ……まあ、この国自体、どこにいても危ない。  あの屋敷も、軍部の技術部と繋がりがあったし、屋敷の裏手には、いつでも退避できるようなシェルターが隠してあった。  ――人の争いはいつからあるのか、これからもずっと人は争うのか、僕にはわからない。  ただひとつ言えるのは、僕は争うのも傷つけるのも嫌だということだけ……  この町あたりからは、比較的安全な場所へ引っ越した世帯の空き家も出ているというから……  それを思い出して、この町への列車に乗った。  こんな町はあちこちにあるけれど、ここに来たのは歩き出した方角がこちらだったのと、終点までの電車賃が足りたからだ。  手元には、簡単な食糧と水と、あとはわずかな残金があるだけ。  どこかの空き家で静かに過ごそうか……そんなことを考えていた。  ――ふと、頭上で突如爆音が響く。 「お兄さん、危ない!」  急降下してきた飛行機か……  背中で誰かに叫ばれて地面に突っ伏したけれど、ここは草むらでもなんでもない。  ここも巻き込まれてしまうのか……  ぼうっとした頭で、轟音を聞いた。  小さなころ流れ弾で怪我をしたけれど、これを全身で浴びたらそんなものではないだろうな…… 「……」  身動きせずにただ構えていると、自分の斜め後ろから地面にそれが降り注ぐ破裂音がして。  固く目を閉じること、少し―― 「……え」  音は鳴りやんで、後ろの建物から人が近づいてくるのがわかった。 「お兄さん、大丈夫?」 「あ……はい、そのようで……」  服についた土を払って立ち上がると、不思議そうな顔をした栗色の髪の女性が手招きをする。 「ねえ、ねえ、いまの、何? 私、お兄さんはもうだめだと思って……不思議ね、お兄さんのまわりだけ、弾丸が弾かれたみたい。……お兄さん、技術部の人? いまのどうやったの? 新しく開発された何か?」 「あ……えっと、すみません、僕は技術部には入れなかった落ちこぼれなんで……兵器とか、詳しくなくて」 「じゃあ、軍の人?」 「そう見えますか」 「見えないわ、華奢だものー。じゃあ、何さん? どうして防げたの?」  問い詰められたカナデは曖昧に笑ったまま、場を後にした。  振り返れば、生々しい被弾の跡がそこかしこの建物の壁に刻まれていた。  まっすぐに歩いていくと、先ほどの掃射の影響か、声を殺した小さな嗚咽が一軒の古びた建物から多数響いているのに気付く。 「ここは……」  壁にある看板は朽ちて、何と書いてあるのか判らない。  ただ、子供の泣き声がずっと続いているのが気にかかって、そっと入り口をノックした。 「誰か、いますか? 大丈夫?」  少しすると足音が玄関に向かって近づいてくる。  看板に比べて分厚く頑丈な扉を内側から少しだけ開けたのは、まだ幼い女の子だった。 「泣き声がしたけど、誰か怪我でも?」 「ううん……みんなただ怖かっただけだよ。お兄ちゃん、誰?」 「僕は……」  答えようとした瞬間、ひときわ甲高い泣き声が反響する。 「あ、また泣いちゃった! ごめんなさい、あの子、二つとなりの町から来たんだけど……飛行機が来た後静かになるとね、いつもわんわん泣いちゃうの」 「二つとなり……ええと、ここに大人の人は?」 「たまに来てくれるよ? いつもはいないの。かけもちっていってた。でも、町のみんなが、いつも様子見に来てくれるし、差し入れもくれるから……だいじょぶ」  誰かがあやしたのだろうか、甲高い泣き声はしだいにおさまり、ポーン、という透明な音が玄関まで響いてきた。  その音色に、カナデは自分の両手を見下ろす。 「ここには、ピアノがあるのかな?」 「うん、昔からあるんだって。みんな弾き方しらないし、さわるだけだけど」 「そっか……あのさ、僕がそのピアノ、弾いてみてもいい?」  とっさに口から出た言葉に、カナデ自身が驚いていた。  ピアノともあの家とも、別れてきたというのに……  左胸の冷たい石が、一瞬だけ強く光った気がした。  女の子は僕が危険ではないと察したのか、そのまま家の中に入れてくれた。  ある程度広さのある家に、七、八人の子供が居た。 みな、女の子と同じ……おそらくは六歳か七歳くらいの子が年長で、先ほど泣いていたらしい子は四歳くらいに見える。 (孤児院みたいなものなのかな……)  カナデがピアノに近づくと、そばに居た子供は先ほどの女の子の後ろに隠れてしまって。  申し訳なさを感じながら、軽く鍵盤に手を触れた。  自然と指先から流れ出すのは、少し切なくて少しふんわりとした、ゆるやかな旋律――。  奏で始めて少し経つと、いつの間にか椅子のすぐそばに先ほどの女の子が立っていて。  ひとり、もう一人と、そっと近づいて来てくれているのが分かった。  手を止めずに弾いていると、ほとんどの子が眠っていて……  はっと我にかえった時に起きていたのは、最初に会った女の子だけだった。 「ごめん……長く使ってしまったね、ピアノ」 「ううん、お兄ちゃんはピアニストさんなの? すっごく上手ね! みんな楽しんでいたし、私も楽しかった。私、お兄ちゃんのピアノ、好き。小さい頃お母さんがひいてくれたの思い出した、嬉しかった。ありがとう」  語る女の子の瞳はほんのりと輝いていて、カナデは自分の両目から、大粒の雫が零れ落ちるのを感じて。 「お兄ちゃん? どうしたの? どこか痛いの?」 「ううん……違うんだ。ごめんね、なんだろう……」  ぽたり、ぽたり、零れ落ちた雫は、零れ落ちなかった。  雫は光る蝶になり、女の子や子供たちの頭上を舞ったあと、どこかへ消えていった。 「なに? なに? おにいちゃん、手品もできるの? すごぉい! それになんだか……私も、ねむたくて…」  ふわふわと言葉をつないだ女の子は、カナデの膝の上で眠ってしまう。  カナデは、布袋の石があたたかすぎるほどに熱を帯びているのを感じて、その熱の正体が解りはじめた気がした。 「ソラ……君が与えてくれたものは……」  ――僕もこの石も、「どちらにでもなれる」ということかな。  カナデは老朽化した建物と、安心したように眠っている小さな子供たちを眺めながら、そっと微笑んだ。 *  ――……  昔、あるところに、不思議な鳥たちによって庇護され、柔らかな光に包まれていた丸い世界があったそうです。  鳥は、人間とともに暮らしておりましたが、やがて人間が機械の開発を進め、鳥たちの安寧を脅かすようになると、鳥は世界の外側へ去ってしまいました。  人間たちが争いを起こし大地や空を汚すたび、壁越しに世界を眺め続ける鳥たちは悲しんで、世界の内側がこれ以上黒く染まる前に……外側まで脅かされる前に凍らせて汚れを止めてしまおう、と話し合いました。  ただ、鳥たちはなおも人間を愛していましたから、すぐに凍らせてしまうのはしのびないと、審判役の鳥に世界中を巡らせることにします。  希望の芽となる人間を見つけたなら、世界を氷にするのはやめて、人間たちを信じて内側も外側も委ねようということになりました。  鳥たちは、争いの絶えない世界に向けて、一羽の鳥を飛ばします。  与えられた期限は、百年でした。  やがて審判は舞い戻り、そして…… *** 「ねえ、おばあちゃん。おばあちゃんは、会ったことがあるんだよね?」 「ああ、小さな頃にね……ピアノを聴いていたら、眠ってしまったよ」 「どんな人? 背が高くて力もあって天才って本当?」 「ふふ……さて、どうだったかね」 「いいなあ、僕も会いたかった。子守唄のピアニスト……機械を眠らせて、戦火を消し去った英雄……」  時折旅客機が行き交うほかは静かな青空を眺めながら、少年と年老いた女性が、のんびりと言葉を交わしていた。 「……そうだ、ユーノ、あっちの山小屋までこれを持っていっておくれ」 「えー、また? あのおじさんは元気なんだから、こっちまで降りてくればいいのに。ずっとピアノをひいてるだけじゃない、うるさい曲」 「持っていってくれたら、英雄のお話を聴かせてあげようか」 「――行く! この野菜届けたら、すぐに戻るから」  駆け出してゆく少年を見つめながら、女性は柔らかく微笑む。 「……不思議なことも、あるものだねえ」  ――女性より年老いているはずの“子守唄のピアニスト”は、近所の山小屋で一台のピアノとひっそりと暮らしている。  齢百歳をこえているはずの彼の容姿は、四、五十にしか見えない。  いつだったか、僕の身体は周りの人よりいくらかゆっくり年をとっているのかも、と呟いていた。  夢の中で伝承の青い鳥に出逢ってから、ゆっくり年をとるようになったと……。  ……彼は、毎日楽しそうにピアノを奏でていた。  それはいつかの子守唄とは程遠い、軽快でテンポの早い、子供がはしゃぐような旋律。  弾いている彼の瞳は、きらきらと輝いていた。  ……彼は、長く生きるのだろう。  どうか幸せであってほしいと、女性はそっと祈った。 * 「――カナデ!」  窓を叩いた橙色の髪の女性に気付くと、男性はピアノを弾く手を止めて、窓を開く。  ふわりと部屋に降り立った女性に、優しく笑った。 「やあ、久しぶり。ソラ」  ――審判の鳥は、鳥の長に言いました。  ひとは、弱く脆く、繰り返し争うほどに残酷で、けれど時にとても優しくて――  闇に呑まれようとも、自らの手で光にたどり着く生き物だと。 *FIN* ※このお話は、いつものように書くのではなく、少し面白いことをと考え、とある創作のお友達と同じ題材で、しかしながら全く方向性の違った物語を書くことを目的に執筆しました。またさらに別の創作のお友達に、元となる簡単な設定とあらすじをトスしていただき、それを各々が各々の魂を全力投球して小説化するというものです。 そうして数年前に生まれたのが、この作品です。 大切な創作仲間たちに、敬意と感謝をこめて。 元の設定は、以下のものになります。 『主人公……二十歳くらいの少し気の弱そうな男 それに付き添う優しげな雰囲気の女性(二十歳くらい) 二人は森の中の洋館に住んでいる。主人公はピアノを弾き、付き添う女性がたまにそれに合わせて歌っている。実は上記の生活は全て男性の夢の中での出来事。 現実では何か事故に遭って昏睡状態。職業はピアニスト、作曲家。若くして音楽界で評価されたが、世間の期待、鳥籠の中のように縛られた生活に耐えられなくなっていた。女性は事故に遭った時に助けようとした小鳥。ラストは夢から醒めて主人公は現実での鳥籠から羽ばたくように自由になる』 と、いうものです。 素敵な設定を、ありがとうございます!
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