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この地球上から、時間が奪われているらしい。 初めて聞いた時、テレビを買い換える必要がありそうだと思った。それか放送するのを間違えたか。だって、時間が奪われているってどういうことなのか意味が分からないし、あまりにも現実的じゃない。疑った私は普通だと思う。 ミヒャエル‐エンデの「モモ」の時間泥棒が時間を盗む、あのような感覚ではないらしい。何が時間を奪っているのか、分からない。どういう規則で時間を盗まれているのか、それも分からない。テレビでは、時間を盗まれたらしいお年寄りが次々に姿を消していると報道していた。そんなのたちの悪い嘘だとしか思ってなかったけど、確かに、商店街に行っても、おじいちゃんおばあちゃんがやっていたお店のシャッターがどこも閉まっている。死ぬまで辞めないと、元気に笑っていたのは、つい最近のことなのに。誰かの時間が奪われている、それは死が身近ということなのかもしれない。それに気付いて、初めて恐ろしくなった。人が居なくなる。何者か分からない相手によって、大事なものが奪われていく。 町にはいろいろな人が居るはずだったのに、たくさんの人が生きていたはずなのに、日が経つにつれてどんどん人気が無くなっていった。最近、テレビの番組が減った。芸能人も、時間を盗まれているのか、なんて衝撃も受けた。楽しみにしていた番組も、ドラマやアニメなんかも、無くなっていくのだろうか。それと、同じように私も。それは怖くて仕方の無いことだったけど、私には、ただ事実を受け止めるしか出来ることは無かった。いや、受け止めきれていたのか、分からない。もうあまり人が居なくなることに対して感情を抱けなくなっていた。怖いという感情が麻痺してしまったのかもしれない。 時間が奪われているという実感は、学校でも味わった。先生や、事務の人が減っているのだ。そのせいで、授業がつぶれたり、掃除されていなくて校舎が汚かったりした。時間は、大人から奪われるものらしく、電車の通勤ラッシュの時間でも少し空いていた。人が減っていることで、私が楽になることもあるんだな、なんて他人事のように思った。我にかえった瞬間、そんなことを考えた自分がとてつもなく汚ならしい、落ちぶれた人間に思えて、自己嫌悪に襲われた。悲しんだ人だって居るはずなのに。困っている人だって、絶対居るのに。自分の利益しか考えていない自分が恐ろしくて、身体の震えが止まらなかった。初めて覚えた恐怖は、そう遠い過去のことじゃないのに、何も感じないどころか自分にとっての利益を考えた。私は人間ではないような感じがした。立っているはずなのに、空中に浮いているような感覚。時間を奪っているものに、宙に吊らされているのかもしれない。 時間を奪われているという報道からちょうど一週間後、私の両親は家に帰って来なかった。父はいつも通り会社に行ったきり、翌朝になっても帰って来なかった。母は買い物に行ったきりで、心配になってスーパーヘ迎えに行っても、どこにも居なかった。両親も、時間を盗まれた。一人っ子の私は、家の中でひとりぼっちになった。誰も帰ってこないと分かった家の中は、今まで思ってた以上に広くて、音がよく響いて、何よりも空虚だった。この家も、一人暮らし用じゃなかったということを痛感させられた。 両親が居なくなった次の日、いつもより早く起きて、親戚という親戚に電話を掛けまくった。おじいちゃんは、おばあちゃんは、叔父さんは、叔母さんは、従兄弟達は、どうしているのだろう。どうして、今まで失念していたのだろう。とにかく、頼れる身内が欲しかった。 頼みの綱が切れるような音を、何度も聞いた。誰も電話には出てくれなかった。もう、皆時間を奪われたのだろうか。もう、私には身内が居ないのだと、そう思った。年の近かった従兄弟でさえ、電話に出てくれなかった。きっと、私の時間が奪われるまで、そんなに長くない。 ありったけのお金と、日用品をサブバックとスクバに押し込んで、私は家を出た。いずれ、何も使えなくなってしまうだろうから。時間を奪われるまで、自分一人でも生きるために。 最寄り駅のいつもの時間、いつもの電車は無かった。車掌さんの時間も奪われたのだろう。時間はやはり私の日常からも奪われているのだった。いつもより一本遅い電車、人が少なく、よそよそしさの立ち込める車内。今の状況ヘの違和感や不信感が、私の胸の中でくすぶっている。きっと、ぬぐわれることの無いものが。この中に居る人達だって、私だって、いつ時間を失うのか、分からないのだから。 どうせ死ぬのだから、と学校に来ない人は私のクラスに数人居た。もしかしたら、もう時間を奪われたのかもしれないが。 仲の良い子から話を聞くと、彼女も両親が帰って来なかったのだと言う。 「ママが居ないから、私ご飯自分で作れないし、どうせ死ぬんだったら餓死は嫌だなって」 「そっか……今日さ、いつもの電車無くて、もう身動き取れなくなるんじゃないかなって思って。だからお金とか歯ブラシとか、全部持ってきちゃった」 「え、私もそうすれば良かった。何も考えずに来ちゃったよ」 「ねー。私もそう。……それよりさ、もう学校で暮らしちゃうつもりなの?」 「んー、それが一番安全かなって」 「確かにそうかも。私も便乗!なんかお泊まり会みたいだね」 「それな!楽しそう。名案すぎるんだけど。あんた天才じゃん!」 「今頃気付いたか!」 やり取りはいつもよりテンションが高かった。そうしていないと、私達はきっと駄目になってしまうから。なるべく悪いことを考えないように、いつも以上に前向きだった。無理をした、明るさだった。無理に作った笑顔だということも、分かってしまう。私だって、我慢していないと泣いてしまうから。 時間が奪われている事実は、学校でより顕著になったように思えた。ベテランの先生が居ないのは前からだけど、中年の先生も、まだ三十代だった先生も居なくなっていた。大人はどんどん減っていく。かろうじて残っていた大人は、今年の新任の先生と教育実習生だけ。大人の居ない世界が普通になっていく。私達だけの、世界に。 もうどのくらい時間が残されているのか、分からないため、学校を解放します。すべての部屋の鍵を開けるので、使いたかったら好きに使ってください。下校も自由とします。今後の動向も自由とします。今日はもう解散です。さようなら。 それが先生達の結論だった。私もそうするしかないと思う。全校放送の終わりの、ぷつりと回線が切れた音が、いつも以上に響いた。それは何かが同時に切れるように、私の耳に聞こえた。 「…………ねえ、これから皆どうするの?」 しばらくの沈黙の後、学級委員がそう聞いた。 「どーすんのかねぇ。俺は何も出来ないし、学校解放されんだったらここに居るかな」 「てかさ、家帰れるの?それがはっきりしてないんじゃ何とも言えない感じ」 「……そっか」 「帰れるものなら帰りたいけどさ、帰っても誰も居ないし、する事無いんだよね」 「私はもうずっと学校に居るつもりだったから、他にも残る人居ると嬉しいなって思ってた」 「私は残るかなー」 「学校解放されるって家庭科室も解放されるんでしょ?だったら学校で生活できそうだし私も残る派。皆で料理したりするの、楽しそうじゃない?」 「めっちゃいいじゃん、それ!俺残ろーっと」 「じゃ便乗」 「私は帰る」 「俺もそうするわ」 「そっか、じゃあクラスラインで生存確認するわ」 「生存確認って縁起でもねぇな」 「本当だよ」 「でも他に言い様無いじゃん」 「弟居るし、迎えに行くから帰るねー」 「いや、絶対あるだろ」 「うん、じゃあね」 結局クラスに残ったのは、約3分の1程度だった。もうきっと、全員揃うことはない。でも、少しでも望みがあるなら。願わずには居られないのだ。 「ねー、ご飯どうする?」 「とりあえず、家庭科室でも行ってみる?何かあるかもしれないし」 「何ー、女子が何か作ってくれんの?やりー!」 「なんであんた達に恵まなきゃいけないのか、さっぱり分かんないわ」 「つれないなー、流石女史!」 「やめてくれる?」 仲良い子なのに、今でもこの辺怖いと思ってしまう。でも、同じくらい楽しい。私も、冷たいところがあっても優しい彼女が大好きだ。 「山城、しつこい男は嫌われるよー!ってか山城はどうでもいいから、家庭科室行こう?」 「そうだね」 「ちょ、市ノ瀬、お前一番酷いぞ!」 「はいドンマイ」 「お前もか篠崎!」 「当然」 「くっそ、味方がいねぇ!」 「いつものことだろ」 なんか嬉しい。この空気は、今までと同じもの。まだこうしていられる。普通が、一番嬉しいことだった。 「うーん……あんまり無いな。ねえ、そっちは何かあった?」 「いや……調味料はちゃんとあるけど、食材は無いなあ」 家庭科室で、夕飯用の食材あさり。調理実習が無かったから、全体的に食材が少ない。調味料はかなり充実してるんだけどね。 「マジで……。買い物、行くしかなさそうだね」 「そうだね」 「……ねえ、いいこと思いついちゃった」 「え、何何?いいこと?」 にやり、と不敵に笑う。うん、女史って呼ばれるのもうなずける。 「職員室行っちゃおうよ」 「……それの、どこがいいことなの?」 彼女の提案に、彼女が言うほどの魅力を感じないのは私だけだろうか?使える物なんて、何も無いだろうに……。 「先生達の持ってきたお菓子とか探すの。絶対何か出てくる」 「お菓子!?駄目だよ、怒られちゃう!」 「なんで?怒る大人、居ないのに私ら怒られるの?」 「あっ…………」 「ね、そうしよ。で、その後買い物行こ!」 私はうなずいて、彼女の後を歩き始めた。私には背徳感があるけど、この子は何も悪いと思ってないのかな……?一番の強者はいつでも彼女だ。 「うわっ、先生達いいもん食べてんなー、これ成城石井のお菓子だよ」 「えっ見せて見せて!……本当だ!あっちにもお菓子あったよ、美味しそうな外国のやつ」 「大人の特権ってやつー?なんかこういうのってずるくない?」 「同感」 「ねえ、これ私達で食べちゃおうよ。どうせ、料理するのは私達だし、特権。使っちゃわない?」 「やだよ絶対文句言われるじゃん。全員に通用しないんだったら面倒くさい」 「ばれなきゃいいんだよ。掘り出し物見つけたし、買い物行く?」 「仰せのままに」 「何その仰々しいの」 街は閑散としていた、というより私達以外に人が居なかった。道路の真ん中で三つ連なって止まっている車には、誰も乗っていなかった。倒れた自転車も何台もあった。信号を待つ意味はどこにもなかった。音がこんなに少ない世界なんて、他にあるのか。疑問でしかなかった。 「人、スーパーの中にも居ないね。これ私らお金払う必要あるか?」 「でもなんか罪悪感あるし、払っとこうよ。あ、私これ食べたい」 「え、じゃあ私もこれ食べよ。後は、主食?待ってこれ絶対重い」 「誰か呼ぼうよ、男子とか。山城にライン入れとくね」 「なぜピンポイントでそいつ出した」 「なんとなく。もうパスタとパンでいいかな」 「いいんじゃない?なんとなくって……」 「笑いこらえきれてないじゃん。あ、来るって」 「仕事はやっ」 「褒め言葉として受け取っとく」 私の提案が通って、パンとパスタをかごに入れた。主食が入るととたんに重くなる買い物かご。どれくらい必要なのか分からないから、多めにすると、もう持ち上げるのだけでも大変。カートを押す手応えもかなり重い。動く気がない人を押しているみたいな感覚だ。 「あー、疲れた。もう人来るまで待ってようよ」 「そうだね、私も疲れた。アイス食べよう」 「乗った!」 「自販機のアイス?」 「えー、どうせならカップの高いやつ!」 「男子が重いやつ持ってくれたおかげで楽だったわ、ありがと」 「……っ、女史が俺にお礼言った!やべ、俺死ぬんだ!」 「おいてめえ人が素直に言ったのに」 「あははっ、篠崎もありがとね。パスタ重かったっしょ」 「いや、平気。料理は任せちゃうから、これくらいはやる」 「篠崎お前一人だけイケメン枠入るのやめろよ、俺が惨めだろ!」 「自分で言っちゃうんだ……」 「お前本当残念な奴……」 「ねえそういうの良くない」 「よし、もう作っちゃおう」 「行くか、家庭科室!」 「放置も良くない!」 「あ、山城さ、残ってる人達集まってって放送入れてくれる?家庭科室集合って」 「よし無視されたけど任せろ!」 体よくパシリになってくれる山城。多分気がついてないだけだけど。何人分作るのか決めるために必要だったから、許して。数分後、まだ荷物を持つのに四苦八苦している私達に、山城の放送が聞こえてきた。 静かな校舎に響く三人分の足音。遠くの方でなる誰かが走る音。よく響くせいで間隔が分からない。少しずつ、家庭科室に近付くと、聞こえてくる足音の数が増えてきた。 「あれ、お前ら遅くね? 俺の方が早かった」 「荷物が重くて大変なの!」 「何人いる?よっ……と」 山城の顔に影が差した。珍しい。明るさが取り柄の、いつも笑っている奴なのに。そんなに悪いことがあったのだろうか。 「見てくれよ、これ。俺らのクラス以外の奴は一人も居なかった。しかも、クラスでも二人、居なくなっていたんだ……」 山城の声は震えていた。さっきまで一緒にいた人が居ない恐怖は、かなりリアルだった。唇を強く噛んで、正気を保った。少し口の内側が切れて血の味がした。じくじくとした痛みがなければ、私はきっと泣いていた。 「あー、今だったら俺死んでいいや」 「何言ってるの、馬鹿」 「馬鹿なのは皆知ってるから。てか何で?」 十人以上の分のパスタを茹でるのは、かなり骨だった。三人分、三人分、四人分に分けて順番にナポリタンを作った。かなり手間取ったので少しのびてしまったが、それでも不味くはない。 「だってさ、先生に怒られないし、最後に好きな子の手料理食べれたんだぜ?もう未練ねーって」 「ん?」 「え?」 ………………こいつ今さらっとヤバいこと言わなかったか?え、好きな子の手料理?それってつまり…………。 「あーーーーー!!!えっと、その、あーーー……。じ、女史!ずっと前から好きでしたさようなら死んできます!」 面白いくらい顔を真っ赤にして、もうどうにでもなれと言うように告白した。恥ずかしさに耐えきれなかった山城は皿を持ったまま、家庭科室を飛び出した。 「おいてめえ山城、皿置いてけ!ちょ、待ってよ!」 その山城を追って、女史も家庭科室を出ていった。私はひたすら唖然としていた……。 「皿置いてけって……そこなの?」 篠崎が変な音をたててむせた。……私そんな変なこと言った? しばらくして戻ってきた二人を、私は何もいえずに迎えた。二人の間にも、皆の間にも微妙な空気が立ち込めていた。なんだろう、すごく居心地が悪い……。とりあえず山城に持っていった皿を洗わせた。その後は、もう寝るということにして女子は図書室、男子は被服室に入った。皆で女史を問い詰めたが、上手くはぐらかされてしまい、うやむやになってしまった。なんでか、気が付くと話がそれてる感じ。……相手は強者だった。 目が覚めた。時刻は五時。日の出が近付いていた。私は皆を起こさないように、そっと図書室を抜け出した。 鍵のかかっていない屋上の扉。重い扉を、あまり音をたてないように、慎重に開けた。少し肌寒いくらいの気温だった。暗い空には、雲が少なく、綺麗に晴れていた。星は出ているが、見辛く、朝の訪れを感じた。 「日の出でも見るの?」 「うわっ」 唐突に後ろから声をかけられた。あわてて振り向くと、そこには篠崎がいた。 「篠崎か、驚かせないでよ……びっくりした」 「そりゃ失礼」 そう言いながらフェンスに身を乗り出す篠崎。風が短い髪を揺らした。 「早いね」 「そっちも。なんか目が覚めちゃって」 「私もそんな」 「そう。なあ、変だよな。あそこにさ、イチョウの木が二本並んで立ってたんだ。でも一本しかない。あっちにも、楓があったはずなのに、何も生えてない。植物でも、時間ってとられるんだな。人間だけかと思ってたけど」 「……そうなんだね。確かに、変だよ。もう夜明けなのに鳥が鳴いていないし」 「もう、終わるんだな」 達観したような声だった。篠崎はもう諦めたのかもしれない。それか、期待するのをやめたというのが正しいか。 「だからさ、俺も山城見習おうと思って」 「え?」 「市ノ瀬芳香さん、今までずっと好きでした。――ありがとう」 「―――篠崎っ」 見たことも無いような、優しい顔をして笑っている篠崎がいた。それがやけに悲しかった。 「私、そんなの考えたことなくて、答え、られない……」 「泣かないでくれよ、知ってたし」 苦笑していても、私が半泣きでも、篠崎は笑っている。苦笑だけじゃないのは分かる。それが妙に悲しくて仕方なかった。 「じゃあさ、最後の俺のお願い聞いてよ」 「何……?」 「俺のフルネーム呼んで。で、握手しようぜ」 最後のお願いは、簡単なものだった。こんなことで、本当にいいんだろうか?私は篠崎の思うようなことは出来なかったはずなのに。そんな事で、いいのだろうか。 「俺は、そうして欲しいんだ。頼む、市ノ瀬」 「分かった……篠崎、慶!今までありがとう」 そう言うと、篠崎は嬉しそうに、真っ直ぐ手を差し出した。おずおずと、その手のひらに私の手を、触れるか触れないかの位置に出すと、ぎゅっと力強く握られた。それに応えるように、私も握り返した。夜明けがきた。朝日が雲の色を変えていく。世界が明るくなっていく。 なんか、これで良かったのかも。 その瞬間、真っ白な光が私の視界に映った。何も無い、ただ白い世界。遠くで篠崎の声が聞こえた。 ああ、時間を奪われるんだな。そう分かった。他の人達もこんな風に時間を奪われたのだろうか。お父さんも、お母さんも、知っている人も、知らない人も。そして、私も。 また、篠崎の声が遠くで鳴った。そうだ。最後に、言わなくちゃ。 「篠崎、ありがとう!皆にも、そう言っといて!」 きっと私の世界はなくなっていくから。 ガラリ 家庭科室の扉が開き、篠崎慶が入ってきた。普段より、心なしか晴れ晴れとしたような、でもどこか傷付いたような顔をしていた。 「あれ、篠崎!居たのか良かった……って、市ノ瀬は? 」 「おう山城、悪いな。……他の奴らは、どこに居るんだ? 」 「私は居る。でも、もう皆居ない」 家庭科室には、三人分の影が長く伸びていた。朝の光が、各々の顔の半面を照らしていた。 「市ノ瀬は……俺と一緒に居た。でも、盗られちまったよ」 「っ市ノ瀬まで……そっか、寂しくなっちゃったな……」 神妙な空気が三人を包む。まだ弱い光は、気分を明るく出来なかった。お調子者でさえも、悲しげにうつむいていた。 「……でもさ、篠崎も女史も残ってて、良かったよ。俺起きたら誰も居なくて驚きすぎて死ぬかと思ったし」 「……お前本当縁起でもねぇな」 「馬鹿じゃないの……」 「いや、でも人残ってて良かっただろ! 」 お調子者を咎める声には覇気が無く、そこには沈黙も詰められていた。それに、彼は気付いたのか気付かなかったのか。良かったというのは、彼の本音だった。 「うん、俺はお前らだけでも残っててくれて嬉しい! 」 そう言った瞬間、彼は白い光に包まれ、姿がぼやけていった。何が起きたのか、彼自身も、他の人間も、把握しきっていなかった。 「なんだこれ、え、俺透けてる!すげぇ!何、俺神になったの? 」 「何これ、山城?あんたどうなってんの!? 」 「……なあ、これ市ノ瀬が居なくなった時もこんなだったんだけど」 「え? 」 二つの声が揃った。いつもなら、揃うことなんて無いのに、今起こっている不可思議な現象はそれを可能にした。 「ちょ、芳香がこんな風に居なくなったって……これが時間奪われてる状態ってこと!? 」 「え?俺死ぬじゃん」 他人事のような響き、焦り、困惑。時間を奪われてる者は、かえって冷静になるらしい。 「そっかー、死ぬのか。ありがとな、篠崎に女史!女史、来世では俺のこと巧って呼んでくれよー、じゃあなー」 「来世って……あんた馬鹿」 「俺には何も無いのかよ」 遠く離れたところから、彼の声が聞こえた。しかし彼が音を発したとかろうじて分かる程度で、何を最後に伝えたかったのか、誰にも分からなかった。光は弱まっていく。彼の時間は、もうこの世界には無い。 「…………最後の最後まで、」 「馬鹿は変わらない、ってところがらしいんじゃない? 」 「あいつ本当に馬鹿。来世があるかどうかも分からないのに、名前は山城巧で変わんないんだって。私はどうせ呼ばないけど」 「そう言ってやるなよ。一回くらい呼んでやったら? 」 「面白がって。そういうあんたはどうだったの?芳香にちゃんと言えた? 」 「当然。俺山城ほど立ち回り下手じゃないし」 「いやあれより下手だったら困るだろ。仮にも私の従兄弟なんだし」 「仮はおかしくないか?……まあ、伝えたかっただけだし。最後は、きっと友情で終わったんじゃない? 」 「そう…………あんたがいいんだったら、私は何も言わないけど。満足なの?」 「ああ。もう何も思い残さない」 それは十年以上も彼の従兄弟をやっている彼女でも見たことが無いほど、清々しい顔だった。彼女はそれを見て、今まで以上に死を身近に感じた。しかし、それは彼女に近いのではなく、彼に近いものだった。 「景子、俺は後悔なんてしてない。これで良かったと思ってる」 「あんた……芳香は、どうだったの?芳香は後悔してないの?私には……納得できない」 晴れ晴れとした彼とは対照的に、彼女は何か痛みに耐えかねたような顔をしていた。何かにさいなまれるような彼女は、こちらも十年以上も彼女の従兄弟をしている彼から見ても珍しいものだった。 「後悔してるのは、俺じゃなくてお前だよ。俺はもう、凄く気分がいいんだ。悔いなんて、残ってないさ」 そう言い切った彼の顔はひどく穏やかだった。その穏やかさは彼女の心を掻き乱していく。彼の身体が、淡く、白く浮かび上がり出した。白い光に包まれていく彼を、小石が投げ込まれた湖のような瞳が、静かに見つめていた。 「じゃあな、景子。女一人残して悪い。俺は先に居なくなるわ」 「慶…………」 「ありがとな」 それっきり、彼は喋らなかった。無口で少し無愛想な彼らしかった。白い光は、徐々に消えていった。 「……一人、ねぇ…………」 彼女はそう一人ごちた。彼女の中から、何か抜けてしまったような、何かを留めておくために必要だったものが無くなってしまったような、どこか空虚さが漂っていた。 「何しても、誰にも言われない、よね……」 誰にも話しかけている訳ではない。もはや何も彼女の中に、留まることは出来ないようだった。 おもむろに、床に寝そべった。スカートにシワが出来ても気にせず、寝転がる。寝返りをうってしっくりくる体勢を探したり、何も意味の無いことを言ってみたり。他人から見れば、かなり危ない人間だが、もう世界には彼女以外の人間は居ない。もし彼女に分からないことがあれば、もう誰も分かることなど無い。 ふいに身体を起こして、走り出した。家庭科室を飛び出て廊下を走る。職員室に入り、プリントの山を崩す。自分のプリントを発掘し、教員のペンを勝手に使う。職員室に飽きるとまた飛び出し、音楽室に入る。部屋の真ん中に座るグランドピアノを開けてめちゃくちゃな音楽を作る。楽譜をひたすらあさる。楽譜あさりに飽きると、大声で歌い出す。お世辞にも歌手になれるとは言えないが、彼女の声そのものであった。彼女は一人だけの世界を、一人だけで楽しんでいた。端から見ると、楽しんでいるように見えるのだった。彼女は夕方まで、そうして過ごしていた。 彼女は昼食など食べていなかった。それほどまでに、楽しんでいるように見えても虚無だった。彼女はその虚無を感じないで居るために、楽しもうと足掻いていた。 「ああ、なんか疲れちゃったな」 この独り言さえも、彼女は理解しているのだろうか。 「山城ー、慶ー、芳香ー…………私凄く暇なんだけど」 彼女は誰を、何を呼んでいるのだろうか。何を望んでいるのか、彼女もきっと理解していない。 「芳香……何で慶だけだったの?私もあんた見送りたかった。私あんたのこと、女子では珍しく好きだったのに。……慶だけずるいよ。私まだ芳香に話したいこといっぱいあるし、職員室のお菓子だってまだ食べきってないのに」 ふ、と一息ついた。何も無いような、輝きの無い瞳だった。 「慶も慶。芳香に好きって言って、それだけで満足だなんて。何なのそれ。後悔なんかしてないって何なの?諦めたみたいなあの空気だって雰囲気だって許せない。しかも、最後に女一人だけ残して悪いって。訳分からない」 何を思っている訳ではないらしい。言葉が無意識のうちに出て来てしまっている、が正しいのか。 「山城は本当に馬鹿。来世って何なの?今どんな状況にあるのか、本当に理解出来てないんでしょ、絶対そう。仮に来世があったとしても、人間である可能性だって、山城巧っていう名前である可能性だって、物凄く低い可能性なのに、馬鹿過ぎる」 自分をおいて去ってしまった彼女のクラスメイト達。関係の名前はそれぞれ異なっても、彼女にとって大事なものであることに変わりは無かった。 「山城、慶………………芳香ぁ」 感情の宿っていなかった瞳が潤み出す。水面は揺れ、溢れる。 「何で居なくなったの?何で私をおいて行ったの?何であんなに清々しい顔して、明るく行ったの?何で怖くないの?私は怖くて仕方ないのに」 雫を誰かから隠すように、手で顔を覆う。彼女に白いものが集まってきたが、彼女はそれに気が付かなかった。 「ねぇ……………………淋しい…………」 それは、彼女の本音だった。普段、常に冷静で、人をよく観察し、周囲に気を回すことに長けていて、自分の本音など漏らさない彼女。本当に珍しいことだった。 しゃくりあげる声が小さく響く。白い光は強く輝き、一面に真っ白な世界が広がっていく。光は少しずつ小さくなり、世界はどんどん静かになっていく。彼女は気付かない。数瞬後、光は小さな点となって消えた。最後の鼻をすする音が無情に廊下に響く。音はすぐに聞こえなくなり、世界は無音となった。時間は、どうなったのか。誰も知り得ない。 きっと、世界は忘れられていくのだろう。いや、世界はなくなっていく、の方が正しいのだろう。
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