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第一部 精霊に愛されし少女  第一章 孤児院の少女  1 追われていますわ! 「おいっ! こっちにいたぞ!」  野太い男の声が、あたりに響き渡りました。  わたくしは懸命に足を動かしました。捕まるわけにはいきません。何をされるか分かったものではないのですから。  それにしたって、これはいったい何事でしょうか。わたくしが、何をしたっていうのでしょうか!  わたくしは混乱していました。人に追われる理由がわかりません。 「チッ! ちょこまかと逃げやがって! おいっ、お前は裏から回れ、挟み撃ちにするぞ!」  二手に分かれていく足音に気づきました。  このままでは捕まってしまいます。困りました……。  狭い路地裏に入り込んだため、ほぼ一本道でした。逃げ込める場所がありません。前に進むしかないのですが、どうやら何者かが先回りして、行く手をふさぎそうな気配です。  わたくしの足は、もはや限界に達しようとしていました。動きづらいヒールのついた靴が、疲労の蓄積に拍車をかけています。今日に限ってこんな動きにくい靴を履いてきてしまうとは、わたくしもつくづく運のない娘です。  あぁ、もう駄目……。限界です……。  わたくしは足をもつれさせ、バランスを崩しました。何とか転倒は防いだものの、そのまま立ち止まり、地面にへたり込みました。  腰まで伸ばしたわたくし自慢の金の髪は、すっかり乱れています。美しい艶も、どんより鈍く濁っています。顔をうつむけて喘いでいると、はらりと髪が零れ落ち、頬にべっとりと張り付きました。付きの侍女に、「とても愛らしいです、お嬢様」と褒められた顔も、今や汗と泥で薄汚れているにちがいありません。 「お父さま……。お母さま……。いったいどこに、行ってしまいましたの」  じわりと目に涙が浮かびました。自分のみじめな姿に、わたくしはただただ泣きました。  つい先刻まで、わたくしはお父さまたちとともに買い物を楽しんでいました。久しぶりに味わう、幸福な時間でした。  お父さまたちは、わたくしに対してひどく冷淡でした。普段は、まったくかかわろうともしない徹底ぶりです。使用人に任せっきりになっていました。最後に一緒に食事を採ったのは、いつだったでしょうか。  そんなお父さまたちが、何の気まぐれか突然買い物に誘ってきました。しかも、護衛なしの家族水入らずで、です。  わたくしは飛び上がって喜びました。まだ十歳なんです、親には甘えたい年頃ではありませんか。  昨夜は、興奮のあまりよく寝付けませんでした。今朝も、余所行きのワンピースを、付きの侍女と笑いあい、胸躍らせながら選びました。髪も、きれいに梳かしました。お父様とお母さまに、精いっぱいのアピールができるようにと。 「それなのに、どうしてこんなことに……」  いったいいつの間に、お父さまたちとはぐれてしまったのでしょうか。どうしてわたくしは、路地裏なんかに入り込んでしまったのでしょうか。あぁ、もう、訳が分かりません!  足音が、下卑た男の声が、どんどん近づいてきます。あぁ……。捕まってしまいます……。  わたくしはあきらめ、己の不幸を呪って目を閉じました。これ以上の抵抗は、もうする気力も残っていなかったのです。  侍女が言っていました。人さらいに捕まれば、奴隷として売られて、二度とまともな生活には戻れないだろうと。  とその時、不意に何者かに腰をつかまれて、ひょいっと抱えあげられました。え? え? 今度は何事ですか!?  男たちはまだ追いついていません。なのに、今のわたくしの身に、いったい何が起きたのでしょうか。  わたくしは焦り、じたばたと手足を動かし、暴れました。逃げなければと。  ちらりと視界に入ったのは、青いスカートのすそ。どうやら、抱え上げたのが女性だとわかります。 「ち、ちょっと。やめてくださいませ。何をなさる気ですの!?」 「シッ! あんた、追われているんだろ。大丈夫、私がかくまってやるよ」  女性は少しかすれた、しかし、どこか温かみのある声でつぶやきました。  どうすることもできないわたくしは、なすがままに女性に身を任せました。抵抗したところで、どうせ逃げられないと悟ったのです。  女性はすぐ傍にある小さなレンガ造りの家へ走り寄り、わたくしを抱えたまま中に駆け込みました。  目に飛び込む床や壁の様子を見て、わたくしは目を見開きました。薄汚れ、ところどころ崩れかかっていた外壁の様子からは想像がつかないほど、室内は清潔に整っていたからです。もちろん、わたくしの屋敷のような華美さは、かけらもありませんが。  女性は床にわたくしを横たえると、すぐに窓の雨どいを下ろしました。  薄明るかった室内が、さっと闇に包まれます。 「悪いね。落ち着くまで少し、このままで辛抱してちょうだい」  わたくしは静かにうなずき、じっと身を潜めました。 「うん、いい子だ」  女性は満足げにうなずくと、わたくしの脇に座り込みました。 『おいっ、いたか?』 『いやっ、こっちには来なかったぞ。もしかして、見失ったのか?』  表から、かすかに男たちの怒鳴り声が漏れてきます。  思わずぎゅっと、両手で自分の身を抱えました。いつの間にか、全身が震えています。恐ろしい……。  すると、女性はわたくしの頭をやさしく撫ではじめました。不思議と、高ぶってきた感情が落ち着いていきます。震えは、止まりました。 『マジィな、このままじゃ、あの方になんと言われるか。おいっ、手分けしてもう一度、周辺を虱潰しだ』 「おうっ」と男たちの声が聞こえると、いくつかに分かれて足音は散っていきました。  当面の危機は去り、ほっと胸をなでおろしました。撫で続けられる頭の感触が、安堵も加わったことで、さらに心地よいものになっていきます。なんとも、気持ちがいいです……。  わたくしはそのまま、意識を手放しました――。  ★ ☆ ★ ☆ ★  鼻腔をくすぐる匂いにつられて、わたくしは目を覚ましました。  見知らぬ天井が見えます。屋敷の自室の、見慣れた天井ではありませんでした。  わたくしは混乱しました。ここはどこでしょう、と。  上半身を起こし周囲を窺っていると、背後から声をかけられました。 「お、気が付いたかい。よく寝ていたね」  振り返ると、中年の女性が立っていました。  中肉中背で、一般庶民がよく着る仕立ての悪い粗末な服を身にしています。赤髪を後頭部でまとめてお団子状にした、どこにでも見かけるような、平凡な顔立ちのおばさん。それが、わたくしのその女性への第一印象でした。  スカートの青色で、どうやら先ほど助けてくれた女性だと悟りました。ということは、ここはわたくしが連れ込まれた家の一室でしょうか。  わたしははおずおずと立ち上がると、女性に一礼しました。 「ご助力、感謝いたしますわ。ならず者に追われ、困っておりましたの」 「あぁ、あぁ、いいよ、そんなにかしこまらなくても」  女性は大げさに首を左右に振りました。 「申し訳ございません。しかし、そういわれましても、このしゃべりかたが地なんですの」  これ以上崩そうと思っても、わたくしは他の話し方を知りません。  まったく構ってくれないお母さまの興味を引こうと、必死でお母さまの口調を真似した結果の、このしゃべり方です。  だが、所詮は子供の悪あがきでした。結局、お母さまがやさしい言葉をかける機会は、ついぞ訪れませんでした……。 「ふーん。睨んだとおり、いいところのお嬢様ってわけだ」  女性は無遠慮に、わたくしを上から下までなめるように見ました。 「あ、あの……。もしかして、あなたもわたくしをどうにかなさろうと?」  女性の態度に不穏なものを感じ、尋ねました。一難去ってまた一難、でしょうかと。 「アッハッハ、そうじゃないよ。ただ、あんたの服装が、この辺を歩いているにしちゃヤケに程度のいいものだったからね。上等なシルクの真っ白なワンピースなんて、こんな下町では目立ちに目立っちまうものさ。だからつい、気になっちまって。別にこのままどこかに売っぱらおうだなんて、考えてるわけじゃないさ」  大口をあけて笑いながら、女性はわたくしの背中をバンバンと叩きました。  痛いです……。  わたくしが顔をしかめると、女性は気づいたのか、慌てて手を止めました。どうやら悪気はなかったようです。 「おおっと、ごめんごめん。私の悪い癖が出た。っと、自己紹介がまだだったね。私はエマ。見てのとおりの、ひとり身のただのおせっかいなおばさんさ」  エマ様はにっと笑いました。 「わたくしは、この国境の街グリューンの領主マルティン・プリンツが一子、アリツェ・プリンツォヴァですわ」  わたくしは改めて、スカートの裾をつまみながら、深々と一礼をしました。 「領主様ん家のお嬢様かいっ! これはこれは……」  エマ様は声を張り、目を大きく見開きました。 「何はともあれ、無事でよかったよ。つかまっていたら、今頃奴隷市場行きだったろうからねぇ」  エマ様の言葉に、わたくしはぶるっと震えました。助かってよかったと、改めて思います。 「ところで、なんでわたくしをわざわざ助けてくださったのですか? あなたが危ない目に合う理由なんて、ございませんでしょうに」  お金持ち風の幼女を追いかける人さらい。理由もなく首を突っ込む理由がわかりませんでした。厄介ごとの匂いしか感じないだろうに、と、まだまだ未熟者と自覚しているわたくしにも、容易に理解できます。 「あー、うん。なんていうかな……」  エマ様は頭を掻くと、言いにくそうに押し黙りました。 「私の死んだ娘に、似ていたからって理由じゃ、ダメかい?」  エマ様には、幼くして亡くした娘さんがいらっしゃったようです。どうやら、わたくしにその娘さんの面影を感じて、自然と体が動いてしまったみたいです。 「そう、でございますのね……。ではわたくしは、あなたの娘さんに感謝しないといけないですわね」  わたくしは胸にしまい込んでいたペンダントを取り出すと、エマ様の娘さんのために、小さく祈りをささげました。神の御許で静かに眠っているであろう、小さな女の子のために。 「ありがとね、祈ってくれて。それにしても、ずいぶんと見事なペンダントだね。鎖もそうだけれど、特にこの金色のメダルの部分。こんなに細工の美しいものを見たのは、初めてだよ」  わたくしが手に握るペンダントを見て、エマ様は目を見張りました。  確かにわたくしの持つペンダントは美しいです。純金で作られ、鎖から下げたメダルの部分には、伝説の獣たる『龍』の意匠が小さく彫り込まれています。十歳の幼女が持つにしては、不釣り合いなのは間違いありません。  わたくしは慌てて、隠すようにペンダントを胸元に戻しました。――『龍』の意匠は、あまり大っぴらに人に見せるべきものではないのですから。 「お父さまからもらったプレゼントですの。実は、お父さまからプレゼントをいただいたのは、これが唯一でして……。ですから、うれしくてうれしくて、わたくし、常に肌身離さず持ち歩いているんですの」  胸元に隠したペンダントを、ワンピース越しにぎゅっと握りしめると、わたくしは脳裏にお父さまの姿を思い浮かべ、静かに目を閉じました。 「そうかい、そいつはよかったね。大切にするんだよ」  エマ様は満足げに、「うんうん」と口にしました。 「さて、今日はもう日も暮れた。明日、私が領主様のもとに知らせに行くよ。あんたは迎えがくるまで、この家に隠れていなさい。人さらいどもがまだ、うろうろしているかもしれないからね」  わたくしはうなずきました。  早く屋敷に帰りたい。お父さまもお母さまもきっと、自分を探しているにちがいありません。そのようにも思いますが、先ほどの恐怖を思えば、今、表を歩くなんて無理な話でもありました。ここは、素直にエマ様に従うことにしました。 「特製グラーシュができたよ。さ、一緒に食べよう」  台所に戻ったエマ様が、容器によそったスープ状の食べ物を持ってきました。この地方の郷土料理で、グラーシュと呼ばれる、パプリカの粉末をふんだんに投入した濃赤色の牛肉シチューです。屋敷でもよく食べています。  椅子に腰を掛け、さっそくいただくことにしました。緊張ですっかり忘れていた空腹感が、グラーシュの匂いでむくむくと湧き上がってきます。  いい香りです……。 「あ、おいしいですわ」  ひとくち含むと、わたくしは無意識のうちにつぶやいていました。  屋敷で食べるような豪華な付け合わせなどはありません。クネドリーキと呼ばれる、ジャガイモのダンプリングが添えてあるだけの、いたってシンプルな一皿です。ですが、この素朴さが逆に新鮮で、わたくしは無心に口へと運んでいきました。 「お貴族様のお口に合ったようで、よかったよ」  わたくしの食事の様子を、エマ様は優しく微笑みながら眺めていました。  その日はそのまま、少し狭いベッドの上で、エマ様に寄り添われながら、静かに眠りに落ちました。
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