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 人類史において初めて蜜柑を見た人物は、それをどう思っただろうか。  あのごわごわした皮の中から柑橘系の甘酸っぱい香りが舞い、肉厚な果実が目下に晒される。鼻を刺す刺激的な体験に、思わず誰もが喉を鳴らす。  その魅惑的な果実を、彼はどのようにして食したのだろうか。  我々がそうするように、一房ずつちぎってその甘美を味わったのだろうか。熟れた果実に欲情し、まるで雄が雌を求めるように一心不乱にその蠱惑に齧り付いたのだろうか。  ひょっとすると、その果実は腐っていて、とても美味しいと言えるような代物ではなかったのかもしれない。  腐っていようが新鮮であろうが極端な違いは蜜柑の皮には表れないから、腐っているとも知らずに誤って食し、腹を壊してしまったかもしれないし、緑色が未成熟の証と知らず、酸味に顔を歪めたかもしれない。  しかし、彼はきっと果実の状態に関わらず、その実を食しただろう。一度皮を剥いてしまったのなら、それは食べなければならない。いや、それ以前に、そのみかんが腐っているか、熟れているのか、それとも未成熟であるのかどうかすら彼にはわからなかっただろう。  彼にとって蜜柑は、甘い誘惑をその身に纏まとう、あまりにも甘美で妖艶な、恐ろしい罠であるからだ。 「こんなことして、何が楽しいの!?」 「楽しい? 悪いのはお前だろ。なんだ、逆ギレか?」  小学五年生くらいの男の子が、寒々しいリノリウムの上で一人の女生徒にそう言い寄っていた。その現場はいじめのようなのに、どこかそう形容するのが間違いだと思えてくるような、妙な冷たさに包まれていた。    夢の中で僕は必死に叫ぶ。けれど、彼の耳に僕の声は届かない。そこに確かにあるはずなのに……、僕は唇を噛んだ。 「そんな……、《柊牙|しゅうが》君がそんな人だなんて、私知らなかった……」  少女はわなわなと唇を震わせると、そのままわっと泣き出した。柊牙と呼ばれた男の子は、にやにやと笑いながら軽蔑を含んだ目で彼女を見ている。  場面が変わった。 「黒木さんは今日も休みです。誰か事情を知りませんか?」  担任の女教師がそう言うのも、今日ではや十二回目。柊牙は机に俯き、静かに震えていた。僕は彼の言葉を聞きたくなかった。きっと彼の言葉は僕を苦しめるだろう。それは明白だったのだけれど、彼の声はまるで僕の内側から聞こえてきているようで、僕はその声に耳を傾けなければならなかった。 「俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺はクズだ俺は……」  僕が目を覚ましたとき、シーツはぐっしょりと濡れていた。  
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