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 風の凪ぐ音が彼女たちの耳に届けられた。ビルとビルの間を往く風とも違う、まとわりついて吹くそれに黒髪を踊らせて、少女はけれども、別の事象に意識を奪われる。自身の髪の首に叩きつけられる感触。スカートがはためき、砂のざっと薙がれたと在れば、水の土に上る足音。視界は暗く、堤防を隔て上に設置された街灯か月明かりの他に光源はない。少女の面、その右半分がぬくもりに包まれて、左右にまたがり存在する口唇は開かれながらも塞がれた。  それは、甘く苦い初恋の味だった。  駆け落ちの定番は北へ向かうことだというのを何かの知識で知ってはいたが、とはいえ人ひとりの身であてもなく遠出をするのに北に行く理由というのはない──電車を乗り継いでもはや何時間と経ったのか学生服姿の彼女は把握していなかった。朝七時から乗り継いで、西へ西へと揺られるのみだった。少女の視界には緑の生い茂る山、振り返ればかろうじて舗装された道と、海水浴場まで数百メートルと読める立看板。この日の電車の往来はもうないと聞き及んだ少女は、終点となったこの駅、もしくはその周辺で夜を徹するよう選択せざるを得なかった。駅舎に設置された時計を見遣れば十九時半をすこし超えた頃を指し示している。  少女が駅舎を出るのと同時に、一人だけ残っていた駅員も施錠ののちに帰路についた。日も暮れて周辺には営業している店舗や工場など一切ない、文明的不毛地帯に彼女には映った。道路を照らす街灯は設置されているものの民家による明かりは駅からは望めなかった。それがわかったとて、少女は駅から離れなければどうにもならない理由があった。座れるような、あるいは仮眠をとれるようなベンチも休憩所もない駅になど用はない。宿を取るだけの所持金は少女の懐にはないが、それとこれとは別の話だった。財布と筆入れ、三十枚綴りのノートブックのみ入れられた学生鞄を掴んで、山の麓から人里におりるように緩い傾斜の坂を歩み下る。  立ち続け、座り続けの続いた少女の身体はすっかり凝り固まっていた。自宅を出た頃にはアイロンのかけられ皺のなかったセーラー制服も、半日まるまま人の波や電車の揺れにつき合いすっかりくたびれていた。そうして今度は自身の肉体をくたびれさせようとしている。時計のなく時間の曖昧な暗闇をひとり滑るように歩いて土のにおいから潮のかおりに近付いていく。ぽつりぽつりと立ち並ぶ街路灯を縫い付けるようにゆらゆらと歩を進める少女。人の通ることを考慮せず自動車のみが走ることを前提にした道路、そのうえを、少女ひとりがふわふわと練り歩く。  五分か、十分か、あるいは──どれほど歩いたかわからず、それでも少女はただ無心に。もはや傾斜のなく平たく伸び固められたアスファルトの上でひたすらに足を動かして逃げる。何ともつかぬ影が己にまとわりついているように幻視した少女が、革靴のすり減る音を奏でながら。  南天の月が煌々と居座る夜だった。半円の黄がぽっかりと黒に穴を開け人間の絶望を緩和する。その周囲には小さく針で開けられたような小さな光がぽつぽつと浮いてあり、天の川とも違う星の川のよう、と少女は新鮮さを覚えていた。住んでいた街ではまるきり見られない高く澄んだ空は見慣れず、けれども少女には輝いて見えていた。こんな世界もあったのかと。風の吹き木々のさざめく夕闇に織り込まれた金糸の緩急濃淡の力強さに少女は圧倒されていた。自動車の通らぬからと車道に寝転がって広大な画板を余すところなく眺めたいという情動を彼女が抱くほどに。  なんとかいう画家の描いた時計の針のよう──山の形に沿いながら緩やかに曲がりくねった道をひたすらに下り下り下り歩いて、ようやっと平坦な道に辿り着いたと思えば、木々ばかりの林道の拓けて、申し訳程度のガードレールの剥がれた先、駅舎そばに案内のあった海水浴場の一翼が少女の視界に飛び込んだ。時期外れで人気のなく寂れた風体であるが、少女にはそれは静けさ故の落ち着きと見えていた。  林道をはっきりと抜けると少女の鼻に耳に海のもつ潮の香りやさざめきやが届けられた。感覚受容器から土や木やの山然としたものが洗い流され海に浸食される。そうして生命の母にしとりしとりと歩み寄る少女の足取りが微かに軽くなり、駆け出すことのなくとも、見えるものの変わらぬ山道から一転し見回せば風景の動きのあることで、少女の心的な疲労が僅かに解消されていた。  海水浴場と云うものの時季の外れたそれというのは大概にして無秩序に広大な空き地である。商業的価値の一時的滑降の渦中にあるそれを足元にみたとき少女が思考し実行したのは、靴とソックスを脱ぎ捨て冷えた水に己を浸すことだった。一面の小砂の上に己の足型を残しガラス片のあるおそれなど気にも留めずに一目散と波打ち際に駆け寄る少女。潮風にスカーフとスカートの靡く様を着る者の動きで排除する。襲い来る小波をぴちゃりぱしゃりと右足で蹴り左足で蹴りし、長旅に疲弊した身体を労うように火照った体をしばし冷ます。踊るような足運びを見せ、数分ののちにその場にしゃがみ足の甲を浸しつづける。それにも飽きを覚えれば波を横切るように水平線と並び歩くように足を運ぶ。波の砂にぶつかる音に混ざる、足の水を切るそれが、少女にはすこしばかり感傷的だった。さざなみの立つる当たり前を己という異物が堰き止めてしまうその一連の事象に心を傷めた。だからというわけではないが少女は歩みをとめ、やはり波の立つのを遮るように足の裏を水平線へと向けその身を砂の上に倒した。ふくらはぎやスカートやカラーやといった全身に砂のまみれるのも気にするでなく磔が如く、閉じた脚をそのままに腕を開いて寝そべる女生徒の姿。見るものの居るなれば奇異と表されるほかにない挙動であるが、しかして本人は大真面目にそれを成していた。  波立つ音色を耳に覚えながら見上げる満天の夜空。月の在るほかに輝く星々の編まれた帳に吸い込まれんとばかりに少女はそれから目が離せなくなる。己の矮小さを叩き込まれつつ、しかし在るという事実を打ち付けられる景色。もうはや何も思考することなどないとばかりに彼女はそっと目を閉じた。そうしたからこそ、彼女は遠くに異音の混ざるのを知覚できてしまった。車道の近くある海浜なのだから仕方ないという気持ちと、それと己がこうあることの邪魔になるかもしれないことに因果関係はない、という思考の綯い交ぜになった少女は、構わず瞼を降ろした。  波の足に当たる感触とその音。遠巻きに聞こえる自動車のエンジン音。風の吹いて砂浜と前髪とを撫ぜていくのを少女はその身で感じ取る。湿り気の強いそれを素肌で覚える。記憶のある限り遡っても経験のない風に触れた少女は、幾度となく自問した言の葉の答えを得た気がした。すうと体中の筋肉から力の抜けてこのまま眠ってしまおうかと考えてしまうほど。  だから、少女は自身に近付いてくる影に音に気付けなかった。砂の深く蹴りつけられ抉られる響きが少女の耳に届けられる。 「ちょっとあんた、生きてる?」  少女が目をわずかにひらくと、真逆様に返った見知らぬ女の顔が、星で埋められた画板の上に上描きされていた。  黒のライダースジャケットに同じく黒地のジーンズパンツ、ショートブーツは革で設えてあり、手の冷えぬように着用されるレザーグローブはパンツの尻ポケットに無造作に突っ込まれていた。セミロングの黒髪の風にはためく様は、見るものが居れば専門誌の表紙にとカメラを取り出さんというほど、統一された服装と調和が取れていた。猫目気味にややつり上がった目尻に薄く伸びた口唇は冷えて血色が落ちていた。通りすがりのライダーであったその女は、視界にちらと入りこんだ投げ捨てられた学生鞄を不審に思い、バイクを停めて駆け寄ってみれば少女がただ寝そべって身体を冷やしていただけという状況で、安堵感と徒労の両方に襲われていた。土左衛門を見つけたのでないというのは、彼女にとって救いだった。  セーラー服姿の少女はその闖入者に自己中心的な不服さと暖かさを感じていた。見も知らぬ人間を助けようだなどと考えるのはすくなくとも彼女の記憶の中にはとんと存在しなかった。けれどもそれとは別に、心地よく過ごせた時間を妨げられたことへの怒りも抱えていた。半日以上、誰ともどこともとれない場所で心安く在れぬ移動をしてきた末の安息の時間を害されたとあって、多少なりその感情は態度に出てしまっていた。もっともライダーの女はそれを人見知りと解釈し意に介することはなかった。だから二人の会話は「生きてる?」「生きてます」「死んでない?」「死んでません」と簡素なもので完結していたし、なにをするでもなく脚を畳み込み三角座りをしている少女と、片膝立てて左脚を伸ばし座り込んでいるライダーが其処には居た。  どれほどの時間そうしていたのか時計を持たない少女にはわからなかったが、数分ののちライダーの女が立ち上がり彼女のもとを離れていった。生存が確認でき、かつ自殺じみたことをするでもないからと判断して本来の目的に戻ったのだろうか──などと少女は思考し、体勢の変えぬまま溜め息を吐いた。自身の左側にスクールバッグと革靴、ソックスが置かれながらそれを見遣ることもなく、誰にともなく独りごちることもなく小さくはぁと呼気のみを吐き流す。そうしてまたひとり波打つ音を肴に星々の輝く夜空を堪能していると地面を蹴り踏みしめる音が制服の少女に届けられた。振り向いて見れば立ち去ったと少女が思っていたライダーが両手に缶を一本ずつ持って少女に向いてあった。冬でないにしろ海に足を長い時間──だとライダーは判じていたが、実際のところ少女が海に足浸け寝そべっていた時間は十分にも満たぬ時間であった──浸けていたのだからとコーヒーと茶を近くの自販機で買い付けていた。ライダーはコーヒー、少女は茶の入ったボトルをそれぞれ両手で持ち、暖を取りながらまたぞろ二人で海を眺めるだけの時間が過ぎていく。  かしゅ、と缶の開かれる音がふたりの鼓膜に響く。ライダーの口と缶の縁が結び傾けられ苦味の含まれた水分が彼女の口内に広がっていく。そうして一度、二度と食道を黒化液が流れる。そうして身体の冷えと温かなコーヒーの温冷差に負けライダーからほぅと息が漏れた。 「あんたも飲みなよ、冷めないうちにさ」  言ってもう一度コーヒーを飲み下した。少女は言われてなおボトルを両手で包み込んだまま身体をより小さく畳み込んだ。両腕で膝を抱えて腹と太ももの間にボトルを置くように座り続ける。そうして丸められた少女の背中をライダーは半目に見遣りながらもう一口、二口と嚥下する。何も語らない、お互いに向かい合うでもない女二人。夜も更けて久しい時間に学生服の少女が一人で海に居るという奇怪さに目を引かれ立ち寄っただけであったのに、ライダーは目を離せなかった。家出と思われる少女に大人である自分がついていたほうが良いのか、それとも近くに公衆電話でも在ればそこから警察に補導の願いを訴えるべきか──迷い、そしてできたことが飲み物を買い与えることだった。バイクには暖の取れる資材は積み込まれていなかったし、金は潤沢でこそないが飲み物の一本や二本を余分に買うくらいは保有してあった。あとはせめて夜の明けるまで、日の出まで、一緒に居て温かな飲み物を与えて身体の冷えるのを耐え忍ばせるという選択肢しか、バイク乗りの女には採れなかった。視界を指してのそれではない少女の影の暗さがライダーの目についていた。  ついで溜め息をついたのはセーラー服の少女だった。抱えていた膝を解放して靴の口にボトルを納めたのちに砂に手をついて立ち上がる。スカートに脚にとつけ放していた砂粒をはたき落とし、ボトルを左手で拾ってのちライダーの隣を陣取るように石段に腰を落とした。他に客の来ないからと砂浜に降りる階段にけっして身体の小さくない女が二人、並び座った。 「このほうが暖かい」  きまぐれ──だと少女は判じていた。海の自由さ、広大さに触れて人の優しさに触れたからこそ少女の気の流れ。自分がそうしたいと一瞬でも思ったからという単純で根源的な行動理由。月と海と砂浜と、それらに並べて「観察者たる自分と、隣に座る誰か」を混ぜ込んでも良いかという判断。身体の冷えは方便と割り切って、そういう世界を作ってもいいかという少女の感傷だった。  二人の位置関係が変わったものの体勢は大きく変わらなかった。ライダーは石段の角に左脚を置いて片膝を立て右脚を下の段ひいては砂浜のふちに伸ばす。学生服の少女はといえば段差で圧縮率の変動はあれど三角座りで真直に海を眺めているのみ。潮風の吹き付ける圧が高さの変動で弱まり髪の乱れが穏やかになったことで少女も同様に落ち着いて風景を見ていられる。片膝の立った女はといえば右手に持った缶コーヒーの冷めていくのを許容できずに少しずつでも明確に飲み下していく。そうしてついに空になった缶を捨て新しい缶を買いに立とうとして、女はジャケットの裾の掴まれているのに気付いた。 「もうすこし、そばにいて」  わがままだった。自分勝手だった。初対面でのそれは不躾だと少女は知っていたし、だから過去の記憶を遡ってもそんなことをした記憶が一切と出てこなかった。けれども、なぜだかしたくなった。少女の、初めての。 「……ねえ、貴女はどうして、私の隣に、いっときでも来ようなんて思ったの」  少女の問い。スクールバッグを投げ捨て、靴も靴下も脱ぎ捨てて波打ち際に寝そべった気狂いとも見えるその奇行を実施していた自分をどうして、と。制服姿で、今後もずっと使っていくであろうその衣服の汚れるのを鑑みず顧みずにそれを実行していた己にどうして、と。  少女の右手のみがライダースジャケットに伸びていた。体勢は丸まったまま。それに引きずられるようにライダーは石段にしゃがみこんだ。そうして空っぽの缶を背中側、石段の二段上に置いて女は答える。 「なんでだろうね。でも……うん、そうだね。なんだか、……悪い思いをさせたらごめん、でも……あんた、死にそうだったから」  人の住んでいる地域より離れていて、夜にひとりバイクを走らせる女。夜にひとり、海で一人遊びをする学生服に身を包んだ少女。初対面であり、そのどちらともが、見る者に依っては不審者である。故に言葉を繕うこともなく、故に包み隠すこともなく、己の感性をそのままにぶつけることを、ライダーは選んだ。そも出会いからして彼女の経験した中でおそらく最低のものだったと判じられるもので、恥も外聞も、好印象も悪印象もないと断じてのそれだった。  だから、少女は笑った。小さく、はっきりと。それがライダーに聞こえるか、あるいは見えるかどうかは無関係にくすりと。死にそうだったという評。それがどういう意図だったのか、少女が判断するための材料の持ち合わせはない。それでもその評に、笑わざるを得なかった。だから気まぐれの連続になってしまうことを、少女は意図して選び取った。 「大当たり、と言ったら、貴女はどういう表情をするの」  第一にね、と少女の声は跳ねた。──跳ねたように少女は思っていないが、それまでの数言が静かに穏やかに重たく呟かれたものであったのと対比してそう聞こえていた。 「第一にね、私、誰にもなれなかったの」  少女の表情に大きな変化はなかった。石段に並んで座っていることで近すぎるがゆえにライダーには少女のかんばせの全容は把握できず、けれども右半面のみははっきりとみえていた。苦痛に歪んでいるとか吹っ切れて破顔しているとかのそれではない、夕飯に何を食べようかとか、つまらないテレビ番組を流し観しているとか、通勤通学時のバスや電車に乗って暇だなと思うとか、そういう「普通」の表情に、女には見えていた。笑うでもなく泣くでもない、苦い表情でも辛い表情でもない。当然、普通、当たり前、そうじゃないほうがおかしい── 「誰でもないから、私は死ぬの。誰にもならないまま」  そういう表情で少女は続ける。なんでもないように。それがそうあることに、なんら疑問を抱かないとばかりのかんばせをたたえて。 「誰でもないというのは、つまり、私はそこに居ても居なくても変わらないということだと思うの。誰にもなれないというのは、どこに居ても不思議でないかわりに、どこに居ても誰にもわかられないということでもあるわよね。わかられない、理解されない、そこに居ることを把握してもらえない。ともすればなにか透明なブロックのような、邪魔なものとして思われるかもしれない。ねえ、そうなったら、私みたいなものは消えてしまったって問題ない。そう思わないかしら」  口元──口角に口唇に顎に舌、それらすべてが過不足なく稼働しているのにもかかわらず、全体の表情として一切の変化がないように、隣に座る女にはみえていた。月に照らされてわずかに浮かび上がる目鼻立ちの、けれども色の変わらない貌に、女は口を挟むことのできずに、先を促すことすら意識の外に追いやられて、聞くことに徹することしかできなかった。 「もしかしたら、ええ、思春期特有の虚無感というのかしら、あるいはそう、個別な自分の特別性というのを認められたがっているのかしらと考えたこともあった。けれどもそうじゃない、私は誰の目にも留まらない、留まらないまま生きて、そうして死んでいくんだわ。バッグひとつ持っただけで、制服という薄く破れやすいレッテルを張っただけで、こんなにも世界は私に無関心になる」  それにね、と少女はひとたび息継ぎを挟んでのち続ける。 「私が私にすらなれなかったなんて、いまさらなの。人にはそれぞれ親が居て──両親が居て、もしかしたら自分の上か下かにきょうだいが居て、両親の上にその親、祖父母が居て……そういうふうな家族というのが、私はわからない。親は居たわ。きっと当たり前に居た。けれど彼らが見ているのは私じゃなかった。円滑に家庭を運営できているという過程や結果だけが見えていて、私自身のことなんておざなり。もちろん夫婦のこと、夫だ妻だなんてことも知らんぷり。外側から見て普通であるかどうかしか興味がないの、あのふたりは。だから私は良い子であることだけを求められた。私じゃなくて良い。あの二人の間に居る、ふつうに教育されてふつうに生きているふつうの子ども、というレッテルの張られた人形が在ればそれでよかった」  数秒に一度成されるまばたきの、まぶたの開きがしばしば不規則に遅れる。それは己の過去を思い出すように、焼き付けられていた風景を眼前のそれで上書きするかように。対照的にまばたきの閉じるのが遅れるものもあった。どういう道行きであれ歩いてきた人間の風体を胸に納めんとするがごとく。 「あの人達にとって私は私じゃなくて良いし、それ以外の大人だって、私を認めるんじゃない、私が演じているワタシを求めて認めて許容する。彼らの求める理想の子どもを容認する。それ以外は要らないみたいに。……だから、私じゃなくても良い。私が居なくたって良い。私が居なくなったって、……いいえ、私が居ないほうが、きっと良い」  だから──そう言って、少女は石段から離れて数歩海に近付いて、背で手を組んでライダーに振り返る。その表情は、 「だから、私は死ぬんです」  ひどく晴れやかだった。  ライダーの女にはその表情──晴れやかで、けれどもそこに纏わりついた言葉は、少女の死という展望だというそれが、理解できなかった。正鵠を射るならば、理解はできるはずなのにそれを拒否してしまっていた。それがひとつ彼女の、少女の目的で目標で、それが達成できるという抽象化を行えば、それが達せられると分析すれば、たしかに理解も納得もできる。けれどそれは、その到達点というのは、彼女にとって度し難いものだった。  死というものはライダーたる彼女にとって身近なものだった。バイクに乗るにあたってすこしの操縦ミス、運転ミスが己の命の灯火を根元から消し断つ──それがわかっているからこそ彼女はバイクを駆るし、だからこそ己にできる限りの安全策を取る。それが幸福を追求するうえで、己の欲求を満たすうえで、妥協点だからと心に楔を打ち付けて。死ぬという事象が、概念が、己の生を謳歌する上での終着点で、その先に幸福がないと彼女が考えているが故の制限帯。その境界線の向こう側に行くことこそが幸福である──ライダーに向かっている少女は、そう言った。そう言って憚らなかった。  少女にとっては、ライダーの考えるほど妙ちきりん、へんちき、常識はずれというほどのことではなかった。彼女にとってはもっと平板で平凡なはなし。生きているうえで幸福になれないのだから死してしまえばそれが幸福、生まれた瞬間が幸福のピークなれば死の瞬間もまた幸福の絶頂にあたる──そういう認識にほかならない。 「だから私は死ぬ。死んだあとのことは知らない。だってそうでしょう、私の生きてきた証もなくて、生きてきた理由もなくて、生き続ける理由もなくて。死んだあとの後始末を考えるのは、誰でもない私じゃない。誰かになりそびれた私じゃない。私を私にできなかった、誰かの仕事」  くるくると足元のおぼつかないふうにその場で回ってみせる少女。腕を伸ばして、自分はいま自由なんだと世界に表明しているかのように。何物にも縛られずに生きるという次善の幸福の享受を証明するように。  ライダーの女はそれを見て、自分ははずれくじを引いたのだと理解した。少女をみつけたこと、それを死体あるいは類するものと認識して助けるか通報するかの二択に絞ったこと、生きているとわかった少女のもとをすぐに離れずに居座ってしまったこと、そして少女の話を聞き出してしまったこと。己の性格と一連の行動の結果に何がもたらされるかに思い至っても、彼女は後の祭りと評するほかなかった。  風の凪ぐ音が彼女たちの耳に届けられた。ビルとビルの間を往く風とも違う、まとわりついて吹くそれに黒髪を踊らせて、少女はけれども、別の事象に意識を奪われる。自身の髪の首に叩きつけられる感触。スカートがはためき、砂のざっと薙がれたと在れば、水の土に上る足音。視界は暗く、堤防を隔て上に設置された街灯か月明かりの他に光源はない。少女の面、その右半分がぬくもりに包まれて、左右にまたがり存在する口唇は開かれながらも塞がれた。  くるくると回っていた少女の腰を左腕で支える。誤って足を踏まないようにと一歩、二歩分離れて少女を抱きとめた彼女は必然、少女の口を塞ぐのに少々屈まざるをえなかった。無理やり抱きしめられた少女は必然、足元のよろめいてすこしばかり伸びをせざるをえなかった。重ねられた口唇の温度差は歴然だった。  口唇の離れると同時に、女ライダーは少女の頬に添えていた右手を肩口から背中に回した。己の言わんとすることを確りと届けるために。ほんの一瞬でも考えたこと、その決意の鈍らぬうちに。  私に宿り木は要らないわ、と言ったときの少女の表情を彼女は未だ忘れることができなかった。視界には人で賑わう海水浴場とカンカン照りの澄んだ青空。家族連れに恋人同士、友人らで集まって遊泳に来た者らのわらわらと在る様を、堤防の上から見下ろす一人のライダー。熱されたグリップや汗による操縦ミスをなくすためにグローブをし、転倒時の致命傷予防にかぶるフルフェイスのヘルメットは邪魔とばかりに計器の上に置かれ、やはりレザージャケットを羽織って。  あの日から半年をこえる期間を経て、けれどもそれ以来彼女はこの海水浴場の横を走り抜けることはなかった。峠を攻めるというほど急勾配の立地でもなく、もとより彼女が夜間に走る道程は決まって気分で策定されているものであったために、期間が大きく空くということ自体に不自然さは──本人としては──一切無かった。だから真夏の晴れ渡ったこの日に立ち寄ったのもまた気分で、堤防前でエンジンを止めたのも気分だった。  宿り木は不要と切り捨てられた止まり木候補はあの日、ただひとつの置き土産を置いて立ち去った少女を見送ることしかできなかった。お互いに言いたいことを言い合って、それでその関係はオシマイと区切られたことに、抗うことをせずに手放した──そもそもその手を握ることはできていなかったと、彼女は結論づけていた。  口付けをした、抱きしめた、過去なんて関係ない、いま目の前に居る小さな女の子しか知らない──衝動的だった、情動的だった、その感情は熱烈で熾烈だったと彼女は過去を反芻する。もう手に入らないその事実を脳裏に展開して空想して、あり得たかもしれないあり得なかったことを夢想する。己と一回りも離れていただろう少女の軽く突き放す力に為す術なく過ごしてしまった自分を思い出してライダーは反芻する。  ──お願いがあります。  少女の幸福というものを、いったいどうすれば為せたのだろう。いつ出会っていれば彼女を救えたのだろう。死ぬという選択をさせずに済んだのだろう。彼女は幾度も思考して、試行して、志向して──その対象がもうこの世に存在していないことに絶望した。  ──見世川りん。私の名前です。  その声を、その顔を、その口唇の冷たさを、ライダーの女は忘れたことはなかった。ただ一度、数十分おなじ時間を過ごしただけの幼生に、それ以来ずっと思考を奪われている。  ──可能な限り、すぐに、忘れてくださいね。  彼女は少女の願いを、きっと叶えられない。
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