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 桃華の家はマンションの三階、三〇八号室だ。  エレベーターがないため、桃華はいつも階段をヒーヒー言いながら昇っている。  そうして桃華がやっとの思いで暑い中我が家に辿りつき、家のドアの鍵を開けようとした瞬間。  鍵がない。  カバンの中に入れていたはずの家の鍵がないのだ。  他のポケットも確認してみる。やはり、ない。スカートのポケットも財布も鍵の姿形すら見当たらない。  そう言えば。  昨日、カバンの整理をしていて、自室の部屋の机の上にカバンの中身を全部出した覚えがある。  そのときに入れ忘れたのだ!  桃華の両親は共働きで、帰ってくるのは午後六時以降になる。  桃華はスマホを確認する。時刻は午後四時半、一時間半以上家の前で突っ立っているしかない事実に、桃華は愕然としてへたり込んだ。 「何やってんだ、桃華」  その声は。  振り返ると、純がいた。お隣さんだからいてもおかしくはないのだが、偶然出会うか普通。  桃華は事情を説明する。鍵がないこと、おそらく家の中にあること、両親が帰ってくるまで家に入れないこと。 「はあ? 本っ当、お前はおっちょこちょいだな」  まったくもって、面目次第もない。 「まあいいや、今からうちの店行くから、一緒に行こうぜ。おばさんかおじさんが帰ってくるまで、勉強でもしてればいいから」  ぱあっ、と桃華の顔が明るくなる。純の家の喫茶店、久しぶりだ。  純は一度家に入り、着替えてから出てきた。とは言っても、ワイシャツに黒いジーンズ姿だ。家の手伝いをするから、目立つ格好はしないらしい。 「じゃ、行こうぜ」 「うん!」  桃華は純に連れられ、マンションの階段を降りる。 「そう言えば、こないだの二人さ」  純は桃華の隣を歩きながら話す。 「佐屋と、荒井先輩。LINEの連絡先交換して、友達になった」  何と。純が桃華の交友関係に入ってくるとは、小学校以来のことではないだろうか。  小学校、と思い出して、少し桃華は落ち込む。やはり、純への苦手意識が残っているらしい。 「どうしたよ、桃華」 「ううん、何でもない」 「何でもなくないだろ」  うるさいな、デリカシーの欠片もない純め。桃華は心の中で悪態をつく。 「それよりさ、お前に言いたいことがあったんだよ」 「何?」 「俺さ」  マンションの一階共同フロアにたどり着いたとき、純はこう言った。 「お前に謝らなきゃ、って思ってた」  桃華は、固まる。 「去年、始業式でさ、俺と喧嘩したせいで、小学校のクラスでハブられてたっての言ってただろ。俺、知らなかったからさ」  桃華の足が止まった。純も同じく止まる。  顔の血の気が引いた気がした。桃華はあのときのことを思い出す。純と喧嘩した次の日から、クラスの女子からあからさまに避けられたこと。仲良くしていたはずの子が、純が好きだからという理由で桃華から離れていったこと。桃華がおっちょこちょいなことをするたび、誰かがクスクスと嘲笑っていたこと。  気がつくと、桃華の目の前に純がいた。純は桃華の両肩を持ち、心配そうな表情で桃華の顔を覗き込んできていた。 「その、大丈夫か?」  桃華は嘘を吐いた。 「うん、平気」 「そうか。その、謝って許してもらえるとは思ってないけどさ、俺は」 「ねぇ、その話、やめよう」  桃華は純の両手を肩からそっと下ろす。  純の鳶色の瞳は、桃華を見つめていた。 「そんなことより、早くお店行こうよ。暑いじゃん」 「桃華」 「行かないんだったら、私一人で行っちゃうよ? ほらほら、追いついてみろー!」  桃華は走り出す。純もそれに倣って、追いかけてきた。  これでいいのだ。純は悪くない、悪かった人なんていない。ただ少しだけ、桃華の運が悪かっただけだ。  二人揃って誰も通っていないアスファルトの道を走り、小道を通ってようやく純の両親の喫茶店にたどり着いた。  ゼーゼーと息を切らして、ダラダラと汗を流して、まるで子供のように二人は膝に手をつき息を整える。  さて、今日のオススメは——レモンシフォンケーキとお任せコーヒーセット、何と六百円だ。安い。 「お邪魔しまーす」  桃華は喫茶店に入る。 「あら、桃華ちゃん! どうしたの、珍しいわねぇ!」  純の母、カミラさんが出迎えてくれた。店の奥からは純の父、明さんが顔を出す。 「ちょっと家の鍵忘れちゃって、家に両親帰ってくるまでここにいてもいいですか?」 「もちろんよぉ! 何にする? 今日はサービスするわよ」 「レモンシフォンケーキとお任せコーヒーセットで! コーヒーはアイスね!」  桃華は元気よく注文し、窓際の二人がけの席に座る。  一方の純は、店の奥に入っていった。 「あいよ、レモンシフォン一丁」  明さんはそう言って、早速レモンシフォンケーキとアイスコーヒーを持ってきてくれた。 「桃華ちゃん、大きくなったねぇ。最近会ってなかったから……確か、去年の入学式で見かけたくらいだったような」 「わー! その話はオフレコで!」 「悪い悪い。純にも口止めされてたんだった」  純の両親も、去年の入学式での騒動を見ている。どうやらカミラさんがご近所に言い触らしたこともあって、しばらく桃華はご近所の目を掻い潜って学校に通っていたほどだ。  桃華は気を取り直して、シフォンケーキを一口、口に運ぶ。ふわりとした食感、レモンの香り、そして控えめな甘さ。同時にコーヒーを飲んで口の中を整えると、もう一口パクリと口にする。幸せ。  純はエプロンを着て店に出てきていた。シャツの袖をまくり、様になっている。  とはいえ、今日は桃華以外の客はいない。午後の繁忙期のピークを過ぎているからか、閉店の七時までは閑古鳥が鳴くようだ。  純は桃華の前の席に座り、足を組んだ。 「手伝いしなくていいの?」 「客が来たらやるよ」 「ふぅん」  桃華はパクパクとレモンシフォンケーキを食べる。その様子を、純はじっと見つめていた。  桃華は見られていても気にしない。コーヒーは美味しいし、シフォンケーキの甘さはさっき食べたハーゲンダッツの抹茶味の甘さを思い出させ——  桃華は思い出した。  拓真に告白されたことを。  途端に、桃華は自分でも分かるくらい顔が真っ赤になる。 「ど、どうした、桃華」  純が心配して、桃華の顔を覗き込む。喉を詰まらせたと思われているらしい。  純が桃華の背中を叩いて、桃華はシフォンケーキを一気に飲み込む。 「何なんだよ、一体。落ち着いて食え、ほら」 「わ、分かってるよ!」  恥ずかしさのあまり、桃華は純に当たる。すぐに純は悪くないと思い直し、桃華は謝る。 「ごめん」 「いや、いいけどさ。シフォンケーキ喉に詰まらせて、救急車呼ぶ羽目になったら困るからやめてくれよ」 「それはないと思う」 「いや、だって荒井先輩から聞いたぞ。救急車事件」  先輩め、純に話したのか! 「それで陸上部辞めたんだってな。もったいないな」 「いいの! どうせ転ぶばっかりでいい成績なんて残せなかっただろうし」 「あー、想像できるわ」  しなくてよろしい。桃華は純の靴先を蹴る。 「何すんだよ」 「いちいち人の恥ずかしい過去ほじくり返すのやめてくれない?」 「事実だろ。ったく」  純はブツブツ言う。ちょっとグダグダ言う癖、直したほうがいいと思う。  やがてシフォンケーキを食べ終え、コーヒーを飲み干すと、桃華は勉強することにした。  ちょうど他の客も来て、純は「いらっしゃいませー」と言いながら立ち上がって接客に行った。  桃華は喫茶店で夏期講習の課題をやり、日が暮れるまで集中して勉強ができた。  拓真の告白のことは一旦忘れよう。大学受験が先だ。  自分にそう言い聞かせ、桃華は追加のコーヒーを明さんに頼んだ。
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