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 僕はずっと絶望していた。家にいては親からの抑圧を、学校に行けば全体主義的な抑圧を受け、なおかつこの世の中にはインチキな大人の社会とエゴたっぷりの女とセックスにしか興味のない男しかいないことを知っていたからだ。それはもう毎日毎日、飽きもせず僕をいじめる奴ら、優越感を得れればそれでいい自分のことしか考えない教師、ヒステリックな母親、低能な父親。頭が狂いそうだ。  今日も朝からキーキーうるさい声を聴いて家を出て、笑いあう同級生たちがいる通学路で孤独を感じ、何かされていないかと疑心暗鬼になりながら下駄箱を開け、何をされるのだろうとビクビクしながら教室に入り、周りの視線から気をそらすためにすぐに本を開いた。この全体の動作は毎日毎日、もはや意識なんてせずに行う。  僕が絶望しているのはそれだけじゃない。高校三年生の5月。僕は不安の真っただ中にいる。周りからは「誰もが通った道」だの「これを乗り越えることで成長できる」だの、枯れた言葉ばかりを言われ、もはや聞き飽きたほどだ。そんな言葉を望んでいるわけじゃない。しかしそれ以外の言葉を望んだところで、大人から出てくるのは自分の不幸自慢ばかり。僕は大人に失望していた。そして自分自身にも失望していた。  とはいえ何もしなくても時間は進む。たとえ非生産的な時間を過ごそうと、一日一日と、時は過ぎてゆき、受験という二文字が迫ってくる。別に受験が怖いわけじゃない。最も怖いのは周りからの評価に他ならない。親は生殺与奪を握っているのをいいことに、受験に失敗したら養うことをやめるとプレッシャーをかける。当然ながら教師の面々もプレッシャーをかける。しかし他人の子だからか、その言葉にはどこかインチキくささを感じる。そして同級生たちは、自分たちだけは大丈夫だと、根拠のない自信に溢れているように見える。さらに将来に対する漠然とした不安が重なり、まるで生きている心地がしない。  僕の心はすでに悲鳴を上げていた。何日も何日も眠れぬ夜を過ごし、頭に浮かぶ漠然とした不安は、日に日に膨張を続けているようだ。それは決して表には出てこないが、気を抜くと僕を支配しようと襲いかかる。おそらく、こう思っている人は僕だけではないのだろう。皆が抱えていることだ。もし違う人がいれば、それは余程の世間知らずだ。そんなことは分かっている。そうだ、僕だけではない。だがそれが何の慰めになるんだ。僕はこの苦しさを捨てれる唯一の方法を思いついていたが、それは実行できずにいた。  放課後のことだ。今日はめずらしく何もされなかったから、不幸なことに何かを考える余裕があった。商店街を通って下校しているときに、普段は見ない場所に古書店を見つけた。ヤケやヨレでひどい見た目になっている本が雑に積みあがった店頭に、普段なら中に入る気も本を見る気にもなれなかっただろうが、今日はほんとにおかしくなっていたんだろう。中に入ってみることにした。ほとんどの本が読める状態じゃないが、何かマシなものはないかといくつかの本の山を調べた。やっぱりどれも読める状態じゃなかった。だけど5つ目ぐらいの山を見たときに、一冊だけ目を惹かれるものがあった。  厚紙のハードカバーの本で、紅紫色に近い色だった。全体に革で調本されたような模様と、表紙に蔓のような縁取りの模様が描かれていた。タイトルは「SHIKI」という、詳しくは分からないが海外の人の著作で中身はすべて英語だった。内容は”シキ”という名前の日本の女の子の話のようだ。見入って動けないでいると、その様子を訝しんだ店主の老人が声をかけてきた。おそらく僕が万引きを考えていないかと疑ったんだろう。疑われるのも気分が悪いから清算することにした。本の最後のページに鉛筆で値段が書いてあり、それには若干がっかりした。2200円という決して安くない金額を払ったが、本が手に入ったことの喜びのほうが勝っていた。  浮ついた気持ちで店を出た。もしかしたらスキップもしていたかもしれない。ともかく、そのくらい嬉しかったのだ。内容も作者も知らない本に、何故ここまで惹かれるのか。不思議に思いはしたものの、それも深くは考えなかった。口もとに笑みを浮かべ、普段笑いなんてしていないから、おそらくは醜い笑顔だったと思う。人のいる商店街では不審な目で見られたが、商店街を出れば人のいない細い道だったため安心した。自宅のアパートまではずっとこんな道だ。 「ちゃんと塾へ行った?」家に帰ると聞こえてきた第一声がそれだった。「こんな早く帰ってきて、受験生なのよ?」母親はそう続けた。 「ああ、行ったよ」僕は何の罪悪感もなく嘘をついた。この後母親が続ける言葉は決まっている。自分がこんなに頑張っているんだからお前も苦労しろ。そんなようなことを言うのだ。 「私もお父さんも毎日働いているのよ?あんたもちゃんと塾に行きなさいよ」やっぱり、思った通りのことを言った。「まったく、お兄ちゃんは真面目なのにどうしてあんたは…」 「ああ、分かってる」いつものように気持ちのこもっていない返事をした。  自室に入り、ドアを閉めた。カバンを下ろし、学ランだけ脱いで制服姿でベッドに座り、本を開いた。本は商売に必要なもの、バーコードとか、そういったものが見当たらなかった。だとしたら、これはどういったふうに売られていたのか。そもそも作者名も見当たらない。書いた人は何のつもりでこの本を作ったのか。いろいろ疑問は湧いてきたが、ともかく本を読み進めることにした。  本の内容は、やはりシキという名前の日本人の女の子の話で間違いないようだ。シキの漢字はどう書くのだろうか。四季、子規、後者は男だ。普通に考えれば四季だろう。素敵な名前だと思う。夏休みの、これは夏祭りか。時期は夏らしい。ボブヘアー、ボブってあの短めの髪型のか。調べてみるとおかっぱ頭のことらしい。おかっぱ頭の着物の女の子。なんともアナクロな感じだ。出だしはフィッツジェラルドのグレート・ギャッツビー風に訳せば “四季────、私が心から称賛を抱いている全てものを一身に体現したような少女─────” あまり英語が得意でないから正しくは分からないが、こんなところだろう。意訳できればいい。  その後も夢中になって翻訳を続けた。半分ほどを読み進めて分かったことは、この本は内容的にはほとんど面白みが無いということだ。150ページに渡って“私”目線の四季と過ごした夏祭りの3日間が延々と綴られているようだ。何か特別なことが起こるわけでもなく、恋愛的ないざこざもなく、ただ平穏な時間が流れる。全く価値がないように見えるが、その怠惰ともとれる日々は、決して壊してはいけないような尊さと儚さを備えていた。 「ご飯よ!」ドアを隔てた廊下の向こうにあるリビングから醜い声が聞こえてきた。それは私と四季の、壊してはいけない儚い世界を土足で踏み荒らすようだった。しかし行かなければ余計うるさくなるだけだから、仕方なくベッドから腰を上げた。意図せずに同じ姿勢でいたため、腰が悲鳴をあげていたが、反対に反らせたら治った。  夕飯は無言だった。点けっ放しになっているテレビでは下らないバラエティ番組が流れている。出演者の笑い声は食卓の静けさをより助長した。僕は本が気になり、食事どころではなかった。急いでご飯を胃袋に流し込む。味なんて分からないが、分かってもどうせ大した味じゃない。小声でごちそうさまと言い、リビングを離れた。  夕飯が終わると、早めに風呂に入った。といってもすでに21時になっていたからそう早くもない。歯磨きも終わらして、いつでも寝れる体勢にした。こうすれば、後は本だけに集中できる。ベッドに座り本を読み始めたが、どうしても集中できない。さっきの集中力は何処へ行ったのだろうか。そのうち意識が朦朧としはじめ、遂には寝てしまった。  よく分からないが、なんだかすごく心地よい。例えるなら真っ白の世界で暖かい絹布に包まれているような、ずっとそうありたいと思うほどには心地よい、そんな気分だった。何故自分がこんな場所にいるのか、こんな状況なのか、まったく理解できなかったが、それでもいいと思った。しかし、それを遮る声が聞こえた。 「…、…え、ねえ」幼い女の子の声だ。なんで女の子が、というか、僕は今どこに、そもそも僕は誰だ?考えれば考えるほどに、まるで霧でもかかっているかのように思考が鈍ったが、女の子の声を頼りに考え続けた。そして遂に自覚することができた。  そうだ。僕はこの土地に昨日、ちょうど夏祭りがあるその日に引っ越してきたんだ。そして両親に促され祭りに行き、四季という名の12歳ほどの少女と出会った。四季はおかっぱ頭で赤い着物を着ていた。夕方に会ったため少ししか遊べなかった四季は、翌日家に来ると言って別れた。その翌日が今日なのだ。僕は縁側で四季を待っているうちに寝てしまったらしい。 「ねえ、起きてよー」両手で横になっている僕を揺らす。おそらくは四季だろう。「まったく、こんなところで寝たら風邪引いちゃうよ?」 「ああ、ごめん」僕は起き上がって、返事をした。目を開くと、視線の先には夏らしい入道雲と、遮るものがない丸い太陽がある。眩しいくらいの陽の光が縁側を照らしていた。ひまわりはまっすぐに太陽を見つめている。 「大丈夫?」そう言って四季は心配そうに顔を覗き込んできた。白い陶器のような肌に、大きめの目と小さい鼻と唇がついている。 「何が?」何か心配されるようなことがあっただろうかと、考えても思いつかないため、そう質問した。 「暗い顔してるよ。何か悲しいことでもあった?」四季は本気で心配しているようだ。 「いいや。何にもない大丈夫だ」そういえば、とても気分が沈んでいたが、何故なんだろう。まあいいか。 「そう!じゃあ、今日は何をして遊ぶ?」四季は無邪気な笑顔をつくり、庭に飛び出した。季節を象徴するような草花の描かれた赤い着物から伸びる四肢はか細く、触れれば壊れてしまいそうな繊細なガラス細工のようだ。 「何でもいいよ」そう答えると四季はムッとした。彼女は表情がころころ変わる。 「そういう答えが一番困るの。何がいい?」また同じことを聞いてきた。 「じゃあ、ベーゴマで」僕は思いついたものを適当に言った。ベーゴマなんて一度しかやったことがない。 「よしきた!」そう言って四季はベーゴマを大小2個取り出した。小さい方が八角形で大きい方が円形だ。しかし、どこに持っていたのだろうか。 「じゃあこの大きい方が、お兄さんね」そう言って四季は僕の右手にベーゴマを置いた。“勝”という文字が書いてある。意外と重い。  遊ぼうと思ったとき、突然耳が痛くなった。いきなりのことで状況が理解できなかった。痛みは耳鳴りに変わり、徐々にハッキリした音になりはじめた。そして、それが耳鳴りではないと理解するのにそう時間はかからなかった。耳鳴りはピピピピというアラーム音へと変わり、僕はベッドの上にいた。  目覚まし時計を叩きアラームを止めると、はっきりと自覚することができた。今までのことがまったくの夢であったと。その証拠に縁側ではなく見慣れたベッドの上ににいるし、右手を開いてみても、そこにベーゴマは無かった。恐ろしい虚無感と喪失感に襲われた。あの夢なら一生見ていてもいいぐらいだ。  アラームが鳴ったということは、もう7時ということだ。朝食を食べ、出掛ける準備をしなくてはいけない。まだ夢から抜けきれていないが、朝食をとるためにリビングへ向かった。母親の姿を見て、小汚いテーブルの上にメロンパンとコーヒーが乗っているのを見たとき、完全に現実へ引き戻された。夢の世界の四季との幻想は脆くも崩れ去った。僕は意気消沈しながらも、準備を済ませて家を出た。あの本も忘れずに鞄の中に入れた。  相変わらず無心で学校まで行き、教室では本を読む。あの本はバッグの中にしまったままだ。人目に触れさせたくない。これが独占欲というものか。何かにここまで執着したのは初めてだ。かわりに読むのはありきたりな文庫本。タイトルを見ても面白みが分からないような、かといって内容も面白いわけじゃない、そんな程度の本だ。だけど暇つぶしにさえなってくれればいい。あまり意識せずに今日が終わってくれればそれでいい。  夢があれだけいいと、現実がよけい嫌になる。四季との夢を見たのは、おそらくあの本によるものだろう。SHIKIという題名の、今読んでいる文庫本ほど面白くもない、だけど儚げな中身とそれを強固に守る過剰なほど丁寧な表紙。あれは内容だけでなく、紙の束であり、紅紫色を身に纏うから価値があるのかもしれない。そして、もしかすると夢のトリガーになる霊的な要素もあるのかもしれない。僕は霊的なものは信じないが、こういう風に考えてしまうのはリアリストになりきれず、現実逃避に走ってしまうからか。ともかく、今日もう一度寝てみて、それであの夢を見るようなら、そういった能力があるということだ。もしそうだとしたら、僕はかなり救われる。現実で苦しむからこそ夢が価値を持つ。  ああ、まだ午前中か、まだ三限目か、そう考えながら一日が過ぎた。思うとあっという間だ。今日もいじめは無かった。そのせいか不思議と予備校へ行く足取りも軽かった。映像授業は全く頭に入らなかったが仕方あるまい。ひとつの講座を終え、予備校を出る。いつもはここでコーヒーなんかを買うが、睡眠に影響したら嫌だから買わなかった。家に帰り、また作業のように夕食をとり、風呂に入り、そして本を開いた。前回は半分ほどまでだったが、今日はどこまで進むだろうか。そう思いながら翻訳を始めると、そのまま眠りについてしまった。  ああ、心地いいな。この心地よさをどこかで体験した気がするが、分からない。ともかく頭が回らない。何もかもがどうでもいい。 「…、…ちょ…と」ああ、この声は四季か。僕を起こそうと、あの細い腕で、小さい体を精一杯使ってゆらしているんだろう。だがむしろ心地いい。 「もう少し…」僕は声に出して言った。 「何を言ってるの?寝坊助さんなんだから」今度ははっきり聞こえた。また四季が遊びにきたのか。僕は仕方なく体を起こした。「やっと起きたわね」 「ああ、すまない。寝てたみたいだ」目を開けると、ここは縁側で、いつものように夏らしい入道雲が出て、遮るものがない太陽はここを眩しいほど照らしている。ひまわりは太陽を真っ直ぐに見つめているが、眩しくないのだろうか。 「まったくよ。せっかく私が来てるのに」四季は不機嫌なようだが、僕は反省よりもその顔に見入ってしまっていた。「で、今日は何をするの?」 「何って…?」僕は聞き返した。 「何をして遊ぶの?ベーゴマは中途半端に終わっちゃったし」ああ、そういえばベーゴマをやったな。勝敗はどうなったんだろうか。全く記憶にない。思い出そうにも記憶のかけらさえ見つからない。だけど、まあ…いいか。今が楽しければそれでいい。 「そうだな…切り札でどうだ」何となく思いついたカードゲームを言ってみた。思えばどういうルールだったか、やったのが数年前だし覚えていない。 「切り札ね、私は強いわよ」四季も乗り気なようで良かった。だが、そこまで有名なゲームじゃない。やった事があるのが意外だった。まあ、偶然だろう。 「それじゃあ、上がってくれ」僕がそう言うと、四季は縁側でサンダルを脱いで部屋に上がった。  縁側のすぐ横には10畳ほどの畳の部屋があり、ちゃぶ台がある。これを壁際に立てて床に切り札ができるスペースをつくった。肝心の切り札は確か引越し用のダンボールの中にあったはずだ。障子を挟んだ更に隣の部屋にあるダンボールの山から自分のダンボールを漁ると出て来た。さて、これを持って四季のところへ戻ろう。僕は左手に赤い切り札の紙箱を持って、ダンボールから顔を上げて立ち上がった。  すると耳鳴りが鳴った。聞き覚えのある耳鳴りだ。よくわからないが、何だか凄く嫌な気分になる。耳鳴りの高音は徐々に輪郭がはっきりし、目覚まし時計のアラーム音に変わる。僕は毎朝やっているように目覚まし時計を叩きアラームを止めた。そして完全に現実の世界に戻って来たのだった。  また中途半端なところで夢が終わった。左手には切り札はなく、喪失感しか残っていない。何故遊ぶ前に終わるんだ。いや、それはいい。大事なのは、一度ならず二度も同じ夢を見たことだ。正確には同じ夢というよりは、前回の夢の続きという感じだった。しかし状況は同じだ。今なら確信をもって言える。あの本には四季の夢を見せることができる、そんな能力があるのだろう。もしかしたらあの世界は僕の無意識が作り出した幻想かもしれないが、あの本がトリガーになっているなら同じようなものだ。少なからず僕にとって重要なのは夢が見れるか否かだけだから。  今日も同じように支度をし、学校へ行く。昨日と同じようにあの本も忘れずに鞄の中へ入れる。だけど昨日より前の日々と明確に違うことは、一日の最後だけとはいえ希望を持っていることだ。これがいかに重要か、それは言葉にはできないだろう。それに、無理に言葉にして薄っぺらくなってしまうのは避けたい。  学校では今日もつまらない授業が続く。今朝もいじめが過激ではなかった。受験が迫っているからだろうか。僕から関心がそれているのかもしれない。お陰で嫌な思いも少ない。とはいえ学校にいる時間は苦痛で、長々と続けたいものではない。早く終わって欲しい。  二限目の国語の授業の際、授業の後半で僕は寝てしまった。仕方ない。授業がつまらないのだから。しかし、僕の鞄の中には当然のようにあの本が入っている。つまりはあの夢を見ることになるのだ。この時の僕は本当に迂闊だった。 「…、ねえ」また心地いい気分と、僕を揺らす女の子の声が聞こえる。しかし僕は心地いのだ、この状態を壊したくはない。 「…やめてくれ、四季」僕はそう訴えた。 「起きてよ」四季の声と一緒に誰かの声が聞こえた。幼い女の子ではない、おそらく20はいっているであろう女性の声だ。「起きなさい!」その声は次にははっきりと聞こえた。ああそうだ、これは国語の女教師の声だ。  起きてみると、クラスメイトの視線は僕に集まっていた。「なに?四季って…」そんなヒソヒソ喋る声もあった。どうやら僕は女教師に対して四季と呼んでいたようだ。血の気が引くような気持ちだ。実際に僕の顔も青くなっていただろう。クラスメイトの僕に対する侮蔑の目はよけいに強くなった。  いい夢が見れると浮れていた僕は、いっきに地面に叩きつけられた。そうだ、浮かれてはいけない。僕は迂闊だった。こんなこと誰にも気付かれてはいけないのだ。もし誰かに話しても狂人扱いされるだけだろうし、何より本の存在は知られたくない。あれは僕だけのものだ。これからは気をつけなければならない。 「おい!寝言野郎!」休み時間に本を読んでいると、クラスを仕切るバスケ部が俺の席に来た。脂ぎって汗臭そうだ。ニキビだらけの顔をニヤけ顔にして、ただでさえ見れない顔が更に酷いことになっている。 「…なに?」僕は臆していることを気付かれない様に、なるべく声の震えを抑えて返事をした。 「四季ってのはなんだ?画面の中の彼女か?」そう言うと、顔を歪めて馬鹿笑いした。唾が飛んで汚い。いつの間にか周りに集まった野次馬も一緒になって笑っている。そしてその奥、野次馬からも数メートル離れた位置で女子が一団になって馬鹿にするようにクスクス笑っている。クソったれめ。 「さあ」僕は目を逸らして答えた。そっけない振りをしているつもりだが、実際は怖くて目が向けられないのだ。 「あ?舐めてんの?」バスケ部はそう言うと、椅子に座っている僕を押し倒した。僕は椅子から落ちて教室の床に這いつくばった。椅子も一緒に倒れ、大きな音がなった。その様子を見てバスケ部はまたバカ笑いした。満足したのか自分の席に帰っていって、同時に野次馬も消えた。  僕はやり返すことも出来ずに黙って立ち上がって、椅子も元の位置に立てて置いた。もう一度座り、内心泣きそうになりながら、それを堪えて俯いた。クソったれクソったれクソったれクソったれ!誰かは親や教師に相談しろなんて言うが、僕の経験上役に立ったためしがない。というか実際に申告してみたが、結局握りつぶされて終わった。両親とは口を聞く気にもならない。ああ、早く帰りたい、帰って四季に会いたい。  その後、放課後まで何もなく過ごした。あの馬鹿共も休み時間毎には来ない。いつもならせいぜい一日のうちに一度か二度くらいだ。今日は久々にされた気がしてショックも大きかった。思い返せばそんなに久々でもない。そして放課後になり、しかし予備校には行かず家に帰った。行く気にはなれなかった。  家の前についたときに、またいじめにあった時のように肌がピリピリしはじめた。親に何か言われるんじゃないか、そんなことを心配し始めたのだ。しかし鍵を開けてみると、中には誰もおらず胸をなでおろした。そのまま自分の部屋に行くと、着替えさえせずにベッドに倒れこんだ。そして少しだけ泣き、眠りについた。  ああ…凄く嫌な気分だ。ジメジメして、暗闇が襲いかかってきているようだ。手を伸ばそうにも掴む場所がなく、五感からくる情報は不快感しか与えてくれない。目や耳や肌や指先から来る全ての刺激が嫌だ。全て投げ捨ててしまいたい。何だこれは、こんなの嫌だ、どれくらい続くのか、死んだ方がマシだ。誰か助けてくれ…誰か助けてくれ! 「お兄さん!」 「あ…四季…」僕は縁側に横になっていた。目の前には見覚えのある女の子の顔があった。僕を揺すっていたようで、彼女の両手は僕の肩に置いてあった。外の天気は雨で、これ以上ないくらいの曇天だった。当然太陽なんて見えず、あたりは夕方のような暗さだった。 「お兄さん…うなされてたよ…」四季は心配そうに僕の顔を覗き込む。起き上がると何かが頬を伝い手の甲に落ちた。どうやら僕は泣いていたようだ。しかし何故泣いていたのだろうか。思い出せない。まあいいか。 「はは…大丈夫だよ、四季」僕は無理に笑顔をつくり、そう言った。四季に悲しい顔なんてしてほしくなかった。「さあ、何をして遊ぼうか」 「もう…」四季は不安そうな顔をしていたが、僕が笑ったからか、少しだけ表情が緩んだ。「それじゃあ今日は雨を眺めていましょう」 「それがいい」僕は同意した。  四季は僕の右隣に座った。四季の方を見ると、それに気付いた四季はこっちを向いて僕に笑いかけた。何も喋らず、ただ雨を眺めて、ときどき四季を見る。しばらくすると四季はおかっぱ頭を僕の肩に預けた。四季の髪からはお香のような匂いがした。  それがどのぐらい続いたのだろう。おそらく1時間はそうしていただろう。だが僕には一瞬の出来事のように感じた。まるで僕の傷を癒し、荒んでいた心を浄化していくような、そんな時間だった。これまでの人生の中で最も幸せな時間に感じた。この時がずっと続いてくれればいいと、そう思った。  目を瞑り、幸福に溺れ、もはや四季の中にある熱以外の何も感じなくなると、急にそれさえ感じなくなった。何が起こったのか分からなかったが、目を開けるとあたりは真っ暗だった。しばらく硬直してしまったが、辺りを触って確かめると、自分が今ベッドの上にいることが分かった。そうか、僕は今まで夢を見ていたのか。  手探りで壁をつたい、部屋の明かりをつけた。目覚まし時計で時刻を見ると朝の四時、まだ日も出ておらず、外も真っ暗だ。そういえばお腹が減ったし、体もベタつく。僕は帰ってきたそのまま寝たのだ。とりあえずシャワーを浴び、今日も学校があるため新しいワイシャツを着た。そしてキッチンに行って棚や冷蔵庫にあるパンやハムや納豆を適当に食べた。味はよく分からなかった。そしてもう一度寝た。次に起きた時は朝の6時で、母親には朝食はいらないと言い弁当だけ受け取って家を出た。今日もまたクソみたいな一日が始まるのだ。  あの本は決して見せず、そして学校では寝ない。この2つのことを守った今日は、いじめはあったものの前の生活に戻っただけだった。しかし家に帰れば四季が待っている。翌日も翌々日も、学校で怯えながら過ぎるのを待ち、一日の終わりには四季と遊んだ。本を読んだり、また切り札をしたり。それだけだが、地べたに這いつくばり嘲笑に耐えていた僕の生きる理由になった 。  そんな日々が当然のものになった今日。僕はまた夢から覚め、現実に絶望しながらも、それを受け入れて学校に行く準備をした。なるべく親と関わらず、周りを意識しないように、目立たないように。学校に来て机の横にバッグをかけて、席に着き本を読み始めた。そしていつものように、馬鹿どもが僕の周りに来た。 「おいオタク、お前俺の陰口叩きやがっただろ」ニキビだらけのバスケ部が不機嫌そうに聞いて来た。「舐めてんのか?」  僕が誰に何をしたとか、何のことかわからなかったが、教室の隅でいつもいじめの野次馬をしているゴボウみたいな野郎がニヤニヤしてこっちを見ていた。ああ、なるほど。あいつがけしかけたのか。やっぱり現実世界にはクソ野郎しかいないんだな。 「おい!何とかいえよ」バスケ部は必死になって僕に掴みかかってきた。臭そうだから触らないで欲しい。 「知らないよ。僕はそんなことをしていない」僕は弁明した。かなり凄まれていたから、もしかしたら声が震えてたかもしれない。だが最後まで言いきった。「その情報はガセだ。誰かがお前をおもちゃにしたんだ」  それを聞くと、バスケ部は僕を床に放った。「ケッ、冷めたぜ」そんなことを言っていた。バランスを崩した僕は椅子にぶつかって倒れた。バッグにもぶつかり中身が飛び出した。あの本はバスケ部の前に落ちた。 「何だこれ?」バスケ部はそれを持って、中身を開いた。「あ?全部英語じゃねえか」 「それに触るな!」僕はバスケ部からとろうとしたが、バスケ部は身長が高いのをいいことに上にあげて僕に取れないようにした。 「おい、そんなに大事なのか?」バスケ部はニタニタ笑いながら、それを投げて野次馬のサッカー部に渡した。「とってみろよ」 「返せよ!クソッ」僕は取り返そうとしたが、あいつらはふたりで投げて僕に取れないようにした。その間も本はパラパラとめくれて、痛みそうだった。 「ははは!こいつこんなに必死になってやんの」そのバスケ部の発言に野次馬たちは大笑いした。  僕は椅子を持ち出してバスケ部に向かって殴りかかった。何をしてでも取り返そうと思った。あんな奴に四季との日々を滅茶苦茶にされてはたまらない。走って勢いをつけて椅子で殴りかかった。残念ながら外れた。バスケ部は顔を引きつらせて「そんなに返して欲しいなら返してやるよ!」と言って窓から本を投げた。僕は急いで1階に取りに行き、地面に落ちた本を拾った。まだ授業が残っていたが校門を出た。  家まではいつものように歩いて帰った。だがいつにも増して惨めな気持ちだった。地面を見て歩いていたから周りの景色は分からない。気がついたら家の前だった。鍵を開けて家に入ると玄関で母親が仁王立ちしており、何かをヒステリックに叫んでいた。内容は聞いていないから分からない。僕は無視して自室に入り、ベッドに横になった。  しかし、横になってもなかなか寝付けずに、カーテンから漏れる光でうっすら照らされた天井を見ながらいろいろなことが頭に駆け巡った。その大半はこの世の中に対する怒りで、残りは全て自己否定だった。誰にも望まれないのなら何故自分は生きているのだろうか。僕の不幸は、元を辿れば全て親のエゴに起因する。周りに自慢するため、一時の快楽のために僕は生まれ、この十八年間苦しみ続けた。そんなことが頭の中でグルグル回り、いつの間にか眠りについた。  気がつくと、僕は和室でアリの描かれた引越し会社のダンボールに囲まれていた。ああ、片付けなきゃな。どこからか女の子の泣き声が聞こえた。僕は起き上がり、ダンボールを避けて声のする方向に向かった。障子を二回開けると縁側があった。外は雨が降っていなかったが曇りだった。ひまわりも心なしか元気がない。そして四季が、こっちに背中を向けて泣いていた。 「…どうしたんだい?」僕は四季の右隣に座り、顔を覗いた。四季の右頬には擦り傷があった。「この傷はどうしたの?」 「…村の子に…いじわるされて…」そう言うと四季は僕に抱きついてよけいに泣き出した。僕は四季の背中と頭に手を回して、泣き止むまでこうしていようと思った。しかし、何故だか僕も泣きそうになってしまった。  しばらくそうしていると、僕が慰めているつもりが、慰められているような気分になった。腕の中にある小さな熱に、必死ですがっているような気持ちになった。何故だかは分からない。ずっとこういうことを求めていたのかもしれない。そして満たされたような気持ちになった。クソったれな世界でクソったれな奴らとクソったれな生活を送ることに比べていかに今が素晴らしいか。いや、クソったれな世界とは何だ?僕はこの場所に引っ越してきて───────ああ…そうか、これは夢なのか。  なぜ今まで気付かなかったんだろうか。現実では気付いていたのに。僕の過ごしている現実は間違いなくクソったれで生きる価値はない。だが、この世界はそうではない。僕が生きている中で見た女性で最も素晴らしい四季という少女、眩しい太陽、青く澄んだ空、一面のひまわり畑、涼しい縁側、穏やかな時間、そして何より、この世界には僕と四季のふたりきりしかいないのだ。  いつの間にか四季は泣き止んでいて、空は晴れていた。目を瞑り、腕の中の温もりと日光の暖かさに浸っていると、あたりは真っ暗になり、僕は現実世界へ引き戻された。  時計を見ると朝6時だった。まだ日は出ておらず、家族も誰も起きていない。僕はシャワーを浴びて朝食をとった。昨日は混乱して確認できなかったが、今日あの本を見てみると、薄い擦り傷はあったが幸いほとんど傷はなかった。思えばこの数日間、初日以外でほとんどこの本を読み進めることをしていなかった。せっかくだからと読み始めた。とはいえ内容に変化はなく、面白い展開もない。しかし体験の記録ともとれる内容は、どうしようもなく僕を惹きつけた。  気がつくと日が昇っていた。カーテンの間から光が刺したことで始めて気がついた。僕の部屋ではない、廊下を挟んだ両親の部屋で目覚まし時計のアラームがなり、両親のどちらかが起きたらしくドアを開けた音が聞こえた。足音は僕の部屋の前で止まり、ドアを叩いた。 「あんた、いい加減にしなさいよ」どうやら母親らしい。なんとなく分かっていたが。朝から不機嫌そうな声だ。こっちまで嫌な気分になる。「予備校だけじゃなく学校もサボるなんて、どっから金が出てるの思ってんの?」そんなことを言うと、ヒステリックに叫び始めた。なんと言っているのかは分からないし聞くつもりもない。しかしドア越しでも耳が痛くなる。  これはたまらないと思い、家を出た。急いで制服に着替え、バッグの中に物を入れたが、昨日のことを思い出して、あの本は部屋の机の上に置いておいた。正直ここに置いておくのも不安だが、学校に持っていくのはもっと不安だ。僕がどれだけ傷ついても構わないが、あの本が傷つくのは避けたい。  学校までの道を歩いている間は記憶がなかった。道を体が覚えているのと、それ以外のことで頭の中がいっぱいになって、記憶なんてしている余裕がなかった。昨日あれだけされたのに、また学校へ向かう。なぜ僕はまた学校へ行こうとしているのだろうか。いや、今更考えるまでもない。家にも学校にも予備校にも居場所がなく、精神的に欠落した僕では社会には受け入れられない。それでも死ぬだけの気力がないから、なるべく波風立たないように学校に行くのだ。今更何を言っているんだ。ほんとうに、今更。もうこのクソッタレな現実は普通のことになっている。だから家では存在を否定されて、人の目に怯えながら学校に行って、いじめられても嘲笑を受けるのも普通で、予備校で落ちこぼれのレッテルを貼られるのも普通で、そう、全てが普通のことになっているんだ。  僕は学校にいる間も意識が朦朧としていた。本当にフラフラしてたわけじゃない。ただ社会的な営みの全てが僕の意識の外で行われていたというだけだ。だから、あたりまえだけど、今日起こったことは断片的にしか覚えていない。ただ確実なことは、僕が学校と予備校に行ったということだ。それは間違いない。そして家に帰った。家のアパートの前まで歩いてくると、全身を針でつつかれたような悪寒が走って、朦朧としていた意識が戻ってきた。その感覚について少しは疑問に思ったが、どうせ大したことはないと思い、すぐに忘れた。時計を見ると時刻は21時半だった。もうこんな時間だったのか。鍵を開けて、家に入った。  真っ先に気付いたのは、僕の部屋のドアが開いて、物が散乱していること。何が起きたかはだいたい察しがついたが、何よりもあの本の安否を確かめたかった。部屋に入るとタンスや棚が全てひっくり返されて、物が散らばっていたが、あるものが、たったのひとつも無くなっていた。本が一冊も無くなっていたのだ。当然ながら今朝机の上に置いたあの本も姿を消していた。唖然として机の前に立っていると、部屋の入り口に母親が姿を見せた。 「受験期なのに本ばっかり読んで!あんたは──────…」  母親が何かを喚き散らしていたが、僕にはそれを理解するだけの頭はなかった。気付いた時には母親の胸ぐらを掴んでいて、もう一度気付いた時には父親に殴られて鼻血を出していた。壁を背にへたり込んでいる僕に対して母親は親不孝だの叫んでいたが、何を言っているのかはほとんど聞き取れなかった。僕はどうしようもないこの悲しみと怒りを抑える方法が分からず、さんざん叫び散らした挙句に家を飛び出した。  予想以上に外は寒かった。制服だけでは身がもたない。だが、幸いにもそれについて考える必要はなかった。四季もあの世界も失って、残すはこのクソったれな現実だけ。もうこの世界に生きる価値はない。死のう。どうしてもっと早くにこの結論に至らなかったのか。もっと早く死んでいれば、こんなに苦しまずにすんだのに。  思えば苦しいばかりの人生だった。楽しいことなんて何ひとつなかった。苦しいことばかりが募り、しかもそれは僕を嫌う人々によって与えられるものだった。僕を嫌う人はいても、僕を好きになる人はいなかった。厳密に言えば何人かはいたが、多少でも人受けするように演じていた僕の本性を知っている者など誰ひとりいない。知れば僕を嫌いになるに違いなかった。どうして僕はこの世界に生まれてしまったのか。僕は苦しむために生まれたのだろうか。思考がグルグルして色んなことを考えたが、そんなことはどうでもいい。今考えるべきは、どう死ぬのが一番楽なのだろうかという、その一点だけだ。どう死ぬのが一番楽なのだろうか。  夜10時にもなる商店街は、昼間でさえもシャッターばかりなのに、夜ともなれば完全なシャッター街へと変身する。明かりはなく、人通りもなく、そこだけ人類が滅んでしまったといった風貌だ。シャッター街をとぼとぼと歩いていくと駅周辺の市街地に出た。ここまで来ればいろいろなビルがある。飛び降りることのできる場所も見つかるはずだ。しかし、エントランスのセキュリティが厳重なビルが多く、また屋上の扉まで空いている建物となるとほとんど無いに等しかった。時間が経つごとに死ぬ意欲が失われていくのを感じ、このままでは自殺を達成できないと焦り始めたときに、ようやく理想の場所が見つかった。  エレベーターで11階まで上がり、鉄でできた重い扉を引くと、急に強風が襲ってきた。起こったことといえば前髪が立ち上がって後ろに流れたぐらいだったが、僕には何か大きな意味があることのように思えた。ドアを出るとまっすぐに、一歩一歩、屋上の縁に向かって歩いた。うつむき、緑色に施工された屋上の床を眺めながら、何十歩か、60歩はいかなかったと思う。それぐらい歩くと、つま先が縁に引っかかった。ここが人生の終着地点なのだろう。不思議と落ち着いていた。それに、早く飛び降りなければ、自殺する機会を失ってしまう。  右の膝を曲げ、足を上げ、一段上がっている屋上の縁に乗せた。次は左足でも同じことをする。上げてしまえば、あとは落ちて死ぬだけ、簡単なことのはずだった。決心はとうについていたはずだった。だけど左足は、地面とくっついて離れなかった。僕は焦った。今まで冷静だった頭がガンガンなり始めて、肌がピリピリした。気がつくと息をしてらず、苦しくなったところで始めて息をしていなかったことに気付いた。一度呼吸を整えて、両足の力を抜いて、力まないように、今まで自分がどうやって足を動かしていたのかを思い出しながら左足を上げた。 「お兄さん」  驚いて肩をビクッとさせて振り返った。だが幻聴だったのだろうか。見えるのは、30メートルほど先にある半開きになった屋上のドアだけだった。幻聴だったのだろうか。確かに今、後ろから四季の声が聞こえたのだ。とうとう僕は聞こえないものまで聞こえるようになったというのだろうか。  しかし、これは残酷というものだ。僕はついに自殺する機会を失ってしまった。僕は自分の無力感に打ちひしがれ、無様に床にへたり込んですすり泣くしかなかった。  その後、僕は一晩街を放浪していたが、ついに補導され、警察署へ送られた。警察官は優しかった。なんだかその優しさが無性に心に沁みた。警察署では、家出の経緯みたいなことをいろいろ質問されたが、正直何を言ったのかは覚えていない。ただ子供みたいに泣いたことは覚えている。醜い姿を晒した。「夢の中に、ずっと夢の中にいたいんです。」みたいな、他人から見れば頓珍漢なことを言ったりしたと思う。しばらくすると母親が来て大小様々な書類に記入をして、警察官の方が僕の精神科の受診などいろいろな話をした後に、母親共々頭を下げて外に出た。できれば二度とこの警察署には来たくない。自分の泣き顔を見た他人と、もう一度会いたい男なんていないだろうから。  これ以降、僕の両親は僕に関するほとんどの事象について干渉しなくなった。話しかけなくなったというよりは、急に興味さえ無くなってしまったぐあいだ。僕にはいくぶんそれが良い傾向につながったから、どうしようとも思わなかった。それに、この地獄にいて、背中に刺された30センチの剣を10センチ引き抜いたって、何も変わりはしない。  学校は休学扱いとなり、行かなくてよいことになった。その代わり精神科に行かされ、診察を受けたあと、いくつかの精神の病名を聞かされたが、残念ながら何ひとつ頭の中には入ってこない。この世界で聞く値打ちのあることなんて何ひとつ無いんだから。僕はまったく価値のなくなったこの世界で、生きる気力もなく、ただ寝て起きるだけの飼育されている動物、いや肉塊へとなり下がった。何もやる気は起きない、何も聞きたくない、何も言いたくない、何も見たくない。とはいえ、実際はそれを嫌がるだけの気力すらなく、指示されたら何も考えずに行うだけだ。  そうやって無為に過ごす日々がどれくらいになっただろうか。おそらく半年はそうしていたはずだ。四季との日々は遠い昔、恐竜が生まれる前にまで飛んで行ってしまったかのようだ。懐かしくは思う。戻りたいという気持ちもある。だがどうしても、自分の力ではどうしようもないことがあるのだと、思い知っている今からすれば、それは夢のまた夢なのだ。毎日毎日、唯一考えるのはそのことばかり。どうだろうか、2億年も前の記憶を思い出せる人間がいるだろうか。試しようがないことは想像もつかないだろう。だが僕はそれを体験している。四季の顔も、声も、今や遠い彼方に消えていっているのだ。完全に、最後の一片も消え去ってしまう日も、きっと遠くはないのだろう。  僕はいつもの通り、通院の帰宅中だった。まだいくつか商店が開いている、完全なシャッター街にはなっていない商店街は、白く曇った、もとは透明であったであろう天井から夕陽が差していた。僕はそこを、うつむきながらとぼとぼ歩き、代わり映えのしない、いつも通りの様子だ。いつものことだから、意識をしないで行う行為だ。そう、本当なら意識なんてしないから、周りの景色なんかも見ずに終わる。ただその日は、検査も面談もほとんどなくて早く終わってしまい、不幸にも何かを考える余裕があった。そのせいで周りの景色を見渡したりなんかしてしまったのだ。  シャッターばかりの夕陽のさした商店街は、アニメの舞台になったせいで、そこらじゅうにポスターなんかが貼られている。閉まっている商店にはシャッターの上にでかでかと貼られている。こんなことをしても寂しさを助長するだけなのに。僕はいつもよりゆっくりとした足取りで家に向かった。顔を上げて、周りを見ながら、ゆっくりとした足取りで家に向かったのだ。そのせいで、僕はひとつの店頭の大きなガラス面に貼られたポスターを見つけてしまった。 「ウェイクフィールド展開催!」  近くの博物館で行わている特別展示の宣伝ポスターだった。日付を見ると、今日が最終日らしい。ウェイクフィールドという作家は知らない。だがポスターの真ん中に、ガラスケースで囲まれてライトアップをされている本がある。説明文では、現存していないと思われていたウェイクフィールドの若き日の幻の著作とされているその本。紅紫色の革のような調本がされ、草の蔓のような模様をあしらったその本の表紙には、アルファベットで「SHIKI」と書かれていた。僕のものだ…。咄嗟にそう思った。  商店街の天井にかかる時計は16時半を指していた。博物館は17時半で閉まる。30分で向かえば十分時間がある。僕は柄にもなく必死で走った。久々に走ったから走り方さえ忘れていた。時々足がもつれそうになったが、走っているうちに慣れてきた。時間は刻一刻と迫っている。その意識が僕を余計に急がせた。とにかく、早く四季に会いたいと思った。根拠はなかったが、行けば確実に会えるという確信があったのだ。  博物館についたときには17時を回っていた。1600円の入場料を払ったが、あと30分で閉まってしまう。だが急ぐ必要はなかった。入口からまっすぐに進んだホールの真ん中に目的のものはあったからだ。ガラスケースの中で、透明な台に開かれた状態でライトアップされている本は、間違いなくあの本だった。  凄まじい懐かしさに襲われたが、同時に恐ろしくも感じた。僕は2億年の時を超えて、やっと四季に会うことができるのだ。緊張で鳥肌が立った。皮が引きつってピリピリする。 ”四季────、私が心から称賛を抱いている全てものを一身に体現したような少女────”  ライトアップされたページのその一節は、脳裏に刻まれた記憶を、もう薄れかけていた記憶を強烈に引き出した。四季との思い出は、もうどれだけ前だか分からないが、それでも昨日のことのように思い出された。赤い着物と、その裾から伸びる細い肢体。そして、こちらを見て首を傾げるおかっぱ頭の女の子。四季は僕の頬に手を伸ばし、僕はその手に自分の手を重ねた。そしてもう片方の手は四季の背に回し、四季も同じように僕の背に手を回した。  やっと会えた。懐かしいお香のような香りがする。四季の体からは熱が伝わってくる。温かいというよりも、熱いといったほうが正しい。触れ合った部分からは鼓動も伝わってくる。すぐそこに四季がいるのだと確信させてくれる。ああ…温かい。ずっとこのまま。四季だけがいる世界で、ずっとこうしていたい。でももう会えたんだ。なにも難しいことは…。 「君!何をしているんだね!」  僕と四季の世界を壊す声が聞こえる。僕はガラスケースを破壊して、あの本を抱きしめていた。そしてすぐさま警備員に取り押さえられ、僕の腕の中から四季は、いとも簡単にすり抜けていった。 「四季、四季」  縁側で寝ている四季を揺する。すると彼女は眠そうに一度体を縮めてから起き上がった。空は夏らしい入道雲と、遮るものがない丸い太陽がある。眩しいくらいの陽の光が縁側を照らしていた。ひまわりはまっすぐに太陽を見つめている。こんないい天気なんだ。寝てしまうのも無理はない。 「お兄さん…?」四季はまだ寝ぼけているようだった。 「久しぶり」  僕は四季の頭を撫でる。四季は確認するように頭の上の僕の手を触り、そして目を見開いた。「お兄さん!」四季は僕に抱きついてきた。  もう、あれから何年経つのだろうか。ここまであったことを話してもいいが…、いや、あまり話すような気持ちにはなれない。少しばかり説明すると、僕はあれから少年院に入れられた。といっても1年程度だけど。あそこはあまり良い場所とは言えないが、それでも僕には揺り籠のような安心感を与えてくれた。不思議なものだけど、何故かそう感じたのだった。  廃人同然だった僕は、空いている時間に執筆を始めた。内容は、ある少女と僕の話。その話はそれなりに評価され、賞を取ることができた。出版もされ、一部の人々にはカルト的人気になったが、僕には続きを書くことができなかった。なぜならそれは創作ではなく、ただ事実を述べただけのものだったから。僕はただ自分のために記録をとっていたにすぎない。そして僕は消滅する媒介者となり、新作を発表しないことで存在が誇張され、妙な噂が立ち込める伝説上の人物になった。  出所したあと、また地上の地獄のような自宅に戻ったが、既に僕にはある目標があった。というのは、四季とまた会うことができるかもしれなかったから。僕はその目標に向かって、大したことはない勉強をこなし、当然のように達成した。これらは全て四季に会うための必然だった。  後から聞いた話だと、周りは僕が施設で更生したと思っていたようだ。確かに考えてみれば、そう捉えられてもおかしくない順序だ。胸糞悪い。なぜ僕が周りに良くしなければならないのか。周りなどどうでもいい。僕から全てを奪った世界は消えてしまえばいい。だが、僕は目標があったから感情に振り回されることはなかった。  今、僕がいるのはある博物館。僕はその学芸員。ここでは莫大な歴史的書物が管理されている。学芸員ならば、保全活動の一環として、当然触れて読むことも可能だ。ここに勤めている限り、僕と四季は一緒にいられる。言語も民族も違う国だけど、周りの環境など関係ない。 「お兄さん」四季が僕を呼んだ。 「何?」僕は返事をした。 「本当に、これからは一緒に居られるの?」四季は不安そうだ。 「もちろん」 「じゃあ、また引き離されそうになったら?」 「その時は…」僕は少し考えたが、考えるまでもなかった。 「その時は、一緒にどこかへ逃げよう。綺麗で、誰も知らない場所に」  止まっていた”私”の時は動き出した。後の物語は、きっとこれから紡がれていくのだろう。
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