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「雪、降らないかなぁ」  すぅーっと大きく息を吸い込んだ園崎雪美は、白い吐息とともにそんな言葉をこぼした。 「降るわけないって、まだ十二月なんだからさ」  雪国でもあるわけでもなし、東京の都心部でこの時期にそれを期待するのは贅沢じゃないか。香坂尚人はそんな風に思ってしまう。  空を仰ぐと青空の雲が縞々に広がっていた。通称、うね雲。空気は乾いていて、風はときたま強くはなるものの、雪どころか雨すら降りそうもない空である。 「せっかくのクリスマスなのにね」  彼女はかわいく微笑んで彼の腕にからみついた。 「ホワイトクリスマスを期待するなら雪国に行くしかないね。俺は仕事があるから東京は離れられないけどさ」 「雪だけ見られても意味ないの。ナオトがいなきゃつまんない」  我が儘だなと思いながらも、そんな雪美の言葉を嬉しく思う尚人。それでも言葉は意地悪くなってしまう。 「寒波でもこない限り、ここでホワイトクリスマスを迎えるのは難しいよな。それこそ奇跡が起きるようなものかも」  雪美は尚人の腕からひょいと離れ、両手を空へと掲げた。 「あーあ、奇跡でも起きないかな」 「そんな簡単に奇跡が起きてたまるか」  ぽかりと雪美は尚人の頭を軽く叩いた。 「そんなに否定しなくてもいいでしょが!」 **  二年前あんなにも元気そうに見えた雪美は今、病院のベッドの上にいる。もともと心臓が弱かった雪美だが、それがさらに悪化してしまい、ついには入院を余儀なくされた。手術を控えているが、成功する確率はかなり低い。  尚人は自分の無力さを改めて実感した。愛するものを救う手段さえ知らない彼には、ただ祈ることしかできなかった。  商店街の銀杏並木通りを歩いて行く。  足を一歩一歩踏み出すごとに乾いた音が耳に届く。それは時には煩わしく、時には寂しく心に染みこんでいった。  尚人がこの商店街を訪れるのは久しぶりで、前に来たのは二年前の蝉のうるさい季節だ。その時には雪美がいて、二人で蝉についてあれこれと言い争った記憶がある。  だが、それも遠い過去の思い出だ。  感傷に浸るにはつらすぎる。希望を持って空を見上げたいものだ。  立ち止まり深いため息をつく。自分がこんな事でどうするのだ? 雪美の方がもっとつらいに決まっている。そんな風に何度も何度も尚人は自分に言い聞かせていた。  ふと彼の視界に入る金色の光。そして白い羽。  ほんとに天使がいたら会ってみたいものだと思いながら、彼はその方向へと視線を向ける。なんのことはない、そこには金髪の少女がいるだけだった。  背中には今流行りなのか、天使のような白い羽のついたバッグを背負っている。  よく観察すると、彼女は下を向きながらきょろきょろと何かを探しているようだ。その顔は今にも泣き出しそうである。  落とし物でもしたのだろうか? 尚人はそんな事を考えて、声をかけようとして一瞬だけ躊躇する。 (やっぱり英語が無難だよな)  金髪だからといって英語が母国語とは限らない。だからといって、尚人はそれ以外の言葉を喋れるほどの知識は持っていなかったのだ。もちろん、相手が英語以外で返答してきたら間抜けな話としかいえない。 「May I help you?」  うろ覚えの言葉で、思い切って少女へと声とかけてみた。彼の性格からして、たとえ異邦人であろうとも放ってはおけなかったのだろう。  少女はその声に気づき顔をあげ、マリンブルーの瞳が彼の方を向く。そして、今まで泣きそうだった顔が、少しだけ穏やかになったような気がした。 「えーっと、わたし英語はあんまり得意じゃないんですけど」  流暢な日本語、そして透き通るようなソプラノヴォイス。彼女は困惑した表情でそう返答してきた。 「ごめん、日本語喋れたんだね。ていうか、日本人だったりして」  尚人は照れ隠しに頭を掻いた。 「日本人ってわけじゃないんですけどね。ま、ちょっといろいろありまして、けっこう喋れるんですよ」 「へー、そうなんだ」 「それより」  彼女は少しだけ怪訝そうな顔をする。 「へ?」 「どうして私に声をかけたんですか?」  少女にそう訊かれて尚人も首を傾げる。 「なんでだろう? うーん、困っている人を放っておけない性格だから、っていうのは駄目かな?」  その答えに少女は笑い出す。 「そんなに困ってそうに見えました?」 「うん、なんか今にも泣き出しそうだったからさ」  それは誰かに重ねて見てしまったのだろうか? 尚人はふとそんなことを思ってしまう。 「なんか、みっともないとこ見られちゃいましたね」 「そんなことより、もし差し支えなければ訳を教えてくれないか? もしかしたら落とし物とかそういう類のものじゃないかってさ、そう思って声かけたわけだし」  赤の他人であろうと、不安そうな顔をしている人間は放ってはおけないのが尚人の性格だったりする。 「それ、当たってます。実は大切なものを落としてしまったんです」  少女の顔が再び曇り始めた。 「探すの手伝おうか? 俺、どうせ今日は暇だし、気にすることはないからさ」 「ありがとうございます。でも、もうだいぶ探しているのに見つからないんです。もしかしたら、誰かに拾われてしまったのかも」 「落とした物ってどんなものなんだい?」 「ペンダントです。卵の形をした銀色もので、祖母の形見なんです」 「交番は行ったのかい? 拾われていれば届いているかもしれないよ」 「そうですね……誰かにそのまま持って行かれてしまった可能性もありますが」  少女は半ば諦め気味に返答する。 「質問ばかりで申し訳ないけど、そのペンダントって、何か宝石とかそういう類のものが装飾してあるとか、中に何か金目のものが入っているとかあるかい?」 「いいえ、いたってシンプルなものです。中を開けられる仕組みにはなっていますけど、私以外は開け方わからないと思います。というか、そのペンダントが開けられるというのは、外見からじゃわからない構造になっていますから」 「だったら、金目当てで持って行かれる可能性は低いよ。だからさ、とりあえず行ってみよ」  尚人は少女が元気になるようにと、その言葉に希望を込めてぽんと肩を叩いた。 ** 「今日は、わざわざ付き合っていただき誠にありがとうございました」  少女は深々と頭を下げる。その表情は明るく晴れ晴れとしたものではなかった。  あれから尚人は彼女と一緒に近くの交番には行ったものの、結局それらしきものは届いていなかったのだ。その後、彼女の記憶を元に通った道をくまなく探してはみたものの、これまた見つからずじまいである。 「ごめんな、変に期待させるような事言っちゃってさ」  尚人の方も、むやみに相手を期待をさせるような事は言うものではないと、深く反省していた。 「ううん。いいんです、声をかけてくれて一緒に探してくれただけでも嬉しかったんです。見知らぬ土地でこういう事態に陥ってしまうと、ものすごく心細いものですから」 「役に立ってあげられなかったのが悔しいけどね」  下唇を噛んで、尚人は他に何か方法はないかと考える。 「きっと誰か、悪戯半分で持っていってしまったのかも」  彼女の言葉は半ば諦め気味にも聞こえなくはない。 「あきらめるのかい?」 「いえ、そういうわけじゃないんですけど、これ以上見ず知らずの方を付き合わすのは悪いかと思って」 「悪くはないさ。どうせ暇人なんだからさ」  尚人がそう言葉にした時、頭の中で何かが閃く。 (悪戯か……)  さっき彼女が言った言葉を彼は口の中で反芻した。 「どうしたんですか?」  少女は不思議そうに彼の顔をのぞき込む。 「ちょっとだけ心当たりがある。期待できるかどうかわからないけどな」  少女はますます首を傾げる。 「まだ日は落ちてないから大丈夫だな。よし行くぞ」 ** 「だいじょーぶですかぁ?」  下の方から少女の不安そうな声が聞こえてくる。尚人は今、近所の林の中にある廃屋の壁に、梯子をかけて屋根へと上ろうとしていた。 「あまり高いところは得意じゃないんだけどね」  少女に聞こえないように、尚人は独り言を漏らす。  慎重に足場を確保しつつ屋根づたいに目的の場所へと移動する。そういえば、ここへ来るのは三度目かもしれない。そんなことを彼は考えていた。 「よし! ビンゴ!」  尚人は、マリーのペンダントがそこにあることを確認し声をあげる。他にも高価そうな指輪があるのを見つけたが、あえてそれには触れないことにした。 「ほら、これだろ?」  ある程度の高さまで降りると、とんっと地面へと飛び降りる。尚人は右手にしっかりとペンダントを持って少女の方へと掲げた。 「ホ、ホントに見つかったんですね」  少女の表情が驚いたように変化する。 「前も似たような事あったからな。ここの悪戯カラスは光る物があるとすぐ持ってってしまうんだ」 「でも、どうして烏の仕業だってわかったんですか?」 「前にね、二度ほど被害に遭ってるから」 「うわぁ、それは困った烏ですね」 「最初の時に、ちょうど目の前で落とした指輪を持っていかれて、必死で追いかけたらここにたどり着いたんだよ」 「なるほど納得です。ありがとうございました」 「それじゃ、俺はこれで帰るよ。いい暇つぶしにもなったしな」  少女の笑顔を見て安心した尚人は、そのまま彼女に別れを告げる。 「ちょっと待ってください」  あわてたように少女は声をかけてくる。 「何?」 「あなたに何かお礼をしなければ」 「そんなのいいって」 「たいしたお礼はできないかもしれませんが、気持ちの問題ですから。それとも迷惑ですか?」  訴えかけるような少女の瞳に、彼はその言葉を断ることができなかった。 ** 「そういえば、お互い名前とか知らないままでしたね」  奢ってくれると言った缶コーヒーを少女から手渡される。あれから近くの公園へ移動し、そこで落ち着いて話そうという事になったのだ。 「ありがと。俺は香坂尚人。しがないサラリーマンってとこかな」 「えっと、わたしはマリーといいます。いちおう薬剤師目指して勉強中みたいなものなんですけど」 「へぇー、薬剤師ね。じゃあ医大の留学生とか」  尚人は、彼女の外見から中学生以下ぐらいに思っていたのだが、もしかしたら意外と童顔なのかもしれないなと、一人納得する。 「まあ、そんなとこです。で、お礼なんですが、缶コーヒー一杯だけっていうのもなんですから」 「俺はこれだけで十分なんだけど」  彼女の言葉を遮ってそう言うが、彼女が困った顔をするので、思わず言葉を止めた。 「迷惑じゃなかったらわたしの気の済むようにさせて欲しいんです」 「わかったよ。迷惑じゃないから好きなようにすればいいさ。ただ、高価なものとかのお礼だったら受け取れないよ」 「わたしはそんなにお金持ちじゃありませんよ。期待されたらどうしようかと思いました」  少女はそう答えてくすくすと笑う。 「期待したほうがよかったかな」  尚人もつられて笑う。 「そうですね。金銭的な事は無理な話なんで、メンタルな部分でのお礼にしようかと」 「精神的な事?」 「そうです。わたしに聞いてあげられるような悩みとかそういうのがあったら言ってください」  そう言われて尚人の頭に雪美の事が思い浮かぶ。だが、すぐにそれをうち消した。そんなことを彼女に言ってなんになる、彼は心の中で呟いた。 「別に悩みとかそんなんとは無縁な生活送っているからなぁ」  マリーに悟られまいと尚人は作り笑顔を浮かべる。だが、彼女はそれに気づいたかのように寂しそうな顔をしてこう言った。 「赤の他人であるわたしにプライベートな事を言いたくないというのはわかります。けど、無理して笑うのはつらいことです。嘘をつくのも同じです」  マリーの悲しそうな瞳。それは哀れみとかそういうのではなく、彼女自身もそういうつらさを実感してきたような瞳だ。 「どうしてわかった?」 「顔にそう書いてあります。尚人さん、時々寂しそうな顔をしていました。だから、何かあるんじゃないかなって思ってたんです」 「え? おれってそんな表情してた?」 「ええ、交番に行って何も届けられていなかったってわかった時とか、その後探し回って見つからなかった時とか、ふいにそういう表情してましたから。だからわたし、尚人さんは何か大きな悩み事を抱えているんじゃないかって。わたしは尚人さんに、大切な物を探してもらいました。だから、今度はわたしが尚人さんの為に何かする番じゃないかって」  穏やかで暖かで、そして優しげなソプラノボイスはまるで天使のようだと尚人はふと思った。 「そうだな。話をするだけでも気が楽になるっていうからな、聞いてもらうとするか」  尚人はあふれてくる涙を落とさないように上を向いてそう言った。 ** 「だからさ、俺に出来ることはただ神に祈るだけなんだよ」  尚人はマリーに雪美の事を説明した。そして、自嘲気味にそう付け加えた。確かに誰かに話すことで、少しは心の重みがとれるのかもしれない。  だが、奇跡でも起きない限り、この最悪の事情が好転するわけでもない、ということを彼は悟りきっていたのだ。 「尚人さんは、その雪美さんという方を愛していらっしゃるんでしょう?」 「当たり前じゃないか! でなきゃ、こんなに苦しんでないって」  彼は発作的にマリーに対して強い口調で言ってしまう。 「悪い。きみに当たってもしょうがないんだよな」 「あ、いえ、いいんです。わたしの訊き方も悪かったんですから。でもですね、神様なんかに祈ってもしょうがないと思いません? 神様は願いなんか叶えてくれません。もし叶えてくれるような事があっても、それは偶然であって、奇跡ではないんですから」  少しだけマリーの言葉にいらつきを覚えた尚人だが、さすがに再び怒りを露わにするわけにはいかなかった。 「だったら俺はどうしたらいいんだ?」  彼はただ苦笑いを浮かべる。 「彼女の事をもっと愛してやってください。彼女がいつでも笑っていられるように。それが偽りでなく、心の底から笑っていられるように」 「?」  彼の事をまっすぐ見つめる瞳は、彼女が冗談半分に言っているのではないということを証明していた。 「プラシーボ効果ってご存じですか?」 「ああ、腹が痛いって患者にビタミン剤とかを鎮痛剤と偽って投与すると、本当に治ってしまうってアレだろ」 「メンタルな面での健康を保つ、つまり尚人さんが雪美さんの心の支えとなることで、肉体的な面に影響が出るって事です。人間には自然治癒能力があります。それを最大限に活かすことで、ある程度の効果が期待できるわけなんです。それがプラシーボ効果ですから」 「それってどういうことなんだ」 「そうですね。奇跡的に快復するってのには無理がありますが、例えば手術の成功する確率を上げるとか、術後の快復率に影響を与えるとか、そういう効果はあるんじゃないかと思いますけど」 「本当にそうなのか?」 「どの程度まで期待できるかはわかりません。でも、何もやらないよりマシだと思いませんか? いちおう医学的にもプラシーボ効果は証明されているわけですから」 「その通りだな、神様が何もしてくれない事なんて大昔からわかってたってのに……それでも祈らずにはいられなかった俺ってバカだよな」  尚人の瞳からぽろりと涙がこぼれる。 「奇跡ってのは神様に期待してはダメです。出来る限りの事をやるってところがミソなんですから。そしたら奇跡の方から近づいてきてくれるかもしれませんよ」  そう言ってマリーはウインクをする。 「ありがとう、マリー。なんとなくわかってきたよ。自分が何をすればいいのか」 「だから、つらそうな顔は彼女の前では見せないでくださいね」 「ああ、わかってるさ」  暮れかかった夕空を仰いでいると、乾いた風が頬を撫でてゆく。涙を乾かすにはちょうどいいと、尚人は心の中で悲しみを受け入れ、そしてそっと奥へとしまった。 ** 「最近はマメにお見舞いに来てくれるんだ」  ちょっとした嫌味も入っていたかもしれないが、見舞いに来てくれること自体は雪美は嬉しいらしい。 「まあ、仕事が早く切り上げられるように努力はしてるからな」  尚人は嘘をついた。今までの仕事では、毎日のように彼女の病院へと見舞いに来ることなど不可能に近かった。  だから、彼はあえて比較的拘束時間の短い部署への異動を申し出た。出世の道からは外れてしまうが、彼にとっては雪美との時間の方が大切なのだ。 「あんまりあたしにかまうと、もっと我が儘になるよ」  ふふっと笑って上機嫌の彼女だ。 「我が儘すぎるのも困るけど、多少の我が儘なら嬉しいものさ」  尚人は雪美のおでこに軽く口づけをする。 「どうせなら唇にしてよ。ほら、看護婦さん当分来ないからさ」  彼女は顔をあげて静かに目をつぶる。 「人が来ても知らないぞ」  穏やかで、ちょっとした幸せを二人で分かち合いながら、時は流れてゆく。  尚人のおかげで雪美もだいぶ元気を取り戻していた。最初は嫌がっていた手術もなんとか受けることを決心してくれた。  そして手術の日取りも決まり、穏やかな日々は過ぎてゆく。静かな、そして特別な事があるわけではないけど、それでも愛おしく思える日常が二人の心を埋めていった。  だけど、それでも不安はいつでも心の底に隠れている。ちょっとした事でそれは広がっていく。そんなことは、尚人自身もわかっているはずだった。 「ゆき、降らないかなぁ」  ふいに雪美が呟いた。 「まだ十二月だぜ。あと一ヶ月以上待たないと」 「今年のクリスマスも、ゆき、見れないんだね」  どことなく、雪美の声も暗い。だが、入院したての頃のような絶望的なものではなかった。 「雪は見られないかもしれないけど、イブの夜はずっと一緒にいてやるよ」 「看護婦さん見回りに来るよ。面会時間過ぎたら、ほんとはダメなんだからね」  ちょっと意地悪げに軽く微笑んで雪美は言った。 「看護婦さん来たらベッドの下にでも隠れるさ」 「あたしの布団の中に入る?」 「それはさすがにバレるだろ」  尚人は自然に笑う。そして、雪美もそれにつられて自然と笑う、はずであった。 「ゆき、降らないかな」  ぽつりと彼女は呟く。 「どうしたんだよ」 「もうずっと見れないような気がしたから」  不安という傷口はけしてふさがらない。  尚人は何も言えない。何か言ってしまったら、それは嘘にしかならないような気がしたからだ。 「手術したって成功するとは限らないんだよね。あたしがナオトのそばにずーっといられる確率なんて奇跡に近いんだから。あたしはもう自分の命が長くないことは知っている。だから奇跡を夢見たいんだよ。こんな時期にゆきが降るなんて奇跡だって、ナオトは言ってたけど、あたしはそんな奇跡でも見てみたかったんだよ」  奇跡は祈るものじゃない。だけど、尚人には何もしてやれなかった。声をかけてやることでさえ。  面会時間が過ぎ、尚人は病室を後にする。悔しさがこみ上げてくる。  人間は無力だから奇跡を追い求める。それは自然の成り行きなのかもしれない。でも、マリーは言っていた。「奇跡は期待するものじゃない」って。  病院を出ると、彼はそのまま家に帰らず公園のベンチで空を見上げる。日はすでに落ちているので、ぽつりぽつりと星が見え始めている。それでも、東京の空は明るすぎて、簡単に数えられるほどしか見えない。 「こんばんは」  どこかで聞いたようなソプラノボイスが彼の耳に届く。  金色の髪が街灯に照らされて光っていた。 「マリー?」 「そうです。またお会いしましたね」  マリーは後ろに手を組んで、空を見上げならこちらへやってくる。 「あんまり星が見えませんね」 「ああ、そうだな」 「元気ありませんね」 「なんかさ、ちょっとしたことで挫ける自分が情けなくなってきてね」  尚人は自分を笑った。 「よかったら聞かせてくれませんか?」  マリーはちょこんと、彼が座っているベンチへと腰掛ける。 「雪が降らないか、ってユキミが言ってたんだよ」 「雪ですか。まだ12月ですから、ここらへんでは難しいでしょうね」 「結局、俺もユキミも奇跡を祈らずにはいられないんだよ。自分が無力だから、不安でしょうがないから」 「まあ、時には無理だって思える事でさえ、人間は望みますからね」  マリーは彼の方を向いて穏やかに微笑んだ。 「それが人間の弱い部分なんだよ」 「だったらわたしが奇跡を起こしてあげましょうか?」  マリーは立ち上がるとくるりと回転して尚人に向き直る。 「え?」  一瞬、マリーは冗談でも言っているのかと尚人は思った。 「雪です。雪を降らせるんですよ」 「クリスマスイヴに雪を降らせるってのか? 今年は暖冬で雨すら降る気配はないってのに」 「奇跡ってのは祈るものじゃないんです。奇跡ってのは演出するものなんですから」  マリーはウインクをする。 「だからって……きみが魔法使いでもない限りそんな事なんて出来やしない」  常識で考えればそういう事になる。 「さて問題です。尚人さんが魔法使いに出会う確率と、わたしの知り合いにスキー場の関係者がいて、その人から降雪機を借りられて、それを病院の屋上に設置することができる確率は果たしてどちらが高いでしょう?」  彼は唖然とした顔でマリーを見る。思わず言葉を失ってしまったようだ。 「まあ、そういう事ですから、期待しててくださいね。クリスマスの夜の奇跡に」 ** 「クリスマスイブだね」  病室の扉を開けると雪美はいきなりそんな事を言いだした。 「普段は無信仰なくせして」  ぺしっと尚人は雪美の頭を軽く叩く。いつものじゃれ合いに近いもの。 「いいじゃない。尚人だって喜んで初詣行くじゃない」  そういう問題じゃないんだけどな、と心の中で呟きながら左手に隠し持っていた箱を彼女の前に置く。 「わかってるよ。ほらプレゼント」  雪美の顔があからさまにほころんでゆく。 「開けていい?」 「あたりまえだ」  彼女は嬉しそうにリボンをほどき、丁寧にラッピングをはがしていく。 「破っちゃってもいいんだぞ」  尚人にとっては包装紙なんかより中身の方が大事だから、そんな言葉が出たのだろう。だが、彼女は違った。 「ナオトからもらったものなんだよ。リボンひとつ、ラッピングの紙一枚だって大切なんだよ」 「そういわれると嬉しいけどさ」  面と向かって言われると照れるものである。尚人は、静かにそれを見守ることにした。 「わぁ! これ、高かったでしょ」  箱の中には銀の指輪が入っている。それを見た彼女は嬉しそうに微笑んだ。 「値段は関係ないよ。ユキミにあげたかったからさ」  気の利いた台詞は思いつかないので、彼は素直に自分の感情を言葉にした。 「ありがとう」  雪美は指輪をはめた左手に右手を重ね、それを胸の前で抱きしめる。 「今日は約束通りずっといてやるからな」  そして尚人は、その肩を抱き寄せる。 「ごめんね。あたしからは何もあげられないから」 「いいよ。ユキミが喜んでくれればそれだけでいいって」  それは、彼の心からの気持ちだった。 「ごめん、ナオトにはいっぱいいっぱい迷惑かけてるんだよね。我が儘だってたくさんたくさん言ってるし」 「それはお互い様かもしれないよ。俺だって昔はユキミに迷惑かけてたんだから」 「あたしね。最近、思うの。幸せ過ぎると不安になってくるって。だって、その幸せがいつか壊れてしまうんじゃないかって不安が常にあるわけじゃない。だから、あたしは奇跡を祈るの。この幸せが続きますようにって。でも、永遠に続く幸せなんてない」 「大丈夫だよ」 「ゆき、降ってほしいのだって、不安だから。そういう奇跡でも起きてくれれば、奇跡を信じられるようになるから。あたしは弱くて無力な人間だから……」  雪美の言葉がふいにとまる。 「どうした?」 「ゆき?」  彼女は窓の外を不思議そうに見つめる。  彼も窓の外へと視線を移す。と、そこには雪と思われる白いものがちらほらと空から舞い降りていた。 「うそ? こんなことってあるの?」  雪美はその事態に驚いてまともに言葉が出てこないらしい。 「奇跡の方から近づいてくるか」  尚人はマリーの言葉を思い出す。もちろん、これが彼女の粋な計らいによるものであることに気づいていた。 「なにそれ?」  尚人の言葉に首を傾げる。 「とある知り合いの言葉だよ」 **  病院の屋上に金髪の少女の姿が見える。彼女はフェンスを越えて、屋上の縁に腰掛けていた。  首には卵の形をしたブローチをさげ、右手には杖のような長い棒を持っている。  背中には白い羽のついたバッグを背負っていた。  ふと、こちらを向く。  左手の人差し指を口元に当てて「しー」と言っているようだ。 「内緒だよ。わたしにスキー場の知り合いがいなくて、降雪機をレンタルしてもらえるほどお金を持っていなくて、尚人さんにちょっとだけ嘘をついてたってことは」
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