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一  それは私が借りているアパートの一室で起こった。  私がナイフを振り回すと、彼はそのまま仰向けに倒れていく。瞬間、世界がスローモーションのように映る。  しばらくしてどさりという音がした。しばらくの間もぞもぞと動いた彼は次第にぴくりとも動かなくなってしまう。  私は唖然としながらナイフを床に落とすと、怖くなって思わずそのまま逃げ出してしまった。  近くのコンビニまで走った私はとりあえず我に返って  彼と私の足跡が一往復分くっきりと残っていた。    旅行先から帰ってきてすでに1時間近く経っているはずなので、その間ほかの住民は全く出入りしていないこと家まで戻ることにした。もしかしたら殺してしまったと思ったのは間違いかもしれない。達人じゃないんだから女の私がちょっとナイフを振り回したぐらいで大の男が死ぬとは思えない。  アパートに戻った私は敷地内の土の地面についた足跡をふと見つめた。雨が降っているせいかしばらくの間足跡が残っているようだった。 になる。まあこの雨だ。それが普通だろう。  自室に戻ってきた私は扉を開けると、まず息を飲んだ。自室の鍵が開いていたことではない。慌てていたあまり鍵を閉めた記憶はないからだ。むしろのあの慌てぶりで鍵だけは冷静に閉めているというのはシュールである。  彼が玄関先で未だに仰向けに倒れ込んでいたからだ。コンビニに行って帰ってきてから20分は経過しているはずだ。その間、彼は同じ姿勢でここに倒れ込んでいたことになる。  加えて彼の腹部からおびただしい量の血液がこぼれおちていた。あれが全て彼の血液だとすればおそらく彼はもう生きてはいまい。  口はだらしなく開け放たれており、瞳孔も開いている。この点からもとても生きているようには見えない。  悲鳴をあげそうになった口を咄嗟に抑えた私はおそるおそる彼の手首を取って脈を図ってみる。微動だにしなかった。  動転した私は先程慌ててここを出ていったリプレイのように自室を足早に去った。ただし今度はなるべく音を立てないようにだった。 二  その日は朝からざあざあ降りであった。盆雨という言葉がある。水の入った容器をひっくり返したかのような雨のことだ。最近ではテレビでバケツをひっくり返したかのような雨という表現を聞くようになったが、そのことである。  この雨は正にそんな感じであった。雨がタクシーの屋根を叩く音が俺の聴覚を占有する。  その奇妙な客が乗ってきたのは午後2時ごろだったように思う。  全身黒ずくめの陰鬱とした女だったが、同時に顔立ちを見ればその辺を歩いている女たちと比べれば頭一つ抜けているような美人でもあった。  手荷物の類は右手に提げている小さなカバンだけだった。この雨だというのに傘さえ差していない。そのせいで女はずぶ濡れ状態であった。シートが濡れるのは次の客が迷惑するので勘弁してほしいところだ。  俺はタオルを手渡して衣服や髪の雨水をふき取るように促した。ついでにシートも拭いてくれれば助かるのだが。  女がタオルを受け取る瞬間、カバンのなかがちらりと見えた。推理小説作家『古山なゆた』の昨日発売されたばかりの新刊であった。  俺は思わずどきりとした。俺もまた古山なゆたの小説のファンだからである。この本も昨日発売日に購入して、徹夜で読破してしまった。と言っても上巻だけで、仕事終わりに下巻を読むのが今から楽しみなのだが。 「私ね、雨女なの」  女は黒曜石のような輝きを見せる髪の水をタオルに吸わせながら突然そんなことを言った。 「へえ」と俺は気のない返事をした。そんなことよりは古山なゆたについての話を切り出してもいいかのほうが気がかりであった。客の荷物の中身を盗み見してそれについて言及するというのものなあ。 「皆で出かけるときは私のせいでいつも雨だわ。この前も旅行先ずっと雨続きで彼氏と喧嘩になったわ」 「どうでしょう。私はあまりそういうことは信じられない性質でして」と俺。悪い癖が出始めている。 「マーフィの法則というやつをご存知ですか。世の中のできごとというのは悪い結果ばかり印象に残るので、悪い結果というのは実際の確立以上に頻繁に起こっているように感じるというものです。  パンが必ずバターを縫った面を下にして床に落ちるというアレです。もっともあれはバターを塗った面のほうが重いのでそちらを下にして落ちる可能性が高いという説もあるそうですが。お客さんが雨女だっていうのもきっとそれじゃないかなあ」 「でも本当に雨ばかりなのよ。もちろん、統計を取ったわけじゃないけど」 「でもお客さんが言う皆のなかの誰が雨女なのかは特定できないんじゃないですか? それに雨女なる者が存在するとしていかにして天候を左右しているということになるんですか?  雨女雨男を一箇所に集めればそれまで全然雨の兆候がなかったところでも雨が降ったり、雨女雨男をその地域一体から退去させればそれまで雨が降り続いていたのを止められるとでも?」 「そうね。確かにそれは非現実的だと私も思うわ。だから雨女雨男が実在するとすれば超能力でいうESPのようなものだと思うの。  ほらよく動物には天候を予測する能力があるものもいるって言うでしょう? 雨が降る前日に燕が低く飛ぶとか、雨が降る直前蛙が鳴き出すとか。  そういうのって少なからず人間にもあるんじゃないかしら。もちろん優れた人と優れていない人がいて、優れた人は無意識化にそういう能力を使っているのよ。  そして雨女雨男というのはそういう能力に極端に優れていない人なんじゃないかしら。つまり逆超能力者。  だから旅行やイベントの計画を立てるときにほかの人なら無意識化に雨の日を外すところ、雨女雨男と呼ばれる人はそれを避けられずに雨の日を選んでしまう。どう? ありえないかしら」 「面白い仮説だとは思いますがね。でもそんなこと言ったらイベントの日程をあなた1人で決めているわけじゃないでしょう?  この前行ったっていう旅行の話で言えば彼氏さんだって一緒に決めてるはずなんだからやはりあなたが雨女というだけじゃ説明にはなりませんよ。  それに雨が降るというのも案外悪いことばかりではありませんよ」  瞬間、女はびくりと体を震わせた。何か気になるようなことを言っただろうか。雨の日は客が多くなるので助かるというつもりで言ったのだが。 「あの、まさか気付いていらっしゃるんですか?」  ? ひょっとして自分が古山なゆたのファンだということについてか。盗み見たようなものだからこっちから指摘するのは心苦しかったのだが、向こうから言い出したのであれば問題はあるまい。 「ええ、もちろん気付いていますよ」と俺。  瞬間、女は素早くカバンから血に濡れたナイフを引き抜くと、それを俺の首に押し当てた。  俺の口からは「え?」などと驚きを示す声が漏れる。
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