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三  肝を冷やした。  まさかこんなところでタクシー運転手に気付かれるとは『雨が降るというのも案外悪いことばかりではありませんよ』とは紛れもなく、『返り血が洗い流せてよかったですね』という意だろう。 四  冷や汗が止まらなかった。そりゃそうだろう。ただのタクシー運転手がナイフを首に押し当てられた状態で冷静でいられるはずがない。 「あの……俺はなんでこんなことになってるんでしょうか?」 「しらじらしいわね。とっくに気付いていたんでしょう。私が殺人犯だってこと」  この女は何を言っているんだ? 殺人犯だって。少なくとも俺はそんなことに全く気付いてはいない。 「いいか。落ち着いて聞いてくれ。俺はあんたが殺人犯だなんてことには全く気付いていない。なんなら今だってあんたが殺人犯だなんて信じていない。何かのドッキリだと思っている。  あれか? 最近流行りのyoutuberか? いくら面白い動画を取るためであってもやっていいことと悪いことが」 「今更何シラを切っているのよ。あんだけ挑発しておいて」 「何の話だよ。大体その血の付いたナイフ。それで殺したとでも言うのか、そんな果物ナイフで人が殺せるとはとても思えないが」  女の手にしているのは刃渡り10cmほどのナイフ。その切れ味もさほど優れているようには見えなかった。 「まさか、本当に何も知らないの」 「だからそう言っているだろう」と俺は言いながら嘆息する。  女は突如うずくまって泣き出した。 「私ったらいつもこう。早とちりして、墓穴を……」  この様子、少なくともこの女自身が自分のことを殺人犯だと思っているのは本当のことらしい。  女は素早く跳ね起きると再び俺の首筋に果物ナイフを押し当てた。油断した。今のうちに取り押さえればよかったかもしれない、こんなナイフでも首筋を切られれば致命傷になるかもしれない。 「よく考えたらもう気付かれちゃったんだから結局は同じことよね」 「……だから言ってるだろう。俺は君が殺人犯だなんてことは信じていない」 「信じられないわ。あなたが信じている可能性が少しでもある以上、私にとってここであなたを解放するという選択肢はない」 「罪が重くなるだけだぞ」 「人を1人殺しているのよ。今更ちょっと脅すぐらいなんでもないことよ。海が見たいわ。海まで出しなさい」  俺は無言でハンドルを切った。 五  俺は20分ほど車を走らせると一番近い海岸へとやってきた。雨はすでに止んでいた。  何をするでもなく女は海を眺めている。俺はなぜか近くのコンビニにウイスキーと氷、紙コップ、割り箸、ガムテープを買いに行かされていた。  逃げればよかったのだが、なんとなくこいつをこのまま放っておいてはいけない気がした。社会公益的な観点から。  そこからは酒盛りに付き合わされた。店で一番高級なウイスキーを買ってくるように言われたので、せっかくだし俺も飲ませてもらった。といってもコンビニで一番高級な、だ。高が知れてると言えば高が知れている。  それでも普段飲む酒よりは大分上等であった。  女は平素は書店で働いているという。  そこからは俺と会う前に女がどういう行動を取ったか詳細な話を聞いた。 「これからどうする気だ」と俺。 「言わなくてもわかるでしょう」 「わからないよ」 「平凡な家庭で育って、平凡な仕事をしてきた私には人を殺したことを詫びる方法は1つしか思いつかないわ」 「入水は苦しいと聞くぞ」 「ええ。そうでしょうね。だからガムテープで事前に手足を縛っておくの。安心してあなたの手を煩わせることはないわ」 「待て。せめて。入水はやめておけ。水死体はあまり見た目がよくないと言うぞ」 「そうらしいわね。でも贖罪なのだから苦しかったり、辛かったりするほうがいいじゃない」 「自殺することなんて何のお詫びにもならない。死んだ彼も彼の遺族も浮かばれない。  君がすべきことはまず君の恋人の死についてしかるべき場所でその原因を明らかにすることだ」 「そうかしら。私はそれこそ死んだ人間にとってはどうでもいいと思うわ。  そんなものは生者の側がシステムの是非を評価するために一方的に死者の感情を自分たちの都合のいいように解釈しているだけよ」 「自分の都合のいい風に死者の気持ちを解釈しているのは、今の君も同じだろ」 「――そうね。じゃあ本音を言うわ。彼を失った傷心状態の私は今すぐ後を追いたいの」 「もし君がここで死んだら俺は自殺ほう助になるかもしれない。これは6か月以上7年以下の懲役もしくは禁錮刑が与えられる可能性がある。俺はそんなことはごめんだぞ」 「じゃああなたはここまで私を乗せるように言われたことにすればいいわ。あとは私が入水しようが何しようが構わないでしょ」 「ガムテープはどうする!? 買ったのは俺だ」 「何に使うつもりなのか知らなかったと言えばいいわ。もしどうしてもというなら私がこのあと自分でビニールテープを買いに行くわ。問題ないでしょう」  やはりこんな上っ面の言葉では説得できないようだ。  俺は近くに停めたタクシーまで戻るとグローブボックスのなかから古山なゆたの新刊を取り出す。そして女の目の前に掲げる。 「よく聞いてくれ。俺は初めて会ったときから君のことを魅力的な容姿の女性だと思っていた。加えて君のカバンの中に古山なゆたの新刊が入っているのを見たときは運命さえ感じた。  君は気付いていないかもしれないが、俺もまた彼のファンだ。  だから俺は君に死んでほしくない。同じ趣味同士、交際を前提にぜひ友人関係から始めないか」  女はうっすらと目を閉じると、微笑する。 「――ごめんなさい。そういう風にストレートに口説かれると正直嬉しいわ。でも今はそんなこと考えられないから」 「一つ確認させてくれ。君が今自死しようとしている理由は贖罪と彼の後を追いたいという気持ちなんだな」 「そうね」 「ならそれを支えるものが崩れれば君は自死より先にやるべきことが生じるはずだ」 「何が言いたいのかわからないわ」 「俺が今から君による他殺以外のあり方で君の恋人の死を相当数の蓋然性で説明したと君が思ったなら大人しく警察に行き捜査に協力してくれ」 「悪いけどそれは無理だわ。現場に戻って警察にでも捕まったらどうしたらいいの。常識的に考えて警察に捕まればそう簡単には自死を選ぶことはできなくなるわ」 「頑固すぎるな、君は。ならとりあえず現場に行かずにここで推理しよう。とりあえずそれで君の他殺以外の可能性を検討する」 「そんなもの無理よ」 「やってみなければわからない」
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