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 桐島記憶堂。  そんな札の設けられた小さな建物を見つけたのは、夕刻、せっかく引っ越して来たのだからと、新しい住居の周りを散策している時だった。  こんな所に抜け道が、なんて思いながら見つけた細い路地裏を抜けた先に、それはひっそりと、しかしどっしりと確かな重量感を以って構えていた。  大学入学と共に越して来て、アルバイトを探そうとしていたところだったものだから、古ぼけた木の扉に貼られていた《アルバイト募集中》の文字は、もはや運命とでも呼ぶかのように、僕の足を自然とその中へと誘った。  カランコロン。  少し鈍ったベルの音が耳に届く。  短く響くと、余韻無くそれは店内の空気に溶けた。  店内、と言っていいものやら怪しい、薄暗くも暖かい建物の中には、あらゆる本が積み重なっており古本屋然としていた。  少しの埃ほこりと古本の匂い。地元を思い出して、不思議と嫌ではない。  せめて通路は、とでも言わんばかりに足の踏み場だけは空けてあるため、棚や机の上は悲惨なことになっている。  隠れた観光地。  世界の絶景何選。  そんな内容の本ばかりだ。  それら古本の数々を横目に見ながら中へ中へ。  突き当たった壁のすぐ横に扉を見つけた。  何を疑うでもなく、その扉のノブに手をかけた時だった。 『どなたですか?』  扉の向こう側から、透き通った綺麗な声がそう言った。  物音一つしないものだから、僕はてっきり無人の廃墟なのでは、とも思っていたのだけれど。  ともあれ、存在が気付かれてしまった以上は返答しないわけにはいかないだろう。 「こ、神前こうさき真まこと、この春から大学一年で、今日こっちに越して来た者で……近所に挨拶回りをと」  あぁ。  初対面の人と話すのが苦手なのは、大人になっても変わらないんだな。  必要のない余計な情報まで口をついているし。  こと今の声の主に関しては、対面すらしていないのだけれど。 『まぁ、それはわざわざ。今、そっちに行きますね』  声がそういったすぐ後で、カタンと木と床が擦れる音がした。その答えは椅子を引いたようで、次いで足音が近付いてくる。  挨拶回りと言ってしまった手前、手荷物の一つでも持っていなければいけないようなものなのだが、しまった。  今になって小さな嘘を吐いた自分を激しく恨む。  そんなこちらの胸中や知らぬ向こう様は、そうこうしている内に扉の前まで来ているようで、 「すいません、店先の表札を《CLOSED》にしておくのを忘れてしまってたのですね。入っていいものやら迷ったでしょう?」  ふわっとした口調で顔を覗かせた女性は、”清楚”という言葉を絵に描いたような、透き通った存在感。  髪は黒のロングでストレート、白のニットを羽織った下は紺色のロングワンピース。緩くズレた肩からは素肌が覗いている。ノースリーブだ。  傾げられた首の上、小さな顔には同色縁の眼鏡。  いわゆる大人の女性、というやつだ。  肌も驚くほど白い。  などどつい見回している間に、闖入者たる僕に「あの…」と控えめに声がかけられた。  僕は慌てて我に返って、 「す、すいません…おそば、持ってないです」  そんなことを口走ってしまった。  一瞬間驚く表情を浮かべられて、これはやってしまったと思っていたら、対してその女性は、 「ぷっ…ふ、ふふ…」  咄嗟に口を押さえてしまうほど、盛大に吹き出した。  今度は僕の方がきょとんとしてしまって、つい先ほどと逆の立場になる。 「神前さん、ですね。今朝の荷物運びでお疲れではありませんか?」 「言われてみれば。って、それで汗かいたのにまだ風呂入って……すいません、出直します…!」  ノータイムでノーモーションで、僕は走り出す姿勢に移行するのだが。  ふと投げかけられた「お気になさらず」という女性の言葉に、身体は前えとは進まなかった。  どころか、背を向けた僕の正面に回り込むや、 「せっかくですから」 「?」 「お茶でも飲んで、一息いれましょう」  そう言うと、女性は最後に微笑みを残して身を翻した。 「ちょ、い、いや、それは迷惑…!」 「あら。家主の私が、自分から勝手に言っていることですよ? それをお断りに?」 「うぐ…それは正論ですが…では、遠慮なく」 「はい!」  大人びているかと思えば、偉く表情豊かな人だな。  僕に向かって小さく礼をすると、女性はそのまま出て来た部屋へ。  今度は開け放したままだ。  仕切られた端の空間には小さなコンロがある。隣に冷蔵庫もあるここは、給湯室のようだ。  棚から小瓶を取り出し僕に背を向ける彼女の手からは、何やらカサカサと葉が擦れるような音が聞こえる。  恐らくは茶葉なのだろうけど、すぐにそれが分からず思考している内に、薄っすらと落ち着く良い香りが漂って来た。 「すいません、今アールグレイしかなくて」  不意に女性が振り返って言った。  アールグレイ。  聞いたことはある名前だ。  聞いたことはあるけれど、 「そ、そんな高級そうなもの…見ず知らずの僕にいいのですか?」  聞いた話では、たしか四、五千円はする代物だ。  そんな高価なもの、高々引越しの挨拶にとやってきた僕に出していいものなのだろうか。  慌てて両手を振る僕の様子を見た彼女は、 「あら。七千円の高級茶はお嫌いですか?」 「な、七千円…!? そんなもの、尚更いただけませんよ…!」  予想の上を優に行くとは。  流石に、そこまで高価なものなら僕の腹に入れてやるのは勿体無い。  大事に大切に保管しておいて、然るべき時に。 「…冗談ですよ」 「へ…?」  素っ頓狂な声が漏れた。  彼女は先と同じように、僕を見て笑いを堪えている。  ぽかんと口を開けて固まる僕に、棚から一つ、小さな紙パックを取り出して寄越した。  目を背け合う両側には、綺麗な茶葉の絵。  それだけなら、やはりと高級感を再確認しただけだったのだが。  問題はその天辺。  蓋の部分に貼ってあった小さな値札。  六、三、零と数字が並んでいた。 「……あの、これ…一桁消えてません?」 「いいえ?」 「ではこれ…え、六百円…!?」 「ええ。お客様に出すには少し失礼ですが、安物です」  なんということだろう。  高級茶だと思っていたものは、その実そこいらで買えるような代物だったのか。  いや、きっと地元にもあったのだろうが。僕は世間を知らなさ過ぎるからなぁ。 「失礼を承知で尋ねますが」  彼女が手を上げて尋ねてきた。 「え…? あ、はい、どうぞ」 「神前さん、出身は田舎の方で?」 「田舎も田舎、ど田舎でしたね」  なるほど。  違いはそこだったのか。 「小さな路地ではありますけど、あそこに比べたら随分と都会ですからね」 「都会、かどうかは私にはいまいち…あ、どうぞこちらの椅子にかけてください」 「すいません、ありがとうございます」  今更ながら、頭に謝罪文を持ってくる辺り純日本人だな、などと我ながらしみじみ。  彼女が引いてくれた椅子に腰掛けると、その眼前にある円形の木製テーブルにコップが置かれる。  安物だと分かったそれをありがたく受け取り、一口。春先とはいえまだまだ冷える身体には、一杯の茶の暖かさは染み渡るものがある。  向かいの椅子を引いた彼女の手にあるコップからは、コーヒーの芳醇な香り。  大人な空間と暖かさに癒されていると、ふと彼女がこんなことを聞いてきた。 「田舎、気になります。どちらから来られたのか尋ねても?」 「構いませんけど。鳥取県です」  田舎も田舎、というかど田舎もど田舎。  全国的に有名なスタバでさえ、つい最近やっと県内初店舗と騒がれていたくらいのど田舎だ。  おそらく鳥取県が最後ではなかろうか。  などと頭の中で考えていたことが読まれたかのように、彼女は「ある意味最後の砦っぽいですよね」と相槌を打った。 「某コーヒー店、ここらでは少し車で移動すればありますけれど、鳥取は貴重ですものね。土地が土地なだけに、あちこちに置いてもお客様が来ませんし。一号店、確か二年前でしたよね」 「よくご存知で。鳥取市内にできましたね。行ったことはありませんけど」 「あら、それはまたどうして? あれだけ騒がれていたのに」 「だからですよ。ど田舎もど田舎、夜になると車の通る音すら聞こえないような環境で育ちましたから。人混みが苦手だったんですよ」 「そうだったんですね。すいません、空気も読めず」 「お気になさらず。これからチャレンジすればいい話ですし」  と、言ってみたはいいものの。  この辺りは勿論、少し行った所に何があるかなど、何も分からないわけで。  せっかく買ったスマホも碌に扱えない現代若者とは。  我ながら情けない。  向こうでは、親や祖父母に聞けば大体のものが手に入ったか、手に入る場所が限られていたものだから、広く周囲を散策などしたことがなかった。  その必要なものというのも、大したものではないのだけれど。  スタバに行かなかった理由も、人混みが苦手だったというのも勿論理由の一つではあるけれど、何より自宅から距離があったことが一番の理由だ。  そんな環境下で育ったものだから、外の世界に興味が無かったのかと問われればそんなことはないのだけれど、自らの足で、ただ一杯のコーヒー珍しさに遠くへ赴く気が起きなかったのだ。  随分と間を空けてようやくの二口目を含んだ時、「さて」と彼女が手を合わせて言った。 「ここに来た理由は、ただ挨拶周りだけではないのでしょう?」 「と、言うと?」 「《OPEN》《CLOSED》の表札は、当店にはございませんから」  そういえば。  これはとんだ策士だ。  人が来るのが余程珍しいのか、わざわざその理由を遠回しに尋ねようとは。  僕の言ったことが嘘でないことも踏まえて、否定ではなく追加要素がないかといった聞き方をする辺り、随分と頭はキレるらしい。 「正直に話しますと、何となくですね。どう言ったものか迷いますけど、バイト募集って小さく書いてあったのを見たところまでは覚えているのですが、気がつけば中に」 「あら。お仕事志望でしたか」 「大層なものでは。大学入学を機に一人で越してきたものですから。自分で稼がないとなーと思っていて。何かこれがやりたいって訳でもないんですよ」 「なるほどなるほど。では採用です」 「は…?」  一応というか、ちゃんとした名前のある店であるここでも、普通は履歴書持参の面接などがあるものではないのだろうか?  都会のアルバイト採用要項は違うのか?  高校ではそもそも禁止だったからアルバイトはこれが初めてではあるけれど、田舎都会でその制度まで違おうものか。 「採用って、一体…?」  当然の疑問だった。  何かしら制度が違うにせよだからといって何も知らぬ相手を雇うとは思えないからだ。  と、疑問をぶつけた後で気がつく。 「そういえば、お名前…」 「名前?」  今更ながら、僕は名乗ったけれど彼女の名前はまだ聞いていなかった。  彼女はすぐに「あぁ」と一拍置いて、 「桐島きりしま藍子あいこと申します。当店では名前の通り、お客様の《記憶》を取り扱っております」  爽やかな笑みとともに放たれたのは、あまりにも浮世離れした言葉だった。
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