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今日も大したことは無い、「普通」の学校の日。まだ始まったばかりだからどの学年も午前中だけなんだけどね。今日吹く風は、昨日の早春の匂いも冬の香りもない、いたって普通の春風だった。あれだけ私の心をざわつかせたものはもう何処にも無いと思うと、少し寂しいような、勝手に居なくなったことに苛立つような、そんな感じがした。会議室の西側、一番奥の席。去年からの私の定位置に突っ伏していた。会議室の長い机は、滑らかに伸び、飴のような少し透明感のある茶色い光を反射させていた。 …………眠い。微睡むような春の陽気は眠気を誘う。春のお昼って、何よりも魔性の時間帯なんじゃないかな。カーテンをしていない窓から差し込む緩い、暖かい光。春を全身で感じる。 このまま突っ伏していたら寝ちゃいそう。来客があるの分かってるんだから、ちゃんと起きてないと。佳月君、あとどれくらいで来るんだろう。 何もしないというのも手持ち無沙汰だし、話も長くなるだろうから、お茶でも淹れようかな。コマンダーの幹部、特に会議室によく居るメンバーの、特権。この特権を持つ人に、彼もなるといい。 会議室と繋がった給湯室、少し年季の入った小さなカセットコンロ。いつものやかんにティーポット。私以外の人がいじることの少ないこれらは、少し懐かしさを感じる。少し鈍い銀色に水を入れて火にかける。佳月君は、何が好きなんだろう。 やかんの下の方に水滴が集まって曇り始める。もう少しでお湯が沸くだろう。紅茶のバックやインスタントコーヒーの缶の並ぶ棚を物色する。好みを知らない来客なら、緑茶が妥当だけど、彼はこの先もここに来る……といいなって思う人。好きなものを淹れた方がいいかもしれない。物で釣っているようで嫌だけど。 「失礼します」 ドアを隔てているので、くぐもった声が小さく聞こえた。クラスメイトの男子がドアを開けるような、乱暴さの無い開け方。意識してあまり音をたてないようにしていると分かる。聞き覚えはあるけど、まだ聞き慣れていない声。佳月君だ。 一旦火を止めて、給湯室を出た。会議室の入り口の近くに、怪訝そうに立っている佳月君が居た。 「佳月君、こんにちは」 「……こんにちは」 「ごめんね、入ったら誰も居なくて驚いたよね。……いらっしゃい」 佳月君が驚くのも当然だ。呼び出した相手が居ないのに加えて、彼はここの勝手を知っている訳ではない。困惑したようにきょろきょろと辺りを見回していた。 「いえ、大丈夫です……あの、失礼ですがどこから出てきたんですか」 「給湯室だよ。会議室の隣にあるの。話、長くなるかもしれないから、お茶でも淹れようかなって」 「そうですか。……あ、後、自分はどこに居ればいいですか?」 横に長くつぶれた形の、会議室独特の机。初めて来た人にとって、どこに座るべきか一番悩むものなんじゃないかな。 「そうだね……私はいつも給湯室に近い方の一番奥に座ってるから、その隣にしようか。誰がどこに座るかは追々話そうか」 「はい。荷物、空いてる席に置いてもいいですか?」 「勿論。あ、そうだ。佳月君、飲み物何が好き?あったらになるけど、希望を聞きたい」 遠慮があっても、疑問はちゃんと聞いてくれる。なんだかここの事を知りたいと思っているのかななんて思えて、少し嬉しかった。単に自分が困らないためかもしれないけど。 「なんでもい」 「なんでもいいは無しの方向で」 「……飲み物って何があるんですか」 「紅茶とか緑茶、コーヒーもあるし、多分冷蔵庫には何かしらジュースが入ってるはず」 冷蔵庫には、コマンダーの幹部達が勝手に好きなものを入れている。だからぱんぱんな時もあれば何も無い時もある。基本は誰に食べられても、飲まれてもいいものしか入れない決まりなので、今使ってしまっても大丈夫だろう。 「ミルクとかってありますか?あの、あったらコーヒーお願いします……」 「ミルク?お砂糖もあるし、カフェオレにする?私もそうしようかな。カフェオレ美味しいよね、いつかブラック飲めるようになりたいけど、私はまだ無理そう」 後輩と接する時は、なるべく腰を低く、丁寧に。相手を尊重して、傷付けないように。大事にしたい。過去に一度傷付いてしまった彼の心を癒したい。約束を果たしたい。私にはそれくらいしか出来ないから。 「そうですか……」 「今淹れるから、少し待っててね」 こくり、と頷いたのを確認して、給湯室に入る。今度は扉を開けっ放しにして、彼が私の存在をすぐに確かめられるように。やかんをもう一度火にかけ、インスタントコーヒーを出す。適量入れたら、会議室にミルクとコーヒーシュガーを持っていく。 「これで、自分で甘さ調節してね。これも自由に使って大丈夫だから」 「分かりました……」 それだけ言って、また給湯室に入る。もう後少しでお湯が沸く。ばれないようにと思いながら、そっと後ろを振り返った。 癖のある、男子にしては長い髪。小学校上がりたての、すぐに壊れてしまいそうな華奢な「少年」の猫背な背中。白くて細いうなじに一つ、二つと茶色に近い黒い筋があって、それが余計に肌の白さを際立たせていた。日光にあまり当たっていないんだろう、それは少し不健康そうにも受け取れた。中休みや昼休みの時間を、彼はどうして過ごしていたのだろう。ずっと一人で、居たんだろうか。いつかの私のように。 ずきり、と胸に痛みが走った。佳月君の過去を勝手に想像して、勝手に同情して、私の記憶を勝手に思い出して、それで傷付くなんて、どれだけ馬鹿者なの? 吐き気がする。自分が情けなくて、どうしようもなくて、気持ち悪い。私の心は、私の手で絞められる。それを止めようなんて思えなかった。彼に失礼なことをするくらいなら、自分の気持ちを自分自身で殺すなんて、躊躇うようなことじゃなかった。 「はい。これ飲みながら話そうか」 「ありがとうございます。分かりました……」 佳月君はそう言って、ミルクを一つ手に取った。蓋をあけてコップに入れる。普通の牛乳よりどろりとした液体の最後の一滴はなかなか降りようとしない。腕を上下に振りながら雫を落とそうとするけど、相手はかなりしぶとい。彼を嘲笑うかのようにふるえるだけ。何回か繰り返しても落ちない相手に、苛立ったらしい。今までより少し大きく振りかぶった時、雫はコップの左斜め前に落ちた。 「あっ…………」 二人分の声が重なった。一方は唖然として、もう一方は悲しそうに響いた。 「…… ティッシュ、いる?」 ……こういう時のフォローの仕方が分からない。どうやって言うのが正解だったんだろう。 「すみません、ありがとうございます……」 思った以上にショックを受けているらしい。しょんぼりとしていた。不謹慎かもだけど、可愛いなって思ってしまった。 「一息つけた? それじゃ、昨日の話の続きしようか」 ミルクに角砂糖二つ入ったカフェオレを飲んで、さっきのショックを佳月君が気にしなくなった時を見計らって声をかけた。佳月君ほどは甘くない自分のは、湯気は出なくてもまだ暖かい。 「はい。覚悟はしてきました。あの、自分の両親は梶野先輩に自分の保護を頼んだんですよね。なぜ、引き受けたんです」 想像通りの質問。多分佳月君にとっては、私が信用に値するかを知る上で一番重要なのだろう。 「昨日の質問と同じと受け取らせてもらうね。理由は二つかな。一つは立場上の問題。……私が何なのか、知ってるよね?」 佳月君の髪が軽く揺れる。頷いたんだろうか。 「コマンダー、しかも最高幹部補佐。そんな立場の私が生徒一人の希望さえも叶えられないなんて、そんな事許されない。コマンダーの仕事はね、佳月君。生徒が成長する上でより良い環境を作ることなの。佳月君も、ずっとこのままなのが一番いい状態って訳じゃないでしょ? それが一つ」 カップを持ち上げ、甘いコーヒーを少し口に含む。長く話をする時にはやっぱりあって欲しいものだ。 「もう一つは、私の個人的な感情かな。昨日も言ったけど、同じだって」 隣に居る、彼の顔を除きこんだ。涙袋が隠れるか隠れないか程度の前髪、綺麗な筋を造る鼻、薄い唇。よく見れば、すぐに端正な顔立ちと分かってしまう。もしかしたら、彼の恐れることはすぐ近くにあるかもしれない。 「……どうしてですか、納得出来ません。あの、間違ってたら申し訳ないんですけど、梶野先輩って最高幹部の冬木先輩と従兄弟なんですよね。その人に反発するためのように言っていたと思うのですが。別に、自分は抵抗してないです。ただ、逃げてるだけで」 だんだんと尻すぼみになっていった。あまり感情や自分の意志を声にするのが好きではないのだろう。私もそう、気持ちめっちゃ分かる。俯いてぷつ、ぷつと途切れながらも言ってくれるのが嬉しかった。 「そうかな、私はそう思わないけど。……自分のことで、無関係の人に傷付いて欲しくないんでしょ?そのために拒絶するんでしょ?それって立派な抵抗じゃないかな」 佳月君は少し顔を上げ、こちらを窺うように見上げた。前髪の奥の瞳は、どう揺れているのだろう。 「本当に、そう思いますか」 「思うよ、優しい人にしか出来ない抵抗なんじゃないかな」 結ばれていた唇が少し緩まった。小さくあいた口は何を言うか躊躇っていた。打ち明けようとしてくれるのであれば、私は何時までも待つ。彼が話したくないなら、私は何も聞かない。望んでいることをしてあげたかった。 「梶野、先輩」 「どうしたの?」 「一つ約束してください、お願いします」 「……いいよ、私に出来ることなら何でも」 「自分の、顔をあなたに見せます。小学校で何があったかも思っていることも、全部言います。その代わり、……自分を裏切らないでください、お願いします」 震えた声と肩。そんな一生懸命な彼を見て私が断るはずがない。何だか、今すぐにでも壊れてしまいそうな儚さを感じた。 「勿論。自分のこと、何かが変わっても味方でいる人が必要でしょ?安心して。佳月君が思っているより、青蘭は信用出来る学校だから」 「……ありがとうございます」 意を決したように、佳月君は顔を上げた。そっと細い指が前髪を横にする。前髪のあった場所の、閉じられた目がゆっくりとあけられた。少し潤んだ瞳が、私を見据えていた。 「佳月君はお父さんにもお母さんにも似てるね。とっても綺麗で素敵。ありがとう、私に見せてくれて。本当、嬉しい」 私に見せてくれた。私を信用してくれた。彼の持つ、両親から貰った綺麗な宝物は輝きを放つ一方、危うさもあった。私にはその危うさを近付けさせな役割を与えられている。彼が傷付かないこと、それは私の中の主軸に変わっていくように感じた。
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