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 私の隣に住んでいる人は、実は犯罪者なのではないかと噂されている。実に具体的な噂なのだが、もちろんそれには理由がある。  元は化け物だとか殺人鬼だとか、やたら荒唐無稽な噂だった。この法治国家である日本において、いや究極的にはどこにいても人間に対して使っていい名称ではない。集団の心理というものが働くのだろうか? 彼が訴えないから気づいていないのかもしれないが、噂している人がやっているのはただの誹謗中傷なのだが。  しかし荒唐無稽な噂はエンタメの要素を兼ねていた。つまり現実味がなかったのだ。近所の子供が「やーい化け物ー!」と叫ぶ程度のものだったのである。大の大人が子供に良いように言われている現実が私は悲しくてならなかった。たまに私も流れ弾を食らって「根暗女」とか言われていた。うるせえお前の母ちゃんモンペのくせに。  まあともかく、そんな感じだった。彼は基本的に子供にすら言い返さない。そもそも彼の目付きが悪すぎて言い返すまでもなく子供たちは逃げていく。  ただ、私が何か言われたときは無言で餓鬼どもに拳骨を食らわせていたことがあった。正直ちょっと嬉しかった。  そんな日常が壊れたのは、ひとえに、荒唐無稽な噂が現実味を帯びてきてしまったからだ。  朝起きて、私は寝ぼけ眼のまま朝刊を取りに行った。灰色の紙に踊る文字が見えてため息をつく。どうやら相も変わらず「黒サンタ」の話題で持ち切りのようだ。  流石に一週間ほどその話題ばかりを全面に押し出すのはどうかと思いつつ、私は紙面に目を走らせる。  二日後はクリスマスという時期だ。普通ならごった返した人波で事故が起こっただとか、そういう記事が毎年出るはずなのだが、ここ数日紙面を占拠しているのは「黒サンタ」の話題だった。  そもそも黒サンタとは何かと言うと、クリスマスに悪い子供を攫ったり殺したりしてしまうという恐ろしげなサンタだ。といっても本当にいるわけではない。  秋田県のなまはげだとか、田舎に伝わる鬼の伝説だとか、そういう類の話だ。つまり、やんちゃ盛りの子供たちに「いい子にしてなきゃ黒サンタが来て殺されてしまうよ」と脅すための話なのだ。元はドイツ発祥だとか、なんとか。  それが現代に出たという。凄惨な殺人事件として。  被害者は全員が成人していない子供だった。といっても犯行時刻は夜なので、夜に遊び歩いている子供が対象となる。つまり中学生や高校生だ。私も当てはまってしまうではないか。  まあ、私は別に夜に遊ぶ予定もないのだけど。  ともかく子供だ。全員が腹を刺されたり胸を刺されたりして殺されている。もう四件目になるらしい。 「行ってきます」  靴を突っかけて玄関から出る。私以外誰もいない家に声が虚ろに響くことにはもう慣れた。十年前に事故で両親を亡くして以来、私は一人だ。  ふと、私が玄関の扉を閉めたときだ。  きい、と高い音がして隣の家から出てくる人がいた。私はほぼ反射的ににっこりと微笑んだ。 「おはようございます」 「……ああ」  黒髪黒目、まるで喪服のように真っ黒な服。  概して目つきの悪いその男は、真っ黒なマフラーで口元を覆いつつ私の挨拶に答えた。そんな格好をしているから疑われるのだろうなとぼんやり思う。  道路の反対側で井戸端会議をしていた女性達が一斉にこちらを見たのが分かった。ひそひそと何やら嫌そうに内緒話を繰り返している。  言いたいことがあるなら直接言えばいいのに……  冷めた気持ちでそれを見ていると、唐突に頭に何かの感触が乗った。 「……どうかしました?」  しぱしぱと瞬く。私の頭を撫でつつ、彼は緩く道路の向こうを見た。 「《悪|わり》いな、いつも」  低い声でそう言って、私の手の上に何かを乗せる。 「クッキー……?」 「イブの夜に枕元にでも置いておけ」 「……私、子供じゃないですよ」 「高校生は一般的に子供だろうが」  まあ、その通りではある。  納得がいかないと思っているうちに、彼は温度のない目のままでどこかに去ってしまった。私の手の中に残ったのは綺麗にラッピングされたチョコクッキーだ。どうやら彼は食べるものまで黒いらしい。 「人殺しか……」  どうも、私には彼がそんなことをするようには思えないのだった。  からんころん、という涼やかな音がする。いらっしゃい、と声をかけたのは喫茶店「シーク」の店長だ。 「おや、椿ちゃん」 「こんにちは」 「すっかり常連だね」  柔らかく笑う店長に私は空虚に微笑み返す。 「ここのコーヒー、美味しいので」 「嬉しいね」  言いつつ私の好きなコーヒーをいれる店長も、慣れてきたらしい。 「今日はどうかしたのかい? 黒サンタが出るって話だし、あまり外に出ないほうがいいんじゃないのかな……まあ、僕の店に来てくれるのは嬉しいけどね」 「夜までには帰りますよ。最近、クラスメートがうるさいので、頭を落ち着けたくて」 「うるさい?」  私はこの前起こったことを話した。私の隣に住んでいる人が殺人犯のような風体だという話から始まって、どこをどう経由したのか私が犯罪の片棒を担いでいることになっていた。本当に何がどうなってそうなったのか、想像力とは恐ろしい。 「被害者の中に知り合いがいたって子がいて。いきなり怒鳴られました」  意味不明だった。隣人は殺人犯ではないし、もしそうだったとしても私が殺人の手伝いをする理由はない……ということを理論的に説明したら、余計に泣いてしまった。どう返せば良かったのか分からない。  不運なことにそういう人達に限って私と家が近かったりする。休日に家に乗り込まれてはたまらないと、私はそうそうに出かけることにしたのだ。ここなら静かだし、勉強していても怒られない。  店長は苦笑する。 「椿ちゃんは少し怖いからね」 「え……そうですか?」 「美人さんだと思うよ。でも、あまり表情が動かないから、少し怒っているように見えるかな。僕からしたら、そんなつもりはないことは分かっているけどね」  私はぐにぐにと頬をこねてみた。よく分からない。そういえばここ最近、体調を見るときとか顔を洗うときとか以外で鏡を見ていない。 「自分の顔なんて、そこまで気にしたことないですね」 「淡白だねえ」  そうなのだろうか? 私は首をかしげた。  彼は苦笑する。 「まあともかく、人は見た目じゃ分からないから。その子達も、本気でそんなことを思っているわけではないと思うよ」  柔らかく告げられて、頷いてコーヒーを飲んだ。  いつものほっこりとした温かさは少し冷めてしまっていた。  その後は勉強につい熱が入り、帰路に着いたのは夕方になってからだった。夜中までに家に帰ればいいとはいえ、もう日は暮れている。  夜の冷え込みに少し体を震わせながら家までたどり着き、玄関の扉に手をかける。そのときなんだか気配を感じて、私はくるりと振り向いた。  あの人だった。  道の向こうからゆっくりと歩いてくる。真っ黒な服は朝見たときと変わらない。声をかけようとして、しかしそこで違和感に気づいた。  彼の服から何かが滴っていた。宵闇に紛れる黒さなのでそれが何か分からない。いつの間にか息をひそめて私はそれを凝視していた。  ……血?  ぽたり、ぽたりと、決して少なくない量の水滴が彼から滴っていた。今日は一度も雪は降らなかった。もちろん雨もだ。彼から滴る雫は、何故か雪の積もった地面に黒い影を残している。  私は声も出せずに目を見張る。  混乱した私の目の前で、彼は疲れたように肩を落としつつ家の扉に手をかけた。しかしその瞬間、私はぱきりと小枝を踏んでしまう。  あ、と思ったのと、ぐるんと彼がこちらを向いたのは同時だった。猫の目のように爛々と光った瞳が闇に浮かんで、背筋がぞっと震えた。  玄関をこじ開けるようにして開き、中に滑り込む。ばたんと閉じた扉の向こうから視線を感じて心臓がどくどくと早鐘を打つ。 「どうして……」  人は見た目じゃ分からないから。  人好きのする笑みで店長が言っていたことを思い出した。  ポケットでくしゃりと音がする。震える手で取り出したそれは彼からもらったクッキーだった。  一気に混乱が加速する。彼は人殺しなのか? そもそもあれは人の血なのだろうか? いや、人のじゃなくても血であるだけで大問題だが……  数分考え込んで、でも結論は出なかった。当然だ。私に分かったら警察はいらない。そこで考えるのはやめたけれど、結局その夜は、心臓の音を全身で感じながら寝る羽目になった。  翌日はイブだった。休日だというのにひどく早くに目が覚めた。私はベッドの上でぼんやりしながら思う。  ……見張ろう。  見張るというのはもちろんあの黒づくめの隣人を、である。こんなにもやもやするくらいなら、私が見張ればいいのだ。万事解決するわけでもないだろうが、少なくとも私の気は晴れる。  そうっと窓から外を見た。私の部屋の窓からは、丁度彼の家が見える。なんだか私が犯罪者のようだった。  しかしそもそもこの家には私以外住んでいない。私が何をしようとも咎める人はいなかった。私の良心は咎めたが無視した。眠ってなさい。  彼は平日は朝早くからどこかに出かけるけれど、休日は寝ているらしい、というのは、私が以前シチューを作りすぎて初めてお裾分けというイベントをこなしたときに判明した事実だ。昼過ぎなのに思いっきり寝起きの《体|てい》で出てこられて困惑したものだ。ちなみにあの人、寝間着も黒い。  ふと、彼の玄関先へ視線を滑らせた。雪の上には黒ずんだ染み。一見、泥はねに見えなくもない。しかし、昨日の彼の姿を見てしまったあとでは、そんなことも意味深に思えてしまう。  混乱しつつチェストの上にあるクッキーを見た。どうしても捨てられない。だって美味しそうだし、可愛いし。  分からないのだ。こんなものを作ってくれるし、どうやら私にしか配っていないようだし、彼は私には優しい。他の人にはどうだか知らないし、区の集まりにも参加したことはないようだが……  複雑な思いを抱えつつ、私は彼の家をずっと見ていた。  動きがあったのは夜だった。八時ごろだろうか、きい、と細く玄関が開いて、彼が出てきた。注意深く周りを見つつ外へ出る。  私はばっとベッドから飛び降りてコートを羽織った。こんなこともあろうかと着替えておいて良かった。ますます自分のやっていることが犯罪じみてきたが、考えないようにする。どうせ今更である。  慎重に玄関まで行って扉を開けると、随分向こうに彼がいるのが見えた。心臓が飛び跳ねるのをなだめつつ後を追う。ああ、もう私は完全に犯罪者だ。諦めるしかない。  彼は随分ゆっくり歩いていたから追うのは簡単だった。途中でコンビニに寄り、その後何故かホームセンターに寄ってスコップを買って、また歩く。何故そんなものを買うのか全く分からない。  しばらく追うと彼は繁華街に出た。その格好で繁華街など場違いも甚だしいのでは……? 予想通り、彼の姿は完全に浮いていた。  しかし手馴れた動きで人の波を避ける彼は多分何度もここに足を運んでいる。  焦った。だって、ここはあの「黒サンタ」がよく犯行現場として使っている場所だ。四件中、三件の犯行がここで行われていたと紙面に書いてあった。  意味がわからない。本当にあの人なのだろうか? 私の頭を撫でた手で、あろうことか人の胸を刺していたのだろうか。  いつの間にか俯いてしまっていて、はっと顔を上げたときにはもう彼の姿は見えなくなっていた。しまった。こんなところまで来たのに。  立ち尽くした私に誰かの肩がぶつかり、舌打ちが聞こえる。慌ててその場からどうにか離れようとあちこちを歩いた。元来た道がどちらなのかも分からない。そもそもこんな場所には来たことがない。  気づいたら、知らない裏路地に出ていた。  携帯を見るともう十時だった。 「……」  疲れた。  ため息をついて、肩を落とす。ずるずると壁にもたれて座り込んでしまう。 「何、してるんだろう……」  こんな夜にこんな場所まで来て。黒づくめが場違いとか思ってる場合じゃない。私も随分と場違いだ。  深く息を吸う。激しく光るネオンが落ち着かない。私が好きなのは静かな図書室での読書であって、耳に大音量で響く音楽ではないのだ。  帰ろう、と重い腰を上げた。  あの人には直接聞けばいい。思えば、彼が私に嘘をついたことは一度だってなかった。  馬鹿馬鹿しい。隣人が殺人犯でしたなんて、推理ドラマの見すぎである。  自嘲気味に笑って立ち上がった私の腕を誰かが掴んだ。ぱっと顔を上げるとそこには何故かにっこりと微笑んでいる見知った顔があった。  喫茶店「シーク」の店長だ。 「……え?」  どうしてここに? の、「え?」ではなかった。  彼の右手。  無骨なナイフが、闇に光る。 「君は、そういう子じゃないって思ってたんだけどなあ……」  にたあ、と彼が笑う。くるくると片手でナイフを弄び、私の肩を痛いくらいに掴んでいる。思考は一瞬で停止した。 「あ……」 「君も、悪い子だったんだねえ。夜遅くまでこんな所で遊び歩いて……やっぱり人は見た目に寄らないなあ」  危うげな声が耳朶を打ち、頭の中で警鐘が鳴り響く。足は叱咤するまでもなく動こうと試みるが、いかんせんすごい力で押さえつけられていて何も出来ない。  これは、これは何だ。  何が起きている?  ぐっと背を壁に押し付けられる。歪んだ瞳に見据えられて勝手に背が震えた。馬鹿か、震えている暇があったら抵抗しろと理性が訴えるが、本能は怯えきっていて意味をなさなかった。 『人は見た目じゃ分からないから』  ああ、そうか。それは、誰にでも言えることだったのかと、今更気づく。同級生を殺した手で作られたコーヒーを飲んでいたのだと思うと、喉の奥から酸味がせり上がってくる気がした。  ……ああ、でも。  頭が考えることを拒否する中、振り上げられたナイフを見て、ぼんやり思ったのは。  やっぱり、あの人じゃなかったのだという、心からの安堵だった。  がんっという音がした。  骨と骨がぶつかり合う音だと分かったのは、十年前に事故にあった両親の記憶が今でも克明に私の記憶に残っていたからだ。  目は閉じていなかった。だから全部見ていた。  路地からいきなり飛び出してきた黒い影が、店長を殴りとばしたところを、きちんと見ていた。  ぎら、と闇に光った目は、赤い。  ひゅっと喉が鳴ったのは本能的な恐怖からだ。ナイフなどよりよほど色濃い命の危機。  しかし彼は私を一瞥すると店長に向き直って、馬乗りになる。そして何度も何度もその顔を殴った。そこに躊躇は一切見えない。ただただ殴る命令だけを受けているサイボーグのような行動に背筋が凍りつく。  呆然と見ていた私はしばらくして不意に理性を取り戻した。だめだ、このままでは死んでしまう! 「やめて!」  思ったより大きい声が出た。彼がぐるんと振り向く。息を呑むが、怯んでなどいられない。このままでは本当に彼は犯罪者になってしまう。  おそるおそる手を伸ばして、私は彼の袖を掴んだ。 「大丈夫、ですから、やめてください。私……あなたが、殴っているほうが、怖いです」  本心だった。人が人を殴っている場面なんて、どんな理由があったって怖いものは怖い。  《凝|こご》った視線が和らいだ気がした。  彼は既に意識のない店長にもう一度がんっと拳を叩き込むと、焦点の微妙に合わない目で私を見た。そして、不意に近づいて手を掴む。  びっくりしたけれど、その手はいつもと同じ温かさだった。 「……帰るぞ」  言うなり彼は歩き出した。いやちょっと待って、早い。私は驚いて小走りでついて行く。  返り血まみれの男に女子高生の組み合わせは目を引くこと間違いなかったが、面倒ごとに巻き込まれたくないのか、誰も話しかけてはこない。そういうものなのだろうか。  警官が見回りでもしてないかとひやひやしたけれど、職質されることはなく無事に家に着いた。  彼は迷うことなく自分の家に入った。私の手を引いて。  え、と思った。もちろん思った。  けれど、シチューをおすそ分けしに行ったとき一緒に食べたから、私は彼の家に入ったことがある。だからあまり怖くはなかった。  辿り着いた先は寝室だった。怖くはなかったけれど困惑はした。寝るのか? この状況で? 言いたかないが彼は血まみれである。私にも少し血が移っているはずだ。  しかし彼はまだぼんやりした瞳で私をじっと見て、不意にベッドに引きずり込んだ。 「え、ちょ……!」  暴れたが、まるで枷をはめられたように体が動かない。どうなっているんだ、その固め技。 「……なんでいる」  不意に小さく声が聞こえる。私を抱きしめる力に熱がこもったような気がした。 「……なんで、って……」 「我慢してたのに台無しだろうが」 「何を?」 「お前を」  え、私? と思った。私の何を我慢していたのだろう。別に私は男子から視線を集めるようなプロポーションもしていないし平々凡々の顔立ちだ。欲情されたことなど生涯で一度もないのだ。悲しいことに。  困惑しきりの私を正面から捕まえて、彼は荒く息をついた。今日の彼は随分色っぽい。 「……お前を噛みたくて仕方ねえんだよ」 「………………は?」  意味が分からない。噛みたい……血? 血液? 「えーっと……」  血なんてぶっちゃけまずくて飲めたものではないと思います、と言うと、そういう問題じゃねえと一蹴された。いやそういう問題である。他に何の問題が?  混乱しっぱなしの私に彼は懇切丁寧に教えてくれた。 「……俺はヘルハウンドなんだよ」  数拍待つ。彼はそれ以上何も言わない。終わりのようだ。  いや、終わるな。 「待って待って、え、待ってください」 「待ってるだろうが」 「え、はい、そうですね? えーっと……」  全然丁寧な説明じゃなかった。むしろ疑問が増した。でも彼の声は真剣だし、彼は私に嘘をつかない。それを鑑みて、私はそろりと彼の目を見た。  赤い。そうだ赤いのだ。彼の瞳は私と同じ黒で、そのはずで、まかり間違っても赤ではない。 「ヘルハウンドって……ブラックドッグのことですよね?」 「よく知ってるな。まあそうだ。黒妖犬ともいう」  私は唖然とした。いや、だって、ブラックドッグと言えば墓地に現れるという不吉な犬のことだ。つまり犬である。赤い瞳に真っ黒な毛並みなので、確かに目の前の彼と一致するにはするのだが…… 「犬歯もあるぞ、一応はな」  口を開いた彼の歯は鋭く尖っていた。いつもの彼にはない鋭さだ。少なくとも私は見たことがない。 「え、待ってください、じゃあ……昨日の血は……」 「墓守なんてやってると野犬も出るんだよ」 「墓守……!? え、じゃあもしかして、スコップ買ってたのって……」 「あ? ああ……昨日壊れたからな。買い直した」 「紛らわしい!」  凶器なのでは……というあらぬ想像をしてしまったではないか。よく考えれば被害者は全員ナイフで刺されていたのに、空気に呑まれると思考も鈍るらしい。  彼は私の叫びにうるさそうに顔をしかめた。なら離れればいいと思うのだが、何故かがっちりと抱えたまま離そうとしない。 「知らねえのか? 外国人限定の墓なんてのがあるんだよ、今は。外国人の墓は土葬も多くてな、墓荒らしも出る」 「ここ現代ですよね……?」 「出るもんは仕方ねえだろ」  そういうものか……? 私には未知の世界である。 「あの、で……犬っていうのは、どういうことですか?」  彼はどこからどう見ても人間である。抱きすくめられたこの状況で犬だったら流石に気づく。 「ああ……犬にもなれるが、基本的には人間の姿だ。別に、特に犬になる必要はねえしな。墓荒らしの野郎には犬のほうが効果あるが」  ヘルハウンドって、そんなに気軽に人間になれるものだっただろうか? 謎だ。 「じゃあ……人間じゃないってことですか?」  彼はひとつ顎を引いた。私は無言で彼の瞳をじっと見た。彼も、試すように私の瞳を見据えている。  最終的に、私の声は自然に漏れた。 「世の中には、私の知らないことがいっぱいあるんですねえ……」  ぽつんと零すと目の前の顔が困惑の色に染まる。 「お前、懐広いって言われねえか?」 「え、全然?」  物言いがキツいとは言われたことがある。真逆だ。悲しくなるので考えるのはやめよう。  私は気を取り直して質問を重ねた。 「あの、ところで、噛みたいっていうのは?」 「あ? ああ……本能だよ、悪いか」  キレられた。  私は返答に困って黙り込む。彼が言っているのでなければ到底信じられないことである。呆然としていると、彼は疲れたように目を《眇|すが》めた。 「もういいだろ、寝ろ」 「いや無理ですよ。ちゃんと説明してくださいよ。私が跡つけてたの、気づいてたんですか?」  彼は深くため息をついた。つきたいのはこっちである。それでもきちんと答えてくれた。 「最初は気づかなかったがな。あの繁華街は香水の匂いがきつすぎる」  匂いで判断されたことに少し抵抗がないでもなかったが黙っていた。聞けば、あの繁華街を通ると墓地まで近道なのだという。 「つーかお前、昨日の血見ただけであんなところまで付いてきたのか。行動力あるな、意外と」 「ありがとうございます?」 「いや、褒めてねえよ」  十分褒めていたと思うのだが……  謎だ、と思っていると、彼は私の頭を掻き抱くように自分の胸に押し付けた。ほんのり血の匂いがした。ため息が聞こえる。 「生きた心地がしねえよ、全く……お前、いつか俺の目の前であっさり死ぬんじゃねえだろうな」 「ええ……?」  心外すぎる。  どんなお転婆娘だと思っているのかと抗議しかけたとき、前触れなく彼が私の服の襟をぐいっと引っ張った。え、と思うまもなく、肩口にがぶりと噛みつかれる。  咄嗟に悲鳴は喉の奥に飲み込み、彼にしがみつく。がじがじと噛む力は弱い。これが俗に言う甘噛みか、と思ったが、犬猫ならまだしも大の大人に甘噛みされても驚きが勝る。いや、だから犬なのだが。  とはいえ痛くはないので、だんだん強ばっていた体からも力が抜けてきた。なんだろう、本当に大型犬を相手にしているようである。 「お前、なんで逃げない」 「え、だって……別に、怖くはないですし」  彼が私に無体を強いたことはない。私はきちんと知っている。大の大人を殴り飛ばすことの出来る手で、優しく触れてくれていたことを知っている。  そう言って見上げれば、赤い瞳がじっとこちらを見下ろしていた。触れている部分が妙に熱を帯びた気がした。 「お前……」  はあ、とまた大きく嘆息して、彼は私の目を覆った。もういいから寝ろ、と言われた瞬間、何故か強烈な睡魔に襲われた。強力過ぎて頭が揺れた。いや、ちょっとこれはひどい。脳が揺さぶられる。  意味不明な睡眠欲に勝てないまま、私は意識を手放した。  目が覚めて最初に視界に写ったのはカレンダーだった。ああ、そういえば今日はクリスマスだなあなんて思いかけて、瞬間的に頭が冴えた。  ぐるり、と瞳を動かすと、もう赤くない瞳が私を見下ろしていた。 「よく寝るな、お前は」 「……っ!」  今更ながらに恥ずかしさが限界突破した。私は彼をはねとばす勢いで起き上がり、ベッドから抜け出す。拍子抜けした表情が私を見据えた。  忘れていたが、彼は普通の人よりよほど顔立ちが整っているのだ。間違っても朝に見ていい顔ではない。精神衛生的に。 「お、おはようございます」 「……ああ」  言いつつがしがしと頭を掻いている。その姿にちょっと羞恥心が薄れた……というか、母性が反応した。そういえばこの人の生活は結構難ありだったような気がする。男の一人暮らしなんてそんなものなのだろうか?  結局彼は服にも髪にも血がついたままで、頭を掻く度にぱらぱらと固まった血が落ちていた。どう考えても宜しくない。 「あの、お風呂入りましょう。色々話したいことはありますが、まずは体と服と部屋を綺麗にしないと始まりません」 「お前、たまに母親みてえだよな」 「なんとでも言ってください」  無理やり彼を風呂に行かせ、そのうちにざかざかと部屋を片付けた。どう見ても成人済みの男(種族・ヘルハウンド)の家で何をしているのかという話だが、考えないほうが無難だろう。  風呂から上がった彼が見違えたように綺麗になった部屋に唖然としているのを横目に、私も風呂に入らせてもらった。彼とは違って私には着替える服がなかったのだが、風呂に入っている間に彼が下着以外は用意してくれていた。どうにか一番小さいサイズの服をどこかから見つけてきてくれたのだろう。本当に面倒見がいい。実際面倒を見られなければいけないのは彼だというのに。  風呂から上がり、冷蔵庫に入っていたものを使って朝食を作る。勝手知ったるというやつだ。実はお裾分けに来たのは数回どころの話ではなかったりする。  完成したので彼を呼んだら、フレンチトーストを異形でも見る目で見られた。 「なんだ、この黄色いパンは。腐ってんのか?」 「よしんばそうだったとして、作ってくれた女の子の前で言います? それ。あとその色は普通です。むしろ焦げてないので成功してます」  フレンチトーストを食べたことないなど、どんな生活を送ってきたのだと思う。そういえばお裾分けに来たときたまに不思議そうに料理を見ていたことがあったような。  ともかく席につく。黙々と食べながら、私は話を進めた。 「あの、助けてくれてありがとうございました」 「……いきなりどうした」 「昨日はお礼も言えなかったので」  ああ、とかうん、とか彼は言葉を濁した。随分と強引に私を引っ張ってきた自覚はあるらしい。 「正直ヘルハウンドだとかよく分かりませんが、助けてもらったことは事実ですし、ぶっちゃけもう納得してます。普通は人って目の色変わりませんもんね」 「お前……」  呆れた声で彼はフォークを皿の上に置いた。気だるい視線に囚われる。 「なんです?」 「お前もうここに住め」 「へ?」  唐突な申し出に目をしばたたいた。彼は胡乱げに私を見ている。 「順応性が高すぎて心配だ。お前、ストーカーに平気で挨拶するタイプだろう」  どんなタイプだ……と思ったが、あながち否定もできなかった。ストーカーされたことないので分からないが。 「と言われましても……私、あの家売りたくありません」  私の両親が遺した形見に近い家だ。どうしても売りたくなかった。 「なら俺がそっちに住む。別にこの家に思い入れとかねえからな」 「……また変な噂立っちゃいますよ?」 「……なら同棲とかいうことにすればいい」  え、と声が漏れた。彼の目が熱を帯びた気がした。 「駄目か? それが一番手っ取り早いと思うんだが。まあ、お前は嫌だろうが……」 「いえ、別に嫌ではないですけど……」  ぴくり、と彼の眉が動く。私は困惑しつつ言葉を重ねた。 「でも、あなたが困るんじゃないですか? 私高校生ですし、何かあったら捕まるのあなたじゃないですか」 「既に暴行罪紛いのことしてるのにそんなこと気にすると思うか?」  ……まあ、思わないが。  けれど、本当にいいのだろうか? 「私、恋人いたことないので、飽きると思いますけど……というか、好きでもない人と暮らすのって辛くないです? 私、別に目の保養になるほど美人でもないし……」 「は? 何言ってんだ、お前充分綺麗だろうが」  何故かキレられて私は面食らった。まじまじと彼を見る。 「本気で言ってます?」 「冗談で言うかこんなこと。あと、誰がお前のこと好きじゃないって言った?」 「え?」  好きじゃないですよね? という思いを込めて首をかしげると、彼は胡乱気な表情になった。 「好きでもない女のために人は殴らねえし、好きでもない女の隣で寝たりはしねえよ」 「………………え!?」  思わず大声を出してテーブルから立ち上がる。彼は顔をしかめつつフレンチトーストを綺麗に平らげた。  驚きで混乱し、額に手を当てる。 「え、ちょっと待ってください。私、あなたには脈がないんだとばかり……」 「は?」 「だって、週一回はお裾分けに行ってるのに、何も言ってくれないから……普通そんなに作りすぎたりしませんよ。どう考えてもおかしいじゃないですか、頻度が」  だから、私の想いには気づいていても何も言わないでいてくれるのだと思っていた。大体、近所中から後ろ指を指されてもなお黒づくめで行動する変な成人済みの男の家なんて、その男を好いているわけでもないのに行くわけないではないか。  彼はぽかんと口を開けた。 「お前……分かりにくいぞ」 「あなたが言います!?」  私は叫んだ。これが叫ばずにいられようか。しかしまあ、よく考えたら隣人とはいえ週一で訪ねてくる女子高生もそれはそれで怪しい。受け入れられている時点で気づくべきだったか。  いや無理だ。恋愛遍歴ゼロを舐めないでいただきたい。  彼は私が睨むのには構わず何度か頷いた。 「そうか……なら何も問題はねえな。この家は売るか」 「ええ、そんなあっさり……」  本当に思い入れがないらしい。というか多分、彼には物欲がないのだろう。クリスマスだというのに飾り付けひとつ無いのがいい証拠だ。  嘆息して食器を片付ける。彼のもついでに片付けてしまおうと手を伸ばしたとき、不意に彼のほうからも指が伸びてきた。  ぴしりと固まった私の前で、ひと房の髪がすくいとられる。 「墓守なんてしてると神への信仰も年々薄れるが……キリストはいい日に生まれてきてくれたな」 「はい?」  震える声に返されたのは薄い笑みだった。 「お前以上の贈呈品もねえってことだよ。あとその食器は貸せ。流石に後片付けまでさせてたらどっちが家主か分かんねえだろうが」  悪態なのか親切なのか分からない言葉と共にひょいっと皿が奪われた。  顔に手を当てる。今、私はどんな表情をしているのだろう。どんな顔をするのが正解なのか、全く分からない。鏡を見てこなかった弊害だろうか。 「なんだお前」  カウンター式のキッチンからはリビングが丸見えだった。彼が皿を洗いながら薄く笑っているのが見えた。 「変な顔してんな」 「……誰のせいだと思ってるんですか」  肩を落とす。少し冷静になった頭で考えたのは、とりあえず黒サンタ事件の犯人を警察に通報していなかったなあという今更ながらの懸念だった。  
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