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 左手には水がたっぷりの手桶に柄杓(ひしゃく)、右手には淡いピンクとクリーム色の洋花に霞草が添えられた小さな花束が二つ。  右腕にかけた手提げバッグの中には、線香と風防ライター、磨き道具一式が入っていた。  うっそうと生い茂る緑の木々のアーチ……入り口をくぐると、亜樹(あき)は木々に囲まれた墓地の隅っこの、小さな墓を目指す。  季節は夏、八月半ばのうだるような暑さは容赦なく亜樹に襲いかかったけれど、亜樹は静かに微笑んでいた。  中学校時代に一度だけ伸ばして、ばっさり切ってからは二度と伸ばすことのなかったショートカットの髪は、少し明るめの茶色に染めてある。  物心ついた時には既にかけていた眼鏡の縁が、木漏れ日に照らされ少しだけきらりと光った。 「……あーあ、また泥だらけ」  晴海(はるみ)家と彫られた小さな墓には一月の間の雨風にさらされた痕跡がありありと残っていた。  昼前の人気のない墓地で誰にともなくあっけらかんに呟くと、せっせと磨きに取り掛かる。  花筒を取り出し苔を削ぎ、置いてある湯呑みの苔も同じように落とす。  墓石の彫りの部分に溜まった汚れは小さなブラシで磨き、香炉を花筒用のものと同様のブラシで磨くと、最後に墓全体を水に濡らした柔らかな雑巾で何度か拭って土埃を落とした後、乾いた雑巾で仕上げをした。  額に汗をかきながら一連の作業を終えると、ようやく脇に置いておいた花束を一つずつ花筒に入れて水を目一杯注ぎ、持ってきた冷たいお茶を湯呑みになみなみと注ぐ。  手に取った線香に手早く火を点けると、何度か振ってから香炉にそっと横たえ、ゆっくりと両の手のひらを合わせた。 「お母さん、また来たよ。元気?」  合わせた手をそっと解いた亜樹は、一見屈託のない、明るい笑顔で朗らかに問いかけて。  暑いよねえ、とおどけながら、手桶に残っていた少量の水を柄杓ですくい、墓石のてっぺんからさあっと注いだ。 「もう四ヶ月だね、なんだかまだ信じられないなあ……。実は生きてるとか、どう?」  明るく、ただ明るく少しの間一人で話し続けた亜樹は、バッグにしまってあった腕時計を見てはっと我に返り。 「ごめん、そろそろ行かなきゃ、またねっ」  あわただしく墓地を後にし、手桶と柄杓を置き場に返して最寄りのバス停を目指して走った。  墓地とバス停は目で見える程の至近距離。  だが、亜樹は一足遅く──  炎天下にむなしくバスの走り去る音を聞いたのだった。  バスに乗れれば亜樹の住む家まで一時間もかからず着いたのだけれど、運悪く次のバスは一時間半後。  帽子も日傘も持ってくるのを忘れた亜樹は、仕方なく少し距離のあるコンビニエンスストアまで歩くことにした。  いつもはバスの窓からしか見ていない、おおよその見当しかついていない道程。  けどほとんど一本道だから、迷うことはないだろう。  亜樹はその一本道を車窓から記憶した通りに歩いて、歩いて……  そして、コンビニが思っていたより遠かったのを思い知る。  照りつける太陽は容赦なく、亜樹は熱気に負けたのか、くらくらする頭で、息苦しい胸を押さえるように道端にしゃがみこんだ。  ああ、目の前が真っ暗、何も、見えない―― ***  ――ゆっくりと息を吸って、吐いて。  呼吸を整えて、光を取り戻した目で再び立ち上がると、若干の違和感を覚えた。  ……心なしか、視点が低い気がする。  元々身長は高くはなく、最後に測った値は百五十五センチメートル。  その視野はもちろんそんなに広くない。  だけれど、今の視野はそれより狭くなっていた。  いや、他にも。  目に映る建物……  この辺りは田舎道、コンビニエンスストア以外の建物はまばらだったはず。  なのに今目の前にあるのは商店街ではないか。  それに、この町並みは記憶にある――。  ふと、そこで亜樹は右腕のバッグが無いことに気が付いた。  代わりに、背中に重みが……  それは、両肩で背負っているようだった。  ゆっくりと、亜樹はそれを下ろす。  心なしか和らいだ日差しの下、両目を見開いた。  ――ランドセル。  亜樹が背負っていた重いものは、小学生時代に背負い慣れた赤いランドセルだった。  高鳴る胸を抑えながら道の端に寄り、ランドセルを開けると……『五年生・算数ドリル上』『夏休みの友』他、小学五年生の夏休み用の課題らしきものが整列している。 「――な、なに、これ」  亜樹こと科木(しなき)亜樹は今年でちょうど三十になる。  父母は離婚しており、亜樹は父方についたため、姓も父の実家の科木のままだ。  離婚では母が出ていく形となり、母は亜樹たちの家からそう遠くない隣の市に住んでいた。  そして、今年の四月、亜樹の母は永眠した――。  くも膜下出血が原因らしかった。  らしかった、というのは、亜樹が母親である多恵(たえ)の死に目に会えなかったからで。  亜樹が訪れた時、多恵は住んでいたアパートの一室で倒れて息を引き取っていた。  検死の結果、三日ほどが経過していたらしい。  ――けれど。  亜樹は手元の小学生の夏休みの課題、そして、当時にはまだ活気のあった馴染み深い商店街とを見比べると、一つの小さな決意をした。 「夢、なのかもしれない。うん、きっとそうなんだ。……だけど、もし、もしここが夢じゃないなら」  亜樹は、ずっと前から口ごもって多恵に言えなかった言葉、それから多恵の倒れた姿を回想する。  重いランドセルを背負い直して、八百屋や肉屋、米屋に駄菓子屋等が並ぶ商店街を駆け出した。  道順ははっきりと覚えていた。  所々で、「あら亜樹ちゃん、そんなに急いでどうしたの?」などと話しかけられながら、それは確信となっていった。  あの角を曲がれば、きっと――。  ――錆びかけた小さな門扉、狭い石壁の通路を抜ければ、そこにあったのは……  とてもとても懐かしい、年月を経て立て付けの悪くなった、焦げ茶色の玄関だった。  ……亜樹の家は老朽化で一度建て替えをしているのだが、この家は正真正銘、建て替え以前の亜樹の家だった。  ――キィ。  おそるおそる玄関を開けると、そこにあったのは――。 「亜樹! 遅かったじゃない! ちょっと用事だけって言ったでしょ!? あんたが勝手すると私が――」 「お母さん…っ!」  怒りに震える鬼のような形相の多恵に、気付けば亜樹は思い切り抱き付いて。 「――ちょ、ちょっと何、私今夕飯の支度で忙しいんだから! ほら、変なことしてないで早くどいて! ぼさっとしてないで、邪魔!!」  思い切り振り払われ、壁に背中を打ちつけた亜樹は、台所に去って行ったまだ若い多恵の姿を目で追いながら、背中の痛みなどものともせずに嬉しそうに微笑んだ。 「――お母さんだ……、お母さんがいる……。どうしよう、私――」  ぽつりぽつりと囁いた亜樹の両目に光っていたのは紛れもない嬉し涙で。 「ここは、私の小学生時代……」  誰にも聞こえぬよう、亜樹は口の中でだけ呟いた。  ――多恵は亜樹が幼い頃から感情の揺らぎが激しく、天使の顔を見せたと思ったら急に激変し、鬼の形相になる……ということが少なくなかった。  感情の高ぶった時のほとんどが暴力を伴い、力で勝てない亜樹は逃げるしかできなかったのを覚えている。  当時の亜樹にとって、多恵は恐怖そのもの。それでしかなかった。  けれど、『多恵を亡くした三十の亜樹』にとっては似て非なるもので――。  ──自らの腕の先にあるのは細く幾らか小さな、けれど成長期にある子供の手。  目の前でひらひらと振ってみたら、すんなりと馴染んだ。  いつの間にか黒い革靴から、それより小さめの白い運動靴に変化していた履き物をこじんまりした玄関にちょん、と揃える。  目の前の茶の間への障子を開けずにそっと通り過ぎ、ぎし、と軋む板張りの廊下を急ぎ足で歩いて二階を目指した。  二階への階段は、ちょっと奥まった所にあり、段差は駅なんかにある階段よりずっと急だった。  大人でも手こずるその階段を、亜樹は慣れた足取りで手すりを掴んで上がっていく。  上がりきった所には正面に洗面所とトイレがあり、左方向はリビングや布団がしいてある小さな畳の部屋、ベッドが二つある、これまた小さめの洋室へと続いていた。  亜樹は洗面台によじ登ると、備え付けの鏡で改めて自分の容姿を確認した。  所々ぴょんと跳ねている癖のある真っ黒な髪。耳元辺りはくるくるうねっている。  長さはやはり短かったけれど、なんて言うのか……ショートヘア、というよりきのこみたいなマッシュルームヘアだった。  髪の量が多いから、ちょっと重たく感じる。  そうだ、この頃はまだ、削ぐことをしたことがなくて……。  かけている眼鏡もずしっと重たく感じたけれど、それもそのはず。今流行の細いスタイル重視な眼鏡には程遠い、幅も厚みもかなりある当時の眼鏡だった。  そして、じいっと自分の顔を覗き込んでみる。  今もこの頃もあまり変わりはない顔。 『顔って大切だよね~』 『可哀想~』 『あはは、不細工~』  きらきらした声ではしゃぐ女の子たちにずっと言われ続けた、言われても仕方ない言葉たち。  ああ、この頃は学校でいつもうつむいていたっけ。  目立たないようにといつも着ていた地味な服……他諸々。容姿をあらかた確認すると、軽くジャンプして洗面台から下りた。 「――参ったな、そういえばちょっぴり虎と馬な時代だったか」  ふふ、と笑うと、頬っぺたを思い切りつねる。  ――やっぱり、夢じゃない。 「……あきちゃん?」 「あきちゃんおかえり!」  リビングの椅子に座って頬杖をついていると、隣の畳の部屋へのふすまが内側からそーっと開いて、亜樹の背丈よりさらにさらに小さな二人の女の子が亜樹のズボンをきゅっと握った。 「沙耶(さや)、美結(みゆ)…」  記憶が正しければ、彼女たちは亜樹の年の離れた二人の妹……  一月生まれの亜樹が今十歳だとしたら、沙耶が三歳、美結が二歳で間違いないはずだ。 「あきちゃんがはやくかえってこないから、さやたちたいへんだったんだよ?」 「だよ!」  大きな瞳を潤ませてたどたどしく語る沙耶と美結の頭を撫でながら、亜樹は小学生っぽく、でもお姉さんっぽく口を開いた。 「ん? どした? 怒られたの?」 「んーん。でも、おかあさんとなりのおへやでコップね、ガンガンってなんかいもつくえにぶつけて、おかおもこわくて、だからさやたちおかあさんしたにいくまでしーってしずかにいたの」 「そか。ごめんね、沙耶、美結」  ――亜樹は思い出した。  そうだ、亜樹自身がいない間はこの子たちに脅威がゆくのだった。  困ったようににっこりと笑いながら、ゆっくりと沙耶と美結から離れた亜樹は、当時の自分の寝室……洋間のベッドの片方の隅に、四肢を縮めてそっと横になると、瞳を閉じて回想する。 『あんたがいじめられるのはあんたが弱いからよ! 馬鹿亜樹! どうしてあんたみたいな子がいるんだろうね!?』  給食に振りかけられた大量の消しゴムのカス。  机に置かれた仏花。死ねだとか、気持ち悪いとか書きなぐられたノート。  椅子に置かれた画ビョウ、修正液で全て塗りつぶされた提出前のワークブック……。  雨でないのに頭上から降ってきた泥水、隠された上履き。  ――どうしてだろうか、この時代の亜樹は全てに耐えることができていた。  けど、それはきっと、いじめより怖い──家という空間、もしくは母親、多恵の存在そのものがあったから──かもしれない。  亜樹は利き手である右手をぎゅっと固く握りしめると、ゆっくりと縮めていた四肢を弛め、ベッドの隅に腰掛けた。 「……今も無力だけど、私、この時はもっと無力だったんだよな」  静かに呟いて、言葉を繋ぐ。 「私はてっきり、お母さんに会いたすぎて暑さにやられて白昼夢でも見てるんだと思った……けどここはあまりも現実的だし、痛覚もある。ここが本当の本当に過去なら、私は一体何のために戻ったんだろう。私はもといた場所に戻れるのかな……?」  最後が消え入りそうになり、ぶんぶんと頭を振る。 「――こらっ、亜樹! お前はこんなことくらいで動じないだろう。落ち着け…… 考えるんだ、“この場所”が何を求め、そして私が何を求めているのか」  両頬をパシッと平手打ちすると、亜樹はふらりと立ち上がった。  そのまま階下に駆け下りると、亜樹の『本当の』年齢からでは五歳しか違わない多恵の姿を求めた。  先ほどの怒りは収まったのだろう、淡々と茶の間の隣の台所で配膳の準備をしていた多恵ににっこりと笑いかけ、「帰るの遅くなってごめんね、手伝うね」と慣れた手つきでさっと配膳する。  茶の間に家族分の食事を盛り付けた亜樹の姿に若干の違和感を感じた多恵は、不思議なものを見るように亜樹に視線を合わせると、まだ皆の揃わない二人だけの茶の間でぽつりと呟いた。 「……亜樹? 亜樹、熱でもあるの……? 今日の亜樹は何か違う……ううん、亜樹は確かに亜樹なんだけど……おかしいわね。お母さん、なんだか暑さにやられちゃったのかしら」 「何もおかしくないよ、お母さん。私は亜樹だけど、亜樹ではないの」  意を決した眼差しで亜樹は多恵を見据える。  それは、十歳の亜樹の外見に似合わない、とても大人びたものだった。 「お母さん、私はずうっと遠くの場所から、この姿を借りてお母さんに会いに来たの。信じてくれなくてもいい、お母さん、私は未来の亜樹…… 成長して大人になった、あなたの子供です」  多恵はぺたりと座布団に座り込み。  それから少しの間、糸が切れたように笑い続けた。 「――あはっ、あははははっ! もう! 亜樹、何を言うのかと思ったらそんな冗談」 「お母さん」 「ほら、早く皆を呼んできて。亜樹の好きな夢物語なら夜にでも聴いてあげるからさ」  亜樹はふう、と小さくため息をつくと、今だありありと記憶に残る祖父の書斎、祖母と同居の伯母の二人部屋、これまた同居の大叔母の一人部屋、最後に沙耶と美結を連れてきて、玄関で仕事帰りの父を迎えてから茶の間の末席につく。  何事もなくただ穏やかに流れてゆく時間が、もどかしかった。  ――そして。  夕食後、多恵とともに片付けを終えた亜樹は、一本の大樹がさわさわと風に揺れる庭へと、多恵を呼び出した。 「何、改まってまた何かの冗談? 亜樹、お母さんまだ忙しいんだから」 「……お母さん、お母さんがまだ『今の私』に語っていないことで、私が知っていることを話します。私と沙耶と美結の間には、二人の子供がいたよね? 二人とも、お腹の中で亡くなってしまったけど、お母さんはそれがとても悲しかった。だけど無邪気な私たちには、今の時点ではまだ言えてなかった」 「亜樹、どこでそれを」 「私が中学二年になった時……」 「う、嘘よ、誰かに聞いたんでしょ! 確かに亜樹がもう少し大人になるまで黙っていようとは思った……けど……」 「――そして、美結の下にもすぐに子供ができた。でも、考えに考えて養育費面で諦めて中絶したんだ、その辛さは計り知れなかったと、虚しくて、仕方なかったと」 「……な……んで……そんな全部……」  うろたえる多恵をそっと抱きしめ、亜樹は囁く。  とてもとても穏やかな声で、私は未来の私だから、と――。 「――ねえ、お母さん? 私、もう三十歳になるんだよ。今のお母さんと五つしか変わらない、不思議だね」  多恵は視線を泳がせて、それから亜樹に真剣な眼差しを向けた。 「あ、亜樹は、本当の亜樹をどこへやったの!? 亜樹を返して、私の大切な娘を返してよ!」  ……それは、娘を案ずる母親の眼差しそのもので。  亜樹は幾度か瞬きをした後、安心させるようにゆっくりと低音で言葉を繋ぐ。 「――大丈夫。私はただ迷いこんだだけ。これは時のいたずらなんだよ、きっとね。大丈夫、私が消えれば、すぐにお母さんの『亜樹』が戻るよ」  穏やかな発声にいくらか落ち着きを取り戻したのか、多恵は意外なことを吐き出した。 「……亜樹、今から二十年後の亜樹、でいいのよね? ねえ、私、だめなお母さんだよね。皆の前ではいいお母さんしてるのに、亜樹に酷いこと…… むしゃくしゃして、ね、本当は、本当はあんなことするつもりなくて、だから」 「確かにね、いつもの八つ当たりは度が過ぎるかな。力技は痛いからほどほどにね。辞典とか灰皿投げるのも危ないからストップね。正当な理由で怒ってあげれば、子供って納得するから。それ以外の時は思い切り抱きしめて、大好きだよって言ってあげて?」 「亜樹……なんだか大人みたい」 「あはは、少しは頼りになれるかな? 母上様?」  二人の頭上では星が煌めいている。  目を凝らすと、たくさんの綺羅星に瞳を奪われた。  ふと、空を見上げた多恵が、きれいだねえ、と感嘆のため息をもらして。  亜樹はそっと、同意した。  ――私が三十になった年の四月に、あなたは逝ってしまうのです。  その言葉をごくりと呑み込んで、いつの間にか繋がれた手のひらのぬくもりを感じていた。  翌朝、早くに目を覚ました亜樹は、まだここが過去であることを確かめてから、そっと階下に下りた。  畳の部屋でくっついてよく眠っている沙耶と美結を起こさないように、そっと。  静かに台所を目指すと、なにやら罵声が聞こえる。  ……伯母さんの声だ。 「あなたは人としてなってない。もともとあなたはうちの人間じゃないものね! その上いろんなことがしっかりこなせない、人間失格だよ!」  強い口調のその言葉を聞くやいなや、亜樹は台所へ飛び込んでいた。  ドクン、ドクン、と嫌な脈を打つ胸に無理やり静まれと言い聞かせ、伯母さんと多恵の間に割って入り、多恵をかばうように両手を広げる。 「お母さんは頑張ってるよ? 毎日朝早くから仕事して、私や沙耶や美結もしっかり育ててる。責めるなんておかしいよ!」  ――伯母さん、父の姉は昔から多恵に辛く当たっていた。  流れている血が悪いだとか、生きてる価値がないとか、出ていけとか、多恵の存在を否定する言葉ばかり並べて。  多恵はいつも唇を噛みしめて「はい」と答えていた。  亜樹はそんな多恵の姿を知りながら、次は多恵に私が当たられるんじゃないか、と怯えて、いつも逃げることを優先して多恵をかばえることは少なかった。  伯母さんは多恵に負けず劣らず感情の起伏が激しかったけれど、皆それを見てみぬふりをしていたんだ。 「あ……亜樹、退きなさい! これはっ、私と多恵さんの問題だよ!」  いつもぼんやりした眼差しで一部始終を見守っていた亜樹が飛び込んだことに一瞬ひるんだ伯母さんは、ぐっと態勢を立て直して、ぎらぎらした眼差しで亜樹を睨んだ。  けれど、亜樹は退かなかった。 「……亜樹、そうだね亜樹にも半分は外の血が流れているから……それが悪さしてるんだね。馬鹿親子! 人の話に聞く耳も持たない! 呆れた! いつか天罰が下るよ!!」  伯母さんは怒りながら場を去って行き、亜樹はそっと振り返ると、涙目の多恵の背中に手を回し、手のひらを開いたままポンポン、と軽く二度叩いた。 「……お母さんは何も悪くないよ。泣きたい時には思い切り泣くといいよ、私がね、そばにいるから」  穏やかな亜樹の言葉に、多恵はせきを切ったように泣きじゃくった。  今までためにためていた涙を、全部吐き出すように――。  ……そして、落ち着きを取り戻してから、多恵は亜樹を抱きしめて、小さく、ごめんね、と囁いた。 「……ねえ、亜樹、未来の私はどんなかな?」  ぽつりと、多恵の口からもれた言葉に、亜樹は亡くなる前の多恵と過ごした時間を思い出しながら、ゆっくりと答える。 「未来のお母さんはね、大人になった私と喫茶店でコーヒー飲んでおしゃべりしたり、一緒にドライブ行ったり、春には桜の花を見に行ったり……。私にいつも、たくさんの笑顔をくれるんだよ。私はそんなお母さんが大好きで――」 「亜樹っ」 「何?」 「なれるかな、私、そんなお母さんになれるのかな……?」  不安そうに小さく言った多恵に、亜樹は柔らかく微笑んだ。 「なれるよ、だってお母さん、今だって十分素敵なお母さんじゃない? 『十歳の亜樹』も、お母さんが大好きだったんだよ?」  ――そう、それは本当のことだった。  どんなに罵詈雑言を浴びせられようと、暴力を振るわれようと、当時の亜樹は心のどこかで多恵を慕っていた。  もっとも、恐怖が勝ってしまってそれどころではなかったのだけれど。  酷いテストの点数を見ても「いい子ねえ、亜樹、だあいすき」と微笑む天使のような笑顔と、百点のテストを見せてもそれを破り捨て「おまえなんか生まれなきゃよかったんだ」と罵る鬼のような形相の合間に、『お母さん』という表情があることを願っていた。 「――さ、これで拭いて」  亜樹はポケットからハンカチを取り出し手渡すと、多恵が立ち上がるのをそっと支えて、一緒に朝食の支度に取り掛かった。  その、包丁さばきを見て。 「あんたは大人になっても不器用なのね」  くすくすと、多恵は面白そうに……当時の多恵にとっては珍しい表情で微笑んでいた。  ――その晩のこと。  リィン、と鈴のような澄んだ音色が耳元で響いて、亜樹は重い瞼をこすった。  自らの身体が仄かに光っていることにはっと気付き、隣のベッドで眠っている父親を起こさぬように洋間を出る。 (もう、帰らないといけない時期なのかな……、そんな、こんなに早く……)  リビングの時計はちょうど十二時三十分前を指している。  亜樹は隣の畳の部屋で沙耶と美結を寝かしつけた多恵の耳元でそっと声をかけ、多恵一人だけを玄関の外、星空がよく見える庭に誘い出した。 「こんな時間にどうしたの、亜樹」  少し怒り声の多恵に、亜樹は頭上を指差して…… 「――ねえ、お母さん、今日は流星群が見られるらしいよ。あ、ほら、今光った!」  はしゃぐ子供のように瞳をきらめかせて、多恵に振り向いた。  多恵は、はぁ、と小さくため息をついてから、亜樹の言う星空を眺める。  ゆっくりと首を上に向けて――  そして、両目を見開いた。  そこにあったのは、流星群などではなく。  この低地からでは見えるはずもない、満天の星空だった。  広く流れる天の川、至るところできらきらと虹色に輝く綺羅星たち。 「亜樹、これは――」  口を開きかけた多恵は、亜樹の姿を見て、はっと手を伸ばした。  亜樹の身体からは淡い光が放たれ、身体が透けかかっていたのだ。 「――お母さん、流星群なんて騙してごめんなさい。私、一人で消えるのが少し、ほんの少し、怖かった」 「あ……き……」 「ねえお母さん? お母さんは、私のこと、好き?」  憂うような眼差しで問いかけた亜樹の身体……まだ触れられるそれを、多恵はぎゅっと強く抱きしめて。 「……っ、当たり前じゃない! 大好き、大好きよっ! だって亜樹は、私のかけがえのない子供だもの。それは未来の亜樹も子供の亜樹も変わらないっ!」  多恵に抱かれながらつう、と、一筋の涙を流した亜樹は、何かが吹っ切れたような清々しい笑顔を多恵に向けた。 「ありがとう、お母さん。私、すごくすごく嬉しい。ねえ、お母さん、お母さんが今私にくれた言葉を……本当の亜樹に、きっと聞かせてあげてね」  多恵はふわりとした肩までの柔らかい髪を風になびかせ、優しく潤んだ瞳でしっかりと頷く。  そしてよりいっそう力強く亜樹を抱きしめると、そっと身体を離した。  亜樹の目の前に立つと、光の粒子となって消え行く亜樹の姿を、正面から静かに見据えていた。  そうして、最後に淡く淡く、亜樹が消え行く刹那―― 「お母さんっ! 私、私本当はっ、お母さんは――!」  踏ん張りをきかせて亜樹は場に少しの間留まると、多恵を見据えた。  多恵は、全く動じずに微笑んでいる。 「……行きなさい、亜樹。たとえ今亜樹のいる世界に私がいなくても、私はずっと亜樹を見守っているわ」 「……っ!」 「あんたはずっと変わらないのね、何かあるとすぐ顔に出るんだから。亜樹の今いる世界には、私はいない。そうでしょう?」  亜樹は両目から大粒の涙を溢すと、透けきった両腕で多恵に抱きつき、それが虚しく空を切ったのを皮切りに、別れの言葉を紡いだ。 「……お母さん、私、お母さんに会えて、幸せだったよ。お母さんの子供で、幸せだったよ。お母さんはずっと私を支えてくれた、ありがとう。さよなら、大好きなお母さん――」  ――。  光の最後の一粒が消え、しん、と静まった真夜中。  見上げれば、先ほどまでのまばゆいばかりの星空も、いつもの、星が遠くで点々と光る穏やかな空に戻っていた。  多恵はそっと胸に手を当てると、成長した我が子の心が穏やかであることを祈った。  ゆっくりと玄関に戻り、扉を閉め、静かな足取りで二階に戻ると、洋間のドア側のベッドに『紛れもない亜樹』のすうすうと寝息を立てている姿を発見して、柔らかく笑う。 「――人騒がせな子」  多恵は亜樹が足で蹴飛ばしたらしいタオルケットをそっとかけ直すと、何事もなかったかのように畳の部屋に戻り、沙耶と美結の隣に身体を横たえた。  その目からは、静かに涙が滴っていた――。  ――。  ミーンミーンミーン、ジリジリジリジリ。  肌を刺すような暑さと、蝉の声。  右腕にはいつものバッグの重みを感じる。  気が付くと、亜樹は墓地からほとんど一本道のコンビニエンスストアの目の前に居た。  視線を落とせば、そこにあるのは運動靴ではない、黒い革靴。  視界も元に戻っている。  亜樹はコンビニエンスストアに入ると、お手洗いに直行して、備え付けの洗面所の鏡を見た。  ……明るめの茶に染まったショートカットの髪、ちょっぴりスタイルを気にして幅を細く作った眼鏡、夏用の涼しげな花模様のチュニック。下を見れば、はいているのはオフホワイトのスラックスで。  お墓参りに行った時と、何ら変わりはなかった。 「――戻って、きちゃったんだね」  亜樹は小さく呟くと、髪を整えるふりをして手を洗った後、涼しいコンビニ店内を少しの間ふらついた。  時計を見ればいつの間にか次のバスの時間が迫っていて。  運のいいことに、コンビニのすぐそばにも看板の小さなバス停があった。  きっと間もなくここにもバスが到着するだろう。  亜樹はコンビニでお茶を一本だけ買うと、外に出て少しだけバスを待ち、行き場所が自宅近くなのを確認してから、乗った。  ――ゆっくりと、ゆっくりと、所々で人を乗せ、下ろしながら、バスは田舎道から離れて……  車線の多い広い道路を少し早く走った後、亜樹の見慣れた市街地に着いた。  バスを降り、少し歩いて自宅前まで来た亜樹は、それが建て替え後であることを改めて確認すると、深呼吸して玄関を開けた。 「ただいまっ」  明るい声で玄関脇の茶の間兼客間に顔を出した亜樹を、亜樹より十センチ以上も背が高くなった沙耶と美結が出迎える。 「待ちくたびれたよー、お留守番中にお客さん何人も来たんだからっ!全く遅いよ亜樹ー、何道草してたの」 「ごめん、バス一本乗り過ごしちゃってさ」 「なーにやってんのー! んもーうっ、アホ子!」  沙耶も美結ももう成人した。  沙耶は立派に保育士として働いている。  美結も沙耶の影響か、幼児教育に携わっている。  二人とも成長するごとにどんどん美人になって、姉である亜樹をも魅了する、困ったものだ。  沙耶と美結の二人は普段は地元を離れている。  今はちょうどお盆休みで、皆が揃っていた。  亜樹の家は本家のこともあり、何かにつけて人が集まるため、お盆も例外ではなかった。  近い親戚から遠縁まで、一同が会してそれまでの積もる話をする。  亜樹たち姉妹は、その接待をする習わしだった。  今日は八月十三日、盆の入りの日。  亜樹は沙耶と美結に少しの時間をもらって、四月に亡くなった母の墓参りに代表で行っていたのだった。  母、多恵の葬儀は多恵の姉が施主となり遠い寺院で内々で行ったため、この本家の親戚たちで多恵の死を知る者は少なかった。  『離婚して子供を置いて出ていった嫁』、そういった認識があるせいか、この家での多恵の存在はまるで、元からいなかった人物のように――。  数年前に亡くなった伯母と祖父の遺影は仏壇に飾られているのに、亜樹がとある日にそっと隣に置いた多恵の遺影はいつの間にか隠されてしまっていた。  亜樹は「もう少しだけお願い」と沙耶と美結に引き続き接待を頼むと、亜樹の部屋――家が建て替わってからようやくもらえた一人部屋のドアを開け、木のテーブルに置いた多恵のミニチュアの遺影を眺めた。  そこには、つい四ヶ月少し前まで元気に笑っていた多恵の笑顔があって。  亜樹はごめんねとありがとうの気持ちをこめて、両手をそっと合わせた。 ――ふ、と、テーブルの遺影の側に、何か違和感を感じて近づくと、そこには見慣れない、真っ白な封筒が置かれており――。 『亜樹へ』  見慣れない封筒には、見慣れたちょっとだけ右上がりの流暢な文字が綴られていた。  まさか、と思いつつも、今日起こった出来事のためか頭が少しだけ柔らかくなった亜樹は、おそるおそる封筒に触れてみる。  しっかりとのりで封をされたらしいその封筒の文字は、見紛うこともない多恵の筆跡。  何か切るものは……とハサミを取りにもう一つの仕事用デスクに向かおうとした亜樹の目の端で、それはふわりと宙に浮き、すうっと封が開いたと思ったら、中に入っていたらしい一枚の紙が亜樹の手に運ばれ……そして、ぴたりと動かなくなった。  亜樹は自分の左手に掴まれた封筒と白い紙を少しだけ眺め、それからその紙に流暢に綴られている文字へと目を通す。 『亜樹へ』  亜樹、今日は暑い中お墓参りに来てくれてありがとう。  お花はみんなお母さんの好きな色だったね、冷たいお茶もおいしかったよ。  家はお客さんいっぱいで大変でしょう?  沙耶と美結と交代しながら休憩とるんだよ。  ――簡単な文面は、お母さんより、という文字で締めくくられていた。 「……おか……あさ……ん……」  今日持っていったお花やお茶のことまで……。  亜樹以外誰も知り得ないことが書かれていたことに、亜樹はただ驚愕し――。  けれど、深く追求はしなかった。  優しい文面、生前のメールのやり取りのようなあたたかさがよみがえって、熱くなる胸をぎゅっと押さえる。 「これはきっと、お母さんが天国から不思議な魔法を使ってくれたんだ、お盆だけの魔法を……きっと」  そう、半ば無理に言い聞かせると、手紙を引き出しに仕舞おうとした刹那。  パチン、と泡が弾けたような音とともに手紙と封筒ともども手から消えてしまい、後には何も残らなかった。  亜樹は一瞬驚いて、すぐにやれやれ、と肩をすくめて部屋を後にする。 (こういう証拠は残せないっていうもんね……)  名残惜しさを振り払うように二階の私室から階下の客間に降りると、疲れた顔をした沙耶と美結を休ませて交代した。  亜樹たちの母、多恵は離婚後、家を出てから徐々に性格が柔らかくなっていった。  家に居た頃のように激昂することも少なくなったし、手も出さなくなった。  本家という縛り、そして伯母からの罵詈雑言がなくなったことも幸いしたのだろう。  亜樹や沙耶、美結が多恵のアパートに訪れると、そこにあったのは家では見られなかった『お母さん』の顔をした多恵だった。  多恵は近年よく『お母さんは三人のいい子たちに恵まれて幸せ』『お母さんはダメだったけど、子供はまっとうに育ってくれてよかった』と口にしていた。  そして…… 『お母さんね、死ぬ時は三人に迷惑かけないように逝くから。病気とかじゃなくて、一瞬でさ、医療費とかかからないように』  ……多恵は一度だけ笑いながらそう口にしたことがあった。  亜樹たち三人は『そんなこと言ったらだめでしょ! 長生きするんだからっ』と口々に反論したけれど、多恵は曖昧に笑っていたのを覚えている。  ――結果、それは本当のこととなってしまった。  多恵はアパートのテーブルの近くの床に仰向けに倒れ、息を引き取った。  偶然アパートを訪れた亜樹はそんな多恵を発見してしまい、何度も何度も声をかけ、頬を叩いた。『お母さん、お母さん!』と呼び続けた。  しかし多恵の身体はとても冷たく重く、後に来てくれた医師により、三日ほどが経過していたことを知る。  多恵の倒れた姿を見たのは亜樹だけだった。  消防や警察の人たちが検死後に丁寧に寝間着に着せ替えてくれ、ベッドに横たえてくれた後で、他の皆がアパートに着いたのだ。  亜樹は『綺麗な寝間着、よかったね』と多恵の耳元で囁き、玄関で皆を出迎えた。  美結はベッドの多恵にしがみついて泣きじゃくり、沙耶は美結の隣に座ってとめどなく涙を流し……  少し離れたテーブル脇に座った父は神妙な面持ちで。  その側に座った亜樹は、何故か微笑んでいた。  ――否、笑うしかできなかったのだ。  昔から場を和ませるために道化てきた亜樹は、自らの顔に張り付いた笑顔の仮面を外せずに。  それは、通夜でも葬儀でも、火葬でも同じだった。  ――謎の手紙は、あれから晩と朝に届いた。 『大丈夫? 身体に気をつけて、よく眠るんだよ』 『おはよう、眠れた? 今日も暑いね、一日頑張って』  他愛ない文に励まされ、あわただしいお盆を風邪一つひかないまま乗り切れた十六日の夜、一行だけの短い手紙が届いて。 『流星群が見られるらしいよ』  まるで呼び寄せられるように、亜樹は夜着のままサンダルをつっかけて、外の駐車スペースへと走った。  駐車スペースは数台の車が停まれるほどの広さで、今はアスファルトで固めてあるが、昔は一本の大樹があった……庭だった場所だ。  そこには屋根がなく、星がよく見える。  息を切らして亜樹が駐車スペースに一歩踏み出すと、夜空から一通の真っ白な封筒が舞い降りて――  中身の手紙の代わりに、一人の人間が姿を現した。 「──お母さん!」  肩より少し短めのふわふわの髪を夜風に遊ばせながら、優しく目を細める多恵の姿が、そこにはあって。  それは十三日に亜樹が見た昔の多恵ではなく、亡くなる一週間前、四月の初めに元気な姿で会った時の多恵その人だった。 「――亜樹、ごめんねえ」  多恵の声を聞くやいなや、多恵の身体に抱きついた亜樹は、まるで小さな子供がするように泣きじゃくった。  多恵は亜樹が泣き止むまで、ポンポンと頭を優しく撫でてくれていた。  少しして、赤くなった両目をこすって泣き止んだ亜樹は、照れたように頭をかく。 「あははっ、バカだよね私、泣きじゃくるなんて小さい子みたいな――」 「笑わなくていいんだよ、もう、無理して笑わなくていいの。泣きたい時には泣いて、本当に笑いたい時に笑えばいい。あなたはあなたに戻るのよ、亜樹」  多恵は穏やかな口調で言うと、そっと亜樹の背中に手を回した。 「頑なにならなくていいの。ね? 亜樹はこれから少しずつ亜樹を取り戻していける。……亜樹をそうさせてしまったのは、私なんだけどね」  少し後ろめたそうな多恵の声に、亜樹は小さく頭を振る。 「――お母さんのせいじゃない、私は楽な道を選んだだけなんだよ。だけど……私、これから変われるのかな……? 自由自在に、思うままに感情を出せるような、そんな私に」  消え入りそうな声で問いかけると、ケラケラと明るい笑い声が響いた。  多恵は亜樹の背中に回していた手を亜樹の両肩に置き、正面から亜樹を見据えて口に出す。 「――あっはは、いつかの私みたい! 親子ねえー!… …大丈夫、お母さんが側にいる。亜樹のこと、ずうっと守るから。もちろん、沙耶と美結もね」  しっかりと掴まれた両肩には言葉では言い表せないような熱がこもっていて、その手はそっと肩を離れていった。  目の前の多恵の姿が光の粒に囲まれるのに気付いて、亜樹は急ぎ足で質問する。 「お母さんっ、二十年前の、満天の星空を覚えてる?」  多恵は瞬きをすると、くすっと笑った。 「覚えてるよ、きれいだったねえ。亜樹は馬鹿正直だから、私の未来を隠せなくて…… でも、亜樹。お母さん幸せだったよ。亜樹と沙耶と美結のお母さんで、とっても幸せだった。もう十分幸せだから、あとはみんなが幸せになってくれたら、それが唯一の願いなの。 ――亜樹、時の宿命(さだめ)に、人は逆らえないんだよ。でもね、お母さんは、お母さんの命を精一杯生きた。悔いはないわ」  やがて、光の粒は多恵の全身を包み、きらきらと輝きながら夜空へと融けていく。 「――大好きだよ、亜樹」  微かな囁きと暖かな温度を残して、多恵は消えた。  しん、と静まりかえった駐車スペースでは、もう秋の虫がリー、リー、リーと鳴き始めていた。  ――翌朝早く、沙耶は保育園の遅番の仕事のために東京へ、美結はボランティア活動のために宮城へと戻っていった。  あの白い手紙は、やはり来てはいなかった。  残されたのは、入院中の祖母を除く父と祖父の妹の大叔母、そして亜樹の三人。  亜樹は朝五時半過ぎに妹たちを見送ってから朝食の支度までの少しの時間に私室に戻り、作業用――執筆デスクに向かうと、パソコン用眼鏡に切り替えてカタカタとデスクトップのキーボードを打つ。 『――ファイル名、満天の星空の下』 『奇跡が色褪せぬことを願い、この作品を書こう――』  冒頭とタイトルだけを打ち込むと、ファイルをシークレットフォルダに保存してパソコンをシャットダウンし、朝食の準備のため階下に降りて行った。  あの不思議な出来事のことを皆は知らない。  いつも通りの一日がいつものように始まる――。  亜樹は茶の間に置かれた仏壇の奥に隠されていた多恵の遺影を見つけ出すと、軽く埃を払って、そっと祖父と伯母の遺影の隣に並べた。  いたずらっぽい眼差しで、見つかってもいいや、とくすりと笑いながら。  ――亜樹は、亜樹でいることを決めた。  この本家で顔色うかがいをしながら今まで通り穏便に暮らすより、素直に多恵のことを好きと公言し、何度遺影を隠されてもまた並べるような、そんな小さな決意を。  自分には大切なお母さんがいたのだという、灯火のようにあたたかな想いと、祈りとともに――。 *了*
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