フォントをダウンロード中
ページの左右でマウスを左クリックします。
または、 キーボードの左右の矢印キーを入力します。
ページ上で指先を左右になぞると、 前/次ページへ移動します。
メニューはページをタッチすると現れます。
× ヘルプを閉じる
 六月一四日、火曜日。  天気、晴れのち大雪。  最高気温、零度。  最低気温、氷点下七度。  一度晴れたほかは空に青の欠片も無し。  ――夏はまだ訪れない。  今日の午前中まではまぎれもないうららかな春の日、だったことを憶えている。そこかしこに育った青々しい草花の香が少しばかり強めの春一番に乗せられて鼻をくすぐった。  ーー今日もいい天気だ。  そう思っていた。  午後。清治は己の考えが甘かったことを思い知らされる。目の前に広がるのは複写機の再生紙をばらまいたような不純物の混じった白。  春らしい薄手の格好をした道行く人々は皆一様に身震いしながら歩いている。  全くここのところの天気はどうかしているらしい。桜だってもう散って青々とした葉が茂っているし、とっくに黄金週間が過ぎているのにこれである。自然に試されすぎではないかと思う。これではまた明日は靴がべちゃべちゃだ。靴下の予備もいくつあったって足りない。  ――一体、いつになったら夏は来るのだろう。  午後の退屈な授業が終わるまで、清治の眼は季節外れの雪が校庭を我が物顔で舞うのを窓越しに眺めていた。  やっとのことで授業が終わると、クラスメイトはめいめいに散っていく。あるものは部活動に精を出し、あるものは仲間とともに街のどこかへと繰り出していく。  清治はそのどちらでもなかった。  騒々しくなった教室をそっと抜け出し、いつもの場所へと足を向けた。  みなと騒ぐのも嫌いではないが、これが毎日続くとなると精神的に疲れるのもまた事実だった。膨れ上がった騒々しいまでの青々しい活力は雪の静寂では消しきれない。  早歩きで校舎の玄関を抜け、裏手へ向かった。足首まで積もった雪にうんざりしながら小走りに新雪を踏み抜ける。他に人の姿はない。寒くて頬と爪先が痛む。清治が通った道を遅れて白くなった息がついてきた。やがて遠くに聞こえていた吹奏楽部の奏でる音も、不協和音のように混ざる軽音楽部のオーバードライヴの効いたギターも聞こえなくなった。    目の前に一人分の足跡。清治が着たルートとは別の方から伸びていた。  いつもの場所についたころには身体は温まり、寒風にほどよく冷やされ、心地よい疲労が身体に回っていた。数秒ほど、立ち止まって冬特有の運動後のむずがゆい倦怠感に浸っていたが、すぐに吹き付ける風に身震いして身体を縮ませる。  入学してから絶えたことのない清治の日課の一つに一種の探検があった。  うらぶれた校内の一角。  入口の看板には比較的新しい筆跡で一言『図書館』と書いてある。  そう書いていなければわからないほど、その建物は老朽化が進んでいた。何でも、創立当初から既に学校の敷地内にあった建物を買い取って学校の一部としたらしいと教師から聞いたことがある。  もっとも彼は古い建物にあまり好意的な感情をもっていないらしく、早くあんな見栄えの悪い建物は取り壊すべきだと思うがねと付け加えていた。  通常の図書館は校内から直接赴くことができる位置に別に設けられていた。内装も凝っていて、きちんと管理が行き届いており、新しい書籍もそろっていて申し分の無い堂々としたものだ。  彼の言うとおり、こちらの方はいつ取り壊されるか分からなかった。  壊すなどとんでもないと、清治は思う。価値のわからないものにとっては廃屋同然の襤褸蔵かもしれないが、俺にとっては未採掘の金脈だ。まだつぶされては困る。今はまだ。  図書館の本当の名前は『早苗堂』といった。  正式名称で呼ぶものは少ない。表の看板の通り図書館と呼ぶ者も稀だ。そもそも全校生徒のうち何人が知っているのだろう。  学校図書館として致命的ともいえるのが、早苗堂の室内に自習机はおろか閲覧場所さえないということだった。故に書庫であると言った方が正しい。  当然、学生同士が集まって勉強しているなどということもなく(そういうのは表図書館で間に合っている)、いつも通り閑散としたほの暗い空間が清治を迎えた。見た目と違い、ちゃんと電気も通っていれば暖房も利いていて居心地はいい。  ここに通うようになって一年ほどたつが、他の学生の姿を見ることはなかった。あのおかしな先輩を除いては。 「先輩、なにしているんですか」  本日もやはり先客が我が物顔でいた。 「やあ、後輩。見てわからんかな。当ててみてくれ」 「――どう見ても本でドミノ倒ししているようにしか見えないのですが」 「実に惜しいな、若人よ。これは迷路を作っているのさ」よくできてるだろう、と自慢げに胸元まである髪をかき上げた。書庫特有の光を嫌う環境下にあって、その黒髪はより暗く、よりきらびやかに存在を主張する。低く落ち着いた声音と、平均よりも高い身長とが相まって、見る人に大人びた印象を与えていた。制服を着ていなければ決して十代には見えないだろう。 「どっちにしてもやめて下さい。本が傷むじゃないですか」 「何だいこんなときだけ真面目なふりして。君だってこっち側じゃないか」 「まあそれは、そうですがね。限度があるでしょうに」 あまり綺麗と言えない床に一定の間隔を持って並べられた憐れな書籍群の一つを手に取った。 現在は使われていない十進法をもとに再整理した早苗堂は清治の秘密基地みたいなものだ。手入れを手ずから行った物には愛着が湧く物だが、清治にとっては早苗堂だけでなくその付属、いや本体である書籍すべてに愛着を抱いていた。  もともとの来歴が個人の旧い書庫であったここを譲り受けた経緯から学校の蔵書管理が甘く、時折書棚から文字通り『発掘』されるモノが少なくない。管理番号さえ振られていない本が多々あるのが、歴代の管理者のやる気とスタンスを如実に表している。おそらく本来の主の頭には入っていたのだろうが、時を経た今誰も全容を知るものはいなくなった。今は勝手に清治がその役目を継いでいる。  手に取って読まれてこその書籍である。何の脈絡も意図もなく、いたずらに、こうも弄ばれるのだから主を失った従者はこうなる定めなのかと清治は憐れに思った。  なるほど、これなら歴史や物語の中で忠臣の誰も彼もが主人の後追いをする理由もうなずけるという物だ。己の身の振り方さえままならぬならいっそ一緒にと。 「新しい傷はないようですね」丁寧に一つ一つの本を見比べて言う。こういった人目につかない場所だからこそ、たまり場になって荒れそうなものだが、早苗堂に収められた書籍はすべて経年劣化による頁の変色程度で済んでいた。 「当たり前だろう。一体君は人なんだと思っているのかね。この松金智晶、ラインは見極めているつもりだが」  心外だという風に先輩は肩をすくめた。悪びれもせずに、大きなストライドで堂々と歩いてくる。そばまで来るとのぞき込むような格好で 「そのラインとやらが毎日あっさり消えたり、曲がっていたりするからでしょうかね。……見てないで手伝ってくださいよ」  一冊一冊を手に取って戻していく。何が楽しいのか先輩は黙ってその様子を眺めていた。   古書を戻し終えて一息を付いた。  
1
15
シリーズ一覧
感想を送る
作品を紹介
ブックマーク
しおりを挟む
作品情報
使い方
登録が完了しました!
確認事項
戻る
実行