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 人間の人生において、活動時間には容量があるのだとどこかの学者が言った。  科学的根拠を踏まえた上での主張だった。  その数値はすべての人間に平等で、誰一人として特別な人間はいなかった。  人間が人生という荒れた道を進むにおいて、許された活動可能時間は46万7千2百時間。1日あたり8時間の睡眠を取る人間の場合、年齢にして80年生きることができる。  そんな話が私の耳に届いたのは37歳の冬。大晦日の朝のニュース番組がツールだった。 「そんな馬鹿な話があってたまるか」  読み上げられた言の葉を垂れ流すテレビに向かい、苛立ちを込めて少しだけ毒づいてみるが私の気持ちが晴れることは無い。  私の心を蝕む苛立ちにはこれといった明確な理由などは存在していない。強いて言うなればただの‘寝不足’だ。  耐えられない程でもない苛立ちという感情はいつから私の心に住み着くようになったのだろうか。  思い出すことができるのは、気づいたときには既に私の心を蝕んでいたと言うこと程度だ。  私は昔から勉強に勤しむ毎日を送っていた。  遊ぶことなく全ての時間を勉学へと費やし、視力を削り、精神力を削り、文字通り命を削って私は今に至る。  おかげさまと言ってはなんだが、私は今の職に就くことができた。それなりの知名度のコンサルティング会社だ。  この会社で業績を上げるにつれ、私はより多くの責任を負わなければならない立場になり、一人称が‘僕’から‘俺’へと変わり、そして現在に至る。今では立場と冷静さを表すために一人称は私になってしまった。  何はともあれ、大晦日であろうと私は仕事だ。苛立ちを鎮めることはできていないが、そのような理由で会社に遅刻するわけにもいかない。 「行ってきます」  私は自分以外の住人が誰一人いない住居に向かって諦めたように呟く。  当然、返事が返ってくると言うことは無い。  この生活に離れているのだが、私の口からは自然とため息が漏れてしまった。 「本日よりウチの会社は2週間の臨時休業とする。それぞれこれから渡す通達に従い、指定された病院にて診断を受けてきてほしい。『‘残りがどれだけ’なのか把握をしなさい』と政府の方から通達がやってきた。もちろん休業期間は全社員有給とする」  社長が二百人ほどの全社員に対して休業の知らせをしたのは、私がニュースを目にした数日後、1月3日のことだった。  一部の社員は納得できない様子をしており、その中の一人の女性社員が「必ずしなければならない。と言うわけでは無いんですよね」と社長に問いた。  社長は彼女に対して首を横に振り、「絶対に行ってこい」と答えた。  私もくだらない妄言のせいで健康診断に行かなければならなくなってしまった。 ――――――――――――― 「茅野《かやの》雄二《ゆうじ》さーん。中待合にお越しください」  病院の待合で座り心地の悪い粗悪な椅子に背中を預けて自分の番を待っていると、診察室の目の前である中待合にやってくるように呼ばれた。自分の番が迫っているということだ。  私は手にしていた文庫本にしおりを挟み、名残惜しさなど微塵も感じさせない椅子に別れを告げた。  中待合には『生活習慣病に注意!!』『献血にご協力ください』といった綺麗事が羅列された広告ポスターが隙間の無いほど壁に貼られており、半ば善意のインフレが起きていた。  どれだけ綺麗事を書き連ねたものであろうと、どれだけ正しい事実を主張したものであろうと、乱雑にそれらが提示されるようでは善意や正義などは価値を見出されることはない。  ただ、意味を持たない文字列という存在にしかなりえないのだ… …などと、特に深い意味など無いストレートな主張をするポスター達を見ながら考えていると、すぐに私の番はやってきた。  スライド式の扉を開けて診察室の中に入ると、仙人のように真っ白なヒゲを伸ばした老人の医師がパソコンと向かい合いながら座っていた。 「あぁ。茅野さんですね」  そう言いながら、医師は私に一枚の紙切れを渡す。 「単刀直入に言いますね。診断の結果、茅野さんの残り活動可能時間は1280時間です。1日8時間の睡眠をとることを前提として、余命が2ヶ月半ということになります」  確かに、医師から渡された診断書には『余命:1280時間(仮)』と書かれていた。(仮)の意味は特に無いらしく、断言することはできないために記載しているのだそうな。  ただ、私の余命が残りわずかである事実は変わらないらしい。酷く重い現実が現実味を持つことなく私にのしかかってきた。  呆然と渡された資料を見つめる私に向かい、医師は言葉を放つ。 「ただ、事前のアンケートなどによると、茅野さんは平均して3時間4時間程度しか睡眠を取らないそうですね。もし今後も睡眠時間が変わらないようでしたら、あなたの余命は2ヶ月になります」 「2ヶ月よりも短くなることは無いんですか?」 「無いわけではありません。ただ、人間は最低限睡眠を取らないとまともに生きていけない生き物なのです。その事実を踏まえると、あなたの寿命は2ヶ月より短くなることなどは無いと思いますよ」 「はぁ…」 「以上が診断の結果になります。長くは無い余生です。仕事をこのまま続けるのも良し、仕事を辞めて好きなことに時間を使うのも良し。あなたの好きなように時間を使ってください。なにせ—  時間は有限なのですから。」 ――――――――  残存時間を測定する健康診断から1週間と少しが経ち、休業期間が終了した翌日。  仕事再開の初日。  私は仕事をクビになった。 「君は頑張りすぎたんだ。最後ぐらいは初恋の人にでも会ってきたらどうだい?」  私にクビを宣告する際、社長が私へと言い放った言葉だ。  メガネをかけたオールバックの社長は、言葉とともに一枚の小切手を私へと渡してきた。端的に言って退職金だ。  金額は残り2ヶ月ほどで使い切ることなど到底無理な金額だった。  職を失い、やることもやりたいことも思い当たらなかった私は、社長の言っていた言葉を参考にして初恋の人にでも会いに行こうと考えた。  中学の時、最初の一年だけ同じクラスだった酷く無口で根っからの頑張り屋さんだった初恋の人。  名前は確か鈴白《すずしろ》花香《はなか》だった。背はさほど高くなく、メガネをかけていたはずだ。  彼女はあまり言葉を音にして発する印象の無い人物だが、実際に話してみるとかなりお喋りで、私は確かそのギャップに惹かれたのだと思う。  私が勉強を必死になって頑張るようになったのも彼女がきっかけのはずだ。   私は彼女に認めてほしかった。頑張っているということを単純に褒めてほしかった。  私という人間をしっかりと認識してほしかった。   だからこそ勉強を頑張ったのだ。  彼女が頑張っている物と同じ物事を頑張ることで、彼女に評価をしてほしかったのだ。  自分を見てほしかったのだ。  でも、結局は彼女に一度も認められることの無いまま、私は彼女と異なる高校へと進学してしまった。  そのあとも、彼女と同じ土俵に立ちながらも、彼女と再び相見えることの無いまま現在へと至ってしまった。  初恋の人に認めてもらいたかっただけの私は、認めてもらう事が無い故に自身の頑張りに歯止めを利かす事ができなくなってしまった。  何せ、目的を達成してもいないのに取り組みをやめる必要は無いのだから— 「キィ…キィ…」と、錆びた連結部分が一定のテンポで呻き声をあげる電車に揺られ、私は地元へと向かった。  都市部から郊外の側へ近づくに連れ、立ち並ぶ建物はビル群から住宅街へと変わってゆき、建物は数を減らしていった。  仕舞いには駅の周辺に建物らしい建物などほとんど見当たらないほどになり、地元の駅にたどり着く頃には駅の待合以外の建物など周囲には無くなってしまっていた。 「次は〜小久保《こくぼ》ぉ〜。小久保でございます。降りられるお客様は忘れ物の無いようご注意ください」  現在住んでいる都会の電車とは若干異なる言葉遣いのアナウンスを聞き、私は自分が目的の駅にたどり着いたのだと知らされる。  若干の眠気をなんとか吹き飛ばし、私は電車から降りた。  久しぶりに見る地元の風景は記憶に焼き付いていた風景となんら変わりはなかった。つまり、昔のままの風景だということだ。  駅を取り囲む森林の風景も。山に沿うような階段の果てにある神社の風景も。山々に囲まれた街並みも。老人しかいない町役場も。いつも閉まっているコンビニも。何もかもが昔もままだった。  そして勿論、私の実家も昔のままだった。  もう何年も使っていない実家の合鍵を使って鍵を開け、木製のスライドドアを開ける。  玄関からまっすぐに伸びる幅広の廊下も、玄関先に置かれた傘立ても昔のままだ。 「ただいま」  別段誰かに言うつもりでも無く、半ば無意識に帰宅の挨拶を呟く。 「はーい」  それほど声を張ったつもりはなかったが、少し遅れて声が返ってきた。  嗄《しゃが》れた女性の声。もう何年も聞いていない母親の声だ。 「あーびっくりした。帰ってくるなら前もって連絡ぐらいしてよね。もう5年は帰ってきてないんだから。誰もいなかったらどうするつもりだったの?」  さほど驚いた様子は見せず、母は矢継ぎ早に言葉を放ってきた。  理由も無く自分と距離を置いた私に対し、特に機嫌を悪くすることも憤慨することも無く、「寒いだろう?中はヒーター焚いてあるから早く入りぃな」と言って母は私に屋内に入るよう催促した。 「どうして急に帰って来ようなんて思ったの?」  そう私に問いかけながら、母は急須に茶葉と湯を入れて持ってきた。  私はコタツに入りながら、母の持ってきた温かいお茶を湯のみへと注いで冷ましながらすすった。 「別に」 「そんなわけ無いでしょ。どうせ時間が残り少ないとかそんな話でしょ」 「まぁね」  昔からよく様々な人が言っていたが、やはり母には敵わない。  なんだかんだで子供のことを本人以上に理解しているのだ。 「どのくらい時間が残ってるの?」 「あと2ヶ月も無いくらいかな」 「思ったより残ってるじゃないの」 「……怒らないんだな」 「何を怒る必要があるの?」  母は不思議そうに首をかしげる。 「だって、それだけしか時間が無いってことは、アンタはそれだけ今までの人生を頑張ってきたってことじゃない。何も怒るようなことはしていないでしょ。むしろ、若くして死んでしまうほど頑張ったのだから褒められるべきじゃない」  涙が出そうだった。   これまで私の事を褒めてくれる人なんてほとんどいなかった。  多くが私の努力を嘲笑い、蔑み、妬んでいた。  私を褒めてくれたような少数の人間たちですら私の努力のおこぼれを貰おうという下心を持っていた。  だからこそ、母が子に与える純粋な称賛は私の心を純粋に穿った。  だが、母を心配させることはしたくなかったが故に泣く事はしなかった。 「母さんはさ、あとどれくらいなの?」 「まだ10年はあるよ」  そう言って元気にピースサインをしてみせる母は現在59歳だ。つまり、母は推定されている標準寿命に近い年数を生きる事ができる事になる。  母は健康的で幸せな人生を送る事ができているのだ。 「じゃあ、しっかりと睡眠をとって80までは生きないと駄目だな」  私はそれだけを母に言い残してコタツから抜け出した。  ノスタルジックな暖かさが私を魅了したが、私はこの場所に止《とど》まれなかった。  もう、母に合わせる事のできる顔はなかった。  木材が少し腐ったような独特の香りを放つ実家を後にする際、母は私を呼び止めて「アンタに‘私’なんて一人称は似合わないからやめておきな」とだけ言った。それ以上は何も言わなかった。  私は母の指摘を最後の親孝行と思いながら受け入れた。  一人称を‘私’から‘僕’へと改めた。  今の自分にとって俺だなんて一人称は性に合わないから僕で十分だ。  実家を後にした僕は、初恋の女の子—現在は女性だ—に会いに行く事にした。  最初からそれが目的だったのだから、‘会いに行く事にした’だなんて今決まったかのような言い方をするのは変なのかもしれないけれど、それでも僕は目的を果たす事を決心した。  僕よりも頑張り屋さんだったあの子に認めてほしい。  ただ、僕の寿命を伝え「頑張ったんだね」と母のように言って欲しかった。  それだけが目的だった。  正直、それ以上の事は何も考えていなかったし、そこから先の会話なんて想像もしていなかった。  でも僕にはそれだけで十分だった。  望んだ一節の会話さえ成り立てば僕は満足だった。  人生における悔いと呼ばれるものを消し去る事ができた。  道端の残雪を足で蹴飛ばし、コンクリートの国道を歩き進める。何度と無く溶け、深夜の寒さで再度凍る。その工程をひたすら繰り返していた残雪は、おおかた雪だなんて呼べるような代物ではなかった。  飛び散る氷片が太陽の光を反射してキラキラと輝いてみせる。  その様子を見て、僕は少しだけ悲しい感情が胸中に滲んだ。  20分ほど歩き続けてようやく目的の民家にたどり着いたのだが、その場所は僕の想像とは異なる様子だった。  家先には霊柩車が止まっており、家の中からは喪服を着た人がぞろぞろと群れるように出てくる。  端的に言って鈴白家では葬式が執り行われていた。  誰の葬式なのか、どういう事なのか。  状況のほとんどを知らない僕は喪服の人々の中に花香の弟を見つけ、声をかける。 「幸一くん…これは一体」 「あ、雄二さん。おひさしぶりです」  久しぶりに会う花香の弟の幸一くんは昔のように馴れ馴れしく話してはくれなかった。  互いに年を取り、年に見合った言葉遣いをするようになってしまったのだと思うと悲しかった。  その程度で距離が開いてしまうような関係性だったのだと思うと悲しかった。 「雄二さん、少し遅いですよ。あと数日早かったら間に合ったのに」 「は?」 「姉《ねえ》さん、最後に言ってたんですよ。できる事ならまた雄二さんに会いたかったって」  幸一くんが当然のように紡ぐその言葉は、僕の中に入りこんで滞留した。  感覚では右の耳から僕の中に入り込み、左の耳から音が抜け出してしまっている感覚だったが、それでもやっぱり僕の中に言葉の全てが滞留した。 「ま、待ってよ幸一くん。ちょっと待って」 「どうしましたか?」 「ごめんね。ちょっと話が整理できなくて……まず、今やってる葬式は誰の葬式なの?」 「今やってるっていうか、これから始まるって感じですよね。今から火葬場に行ってその隣の建物で本格的な葬式をするので…誰の葬式かって言われたら、そりゃあ姉さんの葬式に決まってるじゃないですか」  不思議そうに幸一くんが首をかしげる。「知らなかったんですか?」と言いながら僕の顔を覗き込む。  はたから見たらアラフォーの男二人が見つめあってるなんとも汚い様子だ。  僕は自分の望みが果たされない事を悟り、愕然とした。ただ彼女に褒められたい。  たったその程度の願いが叶わないと知り、僕はどうしようもない気持ちになってしまった。 「どうしますか雄二さん。このまま葬儀に参加していきますか?きっと、姉さんも雄二さんなら喜んでくれます。飛び入りの参加だとしても、母さんと父さんも喜んでくれるはずです」  幸一くんの気遣いがひどく残酷なものに感じた。  別に彼は悪く無い。ただ、自分自身で理解できない感情がこみ上げてきていて、その処理の仕方に困ってしまっていて、そんな状況で感情を増幅させるような場に呼ばれた所で、素直に弔ってあげられる自信はなかった。  僕は幸一君の誘いを断った。ただ、最後に1つだけ質問をしてその場を去った。 「花香はどうして死んだの?病気?自殺?何かの事件に巻き込まれたとか?」  単純な疑問に対し、幸一くんは乾いたような笑いを僕に向け「嫌だなぁ」と口を開いた。 「どれでもありませんよ。最近話題になってるじゃあ無いですか。姉さんは寿命で死んだんです。46万7千2百時間。その時間をすべて使い切って、おととい亡くなったんですよ」  もうそれ以上、僕は彼女について聞こうとは思わなかった。幸一くんにお礼を言い、足早にその場を去った。  最後の最後で幸一くんは「姉さんからの手紙届きました?」と言っていたが、そんな手紙は僕の元には届いていない。変に期待をさせないで欲しかった。  僕はその場を去った勢いで地元からも離れた。現在暮らしている住居へと戻った。  もう、地元に居座る理由はなくなった。  両親へは申し訳なさで顔を向けられず、会いたい人ももういない。  帰りの電車は来るときに乗ってきたものと同じ電車だったが、異様に寂しく感じた。  来るときとは違い、徐々に電車に乗る人数は増えていったが、僕の心は堪えようの無い虚無感という感情によって次第に蝕まれていった。  最寄り駅に到着し、重く感じる足をなんとか持ち上げて自宅まで歩いた。人間、気持ちの変化でここまで体の感覚が変わってしまうものなのかと少しだけ感心した。  見慣れたマンションのエントランスに入り、いつもの習慣で自分の部屋番号が割り当てられた郵便受けを開く。  中には広告チラシが数枚入れられていたが、そこに一通の茶封筒が紛れ込んでいた。  宛名は僕。差出人名は母だった。  自室に入り、部屋の照明をつけた所で僕は母から送られてきた茶封筒を開いた。  中には一枚のメモ用紙と可愛らしい花柄の封筒が入れられていた。  母が使うにはあまりにも若々しいデザインの封筒に、僕はおもわず顔をしかめて「うわっ」と言ってしまう。  同封されていたメモ用紙に目を通すと、「実家に届いていました」とだけ書かれていた。  花柄の封筒が母の選んだものでは無いと知り、少しだけ安堵する。  花柄の封筒には僕の名前が宛名として刻まれており、差出人名は記されておらず、代わりに一輪の花のスタンプが押されていた。  僕はこの手紙が花香からの物なのだとなんとなく悟った。  丁寧に封筒を開け、中から便箋を取り出した。およそ4枚に上る僕宛の手紙は 『きっと、君は私を笑うでしょう—』と言う悲観的な文章から始まった。  羅列された文字列は紛《まが》うことなき花香の筆跡だった。 『—私に残された時間はわずか20時間ほどです。昨日病院で残存時間を調べたところ、残り20時間だと告げられました。多分、今はもっと少なくなっているのでしょう。君はどれほどの時間が残っていますか?私よりは多いですか?君は頑張り屋さんだから、きっと私とさほど変わらないのでしょう。昔から君は努力家で、時間を惜しむことなく努力をしていました。私は君のそんな姿を見て、「君のようになりたい」そう思ってこれまで頑張ってきました—』  手紙は改行されることなくぎっしりと書かれておりハッキリと言って読みづらかった。  でも、その事実を僕へ伝えたいことがたくさんあるという事だと解釈してみると別段わるい気はしなかった。  手紙を読み進め、3枚目に差し掛かったところで突然空白が現れた。  その空白は一枚の便箋をふんだんに使い、たった一言を記しているからこそ現れたものであり、僕はそのたった一言で息を飲んだ。 『私は頑張れていましたか?』  4枚目の便箋にはその言葉の想いを補足するかのような内容が書かれていた。 『私は褒めて欲しかった。ただ、君に褒めて欲しかった。君に認めて欲しかった。だって、私はそのためだけにこれまで頑張ってきたのだから。だから、私は君にもう一度会いたい。限られた時間がなくなる前に、たった一度でいいから会って話がしたい。頑張り者の君はもうこの世にはいないかもしれません。でも、もしまだ時間が残されているのなら—  —その時間を私に使ってくれませんか?家に来てくれればいつでもいます。時間が残されている限りは待ち続けます。     鈴白 花香』    手紙の最後には、手紙を書いた日付が記されていた。彼女が亡くなる前々日だった。  この手紙が一度実家に届き、そこから母によってここへ送られてきたのだと考えると、多分郵便受けに入れられたのはついさっき、僕が帰ってくる直前だ。 「こんなの、最初から届かないって分かってたじゃないか…」  そうやって届くはずのない愚痴を花香へ向けてこぼす。  届かないとわかっていてやっている時点で僕も花香も変わらない。  胸中を埋め尽くす感情が虚無感から罪悪感へと変わっていったのを感じる。  それと同時に僅かな喜びがにじみ出てきている事に気がついた。  僕が喜んでいるのは、彼女が手紙の中で何度も何度も僕を褒めるような言葉を書いてくれていたからだ。  彼女は僕を認めてくれていた。彼女は僕を見てくれていた。それが分かっただけで嬉しかったのだ。  でも、僕は彼女に伝えてあげる事が出来なかった。君は頑張ったんだと言ってあげる事が出来なかった。  きっと、僕がここの住所を彼女に前もって教えていれば、彼女の最後に少しくらいは話す時間を設ける事ができたのだ。  そう考えると、僕を蝕む罪悪感は少しずつ後悔へと変わっていった。  どちらにせよ、僕を蝕む事には変わらない。  もう直ぐ僕も花香と同じ場所へと向かう。そうすれば、きっと互いに面と向かって認め合う事ができる。  互いに「よく頑張ったね」と言って笑いあう事ができる。  僕を蝕む負の感情はその時まで消える事はないだろう。  だからその時までは待ってほしい。  今は自らの口で言う事はできないが、近いうちにその時は来るのだから僕を待っていてほしい。  何はともあれ、今はこれで我慢してほしい。  僕はそう思いながら、仕事机の引き出しから便箋を取り出した。  お気に入りのボールペンをペン立てから取り出し、『待っていてほしい』と伝えるためだけに手紙を書き始める。 『きっと、あなたは僕を笑うでしょう−』  その言葉で書き始めた手紙の最後を『もう直ぐ僕も君の元へと向かうから待っていてほしい』と締めくくり、封筒に入れて封をした。  宛名は鈴白花香様と書いたけど、住所を書く事はしない。  どの住所に送ったところで花香の元へは届くことなく、第三者に手紙が読まれて終わりなのだと知っているから…  書き終えた手紙を僕は燃やした。  何かの本で、天国へ手紙を送る際はこうやって燃やすものだと読んだ事があったから僕は手紙を燃やした。  紙の燃える匂いが鼻腔をくすぐる。  タバコは嫌いだが、この紙の燃える匂いは割と好きなようだ。  空へと立ち上る煙を惚けるように見つめる。  曇り空へと白い煙がフェードアウトしていく様子は、手紙が空へと溶けていくような様だった。  手紙が燃えきり、煙が全て消えるまで空を眺めた後、肌寒い空気から逃れるように僕はベランダを後にした。  残された時間はもう2ヶ月もない。  でも、花香に会う事のできる日が近づいているのだと考えると悪い気はしなかった。   終
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